BrainSellers.com

Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

「静」の力

2011.03.05

お能の観客を引き寄せる力はすさまじいものがあります。

橋懸(はしがか)リを一定のリズムですり足で進むシテは、油をぶちまけた様な光沢のある檜の床をまるで浮揚している様な軽々しさで方向転換し、方三間の舞台に登場したのち、初めて正面席に座る観客と対じします。
その時、観客はというと、突当りにある揚幕(あげまく)がシュルシュルと上がると同時に、水面から浮き出るように出現するシテに釘付けになり、その浮揚感のあるシテの「静」の動作にじっと目をこらしている訳です。
シンと静まり返った能楽堂でシテと観客が共有する、または融合するもっとも双方が緊張する瞬間です。

観客と向き合ったシテは、四本の柱で支えられ、三方吹き抜けの四方をもつ舞台で、孤立した厳しい空間に身を置くことになります。そしてシテはもっとも重圧な世界に自らの強い意志で臨むことになります。
このちいさな空間に能役者は全知全能を投じて小宇宙を形成する訳です。

「伝統とは惰性ではない。」と断言したのは能楽の研究に造詣が深い増田正造(ますだ しょうぞう )の言葉です。そのあとこう続きます。
「奇形化の部分の多い制度や様式ではもちろんない。あらゆる時代において新鮮であろうとする努力であり、その不断の累積である。あるいは時代を挑発する力なのだ。」魂を揺さぶるような洞察力に富んだ表現と云えます。
700年の間、足しもせず、引きもせず、延々と伝統芸能として生きてきたお能は、増田正造の言葉を借りると、
「時間と空間を共有する観客なしでは成立しない演劇の中で、さまざまな状況があったにせよ、たとえば能や狂言が700年も生き抜いてきたのは、あらゆる時代に訴える美と力を多く持っていたからにほかならない。」と云うことになります。

先週、作曲家・三枝成彰さんが、20代のころ出会ったと云う『人間の声』(編集者ハンス・ワルター・ベア/高橋健二翻訳)」に触発されて思い出した事があります。
それは、十代の終わりの頃に思い出深い本に出会ったことでした。

成長期の子供の教育に関してボクの両親は、相当な放任主義を通していました。ボク自身は男の子四人の中で育ったせいもあり、相当な暴れん坊に育ったことは否めません。ただ、二人の兄がとても優しかったことを今でも濃厚に記憶しています。
なので小学校低学年で、クラス内はもとより学年内でも数名の問題児のひとりに、りっぱに(?)成長していました。そのまま悪童として成長するのかと思いきや、比較的早く転機がやってきます。それは、五年生と六年生の二年間の出来事で、この二年間で心底根性を叩き直して頂いた恩師に出会うことになりました。その悪童の極みからともかく全うな小学生に戻った(?)訳ですが、このことだけでも感謝に堪えない事ですが、それ以上にその後の生き方に重要な役割を担う、「本を読むことの面白さ」を教えて頂いたことです。単純な「本を読む」ということの楽しさは、その後の私自身の進路にも大きく左右していると実感しますが、きっとそれは生涯に渡って失われない行動パターンとして生き続けると思っています。
このことは中学生になると顕著に現れました。
中学一年生の時からすでに年間250冊を読破し、一年を振りかって見るとボクより上位の読者は三年生にひとりという結果でした。それも三冊の僅差でした。
結局その後の年間読書量は、30才まで15年間衰えることなく続くことになりました。

その恩師がボクに与えてくれた本は「謡曲集・上下」と「歌論集」でした。たぶんご自身が読まれた本であったと推察していますが、なぜ「お能」であって、且つなぜ、ボクにくださったのかは覚えていませんし、もはや知るすべはありません。
謡曲集は「お能」で最も重要な構成要素である物語そのものを著しているものです。この本は、本格的な謡いの正当な解説書と云うことになります。内容は、謡曲の解説ですが観阿弥・世阿弥親子とその子元雅が体系化した謡曲集の他に、もっと古い古代の謡いも含まれています。所謂古代の能と「現在能」と「夢幻能」の三分に分かれて体系化された書物ということになります。故に今では演じられることの無い「お能」が数多く収録されています。特に圧巻は、「歌論集」にある世阿弥の能の理論書である『風姿花伝』等々の章です。この巻の多くの紙面を割いて理論体系が収録されています。
この謡曲集の上下と歌論集は、40巻・41巻の連番と65巻の3巻で「日本古典文学大系 」いう体系下に入っているものです。日本古典文学大系は上代から近世(江戸時代後期)までの古典文学を対象に、全100巻にまとめられ、刊行されました。ちなみに、謡曲集(上)は1960年発刊で、(下)は1963年です。50年も前の書籍です。今では当然絶版です。
恩師は、この3巻をボクの高校入学の祝いにくださったようです。

しかし、謡曲に素養の無い高校生のボクには「歌論集」は難解です。
古典が好きであったためか「謡い」そのものの「謡曲集」は、なんとか輪郭を理解できてもお能の理論書である「歌論集」は手に負えません。それでも、ともかく読むことに主眼を置いて努力したことを今でも覚えています。

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最後の手紙 The Last Message

2011.01.28

戦争はなに色?
戦争のにおいは?
あなたは国家のために死ねますか?

この質問は今NHKが取り組んでいる「あなたの戦争を教えてください。」というテーマで、盛んに街角でインタビューをしている設問例です。この映像は多く人が記憶に留めていると思います。
成人男女、ご老人、女子学生、小学生の男の子等々まちまちで、街ち行く人にマイクを向けます。
大人は戸惑いつつも真摯に、小学生は設問自体が意味不明と云う感じに、女学生は若さゆえきっぱりと、それぞれの思いを一言で表現しています。

ここに一編の哀愁を帯びた詩があります。
「空と風と詩」という題名の詩集からの抜粋です。

  『戦争中に
   四季が私の上を過ぎ、空の入り江を秋が溢れる。
   私は、秋空の星を何の苦労もなく数えられる気がする。
   それなのに、なぜ私は私の心に輝いているはずの
     一つか二つの星を数えることが出来ないだろう。
   もしかすると、夜明けが近いから?
   もしかすると、明日になっても、私にはまだ一夜がのこされているから?
   もしかすると、私の青春の日々がまだ数えつくされていないから?

   私は、一つめの星を「記憶」と名づけた。
       二つめの星は「愛情」。
       三つめの星は「孤独」。
       四つ目の星は「憧憬」。
       五つめは「詩」、そして六つめの星は「母」。
   そして私は、星を数えながら美しい名前を付けてゆく。
   席を並べた学友の名前。
   知らない少女 ぺ・キョン=オ。
   貧しい隣人の名前。
   Francis Jammes や Rainer Maria Rilkeのような詩人の名前。
   みんな星のようにあまりに遠い。
   そしてお母さん、あなたも遠い北のカンドにいる。

   言葉に出来ないものに私は憧れ、
   私の名前を星に照らされて丘に書いて、砂で覆い隠す。
   なぜなら、
   夜の番人の蜩(ひぐらし)が私のお墓を見て悲しげに鳴くから・・・』


私の母は86才で健在です。彼女の二十代の前半は太平洋戦争下の期間で、後半は終戦、占領の時代です。太平洋戦争が終結してすでに65年が経過しています。私の母のように無事に終戦を迎えられた人は幸福と言えます。そして当然ながら戦争体験者は高齢化が進み、徐々に生存者が減少しつつあります。今では鬼籍となった父も二十代に志願し南方への従軍を経験しています。が、私は父から戦争の話は一度も聞いた記憶がありません。母も同様です。今では意識的に避けていたと想像しています。それは、きっと奈落の底をのぞき見るような、云われもしない恐怖感がつきまとうからでしょう。
仮に両親に、
  戦争は何色?
  戦争のにおいは?
  あなたは国家のために死ねますか?
の質問はあまりにも空虚さがともない、喉の奥で絡みついて声を発することが出来ないでしょう。
いま、NHKが国営TVという立場から「証言記録 兵士たちの戦争」に加え、去年夏から銃後の体験を「証言記録市民たちの戦争」として放送しています。さらに取材で得られた数々の証言を放映し「NHK戦争証言アーカイブス」として記録しています。取材の根底には、あの時代、戦場で、或いは日々の生活の中で、人々は何を思い、どう行動したのかという人間の云わば尊厳に通じるテーマを追っています。それは戦争を知らない子供たちやこれから来る未来へメッセージとして伝えるための活動ともいえます。

さて、哀愁を帯びた冒頭の詩に戻ります。
この詩の作者は韓国で著名な詩人「尹 東柱(ユン・トン=ジュ)」のものです。
彼は1917年12月30日に中国吉林省の朝鮮族の両親の元に生まれました。一家はキリスト教信者で、彼はソウルの延世大学(当時は延禧専門学校)を卒業し、1942年に立教大学に留学しています。その後すぐに同志社大学に転校したようです。当時は第二次世界大戦下でした。彼は朝鮮人徴兵制度や民族文化の迫害などの抵抗運動に関与しているとの「治安維持法」に触れ、京都で逮捕され、懲役二年の判決を受けています。その後、福岡刑務所に服役中の1945年2月16日に獄死しています。来月16日は彼の命日と云うことになりますね。

享年27歳でした。

彼は学生時代より当時は禁止とされていた"朝鮮語"で詩作を続け、1941年12月に「空と風と詩」という自薦詩集を極秘裏に出版しています。冒頭の詩はその中の一編ということになります。
ユン・トン=ジュは現在の大韓民国においては「国民的な詩人」して著名であり、国外でもその素朴な作風は高く評価されているといわれています。
彼が在学した立教大学では"記念奨学金制度"が発足し、また同志社大学および京都造形芸術大学内に彼を讃える"石碑"があるといいます。

なお、彼の獄死の原因は人類史上、最も残酷な"人体実験"の疑いがあるとされています。

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切磋琢磨

2010.12.02

創造性はどうしたら手に入れることがでしょうか?

もともと創造性や独創性は、誰にでも生まれつき備わっているものといわれています。
最も肝心なことは、もともと生まれつき備わっているこの能力を自ら知り、
そして伸ばし、育てることができるかと云うことだと感じます。
しかし、自分の能力を知ることはなかなか出来にくいものです。自分の能力を知るには、たぶん強い「感性」が必要ではないでしょうか。
そして、、
発見された自分の能力は、可能性を秘めていますが、とても小さく壊れやすいものです。
さらに、その能力を伸ばすために純粋培養して「開花」するまで守らなければなりません。

ドイツの黒い森といわれる山岳地帯の名も無い村ボイレンで、
小さなガレージで始めた独創的なコンサルティング会社が、
やがて世界的にデザインを提供する有力企業へ成長する過程は驚くべきものがあります。

創業者の名前は著名な「ハルトムット・エスリンガー」で、
彼がガレージで立ち上げたのは「フロッグデザイン」という会社でした。

彼が始めたことは「ビジネスとデザインが手を組むことで、いかに驚くべき力が発揮できる」でした。
このあまり真新しくないデザイン主導のビジネス戦略には、
多大な可能性があるというコンセプトに注力し、それを実施し、
そしてさらに世界的に評価される企業に育った訳ですが、
実際にはこのような成功例はあまり無く、とても難しいものだと思います。

数年前に若く素晴らしい才能と人間性豊かな五人の若手建築家集団と知遇を得ました。
この五人は、全員が同じ大学の建築課を卒業した同期です。
いわば「同じ釜の飯を食った」という程度の関係であれば、世間にはいくらでも例があると思いますが、彼らは一味も二味も違います。
彼らは、大学入学の18才からいわば同志とも云うべき連携を持ったグループで、
その関係は15年経ても変わらず、それどころか発展しています。
もちろん全員が建築関係か、それに近い他の仕事を持ちながら、第一線で第一級のジョブをこなし、それはそれで社会的にも十分に評価される立場です。
しかし、著名な建築デザイン会社に属しながら、別に五人だけの緩やかな共和制とも云うべきバーチャル・カンパニーを持っています。

このバーチャル・カンパニーは彼らにとって、純粋の中にも遊び心を持ち、
それでいて人間くさい欲望のはけ口にも利用するという「とても、まじめなおもちゃ」のような存在です。
三十代で彼らのような経験を積める事自体稀有なことです。
また、そこまで至ったプロセス、バーチャル・カンパニーがプロデュースした作品等々、どれをとってもボクに出来なかった素晴らしい経験で、うらやましい限りです。その素晴らしさを彼ら自身が身にしみて実際に理解できるには、あと20年くらい必要かもしれませんが。

五十代半ばを超えた私の身長は、少なくとも同世代の中にあって、小さいと感じることはありません。しかし、五人の若者は全て175㎝の私より少なくとも10㎝は高く、全員に囲まれたは私はとても分が悪い。
なぜか彼らとは、気が合い、定期的に食事をし、飲み、語っています。
時には話題が嵩じて深夜に及ぶ事が多々あります。三十代半ばの彼らと歩調を合わすことは体力的にも、気力的にも並大抵ではなく、脱落寸前であることは間違いありませんが、なんとかついて行っています。
でも、気のいい彼らは私を帰宅させることはせず、スムーズに抱き込んでいきます。

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負けざる者たち

2010.06.15

天然石で最も高硬度のダイヤモンドは、その硬さゆえに原石同士で磨かれるといいます。
そして、研磨され輝きさを増した8面体は人々を魅了して止まない。特に女性に。

人もまた、人間同士の関わり合いを通じて切磋琢磨されるものです。
「切磋琢磨」は詩経に出でくる故事です。
角や象牙を刀で切り出し、やすりで研ぐことを"切磋"といい、また玉や石を槌で打ち、砂や石で磨きをかけることを"琢磨"と云うそうです。詩経に綴られたこの意味は、学ぶだけでは表面的であり、徳をおさめるために、努力に努力を重ねるとあります。

先日10年来の知人と食事後の二次会々場へ向かう途中の出来事です。タクシーは、丁度新宿の職安通りをノロノロと走っていましたが、僕を肘で突っつきながらニッコリと笑いながら指を指します。
彼の白く長い人差し指の先に巨大なスクリーンがありました。
「あぁ、あれかと」とボクが頷きました。少し前の話題がワールド・カップでした。職安通りにある「大使館」という焼肉屋さんがありますが、そこの駐車場入口に巨大なスクリーンを設置し、集まってくる韓国人観客に対してW杯の実況放送すると云うのです。設置は2002年のW杯からだそうです。いまや名物になっているとか。
彼の説明によると、
ここ職安通りと新大久保は韓国人の人口密度が極端に多い衣・食・住の街だそうです。そう云えばハングル語の看板が数多く見受けられます。
すでに先週から始まったW杯南アフリカ大会(2010 World Cup)で韓国とギリシャ戦が先週土曜日の夕刻に行われています。結果は2:0で韓国の圧勝に終わっていますが、この巨大スクリーンの前では集まった韓国人群集の狂乱さが十分想像できるスクリーンの大きさです。

深夜の渋滞のタクシーの中で彼の話をぼんやりと聞きながら、ボクは全く別なことに想い耽っていました。それは数ヶ月前に見た映画で、その時に感じた記憶が再び蘇って、ひとり感動の渦にいたわけです。一生懸命説明している知人は少々滑稽でしたが、それでも彷徨っていた時間は5分とは経過していなかったと思います。

それは実話の映画化でした。
俳優は最も好きなモーガン・フリーマンとマット・デイモンの競演で、監督はクリント・イーストウッドという豪華さです。オスカーを四つも取ったクリント・イーストウッドが、監督第30作にこの『インビクタス/負けざる者たち』という映画を選んだそうですが、後日このキャッチコピーは制作会社の作りだしたものだと言うことが、イーストウッドのインタビューで分かりました。天才職人イーストウッドは、自分が何作作っているかなどと、あまり気にしていない事が分かったからです。
この映画はサッカーでなく「ラグビーのワールドカップ」の物語です。

主人公はモーガン・フリーマン扮するネルソン・マンデラ大統領とマット・デイモン扮するラグビー・ナショナルチームのキャプテンであるフランソワ・ピナールの二人です。
南アフリカにとって、「ラグビーやサッカーは単なる娯楽的なスポーツに留まらない!」
それを証明してくれたのがこの映画でした。
この映画の社会背景は、1994年に南アフリカ共和国で初の黒人大統領となったネルソン・マンデラの登場から始まります。マンデラは、白人支配によって約三世紀半の長きに渡った悪習「アパルトヘイト(人種隔離制度)」による人種差別に終止符を打ち、ゆっくりとですが確実に新しい南アフリカ共和国をスタートさせます。

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風を読む

2010.06.13

鳩山さんから管さんに首相交代のリレーがされたのはつい先週のことです。
首相が変わることで政治や組織や行政も大きく変化するのは当然のことですが、メディアには「風が変わる」や「風向きが変わった」のキャッチコピーが騒がしい今日この頃です。

あるブログに『メディア「首相交代効果」考』という興味深いテーマがあります。メディアに対して手厳しい論客といえます。掲載内容は、"メディアが取り扱う世論調査は「メディアとしての使命の放棄」と伺える調査時期の不自然さや一部の政党への偏頗がある"と指摘しています。かなり手厳しいですが、読むとなるほどと納得のいく理論展開でもあります。

風を読む」は示唆にとんだ言葉として広く認識されていますが、他に「船出」や進路を読み取る「コンパス」も政治や経済だけでなく、企業経営者が自社の進路や経営の視点を例える時によく使われます。

帆船が最も輝いた時代を「大航海時代」と歴史を感じさせる表現を使いますが、この時代の生い立ちを表す三つのキーワードがあります。

最初のキーワードは、「黄金と胡椒」です。とても魅力的な言葉として記憶に鮮明です。黄金=マルコ・ポーロ=フビライを連想し、胡椒はオランダ東インド会社=ヨーロッパ人の食生活です。大航海時代は一般に十五世紀から十七世紀を指しますが、実はその胎動は十三世紀ごろから始まったとされています。ご存知のマルコ・ポーロの「東方見聞録」の一説にこんな表現の口語体があります。
ジパングは東海の島で、大陸から千五百海里にある。」といい、
「黄金が非常に多く無尽蔵であるが、王がその輸出を許さないため訪れる商人はわずかしかいない。」そして、わが王であるフビライの日ごろの言動は、
「この島はわが国に風聞するほど富が大きく、この島を征服し領土としたい。」と記しています。
当時、この見聞録を読めば、フビライでなくても誰もが東方への関心が高まったであろうことは、容易に想像できます。
また、フビライの関心事は黄金でしたが、西ヨーロッパ人においては、彼らの食生活に必須の胡椒や肉桂(生薬、ニッキ)を大量に安価に手に入れることを望んでいました。香辛料によってヨーロッパ人の食生活は一変します。それもアラビアの仲介商人を通さず原産地の東インドから直接手に入れるルートを長く切望し、実際に模索もしていました。

歴史上、最も大胆な条約として知られてるトルデシリャス条約を締結したジョアン二世は締結後まもなく壮大な計画の前に死去しますが、彼の甥のマヌエル王が即位すると、第一次インド遠征を実施します。
この司令官がかの有名な「ヴァスコダ・ダ・ガマ」です。1498年7月8日のことでした。リスボアを出港して翌年の5月22日にキャラコの語源になったカリカットに到着しています。ガマは当時のカリカット王国と直接の通商条約を提案しますが、理由は不明ですが決裂します。そして、1499年9月に帰国を果たしますが、彼はきっちりと貿易現状調査報告書と一緒に香料等の価格表を綿密に調べ上げ、これを王に提出しています。その結果、丁字(グローブ)等の西欧価格は現地輸出価格の約9倍程度あることが分かりました。
残念なことに、その後最も重要なキーワードとなる「マルク諸島またはモロッカ諸島(別名香料諸島)」は入っていませんでした。そこまで調査の期間や実行力(資金、情報網など)がなかったかも知れません。
輸入価格が現地価格の9倍の手数料が掛かる「胡椒の直接購入」はヨーロッパの商人の間では、羨望の的であったろうと想像できます。ここに西欧からインドへの「東方航路」が確立しました。
故に「黄金と胡椒」はその必要性から人の目を東に東に向けたことになります。

話を少し寄り道すると、
ジョアン二世の壮大な計画は「コロンブス・シッョク」が作用していると云われています。クリストファー・コロンブスは西回りで「ジパングかカタイの近く」に到達したことを帰航の途中でリスボアへ寄港したことで知ります。王のシッョクは相当なものでしょう。また、1488年にはエンリケ航海王子の意思を継いだバルトロメオ・ディアスが喜望峰を廻り、インド洋を目の前にして引き返した(実は船員の暴動によって)ばかりのときでもありました。ジョアン二世の焦りはよく理解できます。

さらにもうひとつ蛇足を。
ガマによって確立した東方航路により小国ポルトガルは香料、金、象牙などの貿易を独占し、首都リスボアの繁栄を作り出します。それまで繁栄していたジェノバやヴェネチアの衰退と対照的になります。

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ジャンプする種

2010.06.06

新しいソフトウェア構想を議論することは、楽しい反面アウトプットの成果の可否に不安が残るものです。
テーマを絞るとおのずとシュリンクしてしまうし、拡大すると収拾不能に陥ることが想定できます。
手馴れたセッションリーダーの存在の願望はありますが、ぐっと堪えて育成することを選択することによって結局は長期的にみて大きな成果が期待できるでしょう。
生みの苦しみは当分続きますが、大勢でセッションすることは、距離感が徐々に溶解していくようで気持ちも抑揚します。そして、その時点で当初の目標よりは比較的容易にブレストの効果を感じることが出来ます。
ですが、
限られた時間の中で経営の根幹に影響を与える議論は、着地が手の届く範囲とは限らないところに底無しの落し穴があります。
しかし、その不透明さが大企業の安定的な連続性でなく、ベンチャー企業独特の非連続な社会を作り出していくのでしょう。

英国に著名で代表的な文献学者がいます。19世紀後半から20世紀にかけて「英語語源辞典」等、多くの大著を残しました。
彼の名は、「ウォルター・W・スキート」です。彼の偉業は独力で英国最初の、しかも今もって最大の語源辞典を完成させたことで不滅の栄誉に輝いています。その意味では数少ない古くて新しい文献学者かも知れません。
スキートは独特の「時間軸」と「持続力」を持ち合わせた人でした。
彼の仕事のやり方は、どんなに難しい語源の単語にも、三時間以上の調査をすることはなかったそうです。三時間調べてもわからないときは、彼は「不詳」として先に進みました。このことが偉業を成し遂げたひとつの要因として知られています。これはなかなかできません。文献者であればあるほど、でき難い決断であると感じます。

では、経営はどうでしょう。
毎日多くの問題が発生し、且つ現在抱えている障害と合わせると日々その量は増え続けている訳です。
すぐに処理する障害や捨て去ってしまうテーマやしばらく意図的に忘れるものまで多くの処理を都度判断しなければなりません。
しかし、考えてみるとどんな人間にも1日は24時間です。膨大な量の仕事を前提とする場合、時間の使い方は重要なファクターとなることは明らかです。

数多くの大著の秘訣を問うとスキートは、こんなふうに云ったそうです。

「その答えは簡単に言って、私が余暇のほとんど全てをその仕事に捧げたからです。
 毎日、同じテーマについて何時間も着実に仕事をし、
 しかも一年中、ほとんど毎日それを繰り返すならば、
 いかに多くの仕事をなしうるかは、
 本当に驚くべきものがあります。」と。きっと彼の根本はここなんでしょうね。

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メイク・ア・ウィッシュの大野さんに会う

2009.11.03

先日、知人の記念パーティで
       "メイク・ア・ウィッシュ"の大野寿子さんに会いました。


彼女は、重い病気と闘う子供たちの夢をかなえる世界的なボランティア団体の日本の事務局長です。彼女の話を聞いてとても自分の心が静かになり、体の奥から暖かな気持ちが湧き上がってきました。そして、この団体の活動に感動しました。
国内ではすでに、1500人近くの子供たちが、その夢をかなえています。
この団体によって、多くの子供たちが小さいときから思い続けた夢を「いっとき」実現しています。

そして、彼女はこう云いました。
「最後の夢ではありません。」
「夢をかなえることが、
    明日を、今を生きる力となるのです。」


今年の夏までに、昨年の秋に比べると異常高騰があったといいます。
何かと言うと穀物価格です。それも身近な小麦や大豆です。
異常高騰の主犯は投機・投資ファンドマネーの穀物銘柄の商品市場からの引き上げが、原因と言われています。特に、小麦は瞬間的な異常高騰を除けば、10年間で過去最高値とのことです。状況は大豆に加えてお米も同様だそうです。

この穀物銘柄の異常高騰に対して、被害を蒙ったのは、なぜか途上国だそうです。
なぜでしょう。わけが分かりません。
その途上国の中でも、特に被害が甚大なハイチやバングラデッシュでは、
一日一食に追い込まれ、ハイチにいたっては市民の暴動化まで発展しましたとあります。
益々分かりません。

この途上国と穀物銘柄の異常高騰には構造的な関係があります。
影響の大きい途上国は押し並べて農業国です。
農業国である途上国がなぜ飢えるのか? 益々不可解な。。。

仕組みはこうです。
途上国である農業国は、国が貧しいために、資金を世界銀行から借ります。
すると決まって、世界銀行は弁済の為のいろいろな「助言」をします。この助言が裏目に出ます。この助言は、債務を返済する為に自給農業をやめて早期に換金可能な先進国向け農作物への生産のシフトというものです。
途上国である農業国に弁済方法について、いい代替案は持っていないこともその理由です。
換金可能な農作物は何かというと、「バナナや綿花やコーヒー」がそれです。
この換金可能な農作物を生産する代わりに、先進国から主食である小麦や米を輸入するのです。もちろん、この「助言」は作為的とも取れなくもありません。
結果は目に見えていますね。
主食をお金で買うしかない貧しい国々は、10年来最高値の高値の小麦を買わざる得なくなり、助言が本末転倒になってきます。もちろん、高くて買えません。

この先進国の思惑だけで押しつけられた構造的な仕組みは、簡単には脱却できなであろうと言われています。大きな理由のひとつに、債務の重圧があります。
多くの人が明日の糧を得ることにやっきになっている頃、対局の投機・投資ファンド・マネーの人たちは、天文学的な利益を得ることになります。

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法隆寺と林業

2009.10.25

東海や関西の出張はよくありますが、決まって名古屋と大阪です。
たまに、京都の出張がありますが、しかし、さすがにその先の奈良の出張はありません。そううまくいきません。しかし、仕事とは言え京都の佇まいを身近に感ずることは楽しいことです。
京都も奈良(飛鳥とか)も、情緒豊かで、いずれもとても好きな都市といえます。
特に奈良は。
何故かと言うと、奈良には「法隆寺」があります。
ご存知のように、法隆寺は世界最古の木造建築です。
以前、中国の友人を奈良に誘ったことがあります。スバ抜けて優秀なITの技術者ですが、とても寡黙で落ち着いた雰囲気を持っている若者で、その彼と法隆寺を散策しました。
そして、回廊の中に入り、立ち並ぶ柱に直接手を触れさせ、これが1,300年前の木だと教えると、途端に驚きの表情に変わります。
彼の驚きは、1,300年前の建築物という点ではありませんでした。
それもその筈です。中国四千年の歴史の中では、1,300年はさぼと古いものでなく、もっと古い建築物があることを当然のように自負しています。
が、彼が今まさに触れている柱の表面には、干割れやささくれがなく、柔らかな感触を伝え、とても1,300年間の風雪に耐えたとは全く感じさせない状態であることに驚いたのです。

法隆寺の「あの柱」に触れた方は、同様に感じたと思いますが、回廊のたくさんの柱からは、柔らかな温もりを感じ、また、そのような木が長い間、構造材として重い建物を支えていることに不思議さも同時に感じます。
木材は、一般的に時代とともに、その表情を刻々と変化させます。主な原因は乾燥と捩れによる歪みです。仮に乾燥による割れやねじれが生じなくても、必ずといっていいほど表面は風蝕によって少しずつ痩せていくと云われています。
特に風蝕によって、柔らかな部分から減って、木目が徐々に浮き彫りになり、やがてそれも痩せて「とても硬い節」だけが高く残ることになります。

文献では、風蝕は"百年に一分"が失われると定説がある様です。特に、軒下等で風雨を受けやすいところでは、百年で三㍉程度ずつ痩せるそうです。風蝕とはすごいものですね。なので、古い鑑定方法には、その痩せ方で、建物の年代を判断する方法もあるそうですよ。

そして、日本は古代より木造建築の顕著な国でもあり、そして森林国家でした。
その森林国家である日本が、現在最も可能性のある森林経営の時期を迎えているそうです。
ですが、昨今、その森林資源が危機に瀕していると警鐘がなされています。
過去の経緯から想像すると、林業は第一次産業の中でも最も不活発な産業に衰退してしまったかも知れません。
その理由は、
この産業の主な活動は治山治水の施策と山間部の雇用対策という名目で補助金を確保し、公共事業として長い間放置されてきた事が大きな要因と云われています。特に、戦後の復興特需期に、大げさに言えば日本中の森林を伐採し、その貴重な資源をほとんど伐り尽くした時期がありました。その証拠に、現在の森林の八割が林齢五十年以下と、長期政策せずして伐採した事実を極端に物語っているといわれています。
別な言い方をすれば、その後の長い期間、お金と人的労力を負担し続けた時代があったということです。
そして、日本の森林は忍耐の期間を終えて、いよいよ収穫期という分岐点を迎えているそうですが、このタイミングを逃さず効果的な施策を実施しないと冒頭の危機がやってくると云う訳です。

人工林というのは、木が生えてから五十年くらいまでに手を入れないと再生が難しくなるそうです。日本の人工林は、総森林面積の40%もあるそうです。逆に言えば、適切な間伐を行うとその後の森林整備コストが大幅に減少し、徐々に採算性が向上して、「林業」としてのビジネスが成り立つということになりますね。
間伐という行為で私が以外に思ったのは、森林を健全に保つには成長量の70-80%前後を安定的に伐採しなければならないということです。
全国規模でいえば、間伐材は相当量になるということになります。

私どものコア・ビジネスで、オンデマンド印刷を主軸としたSaaSビジネスをしていますが、最終的には紙への印刷を行います。実は、この間伐材を使用した原紙を使用することで、環境保護と資源の有効活用の両面で、ここ最近推進が活発になっています。このことは、当社からの申し出でお客様に採用を頂きますが、逆にお客様自らの発案によって、間伐材用紙をお使いになることがあります。間伐材等も含めて森林保護と環境保全を目的として有効利用とする世界的な仕組である"FSC"(参考Ⅰ)があります。
私たちの取り組みも、この方針に則って、環境保護に賛同していきたいと思っています。


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しのふ

2009.10.18

私のとても若い知人の女性から、ある問いかけをされて戸惑ったことがあります。
その問いかけとは、
「私は、彼からのプロポーズを望んでいますが、どうしたら彼は私にプロポーズを言ってくれるのでしょうか? 教えてください。」
「う~ん」と、しばし絶句。誰でもこの難問に答えるすべはありません。

そういえば、
NHKの大河ドラマで直江兼続の波乱万丈の生涯をドラマ化して放送していますが、少し前の放送で、兼継と千利休の茶室での問答がありましたね。利休の時代では、特別な場合を除き「茶の湯」はまず男のものでした。
戦国時代は数十年戦(いくさ)に明け暮れていたせいで、平均寿命は18歳と言われています。ですから、戦で命を落とすことは日常茶飯事ということになりますね。なので、あの時代に、「人生50年」は、命を全うした寿命と言う訳です。
だからこそ、その覚悟を「日常とする生活」の中での"茶の湯"というひとつの儀式の中で「一期一会」という感覚が自然と身についたのではと思います。多くの武士(もののふ)が命を落とすことが日常的な中で、過酷な戦国の世を生き抜いてきた武士のみが茶会での一期一会の重さを知っていたともいえます。
現代の私たちはどうでしょう。
私たちは一期一会の意味や理由をよく理解していますが、その実感はありません。いまの世の中で、日常的に命を落とすことが稀だからです。もちろん不治の病気や交通事故や偶然の犯罪事件に遭遇する不慮の事故も無くはありませんが、それとて稀といわざる得ません。

兼継は兜に「愛」をという文字を象った敬愛の精神をシンボルマークにしていますね。この時代には稀有な概念というべきかもしれません。茶室で問答した「利休」も同様に無言の表現を行ずる稀有な存在といえます。
この二人が同時代に生きたこと自体が稀有な事かも知れません。

さて、冒頭の若い女性の「恋愛」の悩みに戻りますが、
私たちの先祖が「愛」を表現するのは、ずっと後年の事と言われています。
万葉の時代を生きた私たちの先祖は、思慕することを「し・の・ふ」という言葉で表現しています。「愛」とはまだまだ距離がある表現だと感じませんか?
この「しのふ」はどうも故郷を思慕または賛美するときに使われていたようです。後年の私たちが使う「愛」の原型であろうという見方が強いですが、まだしっくりこないです。
また、面白いことに「し・の・ぶ」という言葉を耐える事の意として使われています。「しのふ」と「しのぶ」は清濁の違いで意味も異なりますが、しかし同類の言葉として存在しています。日本語の語彙の情緒さと、外国人が戸惑う表現の複雑さです。
古代の人は、思慕することと、忍耐することを同類でありながら区別する感性を持ち合わせていたことに驚きを感じます。
そして、その語彙を深く読んでいくと、
「思慕」とは、じっと思慕することと、もうひとつ、思慕の重みに堪えることと表裏一体の関係であることを想像できます。そして、もう一歩深く突っ込んで「重い抑圧のない思慕」などは、所詮は存在しない思慕というこになります。
この思慕ですが、その重みの中からな自身の心の内を相手に放ってゆける思慕と、重みの中に打ちしがれて沈み行く思慕の二つの展開になると思います。
なので、思慕を寄せる事は、賛美することと言い換えても良いのかも知れません。その方が自然ですね。
「賛美する行為」とは、いかに抑制された「思慕が存在する」ものであるかを一層明確に示しているというわけです。
そこで、兼継の「愛」の兜ですが、ご存知のように「愛」は、漢字として中国から輸入され言葉ですから、元来私たちの先祖である古代人たちが、本来持っていたものでないことは想像できます。
ですから、現代の愛のルーツを探すとしたらやはり私たちの本来の言葉である"やまとことば"からということになるのでしょうか。

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新しいシルクロード

2009.08.23

   子供たちが空に向かい 両手をひろげ
   鳥や雲や夢までも つかもうとしている
   その姿は きのうまでの 何もしらない私
   あなたに この指が届くと信じていた
   空と大地が ふれあう彼方 あなたにとって私 
   ただの通りすがり ちっと振り向いてみただけの 異邦人

この美しい詩は「異邦人」という曲で久保田早紀が1979年に作詞・作曲し、そして自ら歌い大ヒットしましたポピュラーソングです。そして、今までに何度もカバーされた名曲といえます。

徳永英明というハスキーで、高域音がキレイな歌手が、過去に大ヒットした女性ボーカルの曲だけを収録した三枚のCDシリーズがあります。彼自身の自曲の歌も美しい旋律ですが、彼の選んだ女性ボーカルの曲も劣らず絶妙です。特にあの歌声は女性に大人気ですが、このCDの中で彼が歌う数曲にとても魅力を感じます。そして、異邦人はこの中にもカバーされています。
私は、カラオケというものを10年ほど前に体験しましたが、それ以前は、人前で歌を披露する度胸を持ちあわせていませんでした。それは、ひとつの拘(こだわ)りといえるかも知れません。
それが、起業をきっかけに、人の付き合いの中でどうしても避けられないと納得した時点で、この拘りを捨てました。以来、カラオケを少なくとも以前よりは楽しく振舞えるようになりました。

たくさんの歌手がカバーする異邦人ですが、私は特に徳永英明の歌声が好きです。たまに誘われてカラオケしますが、映像が決まってイスタンブールなんです。異邦人とは字のごとく外国に定住または長期滞在する外国人を意味しますが、少し前まではコンスタンティノーブルと名づけられていたイスタンブールとの関連性は全く無い様に思えますが、不思議と映像とメロディーが素晴らしくマッチングします。

コンスタンティノーブルはシルクロードの臍(ヘソ)にあたる最も重要な結節ポイントです。
この西に、この道の到着点であるローマがあります。そして東に、出発点の長安(現在の西安・兵馬俑で有名な)があります。中国、モンゴルと中央アジアの地獄のような砂漠を横断する、長い長い乾いた道をローマから長安を結ぶ長距離交易路が、絹の道といわれる「シルクロード」であることは誰ひとり知らぬものはないほど、ひとつの言葉として認識されています。この路はまさに、世界史の背骨というべき道です。
中国製の「シルク」をローマまで運ぶ道であったために、ドイツの地理学者「リヒトホーフェン」が"絹の道"と命名しましたが、もちろんシルクだけでなくあらゆる商品が行き来しました。しかし、これほど名前と現実の世界が大きくかけ離れた印象をもつ言葉はないと思います。

イスタンブールはトルコの首都ですが、西に隣接するブルガリアやその北にあるルーマニアは黒海に面したバルカン諸国です。この地は、古代から様々な民族が入り込む一方、東ローマ帝国やオスマン帝国に長く支配されました。私の仲の良い知人にルーマニア人がいます。ルーマニアは陽気な社会主義国家と言えます。ブルガリアやユーゴスラビアはスラブ民族系と言う感じを強く受けますが、ルーマニアはラテン民族の血を強く引いていると言われています。その意味では知人は底抜けに明るい人です。どう見てもラテンとしか言いようのない気質を感じます。彼女は自国のルーマニア語とスペイン語とイタリア語を自在に操り、日本語も漢字以外はほぼ使いこなします。
ルーマニアを持ち出したのは意味があります。
バルカン地方は、九世紀から十世紀にかけてビザンチン僧侶が熱心に、布教をした地域でもあります。その為に正教協会が、農村の隅々まで建てられていると言われいます。この教会こそビザンチン芸術であり、ビザンチン文化です。
この地方のどこに行ってもビザンチン様式の修道院や宗教絵画をお目にかかることができるそうです。

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連想と日本人の恥

2009.08.07

夏の開放的な空の色や強い日差しや木陰を通り抜けた新鮮な風に出会うと、子供のころの出来事を思いだすことがあります。それも中学生や高校生でなく決まって小学生のころの事です。
例えば、今日の様な休日の朝をゆったりと迎えたりすると、より感じます。強い日差しを早朝から感じ、テラスの前にある桑の木の葉が、風で強くゆれるだびにリビングの中まで差し込んだ光の影がゆらゆらと揺れて、連想を促進するようです。
連想とは、ひとつ手がかりがあると、それが引き金になって止めどなく広がる様です。

自宅の小さなポーチに、ピンクのツツジが未だに咲いています。
ツツジの季節は春先が、とても鮮やかな色を見せてくれますが、いくつかの鉢植えのツツジは、手入れの甲斐あってか、未だに数輪の花を保っています。
先日のよく晴れた午前中に、そのツヅシの花に「カラスアゲハ」がその大きな羽をゆっくりと羽ばたきながら吸蜜作業をしています。おぉぉぉと、思わずカメラを取りに自室にもどり、調整をしてファインダーを覗いたころには、ゆっくり羽ばたいて次の好みの場所に移動していきました。とても残念な思いをしました。
「カラスアゲハ」自体はそう珍しいものではありませんが、美しく咲いたツツジのピンクとカラスアゲハの燐粉で輝く漆黒の大きな翅(はね)のコントラストは、とってもファンタジックなんです。彼女は開長すれば10cmは有にある大型の蝶なんです。
私は、海も山もある田舎で育ったので、たくさんの野生の昆虫類や魚介類と一緒に育ち、遊んだので、今思うととてもエキサイティングで幸せな環境にあったと改めて感じています。

子供のころは「国蝶」である「オオムラサキ」も意識せず、何度となく見ましたし、ツツジにとまった「カラスアゲハ」は普通の蝶としての認識が強く、珍しい昆虫の部類ではありませんでした。このシーズンの小学校低学年から高学年の男の子の興味はやはり「カブトムシ」や「大クワガタ」でした。それもまだ、誰も捕まえていない時期に持っていることが男の子のステータスでしたので、ふたりの兄から教わった樹液の多く出すカブトムシの秘密の樹木は誰にも教えず、一人で採りにいったものです。もちろん、クラスの女の子には見向きもされない行為ですが。
初夏の早朝のまだ夜が明けきっていない午前四時ごろ、夜遊びして疲れきったカブトムシたちが、お腹をすかしておいしい蜜を吸いにくるのを待ち構えるようにして、一回に20-30匹捕まえることができます。入れ物は深めの金属製のバケツです。なぜかというと、金属なので滑ってあがってこないからです。バケツの中でオスが何十匹も渦巻いいるなんで、いま考えると気持ち悪いですね。もちろん、価値の無い(失礼!)メスはリリースします。

都会でありながら、二つの大きな公園の狭間にある自宅は、野鳥や昆虫が比較的多くやってきます。特に「シジュウカラ」は数年間かけてカップルの餌付けに成功したので、毎日数回は餌のひまわりの種を採りに来ます。シジュウカラはとても警戒心の強い小型の野鳥ですが、数年間の餌付けもあって、しばしポーチのテーブルの餌と水を飲んだりして、帰って行きます。ただし、一度に二羽が餌をとることはしません。やはりそこは野鳥です。しっかりしています。

さて、蝶の話に戻りますが、
カラスアゲハ」は黒地を基調にして、オスは青緑の光沢がとても強く輝いて見えます。メスは紫の麟粉(りんぷん)が角度によりますが、強く見えます。
少し昆虫(蝶)を好きな人だと理解できますが、上翅(えわばね)の裏ににとっても特徴があるんです。人間もそうですが、昆虫も全部同じように見えて、実は全て単体での固体差があります。なので蝶の翅も実は型が全て違いますが、翅の裏に白く帯が浮き出てい特徴があります。色合いとして、カラスアゲハより少し見劣りするクロアゲハという蝶がいます。この二種類の蝶の違いはこの白い帯です。この帯のコントラストがとても美しいですよ。

子供のころは、昆虫採取という夏休みのテーマがありましたが、山や野にいって手当たりしだい「蝶」や「トンボ」を捕まえたことがあります。もちろん、宿題の標本にする訳ですが、蝶に防腐剤等いろいろいな薬品類を注射し、標本箱に羅列しました。いま思うと、とっても残酷なことをしていると慙愧に耐えません。今では、まったく逆のことをしています。たとえば、自宅の観葉植物に遊んでいるクモをそっと捕まえて、ポーチの植木に逃がしてあげたりします。山にも海にも慣れ親しんだ小学生頃に、たぶんそれを教えてくれる大人はいなかったと記憶します。ですので、自分の行動に子供とは言えまったく躊躇しませんでした。

小学生のあのころから現在まで、多くの失敗や恥を積み重ねてきたいようです。強烈に覚えていること。忘却のかなたにあるもの。そのレベルはまちまちです。今振り返ると「ゾッ!」とすることもあります。さて、自覚は、どのように変化し、僕の今にあるのでしょうか?

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右か左か、どちらか。

2009.08.03

エアライン出身の知人を数名存じ上げている。
先日、楽しい話題で盛り上がりました。
私の利用した全ての飛行機は、空港に着陸し、完全に停止すると乗客は我先に前に詰めて一刻も早く機内から外へ出ようとします。日本人も中国人も韓国人も米国人も西欧人も、みんな同じ行動の様な気がします。それを彼に話したら、世界中同じだそうです。
どの国も人も、どのエアラインのどの飛行機も、同じ現象だそうです。ビジネスもエコノミーも同じというわけです。これは、どんな心理状態なのでしょうか?
しかし、どんなに急いでも出口は一箇所か、せいぜい二箇所です。二箇所の場合は、一つはビジネスクラス専用の出口となるで、エコノミーはその恩恵には預からないでしょう。
今度は、彼が質問しました。
実は飛行機の出口は、常に左側です。まれに両サイドから乗客を降ろす特殊な場合がありますが、一般的には左です。その理由を知りたいと。
なぜ僕に聞くのといったら、なぜって、飛行機は船の制度を取り入れているから、答えを知っているでしょうっと、間髪いれず返ってきました。さすかだ。
そうなんです。
交通手段としての「船」は歴史が古いので、その後開発された乗り物は、ほぼ船の制度を基本に取り入れています。現代でもその制度によって、その名残が色濃く残っています。

船の右側を"スターボード"といい、左側を"ポート"といいます。
昔、バイキングの時代に活躍した北欧船では、舵を構造上に右側(右舷側)の船尾に取り付けていました。右側は"スターボード"です。語源は、舵のある側、または舵を取る側と言う意味で「スティア+ボード」で、すなわちスターボードとなりました。なので船を岸に着ける時に、舵を壊さないために、常に左側を陸に接岸する必要があった訳です。また、左側(左舷側)はポートです。これも陸上への門または港という意味を込めて、ポートと呼ぶ様になりました。飛行機には舵に相当する尾翼がありますが、船の様な舵はありません。ても、この名残の為に飛行機の出口は左側のみとなった訳です。船は英語ではシップ(ship)ですが、パイロットの中には飛行機をシップと呼ぶ人もいるそうです。蛇足ですが、飛行船や宇宙船も同様ですね。

そして、ここにも右か左かを海の向こうで論じている人たちがいます。

昨今、自民党にとって見通しはとても暗いと思われます。
社内で立ち話を聞きましたが、都議選は「民主党」に投票したという人が、多いもの納得できる現象です。民主党は、参議院選挙で地滑り的に勝利した機運を、そのまま東京都議選でも維持したようです。そして、初めて第一党の地位を獲得したことで、その勢いを感ずることができます。次は総選挙です。但し、麻生さんが口癖のように言う「選挙はやつてみなければわからない。」ですが、この先、民主党のスキャンダルが出てこないとも限りませんので、それはやって見なければわからないでしょうね。
あくまで、選挙は結果です。
とはいえ、すでにワシントンは次の総選挙で野党が勝利して、民主党政府が出来る事を予想した手を打っているようです。政治アナリストの見方は、民主党政権が樹立しても、オバマ政権は自信に満ちた態度で、米日同盟が確かなものであることをに、変わりないとコメントすると言われています。日本の現政権に対して、米国は日本重視の姿勢を明確に打ち出しています。ヒラリー・クリントン国務長官は、日本をアジア戦略の「コーナー・ストーン(要石)」であることを宣言し、就任後初の公式訪問国を日本としました。なので、日本が日米同盟を堅持する限り、米国の姿勢にそう大きな変化はないと言わています。

ただし、現在海の向こうの彼らの注目しているのは、民主党の実力の様です。その一つが移行計画です。私たちがビジネスするITの世界で、移行ほど厄介で気を使う案件はありません。そこには独特の要素があり、業務経験と移行の十分なノウハウを持った精通者をアサインしないと自ずと埋もれた地雷を、踏むことになります。
この移行という作業は、どのシーンでも同様な基本要素があるように思えます。
米国は大統領就任まで大規模な移行チームが、事前に十分に検討された項目をもとに十一週間かけて、新政権の政策を準備するようです。長く政権を維持した自民党は、トップの交代のみで主義・主張が変わるわけでないので、必要ありませんが、民主党は米国並みと言いませんが、わずか数日で、この試みを実施しなければなりません。閣僚人事も合わせてです。これはとんでもない量を数日でこなす訳です。ワシントンが自分の事のように心配する気持ちが理解できます。
さて、鳩山政権への移行計画は誰が起案し、実施に移すのでしょうか? それとも、そもそも移行計画は無くて、数日間缶詰になって、集中して、ぶっつけ本番でビシバシと決めていくのでしょうか?気になるところです。

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ブリタニア

2009.07.31

紀元前五五年年八月二十六日は大英帝国の歴史の始まりである。」と言ったのは、ウィンストン・チャーチルです。この日は、歴史上初めてローマ軍の軍船がブリタニア(イングランド)の海岸に達した日です。ちろん、総司令官はかのユリウス・カエサル(後のシーザー)です。
私は塩野七生さんの「ローマ人の物語」がとても好きで手軽な文庫本を読破しています。特に好きな年代は何度か読み返していますが、カエサルがブリタニアをほんの一瞬ですが「斥候遠征」したことがあります。このことを契機に英国がその存在をローマに知らしめたとして、後年チャーチルが「歴史の始まりである」という名言を残します。
カエサルがブリタリアの攻めたのは、彼が45歳でガリア戦役が始まって四年目のことです。七生さんは一般的な「ガリア戦記」(戦記は出来ごとを年代順に書き残した記録書)といわず実際の戦争の行動期間をいい表すために「ガリア戦役」としています。言われてみるとそのほうがすっきりします。この戦役は通算八年間続くことになりますが、最終的にはこの戦役によってカエサルの持つパワーは強大に成長していくことになりますが、、当初はそう大きな軍団ではありませんでした。彼はこの八年間に彼に従う強靭なチームを作り上げていく事になります。もちろんルビコン前の出来事です。彼女のこの本を読めば読むほどユリウス・カエサルが魅力的で、惹かれていきます。且つ彼が「大器晩成」だったことがよく理解できます。

私たち日本人は、この国のことを説明するとき、ごく日常的に「英国」または、「イギリス」と呼んでいますが、たぶん説明足らずの表現ということになるでしょうね。この国の成り立ちは歴史上の経緯からして複雑な構成要素がたぶんにありました。正式には「イングランド(England)」と表記しますが、本来の意味は、"グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国"(イギリス)を構成する4つの「国」(country)の1つである。」と認識した上で、使わなければならないンでしょうね。ですので、少なくとも「イングランド」と表現することが最低条件の様な気がします。

英国は日本同様に島国ですが、日本と異なり近隣に強大な国々が歴史上頻繁に勃発したので、そのつど影響を受けます。日本での占領の危機は二度の元寇と日本が自ら招いた先の大戦の米国の実質占領の三回しか経験がありませんが、英国はカエサルのローマ軍が引き上げた後、ゲルマン系アングロ=サクソン人が侵入して、ケルト系ブリトン人を征服または追放してアングロ=サクソン七王国を興します。その後、アングロ=サクソンの諸王国はデーン人を中心とするヴァイキングの侵入によって壊滅的な打撃を受けますが、最後にウェセックス王アルフレッドがヴァイキングに劇的に打ち勝ってロンドンを奪還します。この当時の指導者であるアルフレッド王(在位871年 - 899年)がロンドンを手に入れたのは、878年の「エディントンの戦い」於いてです。
そして、東部地区を除いて、ほぼイングランド南部を統一します。その後、エドガーの時代に北部も統一され、現在のイングランドとほぼ同じ領域の王国となるわけです。世界史専攻の人には簡素化しすぎた説明かもしれませんが、お許しください。
この様に、英国はカエサルの時代から戦乱が続き、この後も長く長く続きます。日本と違いこの国では、実際にイングランド人以外の統治が長く続くことになる訳ですが、一番長期に政権を維持したのはやはりフランスです。例えば、かの有名なヘンリー三世がいますが、彼はアンジュー王家の血統を厳格に守り、生涯イングランド人になることを拒み続けた王として有名です。
しかし、その彼が1239年に生まれた長男を、イングランド名の「エドワード」と名付けたことから、国民はこの命名を喜び、エドワード一世として王位に就くや、イングランド名の国王としての再来と、強く彼を支持する国民感情が高まったようです。実はそこを狙ってエドワードという名をつけた訳ではなく、全く別な理由で命名されたのですが。

エドワード一世も、血統では父王同様全くのアンジュール人でしたが、ノルマン征服(1066年に所謂ノルマンディー公ギヨームによって征服され、ギョームがウィリアム1世(征服王)として即位し、ノルマン王朝は開かれます。当然、アングロ=サクソン系の支配者層はほぼ一掃されてしまいます)の1066年からすでに200年を過ぎているとあって、貴族階級だけでなく、広く英仏の混血化が進んで、当時はフランス語しか話さなかった貴族階級も英語を使い始める時代に突入していくのです。そして彼は父王とは全く異なる国王として統治に望み、多くの事績を残していくことになります。
彼は歴代イングランド王の中で、きわめて有能な国王の一人としてその名を残しました。
しかし、一方では、対ウェイルズ戦(1276-1295)、エドワード三世まで続く、対スコトランド戦(1296-1341)、その後は1337年から始まる、フランスとの百年戦争、ヘンリー六世の時代の仏からの撤退(1453)、そして1455年から始まるばら戦争に続く訳ですが、この撤退を契機にフランス系のイングランド諸領主も次第にイングランドに定着し、イングランド人としてのアイデンティティを持ちはじめ、最終的には民族としてのイングランド人が誕生するという物語となります。
英国がその国威を世界に示す基盤は、15世紀後半にやっと固まってくるのです。

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紙とデジタル

2009.07.27

最近は本を読む時間があまり取れません。
忙しさを理由にしている向きはありますが、とにかく公私共に趣味や雑用が多く、じっくりと本を読む時間がなかなか取れない状況です。
それでも、最近十冊程度の本を読み終え、さらに二冊の本が執務机に載っています。
読み終わった本でとても感銘をうけた本は、
風の中のマリア」「ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて 」の二冊でした。
そして、これから「lQ84」と「シリコンバーから将棋を観る」の二冊を読みたいと思います。
いずれもアマゾンで購入したものです。
そこで、
最近「スクリブド(Scribd)」というサイトがあることを知りました。
"いたずら書き"または、"走り書き"という意味の英単語のScribbledを略したもので、「誰もが創作を楽しみ、その喜びを皆と分かち合ってほしい」との意味合いがあるそうです。
このサイト、いろいろな面で画期的です。

もう、二十年くらいになりますが、この「スクリブド(Scribd)」の記事を読んで突然思い出した事があります。それは物理的な本とデジタルの違いを鋭く洞察したエッセイでした。
タイトルも誰が書いたものかもすっかり忘れましたが、主旨は鮮明に覚えています。
それは、私たちが今手にしている本という物質的な制約がなくなってしまうという物語です。
コンピュータと文学者の結びつきは、非常に古くワードプロセッサーの登場から密接な結びつきが有ります。いまでは、書籍のデジタル化は一般的なことになっています。それは、あらゆる書物が仮想空間のなかで電子化されつつあるという事実を物語っています。
ネットは、膨大で、かつ巨大です。
物質性を離れると言う事は、今まで私たちが千年以上に渡り血の中にまで色濃く定着し、固定化した書籍の文化を離れると言う事が前提となりそうです。
正確には、ネットがそれを実現可能な方向に導いていると言う事になるでしょうか。
このあたらしい文化は確実に新たなフェーズに進んでいると思います。
言い換えると、我々が慣れ親しんできた、モノとしての本の属性がもしかすると、失われてしまうのかも知れないと言う事です。
これを私たちは、どのように考えたらよいのでしょうか?

デジタル化された本は、物質では有りませんので、いわゆる「パルプ」は不要です。
あるのはネットが繋がったディスプレーかモバイル端末か専用機です。
たぶん、電子の本には私たちが、長い間文化として作り上げてきた慣れ親しんだ「厚み」とか「重さ」とか「匂い」が有りません。
果たして、本が本来持っている「厚み」「重さ」「感触」といった属性を全てすててもいいものなのでしょうか。

一枚一枚めくる指の感触、脇に抱える厚みと重さ。
ページを開いたときのインクの匂い。
どれをとっても独特な雰囲気です。って、少女っぽく考えるのは感傷的で、ITを推進する企業の経営者の言葉ではないのかも知れませんが。
しかしです。本が本来持っているこのような属性と書かれている内容は、全く無関係といえば、その通りなんですが、だからと言って、本当にそう「言い切って」いいものでしょうか。

本の物質性と読書をする行為との間には、もっともっと深遠な関係が存在しているように思えてならないのです。
次世代には、物質としての形を持たない「本」が、前提になりそれを受入れ、それに慣れ親しんで
しまうと言う事なのかもしれません。なんて、SFっぽいンだろう。
しかし、いまの今、考えるには、ちょっと恐ろしいことの様に思えます。
もちろん数十年といった単位だとは思いますが。で無いかも知れないところに摩訶不思議がある訳なんです。
物質と情報は、独立してしまい具体的に本を読むという「心」とか「体」とかの感性に対して、別な次元での知識を習得するという行為になり、両者との関連性をうまく両立しなければ為らないということになりはしませんか。
いろいろ、考えさせられてしまいます。

たとえば、物質的な「本」であれば、表紙を眺め、ページを開き、めくり、閉じる。
「開く」という言葉には「啓く」という意味が附帯します。
この「啓く」は当然のことながら「啓示」に通じ、この言葉の持つ意味を探れば、宗教的な起源にたどり着く事は明白です。

ひとつ印象的なお話が有ります。
それはある「学ぶ」という物理的な光景です。
ヘブライ人(すでに死語に近い)の子供達が、ヘブライ語のアルファベットを習う最初の日に、教師は子供たちにそれぞれ石版に最初の文字を「蜜」で書かせ、それを舐めさせる儀式があるそうです。子供たちは、文字を最初に学ぶ瞬間に、知識は「甘美」なものであることを感得するちがい有りません。素晴らしい儀式と思いますが、もうこの儀式は古典的な儀式しかもしれませんね。

この時の「文字」の持つ力は、当然のことながら活字でも不可能であるし、ましてやデジタルでは有得ません。この儀式は、文字を単なる伝達媒体とする考えからは、絶対に出でこないでしょうね。
文字が電子化される事により、本来の読書や読書をするという行為・行動が培ってきた指先や手の動作が電子化してしまう事により、本来持ち続けた「感触」といった様な属性がほとんど失われてしまったらどうなるでしょう。ヘブライ語を最初に習った子供たちの教育という中に持っていた、文字と味覚の直接的結びつきは、日本の(漢字文化圏)「書道」に合い通ずるかも知れません。
書道を習う子供たちは、決まって手やブラウスの袖やズボンを墨で必ずといっていいほど汚します。文字は「染み」を作るものである事を、手を汚しながら体で理解することの重要性は、文字の電子化の中には絶対に存在せず、それがまた、大きなうねりの波に呑まれて、本が本来持ち続けた属性をすべて淘汰していくのでしょうか。

きっと、そのこと自体、今の時点で重大事であると言う事に、私たちは、たぶんはっきりとは認識できず、何十年という歳月によりその重要度をはっきりと認識し、しかしその時にはきっと、取り返しのできない染みを発見し、その広がりに呆然とするのでしょうね。

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食と芸術

2009.07.24

雨ニモマケズ.....風ニモマケズ.....雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ............」
そして、
「.....一日ニ玄米四合ト、味噌ト少シノ野菜ヲタベ.....」と続く詩は著名な明治の大詩人・宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中の一小節です。誰でもが一度は口ずさんだ有名な詩です。賢治は他にも身近なことをテーマした詩が多く、なかでも「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」は幻想的で、叙情的で、とても美しい詩です。それに夢があります。
彼は、叙情的な詩を詠う詩人としてだけでなく..一日ニ玄米四合ト、味噌ト少シノ野菜ヲタベ..にあるように、農民の日常生活を芸術の域にまで高めようと理想に燃えていた科学者でもあったと言われています。食というあり前のことを、単に食の充足のみとする従来の考えから脱却する発想をもっていたと言われています。
「食」を理論的な視点で語ると、
『人間が社会的・歴史的存在である限りにおいて、食にまつわる儀式や習慣、食品や料理法への知的理解度、さらには食事の作法やその場での演出等々、全てをあわせ持ったものが「食」であり、食そのものが重要な文化的要素である』だそうです。まったくもって妙を得ていると思います。

しかし、過去の日本の文人や学者は、どうしても孔子の「論語」の思想が支配的だった為に、いわゆる「君子は道を謀りて食を謀らず」や孟子の「君子は厨房を遠ざく」といった類の儒教的な発想で長い間推移してきた背景があります。私も大いに孟子の教えを盲目的に守っているひとりであると自認していますが。。。。

私の知人に自分の本業のほかに「ベジタブル&フルーツマイスター」の活動を野菜ソムリエとして、アンチエイジングライフを楽しんでいる方がいます。
コンセプトは、「アンチエイジング医学に基づいたものでありながら、人間の自然治癒力、免疫力、潜在能力を引きだすこと。」だそうです。野菜と果物に含まれる抗酸化物質による酸化防止等によって、驚くほどアンチエイジングになり、生活空間を変えられるそうです。よ。

食とは、全てひとの口に入るもの。
その影響は10年後や20年後に現れてくるものだと思っています。とても重要な生活そのものですね。
ところで、
日本の芸術や芸能のルーツを辿れば、やはり中国から渡来したと誰でも想像し、知っていることですが、日本の芸術や芸能のほとんどは中国のいわゆる唐様の芸術や芸能の輸入です。しかし、一旦輸入されると、国内に定着しはじめ、その後「その風土や習慣にとけ込んでしまう」ところが日本的でとても面白いですね。また、それ以前に渡来して定着したものにも、新たに新規の文化が混入し、重なり、より和洋化された文化が醸成されるという訳です。そして何年も重ねて、混ざって、独自化したのですね。
日本人の受け入れ安さと工夫は素晴らしいものがあります。時間が経つにつれて日本固有の文化に成長するのですから。

芸術や芸能」はそれぞれの発展過程で、修行や鍛錬が厳しく行われ、競演や競技に発展し、理論武装され、その道の極意が発見されるまでに至ります。
日本の文化は多岐にわたりますが、代表的な芸術・芸能は六道と言われいます。
書道、花道、連歌道、能楽道、花道、茶道です。

しかし、前述の「料理」または「料理法」に関する芸術性や長い伝統で育成された文化は、なぜかこの六道に列挙されていないのです。それは、儒教のせいでしょうか。それとも、元々食という文化は理論や極意を必要としない領域なのでしょうか?

現代まで、料理または料理法も当然ながら長い年月を経て熟成し、芸能といわれる域に達していると感じますが、さて「」に数えられないその理由はあるのでしょうか?

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おひとり様一回限り

2009.07.20

おひとり様一回限り」とは、映画館や音楽会の入場券の裏面に、小さく印刷れているその券の使用目的です。
現在では、インターネットやチケット"ぴや"やコンビニで受け取ってしまう味気ない簡易チケットにはありませんが、以前の入場券には必ず印刷されてた言葉です。

この言葉に私たちはあまり意味を感じられず、当然ながら意識もしません。
しかし、人生のあらゆる出来ごとはこれと同じではないでしょうか?
人々は"死の一回限り"にのみ、真実を見て、生における「おひとり様一回限り」を演ずることになります。

あるテレビ局の知人に誘われ京都で集った、友人の会に参加し、食事をしながら業界を隔てた多くの知遇を得ました。交友関係の幅広い知人で、この様な会をしょっちゅう集めて、ありがたくも声を掛けてくれるのです。
その京都ですが、一口で言い表せない特別な魅力を持っています。例えば、金閣寺、銀閣寺、清水寺、龍安寺等の寺院と庭園、その他にはおいしい京料理のお店等々好きな場所や好きなお店を挙げたらきりがあません。私は、この様な場所は他に知りません。

幼名を春王といった足利義満(あしかが・よしみつ)は室町幕府の第3代将軍で、清和源氏の一家系で、あの有名な鎮守府将軍・八幡太郎源義家(はちまんたろうよしいえ)の子を祖とする足利氏の嫡流です。彼は数え10歳で3代将軍に就任しましたが、祖父尊氏(たかうじ)も成し遂げられなかった約60年続いた懸案事項の南朝のM&Aにもその手腕を発揮し、難事案件を難なくまとめ上げます。
また、晩年には西園寺家から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け(または無理に寄進させてた)、金閣(舎利殿・後の金閣寺)を中心とする「北山第」(きたやまてい)を造営したことは周知の事実です。日本人でほぼ金閣寺を訪れていない人はいないくらい、修学旅行等の定番観光コースです。

今から七百年も前に、ここから豪華絢爛の北山文化が生まれいます。
さらに、もうひとつ、義満は重要な古典文化の興隆に深く深く携わっています。
それは「お能」です。能は義満抜きでは語れないほど深く彼自身の内面的な領域まで関わっています。
能の発祥はここでは省きますが、
大衆の支持によって芸術性を高揚した観阿弥の芸は、少年時代の世阿弥の可能性とともに、時の将軍・足利義満の目にとまります。
この出会いは、二者にとって非常に運命的であり、恣意的でもあります。
また、この出会いこそ、両者の目的が合致した、観阿弥・世阿弥親子にとっても将軍義満にとっても非常に重要なことでした。
義満の将軍職在職期間は26年間と比較的長い期間ですが、彼はその後院政を統べるので、その期間をいれるとほぼ40年間担当しました。これは当時もその後にもかなり突出した長期政権となりました。だからこそ、文化の醸成に金も時間も人も、長期に渡って必要な手を打てますし、今に残る芸能の基盤がこの当時うまれ育ったことに納得できます。
ここにひとつの疑問が沸く筈です。
彼は、何故観阿弥・世阿弥親子の田楽から脱皮しようしたこの当時の能に興味をもって、国家的に庇護を考えたのでしょうか?という疑問です。
能の歴史に初心者である私に解るはずなく、なので見識者の言葉を借りることにします。
すると、こうです。
この新しい芸能は、義満にとって既成の貴族文化に一矢を報いる絶好の自己証明の機会であったろう」とし、「それは教えられた貴族文化の中には絶対に存在せず、しかしたいていの貴族芸術よりもさらに貴族的となりうる可能性を秘めた芸能であった」と権力者である義満側からみたこの能という新しい芸能を自己の成長に重ねようとした彼の意図を鋭く抉っています。
この二つの言葉を繰り返せば、繰り返すほどに、しっくりと当時の義満の自信と気合いが充実している権力者としての気迫が伝わるようです。そうは思いませんか?

この事によって、この新しい能は、今日に生きる原点となり、世阿弥は、義満の庇護の下にこの新しい芸術に専念します。そして、世阿弥の血の滲むような努力は、「時に応じ所よりて、愚かなる眼にもげにもと思ふやう」に大衆の支持にを引きつけながら、しかも貴族の高い鑑賞眼にもかなう高度な芸の工夫に費やされることになります。

義満は、応永15年(1408年)3月、北山第に後小松天皇を招いて二十日にあまる歓待にあけくれます。そして、4月27日には、天皇臨席のもとに御所で次男・義嗣(よしつぐ)の元服式を行います。巨大な権力者には良くあることですが、彼も将軍職はすでに長男の義持(よしもち)に譲っていましたが、腹違いの次男義嗣を偏愛したと伝えられています。結局この偏愛が理由で義嗣は兄に殺されることになります。
そして、義満は元服式の二日後に発病します。
発病の原因は、度重なる行事によるストレスや義満が皇位簒奪(こういさんだつ)する意図を持ってとして暗殺ではという憶測もありますが、5月6日に気力精力とも常人を超えた最高権力者はあっけなく亡くなります。

時の最高権力者による観阿弥・世阿弥親子の大パトロンは、能を愛し、能を育成し、自らも芸能に深く関与し、700年後も延々と生き続ける芸能を世に送り出し、50歳の生涯を閉じます。

時の最高権力者という庇護者を失った世阿弥は、この後長い不遇の時代を送りますが、義満よりも35年も長生きし、80歳の天寿を全うします。

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プレステージ(続き)

2009.07.17

前回からの続き

ロンドン博の三年前、1848年にカリフォルニアで金が発見され、これを「ゴールド・ラッシュ」と呼んだことを中学の社会科で習ったと思います。歴史は時には面白い組み合わせをしますね。ゴールド・ラッシュの続く中、ロンドン博もアメリカ号の建造も英国でのレースも、ペリー提督による江戸幕府派遣もなされたという訳です。カリフォルニア、ニューヨーク、英国、日本と場所こそ異なりますが、ほぼ同時進行で歴史は時を刻んでいきます。
ゴールド・ラッシュ以前は、一寒村であったカリフォルニアに、東海岸から数十万人も金を目当てに人々が集まったといわれています。詳しい統計はありませんが、その半数は幌馬車を仕立てて砂漠を横断し、一路西海岸を目指しました。ロッキー山脈を越えるアドベンチャー的な危険を伴った旅であったと思います。しかし、残りの半数は海路を選んだと言われています。その証も確かにあります。もしかしたら、陸路よりもっとリスクが高いのでは?! いや、むしろ安全だったのかも。
金鉱発見前の1848年4月以前は一年間にサンフランシスコ湾に入港した帆船はわずか四隻でした。それがその後一年で、なんと775 隻という途方もない激増ぶりです。航路はもちろんニューヨークを出帆して、南アメリカの最南端のケープ岬回りでカリフォルニアに到達するのですが、当時の帆船のスピードでは早くて150日、遅くて240日でした。需要と供給はまさに現在のエアーラインと同じです。多くの人を運ぶには、多くの機材の確保と効率的なローテーションが必要となり、必然的に足の速い船が欲しくなり「快速帆船の建造」となります。これは時代の要求です。ここに登場したのが、すなわちサンフランシスコへの急行便として建造されたクリッパー・シップである「カリフォルニア・クリッパー」です。
船を作るときにもっとも重要なことは、天候の要素を除くと、斬新な設計の精度とその船をドライブする船員の技術力です。このような時に時代には必ず要求された人が現れるものです。
それが、「ドナルド・マッケイ」という帆船設計者です。
彼がカリフォルニア・クリッパーとして最初に設計した「スタグハウンド」という帆船は、1851年の処女航海で110日間の区間最高記録を出しました。ざっくと50日間の短縮です。そして、この船の実績を踏まえてより斬新な設計をした「フライング・クラウド」は同じ年になんと、89日間21時間という前人未踏な区間記録を作ります。時間当たりの平均速力は18.5ノットになります。これはとんでもない記録です。この当時のホーン岬周りは航路的にかなり精度が高まったとはいえ、まだまだ予断を許さない未知のエリアが多かったと思います。昔のシーマンは素晴らしく強靭な精神の持ち主が多かったんだと、いまさらながら感じるところです。西風の多いホーン岬沖は東に向かうときにはまだ、比較的進めても、反対に西に向かうときは帆船にとって非常に厄介なエリアであることは間違いありません。行きはよいよい、帰りは怖いというやつです。いや、本当に間違いなく恐ろしいエリアなのです。

実は、ニューヨークで建造された「アメリカ号」にはこの様な環境が徐々に整えられていました。
そこで、「パイロット・スクーナー」について話したいと思います。
パイロット・スクーナーは船の形式ではありません。使い方または、用途に名づけられたものなのです。一般に港には港の特性があります。風の吹き方、島、潮流、浅瀬、水路、泊地、錨地等、その港特有の性質があるために、船が港外にやってくると、その港に精通した水先案内人(パイロット)を乗船させ、そのパイロットの誘導によって入港することが常識となっています。エンジンを持たない当時の船ではパイロットは不可欠なものです。この同時のパイロットは自由競争制でしたので、港外に入港船が見えるや否や小型艇に飛び乗って、一番先にお客さんのところにセールスに行かねばなりません。よって、高速艇が必要となりました。これをパイロット・スクーナーと呼び、足の速いスクーナーは当時は花形であり、きっと評判が評判を呼んだのではと思います。

NYCの五人のオーナー達が「アメリカのスクーナーを代表するヨット」として建造するに当たって、新興国のアメリカらしく、ニューヨーク港で俊足のスクーナー設計者であるジョージ・スティアーズという弱冠31歳の青年デザイナーを選んだことも納得がいきます。彼は確かに青年でしたが、すでにそれだけの重責を負託されるにふさわしい実績の持ち主でした。ジョージは造船一家の父親も元で、十代から設計を手掛け、すでに多くのスクーナーを竣工させていました。そして、彼が21歳の時に設計した「ウイリアム・G・ハグスタッフ号」という船が素晴らしい快速船であったと記録にあり、長く歴史に刻まれる事になるのです。この若手の起用は時代や実績だけでなく、たぶんにスティーブンス会長のトップが持つ感性や積極性や賭けがあったのではないでしょうか。

建造についてもいくつかの強い意志が込められています。
その根底には、「米国の建造技術を見せる」に集約されています。
ひとつは、自力で大西洋を小型船スクーナーで横断できる仕様を設計及び造船所に申し入れたこと。想定外のこの事は、設計者にとっても造船技術者にとっても、操船するクルーにとってもとても大きな負担となりました。しかし、その負担は船の高速性能の他に、堅牢な船体構造となって具現化されました。そして、クルーにしても、当時からヨットレースはプロの仕事なっていましたので、熟練者の中でも超一級のスキッパーが選定されました。さらに、建造費は三万ドルと当時としては飛びぬけて高価な船になったこと。これも、英国においても恥ずかしくない艤装を求めた結果となり、最高級のアメリカ・クルミ材を船体にふんだんに用い、さらに船室は彫刻を施したマホガニー材で内装しました。

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百姓は国の宝である。

2009.06.26

麻生さん、毎日お疲れ様です。

麻生内閣の最新(06/22)支持率17.5%(5月より9.9ポイント急減)だそうです。その中で、彼の「指導力」への評価も同時に急落(15.8%→10.9%)したようですね。これは、きっと、日本郵政の社長問題で、鳩山前総務相を事実上更迭した首相の判断が大きく影響していますね。また、政党支持率でも、自民党は20.1%で前回より7.4ポイント急落していました。政党支持率はとても重要です。一国の首相が交代する時に、毎回感じる末期症状の感がします。消費税の増率問題も尾を引いているでしょうね。しかし、東京都議選など地方選の結果を責任問題に「結びつくべきと思う」人は、5割を上回ったているにも関わらず、麻生首相のもと衆院選を「行うべき」とする人は、依然7割を超えているという面白い結果もあります。
一国の首相はなにをやっても大変です。
首相の一挙一動、挙措進退、その全てが、数時間後にはニュースとなり、国民総てが知るところとなります。
しかし、「支持率」等は些事であり、本質は「官僚と政治」のあるべき姿を問われてるのではないでしょうか?

百姓は国の宝である。」という言葉があります。
一般的な意味においてあらゆる時代に通ずる真理です。
しかし、これからお話しする徳川時代においては特別な意味合いをもった言葉となります。
現代に置き換えて言うのであれば、お百姓さんのみならず、全国民をさし、"民は国の宝である"ということでしょうか。

さて、徳川幕府時代に戻って。
"百姓は国の宝である。"なので、百姓の人格を尊重しなければならない。という理論の発展に向かう思想ではありませんでした。その所以は、この国を支配していく上で、仕組み上支配階級の経済的な勢力が彼らの納める年貢という基礎の上に築かれていた社会であったからです。その階級はもちろん武士軍団の階級です。
「士農工商」の最下位の町人から一定の租税を取り立てることを思いつかなかったほど、いや、思いついてもそんなことをしたら恥辱とするほど、「商」を軽んじてたこれらの武家軍団は、「年貢」のみを重大視していたのです。そのためには、百姓は勤勉ありで、質素従順で無知でいなくてはなりません。そして、せっせとお米を作って、自分たちは粟を食べて、お米はお上に納める。
これが徳川三百年の一貫した方針といえます。
中学の社会科で習う「士農工商」の最下位に位置させた「町人の商い」は幕府設立時点から制度の構造基盤に危険を孕んだ発想であるにも関わらず、ほぼ300年間手を打っていないところに、綻びの糸が見え隠れしていたんだと感じます。

最近とても興味深い本に出会いました。
江戸の情報屋」の本です。この情報は公開前提の日記形式ですが、公式情報ですので作者の主観を出来る限り排除し、毎日ブログの様に事実を克明に書き続けました。このブログを「藤岡屋日記」と呼んでいます。幕末に今の群馬県藤岡市から江戸に上京した須藤由蔵という人が外神田の御成道(将軍の上野東照宮への参詣路)で古本屋を営みながら、65年間にわたり幕府の政策、人事、から新聞の三面記事まで幅広く記録しました。単にブログとしただけでなく、その情報にアドバンテージがあったので流通販売されていたようです。付加価値のある情報は昔も今も欲しいものです。今と全く同じです。
日本人で初めてブログを認識し、そして日本人で初めて書き始め、且つ爆発的に立ち上がると確信していたのは、たぶんジョーイ伊藤譲一氏)だと思います。彼の先見性は圧倒的です。その彼のブログは、書き始めてすでに5-6年と思いますが、ジョーイがあと60年間もブログを書けるでしょうか。そう思うと、由蔵さんはすごいと思う。

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レッドクリフ

2009.06.15

先週の11日に内閣府が2009年1~3月期のGDPの年率換算を「マイナス14.2%」とTVや新聞等に発表しました。少し前の5月20日の速報時の値は「マイナ15.2%」としていましたので、「1.0ポイントの上方修正」を多少控えめでしたが「生産や輸出などの経済指標は上昇に転じており心強い」とTVインタビューで与謝野馨財務・金融・経済財政担当相が自分の事のように喜んでいたのが印象的でした。しかし、大方の見方は前期第3四半期からの2期連続の戦後最悪のマイナス成長を体験していれば、今期最初の第一四半期の企業業績の落ち込みは避けられないという予測です。第4四半期の企業業績の落ち込みは生半可ではありませんでした。なので、その下げ止まりには在庫調整くらいではブレーキ・パワーにならないのであろうという憶測です。聞くところによると今期、大企業の中には販管費の圧縮は今までに無く厳格に行ったが、肝心の年間売上予算は「仮」で走っているという。この過去に例のない暫定的な処置をしなければならないところに事の深刻さが窺い知れます。


最近多くの友人・知人から「レッドクリフPART2を見ました!」という批評を交えて聞くことがあります。その方々は当然「PART1」も見てらっしゃるでしょうね。一つの映画タイトルで二度収益を上げるのですからヒットすれば製作会社としては効果的な方法といえます。レッドクリフの「赤壁」は三国志の物語のもっともエキサイティングな場面の一つです。この史実の子孫である中国人のみならず日本人も韓国人も欧米人も三国志の愛好家たちは多く存在します。まさに世界中の人が知識として持っている「歴史」といえます。
私も中学二年の夏に吉川英治の三国志を読みました。本を読む楽しさを私に教え込んだのは小学校の五年と六年を担当した恩師です。そのせいか中学生の三年間で500冊以上は読んだと思います。その中でも三国志は難解で読みながらメモととった記憶があります。難解であった分だけ長く記憶に残ったことは確かです。後年、社会人になって中堅リーダーとして自分のチームを統べる上で再度、三国志に出合うことになります。
勿論、その時は中学生時代とは比較にならないほど多くの書籍で時代背景も理解しており、且つ二度目でしたのでスムーズに読むことが出来ました。読後、三国志の形成された時代やその後の時代の変遷等も広範囲に読破した記憶があります。

私が読んだ三国志は晋代に書かれた正史「三国志」を基本にしたものでなく、千年後の14世紀に書かれた歴史小説・羅貫中〔ら・かんちゅう〕「三国志演義」を基本ベースとした「吉川英治・三国志」です。正史・陳寿〔ちん・じゅ〕「三国志」は当然ながら「晋王朝」のクーデターでの政権交代とはいえ先代「魏王朝」から政権を引き継いでいますので、少なくとも形の上では三国のうち「魏」だけを正当な王朝としなければ辻褄が合いません。なので「魏」のみ「皇帝」で他の二国は「」としています。勿論正史「三国志」は読んだことはありませんが、その格調高い漢文はどの書籍にも賛美されています。但し大胆に省略している難点があるそうです。その後南北朝時代にはいって宋の裴松之〔はい・しょうし〕という人が大幅に注釈の手を入れたものがすべての三国志の巻に「注」として存在しています。原書の正史「三国志」の和訳本があるそうですが、とても一般人には難解できわめて膨大な量だそうです。

ともあれ、魏の曹操は悪玉、蜀の劉備は善玉、劉備の関羽、張飛との強い結びつき、諸葛孔明の智謀などワクワクする物語の展開です。歴史小説とはいえその後の時代に与えた影響は計り知れないくらい大きいと言えます。「吉川英治・三国志」の冒頭に出てくる「桃園の義」などは正史三国志に無いフィクションと分かっていながら心が躍るのは読んだ人の共通意識だと感じられずにはいられません。

当社の設立は2000年の1月26日ですが、その数ヶ月前の1999年の秋に設立に関してまさに「桃園の義」を行いました。当時の発起人三人で都内の中華レストランで乾杯をし、この乾杯が「桃園の義」であることを語り合ったことを今でも忘れません。10年の間に時代が大きく変わり、当時のメンバーはひとり抜けて二人になりましたが、残った二人は当時のままの気持ちで交流をしています。

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歴史の功罪

2008.01.13

歴史は時々皮肉な現象を生むことがあります。
ただし、現代の我々がその功罪を論ずることは簡単でなく、その評価は難しいことも認識しています。

エンリケ航海王子は1434年ボジャドール岬の迂回に成功したにも関わらず、1440年までに新たな航海は三回しか行われませんでした。
しかし、1441年に国内事情が一段落すると、再びエンリケは積極的に西アフリカ探検とマデイラ諸島の開発に乗り出します。
この状況は彼の兄のペドロが1439年に摂生に就任したことと同期しています。摂生であるペドロも南下政策を推進したといえます。多分、西アフリカ沿岸の探検航海と商業開発を最優先事項とした政策があったのでしょう。
再開の西アフリカの拠点は「アルガルヴェの港町ラゴス」です。
ポルトガルもヴェネツィア共和国も領事館をラゴスに置いたようです。それだけ初期の西アフリカ開発において重要な港だったといえます。エンリケ航海王子も1434年にしばらく滞在しています。この頃エンリケは国王よりラスゴの譲渡を受けていたようです。
探検航海の当初の主目的は「皮革と油脂の原料となるアザラシ」の捕獲です。そして、彼らは初めて「アゼゲ族のモーロ人の男女二人」を捕らえます。
続いてリオ・ロード付近で10名を捕獲します。

モーロ人を奴隷として捕獲するという野蛮な非道は、改宗(イスラム教徒から)を施すという聖なる行為に転換してしてしまいます。そのことの不自然さを、当時の人々は気が付かない思考形態を改めて感じることが出来ます。

ポルトガル人は奴隷確保に熱中します。
1444年にエンリケの家臣でラゴスの徴税官である「ランサローテ」はエンリケの許可を得て、民間人の船主と貴族数名と一航海毎に「共同ファンド(株式会社的な)」を作り、純粋に商業目的で探検航海を行っています。
六隻のカラヴェラ船団を仕立てて「235人の奴隷」を捕獲してラゴスに帰港します。
奴隷一人の価格は4,000レアルと資料に残っていますので235人の総売上は94万レアルとなります。
ちなみに当時リスボンで小麦13.8リットル(単位はアルケイレ)が9レアルと記録がありますから、「94万レアルは小麦1,441トン」ということになりますね。膨大な量です。
エンリケはこれより少し前にボジャドール岬以南の航海独占権(当然商業行為も含む)を譲渡されていますので、五分の一権利を行使しています。
こののち、徐々に民間人の共同ファンドが実施されていきます。これは取りもなおさず、事業として成り立ってる証明となります。もちろん、奴隷ビジネスです。

日本人や韓国人が対象となってしまった北朝鮮による「拉致」とは若干の違いはあるものの、本質的には「さらって」くるので同じでしょう。
この後は歴史が証明してくれています。
これより、ヨーロッパ人はこぞってアフリカに出向き奴隷として現地人を捕獲し、本国へ持ち帰ります。

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発見への投資

2007.12.20

1445年に「アルヴァロ・アェルナンデス」は念願のヴェルデ岬を越え、緑の椰子の樹木が生い茂るギニアに至りました。

ヴェルデ岬(北緯14°)」と言うのは、
アフリカ大陸最西端ある、現在はセネガル領内にあるの岬のことです。首都ダカールの市街地からすぐ西あり、目の前は大西洋です。沖にはベルデ岬諸島が点在する美しい岬です。アルヴァロ・フェルナンデスはエンリケ航海王子の命で、叔父の探検家ジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコに与えられたカラヴェラ船で探検航海し、ヴェルデ岬をまわって、 ダカールとガンビア河にはさまれたマスト岬に到達しています。そこはヴェルデ岬の約800km南の「シエラ・レオネ」(現在のシエラレオネ共和国)と呼ばれている場所です。
1447年、彼はヨーロッパ人として始めてシエラ・レオネに上陸しています。ちなみに、現在のシエラレオネ共和国は、長い内戦により、世界で有数の平均寿命が短い国のひとつとなっています。つい50年前に英国より独立しました。

エンリケ航海王子の生まれは1394年ですので、ヴェルデ岬越えは51歳の時ということになります。彼に残された時間はそう多くはありません。
ここまで来るまでにとても長った。
彼の父王と一緒に三年もかかった「セウタの攻略」が1415年の出来事です。
この攻略後の秋から継続的に探検事業に投資します。
実は、
ヴェルデ岬の少し手前にもう一つ越えなければならないの岬があります。
それが、「ボジャドール岬(北緯27°)」です。マディラ諸島やカナリア諸島の発見は探検航海の必然性で得た発見ですが、このボジャドール岬越えは「命を掛けた強い意思」がなければ、超えることは出ませんでした。
また、
カナリア諸島は古代ローマ時代よりアフリカに西海岸から100㌔沖合いに島の存在を当時の航海者たちは既知の世界としていたようです。
しかしそれ以南の海域は未知の難所して恐れられボジャドール岬の手前のナン岬でさえ、「この岬を越えたものは二度と帰ることが出来ない」と言われていました。
エンリケは1422年から12年間、毎年巨額の資金を投じて探検航海の船団を送り出しましたが、あえて「ボジャドール岬を越えようとする航海者」は一人もいませんでした。

多分、エンリケは痺れを切らしたのでしょう。
直属の従士である「ジル・エアネス」に世の迷信に惑わされことなく岬を越えよと厳命します。主従関係にあるエアネスは成功せずに二度と主君の前に現れまいと決心し、そして彼は見事1434年に「ボジャドール岬」を越えることに成功します。

カンティン岬→ナン岬→ジュビー岬と制覇し、そして、ボジャドール岬まで来ました。
セウタの攻略から数えると既に19年の歳月が過ぎています。
当時の航海者にとって、
アフリカ大陸の最も西端にあたる「ヴェルデ岬」は何処まで行っても終わりの無い気の遠くなるような、恐ろしい岬ということになります。
冒頭の「アルヴァロ・フェルナンデス」の航海者としての意思の強さを理解できると思います。この発見航海はインド航路開発の中で特記すべき「偉業」といえます。

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船出にいい風

2006.11.22

船出にいい風が。。

長く風待ちをしておりましたが、やっといい風が吹いて来ましたので「船出」を決意しました。

奇しくも今日、11月22日Cutty Sarkの進水式を執り行った日です。ざっと140年前の1869年の月曜日の午後の出来事でした。その日は発注者である「ジャック・ウィリス」が待ちに待った日でした。ジャック・ウィリスは元帆船の船長であったジョン・ウィリスの次男です。当時親子で「ジョン・ウィリス父子商会」とう一隻の帆船を所有する小海運業を経営しておりました。
1,745トンという大型でも帆走性能のいい「ザ・ツイード」という船を持っていました。しかし大型船のツイードでは「お茶貿易」に投入することは無理と考えていました。そこで中国・英国間を突っ走る小型の高速船ティー・クリッパーの建造に着手したのです。
しかし彼に十分な資金をもっていませんでしたので、著名な造船所に発注することが不可能でした。
そこで無名でも斬新な設計を引き受けてくれる「ハーキュリーズ・リントン」と造船技師の「ウイリアム・スコット・モンクリーフ」を幸運にも見つけ出します。
しかし時はすでに帆船の時代では無い風潮がありました。その代表が1859年の着工から10年を費やし1869年11月17日に開通した「スエズ運河」です。既に世の中は汽船を中心とした輸送手段へ変革しようとしている矢先で、カティ・サークの進水は「時代錯誤」と陰で皮肉られる出来事でした。

〔今は英国Cutty Sark博物館として一般公開されている〕
しかし、後世の知識人から見た「Cutty Sark」は早く走る船として最も完成度の高い最終型と言われています。帆船のもっとも進化した形といわれている横帆と縦帆を組み合わせた「全装帆船〔フル・リグド・シップ〕」はヨットと比較にならないほどダイナミックで重厚で洗練されれた美しさを持っています。
全盛期のカティ・サークは平均速力で16.5ノットを保ち、ライト・アフト・ウィンドと呼ぶいわゆる真追風〔まおって・真後ろから吹く風〕では20ノットの快走を記録しています。現在のハイテクな建造技術をもってしてもこの速度は群を抜いています。

40枚を超える帆を展開して疾走する「フル・リグド・シップ」のカティ・サークを想像ください。
エンジン音や振動は全くせず、大きく風を受け、その為に10度程度傾斜します。音は風を切る音のみです。そしてバウ(船首)で白波を切り裂く「ザーッ、ザーッ」という音も幻想的な世界です。
帆船の圧倒的な優雅さと重厚さを感じる瞬間です。

偶然にもそのCutty Sarkと時期を同じくして「赤坂」の地より江戸城郭内の「九段下」に移転しました。

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感謝を知る

2006.10.19

感謝を知る」という心持ちは、
人と生まれて得ることのできる最も崇高な行為のひとつといえます。

当社では引き続きボードメンバーの話題は「企業ビジョンと浸透度」です。

前回のブログは「謙虚さ」でした。
・謙虚さは「」が強靭で無いと保てない心もちです。
・謙虚さに他人から常に「美しさ」を感じさせます。
・謙虚さには「人をひきつける」オーラを感じます。
謙虚さには堅い意思高い志自分を律する精神が必要な様です。と結びました。

感謝を知る人」は、必ずこの「謙虚さ」を兼ね備えた人となります。
謙虚さ、すなわち高いこころざしを持つ人は常に「謙虚さ」を持った心持ちであるために、何事においても「感謝の気持ち」を忘れることはありません。
・両親や家族への感謝の気持ち
・友人・知人への感謝の気持ち
・自分の活動場所を与えてくれた社会への感謝の気持ち
・仕事によって得られる給与への感謝の気持ち
・お客様への感謝の気持ち

感謝する」行為は孔子様の「仁の徳」に発展します。
「仁」は知者と解釈されるようです。「徳」は「徳を積む」に代表される様に「感謝の念」なくして「徳を積む」ことはできません。当然「徳を積む人」のみ、他の人から「感謝の念」が抑えることなく自然に発生します。謙虚さを持ちつつ、感謝する行為より、「感謝される」行為の方が一段と難しい行為でもあり、それはそのまま「謙虚さ」をより高める触媒になるのではないでしょうか?

徳を積む」という行為は必然的に「人」と「ひと」の「(きずな)」を深めていくということです。この使い古された「」という観念が目に見えない大きな財産となることは必然の原理と言えます。

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謙虚さ

2006.10.15

言葉の伝達力

最近弊社のボードメンバーの話題は「企業ビジョンと浸透度」です。
ビジョンという言葉の概念の持つ「強さとむなしさ」を議論としています。
これはボードメンバーの総意で議論が発展したとても貴重な経験でもあり、創業7年目という安定期に入ろうとする時にとても稀有な体験でも在ります。
思い立って提言してくれた役員と賛同したメンバーに感謝する気持ちで一杯です。

実社会に出で30年近くなりますが、ここ10年ほど「心に期する」言葉を自身の心構えにしています。
人類が言葉を発見(発明?)してからその進化は目覚しいものがあります。
言葉によって人に「意思」を伝達するわけですが、
今ではメールやブロク゛によって一気に数百人や数千に伝達できます。
もっと大胆にいえば、数千万、数億の人にメッセージを発する事が可能になりました。
ですが、「意思」の「受け止め方」は残念な事にファイルをコピーすると言うわけには行きません。
そこに言葉の「強さとむなしさ」を思うのです。
起業して数年間社内のメンバーに伝えたい「心に期する言葉」を贈ってきました。
最近はビジネス的な伝達やお願い等で「サボり気味」な心に冒頭の「企業ビジョン」の再確認の議論で強く目覚めさせてくれました。

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波エネルギーで6千キロの航海

2006.07.17

現代の日本社会と人間の内面に「古代人の心性」を発掘したのは柳田国男だといわれています。
「古代人の心性」とは表面的には近代的な文化を演技し内面的には封建時代の社会構造と人間関係や考え方を持ちつつ、そこに心性が生きているという事らしい。

柳田国男は日本人の好奇心について多くを語り、好奇心を学問の方法として使いこなしました。好奇心が強いために日本の近代化が早く進み、
しかし同時に上っ面でしか無いとしたら、日本人の好奇心はプラス価値とマイナス価値との両面をもたらしていると言うのが彼の理論です。

好奇心は日本人の特権でなく、人間にとって普遍的な情動です。
でも社会の歴史風土社会構造の違いによって当然ながら好奇心の発動がされる対象が違うと言っています。
それに好奇心の強弱永続性の度合いも大いなるパラメーターであるとも言っています。

日本という島国の地理的条件、
歴史的に開国・鎖国・開国・鎖国という政策の交替による強弱や永続性に与えた影響。

さて、
堀江健一が「太平洋単独航」を成し遂げたのは1962年で彼が24才の時でした。船は19フィートの「マーメイド号」。
そして彼は再び単独航路の冒険をします。それが2004年に船出した「東廻り」の単独無寄港による世界一周です。
船の名は「SUNTORY マーメイド号」でおよそ9ヶ月で帰還を果たしました。

この「東西両方向周り」で世界一周航海はもちろん日本人では初めてで、世界でも、彼を入れても2人しか存在しないそうです。

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波山と役者・榎木孝明

2006.06.13

陶芸の魅力

粘土を丹念に練り、手やヘラで形を整え、非常な高温の窯で数時間から数日間、焼く事により陶芸が完成します。いわゆる「陶磁器」の事です。祖母は「焼きもの」と呼んでいました。
毎年ゴールデンウィーク期間中に茨城県の笠間で「笠間焼き」と言う、とても庶民的でまた田舎っぽくて賑わいのある陶器市が在ります。笠間周辺で笠間焼きに生きる総勢220人の陶芸家、窯元、地元販売店が個性豊かな作品と広大な公園の中に即席のお店を作り、「手作りのお祭り」を来場者と一緒に楽しもうという魅力的な市です。
この市の名を「陶炎祭(ひまつり)」と名付けています。ここに数年前から毎年出かける事にしています。そして、毎年思わぬ拾い物をしてきます。

〔ひまつりのポスター 会場は芸術の森公園〕


〔ひまつり会場の入り口〕


〔毎年近隣の小学生が陶器でお面を作ることが恒例になっている。可愛いお面が多い〕

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初鰹

2006.05.16

江戸っ子気質!?

天明(てんめい)期は1781年から1788年までの10年に満たない期間ですが、この時期に料理の世界、特に初物に関する「江戸っ子気質」が花開いたと言われています。天明期は、安永の後で、寛政の前です。
徳川の将軍さんは、「家治さん」と「家斉さん」の時代です。
家治さんはあの「田沼意次」を側用人にした人です。8代将軍の吉宗さんに可愛がられていたようです。自分の世子が夭折したために一ツ橋家の長男を養子縁組して、「家斉さん」を次期将軍としました。

料理の世界で安永時代になると江戸府内に高級レストランが数多く出来るようになり、そこに通う粋なお金持ち達が「」とか「」といった概念が定着するようになったようです。この頃から江戸の「食通」意識に支えられてレストラン〔料理屋〕が非常な繁栄を遂げたと言われています。
そして、江戸府内の高級レストランがどんどん建ち並んでいきます。

食通意識は「遊び!?」に象徴される天明期の料理文化をより成熟させたと言われていますが、反面「遊び」である強烈な「初物」志向を生み出しました。
勿論「初物」はこの時期以前より珍重されていたここと思います。
しかし余りにも度を越したこの時期の「初物珍重」には時の農林水産省もガイドラインを取り決め制限対象を広めました。この時の幕府の担当は「幕府御膳所御台所」がガイドラインを策定し、「三奉行のうち町奉行」が中心となって統制処置をしたようです。
この範囲が凄まじいです。
統制内容は「四季初物惣目録」というカタログに載っていますが、
食類・生類・降物聳物・水辺・人事雑事・植物・神祗・天象の各部に及び、
やはり中心は食類で「極上上吉」の初鰹を筆頭に、初鮭・初酒・初蕎麦・若鮎・若餅・早松茸・早初茸・新茶・初茄子などの順に続きます。
昔から、日本人の嗜好は普遍ですね。

ここでも明らかなように「初鰹」は統制の第一等で「江戸っ子」の垂涎の的という事になります。

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新入生と初心

2006.04.27

花鏡〔かきょう〕」は世阿弥が60歳を過ぎた頃に書き留めたものと言われいます。
この頃の世阿弥は不遇でした。少年時代は将軍足利義満に見出された過度の寵愛を受けていた時と雲泥の差といえます。義満はこの美少年を溺愛しますが、彼に対する愛情は「」の保護者というよりも「愛人」に近かったかも知れません。当時に置いてはしごく当然な行為であり、この行為が廃頽したのはずっと後々の事ですから。もっとも足利家は代々日野家から正室を迎えていましたが義満も当然ながら最初は「業子」で次が姪の「康子」でした。血の濃い当時の常識的な近親結婚です。義満の政治的な勢力図よりも官能的な「」や「美少年」に意識が惹かれるのは自然な摂理といえるでしょう。30代で著名な「花伝書」を著した世阿弥ですが、60代のこの洗練された「花鏡〔かきょう〕」の中に今日のテーマの主題があります。

初心について」です。
彼は「四十以降から時々自得して、心に浮んだことを書きとめた」と断りがある様に長い期間にわたって執筆されたことが伺われます。

1500㌘にも満たない未熟児はファミリー全員の心配を他所に一ヶ月以上の集中治療室からようやく生還し、一般病棟に移れたようです。その後、少しずつ成長し始めました。ちょっぴり成長した赤ちゃんを僕が抱いたのは22年前の真夏でした。この未熟児の父は僕の長兄です。
「すくすくと真っ直ぐに、そして太陽の様に明るく」と願いを込めて兄はその通りの名前を命名しました。その名のとおり彼女は真っ直ぐに成長しこの春、著名大学を卒業し、子供の頃より天職と感じていた職業に就きました。
そして入社したその日に「初心」の気持ちを込めたメールを叔父である僕に送ってくれました。その長いメールを読みながら軽々と両手の中に納まってしまう軽い赤ちゃんを記憶が呼び戻されました。この可愛い姪の成長を楽しみにしています。

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女系天皇是か非か!

2006.03.26

小泉総理と後水尾天皇

女系天皇是か非か!
昨年から皇位継承問題がかしましい。

江戸時代にも徳川幕府と朝廷との関係にあって政治的な決着により二人の悲劇的な女性の存在がありました。400年程度前の出来ですが現代に通ずるような気がします。徳仁親王妃雅子(なるひとしんのうひまさこ)様の置かれている立場も「東福門院和子や和宮親子内親王」と似た様な境遇と思えてなりません。
東福門院和子は「和子」と書いて「まさこ」と呼びます。奇しくも雅子妃と同じ呼び名ですね。東福門院(とうふくもんいん)は隠居してからの院号です。江戸幕府第二代将軍の徳川秀忠の娘で子供の頃は「松子」と言いました。
そしてもう一人は、和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)は仁孝天皇の第八皇女で幕末著名な孝明天皇は異母兄になります。明治天皇は孝明天皇の次男になります。

今上の東宮さん以降40年間も皇室には男の子が生まれていません。このままだと皇統の継承が危ぶまれるという危機感からか皇室典範の改正の動きが活発化したと認識しています。
そして雅子妃へのパッシングも同時に激しくなったような気がします。
女系天皇とは、母のみが皇統に属する天皇のことを言うそうです。間違えやすいのは、その天皇自身が男か女かという性別とは関係がないということです。どうも言葉のイメージからは単に女子の天皇を指す女性天皇と混同されそうですが、天皇家の血筋についての「女系天皇」と、天皇個人の性別についての「女性天皇」とはまったく違うものなのです。この女系天皇制度を現代に当てはめれば東宮さんと雅子妃のお子様である愛子様が東宮さんの後をついで皇位を継ぎ、そのお子様が男女区別無く第一子が皇位を継ぐということです。
秋篠宮さんに男子が生まれても女系天皇制度になれば東宮さんの血筋が耐えない限り弟君や親族が皇位を継ぐ順番は回ってこないという事になります。

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ホルムズ海峡封鎖!!

2006.03.25

ホルムズ海峡封鎖を警告」は両刃の剣

先ごろニュースによるとイランのプルモハンマディ内相は国連安全保障理事会が核問題の本格協議入りに向けた動きを強めていることについて「われわれは世界最大で最も敏感なエネルギー輸送の航路を抱えている」と述べそうです。これは「ホルムズ海峡を封鎖」の恫喝とも云える報復行動です。中東の石油輸出の要所であるホルムズ海峡の封鎖は過去の歴史から見てとても重要且つ国際的な波紋を呼ぶ「警告」として多くの西側諸国を刺激することでしょう。

塩野七生女史の著作に「コンスタンティノープルの陥落」という小説があります。15世紀後半に東ローマ帝国の首都として千年あまりも栄えた独自文化を誇った都市がオスマン・トルコ皇帝マホメッド二世によって崩壊するまでを描いた小説ですがキリスト教世界とイスラム世界との覇権闘争の一面を盛り込んだ読み応えあるものでした。当時のオスマン・トルコ皇帝マホメッド二世もコンスタンティノープルを落とす時に「金角湾とボスポラス海峡」を押さえます。コンスタンティノープルは現代のイスタンブールですが、ヨーロッパとアジアの接点であるこの都市は、「金角湾とボスポラス海峡」が要です。イランの「ホルムズ海峡」と同じ意味を持つものです。
アデン(Aden)という比較的大きな港町があります。
現在はイエメンの港湾都市ですが少し前は「旧南イエメン」の首都でした。古くから海運の要衝です。オスマン帝国時代から注力され、その後エジプトの支配をへて現在の港湾の規模に開発されたのはイギリス統治下においてです。このアデンに一度バンカーリング〔燃料補給〕のために寄港した事があります。だだっ広い港内に長いバース〔岸壁〕が記憶にあります。港内は整備されておりバラスト調整しなくても水深は十分でした。

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単騎千里を走る

2006.02.20

日中合作映画「単騎、千里を走る」のプロモーションを見ました。

すでに上映も開始しいています。この映画は是非見たい作品の一つです。
東宝の公式サイトでこの映画の事を簡潔にしかも的確に説明しているので、下記を引用します。
千里走単騎」―息子への想いを胸に、独り、千里を行く。
『「千里走単騎」は、日本でも馴染み深い「三国志」に由来する、中国の京劇の演目である。後の蜀帝・劉備の義弟・関羽が、劉備の妻子と共に宿敵・曹操の手に落ちるが、劉備への義理と誠を貫き通し、最後はただ独りで劉備の妻子を伴い曹操の下を脱出し、劉備のもとへ帰還するという三国志の中でも最も感動的なエピソードの一つである。今もなお関羽は、中国民衆の中でも人気の高い人物で、商いの神様としてあがめられている地方もある。映画は、この舞踊「千里走単騎」を巡って展開していく。
物語は、現代の中国と日本が舞台となる。主人公・高田(高倉健)は、余命いくばくもない民俗学者の息子の代わりに、京劇「千里走単騎」を撮影しに、中国の奥地・麗江市を訪れる。この旅は、高田にとって、永年の確執によって生じた親子の、埋めることの出来ない心の溝を埋めるための旅でもあった。しかし、高田は、経済発展とは無縁の、雅やかな美しい麗江の街並みや大自然、素朴で誠実な住人たちとの出会いや人々の心情に触れることによって、自分の行き場のない想いが少しづつ癒されていくのに気づきはじめるのであった……。』

「単騎、千里を走る」の中国語タイトルは「千里走単騎」です。読み方は解りません。
この諺を知ったのは中学三年の頃です。図書館の書士のサジェスチョンでした。勿論吉川栄治著「新三国志」によってです。昭和10年代に数年取り組んだ力作で読破に三週間かかりました。この「新三国志」か「新平家物語」か昔の事で失念してしまいましたが、たしか読んだハードカバーの本の最初に吉川栄治と彼のお嬢さんが写っていました。そのお嬢さんはオカッパ頭でスカート穿いた小学生の様でした。写真はというと、うず高く積み上げた原稿用紙と彼女の背の高さが同じだったんです。相当記憶は曖昧ですが、驚きとともに記憶しています。
その吉川栄治の三国志にはこのシーンを「関羽千里行〔かうん・せんりこう〕」とタイトルを付けています。同じ意味ですが、少々ニュアンスが違いますね。そして、関羽の千里行は前後の話が無くては全く面白くもありませんし、三国志の中では「単騎、千里を走る」はその助走部分でしかありません。

関羽雲長〔かうんうんちょう〕は横浜中華街の関帝廟にも祭られている程中国で人気の高い人物です。三国志のスタートは「桃園の誓い」からです。劉備を長兄、関羽を次兄、張飛を末弟とした義兄弟と主従の杯を交わしたときから始まります。
三国志は魏〔ぎ〕の国を建国した曹操〔そうそう〕、呉〔ご〕の国を建国した孫権〔そんけん〕、そして物語の中心人物、蜀〔しょく〕の国を建国した劉備玄徳〔りゅうびげんとく〕となります。

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春節にちなんで

2006.01.31

中国の知人から春節のメッセージを頂きました。

中国人にとってこの時期、一年で一番の祝日とも言える伝統的な日です。
旧暦でお正月を祝う「春節」はともとも日本にもありましたが、今ではすっかり影を潜めて西暦のお正月に変わってしまいました。中国の人はこの行事を頑なに守り続けています。伝統を簡単に過去のものとしてしまう日本人と根本的に異なった文化を持っているせいでしょうか。
中国の春節は中国人が世界中には羽ばたいたせいか広く知られています。この旧暦のお正月春節は、中国だけでなく、韓国とベトナムを含めた東南アジアでも重要な祝日となっています。

とは言え同じ東洋でそれもお隣の出来事です。さらに日本の文化はその起源を大陸から受け継いでいます。確かにいくつかの大陸文化の変遷として「青は藍より出でて藍より青し」の如く日本人の気質と融合して花開いた文化もあります。そう言えばこり「青は藍より、、、」も中国の代表的なことわざですね。

この春節のメッセージをくれた若者も大陸文化をしっかりと受け継いだITのトップランナーです。
彼には恩師がいらっしゃいますが、彼を指して「出藍〔しゅつらん〕」といえるでしょう。

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イサム・ノグチ と ドウス昌代

2006.01.09

今年の「お正月休み」は例年より少し日数が少ない上、公私の行事で個人的な自由時間を取れていませんでしたが唯一素晴らしい「二冊の書籍」に出会いました。

一冊は、
さゆり〈上・下〉です。
アーサー ゴールデン (著), Arthur Golden (原著), 小川 高義 (翻訳),文春文庫
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もう一冊は、
イサム・ノグチ〈上・下〉―宿命の越境者-
ドウス 昌代 (著),講談社文庫
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この二冊を選んだ理由はありますが、たまたまこの二冊は時代がオーバーラップしていました。お正月の三ヶ日と今週で六冊分の分量は決して多くはありませんが「読みたくて仕方が無いくらいの面白い本」でしたが、纏まった時間がとれずそれが結構ストレスに感じたほどです。

最初にドウス昌代 著「イサム・ノグチ」から始めようと思います。

美術に造詣の深い知人がいます。多くの美術展覧会や美術館廻りに出かけて行かれるようです。時々案内を頂きお誘いを受けます。
レオナルド・ダビンチレスター手稿も知人からのお誘いがキッカケとなり出かける事にしました。そういえば古の俊才「井真成(せいしんせい)」も知人からのお知らせでした。
そして今回は「イサム・ノグチ展」のお誘いでした。この展覧会は世界的に著名な「イサム・ノグチ」の彫刻から空間デザインへ~その無限の創造力~というタイトルでが東京都現代美術館で昨年の9月16日(金)から11月27日(日)まで開催されていたものです。
実は再三件の知人よりお誘いのお声がありましたが「多忙」を理由にお断りをしていました。知人はすっかり気分を害したのか、または会期も終了したせいか「ぷっつり」この件での会話がなくなりました。
いゃあ。悪い事したなぁと反省している次第です。

そして、僕はその事をすっかり忘れた年末の日曜日でした。
新日曜美術館という番組で「イサム・ノグチ」を見て衝撃を受けてしまいました。司会の山根基世さんとはなさんが担当するこの番組は日曜日に良く見る番組ですが、その日は違いました。ゲストのドウス昌代さんの「イサム・ノグチ」に対する姿勢・アプローチ・個人的な意見でなく調査の集約としての説明に一種の感動を覚えたのです。
そしてすぐさまAmazonでオーダーしました。その時、ついでの様に件の書籍二冊を注文しました。そしてすぐに知人にメールし、「お詫びとイサム・ノグチの素晴らしさ」を伝えお許しを頂いた訳なんです。このついでの「さゆり〈上・下〉」アーサー ゴールデン著も実は、トンでもないほど読み応えのある小説でした。ついでという行為に感謝です。

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蜂蜜と墨

2005.09.19

数日前のブログに「エルサレム」についてお話しました。「キングダム・オブ・ヘブン」でオーランド・ブルームがいかに美しかったかも。
そして、『パレスチナ人は国を持たず。アラブ世界でも常に差別されてきた。また、国により保護を得られないために個人の努力、それとパレスチナ人同士の団結により人生を切り開いてきた。また、命ある限り決して奪われる事がない「教育」のみに投資をし続けた。故にパレスチナ人の勤勉さはアラブ社会では際立っており、ある人は医者であり、作家であり、画家であり、弁護士であり、大学教員であり、ジャーナリストであり、研究者でもある。』という話も。
古代にパレスチナに住んでいたヘブライ人(ユダヤ人)が母語として用いていた言葉は「ヘブライ語」でした。その後ヘブライ語は二千数百年の間、ユダヤ教の言葉として聖書や儀式や祈りとまたは、別々の言語を話す遠隔のユダヤ人達とのコミュニケーションを取る場合などに使われるのみで、忘れ去られてしまいました。
でも20世紀に入るやヘブライ語が「現代ヘブライ語」として再生され、他の言語に替わってイスラエル国に居住する「ユダヤ人の多数言語の地位」を占めるようになっているそうです。一定期間使用しなかった理由は古代の聖書ヘブライ語は「聖なる言葉」すなわち「神の言語」であったためだとされています。二千数百年の間使われなかった言葉が再び復活出来る物なのでしょうか?

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エルサレム

2005.09.17

パレスチナ人はこう呼ばれています。
『パレスチナ人は国を持たず。
アラブ世界でも常に差別されてきた。また、国により保護を得られないために個人の努力、それとパレスチナ人同士の団結により人生を切り開いてきた。また、命ある限り決して奪われる事がない「教育」のみに投資をし続けた。故にパレスチナ人の勤勉さはアラブ社会では際立っており、ある人は医者であり、作家であり、画家であり、弁護士であり、大学教員であり、ジャーナリストであり、研究者でもある。』
なんと切ない表現の仕方です。国もあり、住むべき土地もあり、保護もあり、仕事もあり、また、人として迫害を受けた事のない我々にはとても想像でない世界です。

つい先日「キングダム・オブ・ヘブン」という長編の映画を見ました。
12世紀の十字軍と聖地エルサレムの話しです。主演は『ロード・オブ・ザ・リング』のオーランド・ブルーム。ハリウッドの若手でご存知ごとく美形です。名門ギルドホール音楽演劇学校で3年間学び演技の基礎を身につけたとか。また、以前撮影中に3階のテラスから転落して大ケガを負うが一年後にみごとに復帰を果すという厳しい経験もしているそうです。そして「ロード・オブ・ザ・リング」三部作ではエルフ族の美しき弓の名手レゴラス役に大抜擢され、一躍人気スターの仲間入りをしました。他にはジョニー・デップ主役の「パイレーツ・オブ・カリビアン」でも光を放っていましたね。また、ブラッド・ピットと共演の「トロイ」ではいまいちの役柄でしたが、今回のキングダム・オブ・ヘブンではその力量が十分に演技力として発揮され、145分の大作はアッという間でした。オーランド・ブルームは一度に子供と妻を亡くした鍛冶屋の「バリアン」役ですが、実は著名な騎士(リーアム・ニーソン/勇敢な騎士ゴッドフリー役)の一人息子だったのです。父から託された〔4つの誓い〕を胸に、十字軍の騎士としてエルサレムへ戦いの旅に出るというものです。

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秋風が運ぶ古の声

2005.09.03

あまの原ふりさけみれば春日(かすが)なる三笠(みかさ)の山にいでし月かも」(古今集・巻九)

日中の暑さはまだまだといった感じですが、朝晩の涼しさは秋を感じさせてくれます。私の住んでいるこの地区だけで先週と今週で二つの「秋祭り」に遭遇しています。散歩の途中で、蝉を取る親連れやトンボを採る兄弟も見かけました。
この歌は〔安倍仲麻呂(あべのなかまろ)〕の歌で特に秋の風韻を感じさてくれるので冒頭に置きました。ただ、この歌は背景をもう少し突っ込んで語ると「哀愁」や「望郷」の趣がにじんで来ます。なので、「」のもの悲しさにぴったり合うのかもしれません。その意味では彼の代表作のひとつです。
彼の入唐の時期はいわゆる「盛唐時代」です。誰でも知っている李白や杜甫の時代です。世界の詩の中で最も美しいと言われているのが中国の詩で、その中でも群を抜いて評価が高いのが八世紀のこの時代です。安倍仲麻呂は「李白(りはく)701-762」や「王維(おうい)701-761」と親しかったようです。もともと才能ある宮廷人の彼の詩に対する感性が二人によって磨かれたのでしょう。

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サワノジャズ

2005.08.18

大切な友二度と失いたくない恋人。そういった一期一会の出会いが人生にあるように。求めずして、私はジャズの魅力に取りつかれ、そしてジャズの良心に触れてきました。それはまさしく巡り合せであり、かけがえのない出逢いだったのです。ジャズは押し付けるものでも押し付けられるものでもありません。ジャズは形式でなく、「心で感じるもの」。ジャズを知るためには、ただそっと耳を傾けるだけで良いのです。本当にいいジャズは初心者にも、ずっと何年もジャズを聴いて来た人にも同様に心に響くはず。喜びや哀しみ、それら全てを内包した人生のきらめく瞬間を共有する音楽なのだ。』

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8月6日午前8時15分!

2005.08.06

6時半起床! 8月6日土曜日。今日も昨日同様暑そうだ! 贅沢であるが朝風呂に浸かる。朝のひんやりした風が気持ちいい。「午前8時15分」を待ち、西に向かい黙祷する。外は気温が上昇しはじめ、ファミリーの一員であるシジュウカラが一羽特有の泣き声で餌を啄ばんでいる。静かだ。
60年前の広島と長崎に人類史上克ってない不幸で悲惨な出来事があった。僕は長崎出身の知人は居ないが広島の知人をたくさん持っている。1人は僕自身メンターとして育成している(大変口幅ったい言い方で恐縮ですが)若者がいます。この知人には是非大成して日本を代表する起業家に育って欲しいと思っている。また、もう1人の知人はご両親共に実際に被爆し、そのため自身も被爆の影響を受けていると思っている方です。定期的に体調を崩れているのを記憶しています。そのほかの数名のヒロシマ出身の知人がいるが今も楽しくお付き合いをさせて戴いています。

昨夜のNHKはヒロシマと戦後一色でした。19:30から「広島巡礼2005」。そして21:00から「NHKスペシャル被爆者 命の記録~放射線と闘う人々の60年」を観て、22:00から教育TVの「最後の旅路-戦後六十年 ガダルカナルへの想い-」までTVに釘付けでした。
広島巡礼2005は、「広島と長崎に原子爆弾が投下されて60年。原爆の犠牲となった被爆者、そして家族たちは、憎しみを乗りこえて、世界に平和を訴え続けてきました。しかし、21世紀の現在、世界では民族紛争やテロが勃発し、憎しみの連鎖が続いています。残念なことにヒロシマとナガサキの悲願である核兵器の廃絶も実現していません。」 この夏、広島と長崎では、平和を祈る音楽のイベントを開催し、その指揮者には世界を舞台に活躍している佐渡裕が執ります。広島で被爆40周年の時に「平和コンサート」を指揮した、故レナード・バーンスタイン氏の最後の弟子である佐渡裕が師の思いを受け継いで指揮を とります。特別に編成されるワールド・ユース・オーケストラと広島交響楽団、広島と長崎の市民合唱団、そして世界各地から集まっ てくる音楽家やゲストが平和への思いを胸に、一つの舞台に立ちます。様々な角度から被爆60年の広島と長崎のメッセージを伝えます。(NHK広島巡礼2005解説の抜粋)
◆放送日時:NHK8月6日(土)19:30~20:43

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朝の女性専用車両

2005.07.24

別な車両に乗って「ち・か・ん」されたらどうするの? という疑問が湧くのは僕だけ?!

先日、法律を専門とする先輩に会い、興味あることを聞いた。セクハラとパワハラ(パワーハラスメント)である。セクハラは立法化もされているので誰でもある程度理解も有り、注意を払うことができる。
しかし「パワハラ」はどうか? そんなの初めて聞いたよ。本当に「バワハラ」って言うの?? と聞き直したくらいです。本当らしい。どうも、パワハラはセクハラと違い、法律などによる定義はないという事。内容は簡単に言えば、上司と部下の関係で、上司がその権力を背景に部下に圧力をかける。といったようなものらしい。
その時、部下(個々に受け止め方が異なるが)が上司によって受けた抑圧(?)が問題となる。
パワハラの怖さは「加害者に加害意思や認識がない」ことが多いと言う事である。うんうん。これはなっとくだ。
トップ以外は、加害者自身も上司と部下の関係にあるはす。だから同じモードでその部下にも接することになる。特に不自然とは思わない。ではないでしょうか?
すると、この場合、相当、自己認識が重要になってくる。もともとバッポンテキな回避方法は無いと思う。でも、上司と部下の関係はビミョーに且つ、適度な距離が必要なのか?!

いずれにしても加害者に加害意思や認識がないことが多いから始末に悪い。
自己認識」を持っている人は既にパワハラを理解している。パワハラを知らなかった、またはそうと感じなかった僕(同年代といわず)の年代では、殆どの人が上司の権力や圧力は経験している。では、パワハラはどの様にして生まれるのか。日常的には。
①部門、チームとして相手が常に見える距離にあるという意識をもっている。
②上司として日々「指示・指導」できる権限と責務があると意識をもっている。
③上司として自分の部下として支配下に置いていると言う意識をもっている。
④上司として当然の如く権限と責務で部下をコントロールしているという意識をもっている。
⑤社会人として責務がある以上その人(部下)のプライバシーや人格を認めないという意識をもっている。

①から⑤はひとつの例であるが、
①と②は適度な距離の範囲内とされているが、③~⑤はパワハラの芽となる場合が多いと言われている。

では、パワハラはどの様に表面化するか?

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今は「禅」ですよ。

2005.07.19

「禅を深く進めて行くと自分の能力を出来る限り多く引き出そうという力が自然と沸いてきますよ。」と語るのはオリックス・システム株式会社の親しい課長さんである。暫くぶりの訪問である。短時間の訪問であるが、彼の目が輝いて生き生きしている。きっと気力も体力も十分なのでしょう。素晴らしい!
「人は自分の能力を十分に発揮できないことが多い。」だってさぁ「他人が自分をどう思っているか気になるでしょう?」とれと「上司や部下にも気を使うこと多いでしょう?」はい。そうですと僕が答える。「禅をね。やるとね。少しずつですが本来の自分の能力に集中しようとする力が沸いて来ますよ。」沸いてきそう。こちらまでビンビン伝わりますよ。それって「命(いのち)のリズムですよね。」あぁ。そうそうと彼。う~ん。納得です。リズムはとても大事です。
彼のリズムはこうだ。「前の夜がトンでもなく遅くなければ朝は四時に起きます。」え~っ!!毎日ですか?「はい。そうです。家で1時間程度は自分に足りない知識の勉強に当ててます。」朝のそれってとっても効率いいでしょう?「会社には8時前について、その日の段取りを考えます。」すごい。

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