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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

一杯のコーヒー

2007.10.30

最近、
スターバックスの成功の秘訣や創業者の思いを綴った書籍を手に取ることがありました。
一つは同店で8年間マーケティングプログラムの作成と実施を担当していた[John Moore]の「スターバックスに学べ!」です。
もう一冊は、同店の会長兼CEOの[Howard Schultz]の共著した「スターバックス成功物語」です。
前著は同店の独自の経営理念やブランド戦略、サービス哲学などの学ぶための項目を挙げているのに対して、
後著は起業家としての自らの人生を振り返って、その歩を語るといった成功の基盤になっている価値観やエピソードを披露している書籍です。1982年にHoward Schultzは一流会社を退職し、自らその将来性に引かれて、シアトルの小さなコーヒー小売会社に転職しました。20年以上の時間を彼の生身で語る訳ですので、とても魅力的なものに仕上がっています。

朝起きて自宅で飲む数杯のコーヒー。
一時間後、事務所でのモーニング・コーヒー。
出勤直前に毎日寄るスターバックスにこの様な秘密が隠されていた事にいまさら気づいたという訳です。年間何十億ドルを費やしてグローバルブランドになったコカ・コーラやマイクロソフトに比べ、広告に多額の費用を費やすことなく、世界的なエクセレント・カンパニーの一つに数えられるようになったスターバックス・コーヒー。これも言われてみれば驚きです。
質の高い材料と音楽とゆったりしたイスとバリスタとの交流等々、
ここに書かれているそのものを日々認識できます。

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接客と魅力

2007.10.26

お能の「謡曲」や舞台衣装である「装束」等に興味を持ち、ここ数年古本屋で古書を買い漁る事が楽しい時間となりました。
そんなとき時々洋画家の世界もちょっと覗いたりします。
中には魅力的な芸術家にも出会いますが、ここに紹介するひとは芸術家ではありませんが型破りに魅力的な人物です。
彼の名は「ジョゼフ・デュヴィーン」という英国の画商です。
画商は大体二つに分けることができると思いますが、ひとつは、無名の画家の才能を見出し、これを世に出すというタイプと、
もう一つは、評価の定まった著名な画家の作品だけを扱うタイプです。
ジョゼフ・デュヴィーン」はこの後者で著名になった画商です。

彼は1939年に69歳で世を去る前には、「ミルバンク男爵デュヴィーン卿」の称号得ているほど後年著名になりました。
後で知りましたが、美術を目指す人でジョゼフ・デュヴィーンを知らない人はいないそうです。それにボクが読んだこの本は、米国の美術大学の授業の副読本としていることがよくあるそうです。

デュヴィーンの母国であるイギリスの美術専門家よる彼の評価は、「デュヴィーンの美術にかける情熱がはるかに知識を上回っている」ということであるらしい。画商である彼にとってうれしい評価ではありませんが、しかし彼にとってはそんなことはどうでも良いことかも知れません。
ともかくデュヴィーンは人一倍の美術かける「情熱」を維持し、画商としての手腕を発揮したわけですが、その当時のやり方としては型破りだったようです。

大切な顧客のためとなれば、デュヴィーンはおよそ何でもやりました。
莫大な富を築き上げた米国人たちは一応にひっこみ思案で、且つ、その富ゆえに予期せぬ出会いに疑いの眼を向けがちです。ヨーロッパ等へ訪問しても何処に行き、何をしたらいいのか分からないという人々に、デュヴィーンは例えば貴族の館に招待するようなアイデアを提案します。そのアテンドは目立たない所にもきめ細かな配慮がされており、訪問そのものを引立てます。その金持ちはそれだけで、十分満足し、当然彼に好意を持ち、少しずつ気を緩めていくとうものです。

例えば、彼のやり方をあげると、
裏から手を回して満員の高級ホテルの部屋の予約、
満席の客船に空部屋を用意する、
顧客に代わって好みの家の購入交渉と手続き、
新築の家を作るために優秀な設計者の手配、
花嫁の引き合わせや花婿の紹介、
等々、画商の範疇を超えた私利を押し込めた真摯な「接客術」を行います。
もちろん、花嫁や花婿の結婚式等も肉親顔負けの愛情のこもった結婚式も演出しますし、内装を任せられたデュヴィーンは設計者には沢山の絵画を掛ける広い壁を組み入れる依頼も施主に代わって(?)したりしました。

反面、他人の都合なとお構いなしに癇癪玉を爆発させもします。
この手の順当な性質かも知れませんが、自分の望みのものを手に入れるまでは、発作的に熱中し、激しく限りない情熱を燃やし続けます。
似ている人は沢山いますね。
しかし、デュヴィーンを知れば知るほどその「接客術に魅力」感じます。
彼の接客術は、
まさに「One To One」ビジネスの真髄です。

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秋の味覚

2007.10.25

先日、赤坂の「籠や」で秋の味覚の「秋刀魚(サンマ)」と「(いわし)」を食べました。

日本の沿岸で捕獲できる鰯類のうち、「マイワシ」「カタクチイワシ」「ウルメイワシ」がもっとも見慣れた魚でしょう。
ボクの田舎では、マイワシだけ特別にフル・ネームでいって、後は、単に「カタクチ」「ウルメ」でした。最近ぐっと漁獲高が減ったマイワシですが、体に七個の黒い斑点が並んでいます。
なので昔の人は「七つ星」と風流に呼んでいた事は覚えています。
マイワシはその体長によって呼び名があります。マグロ等の出世魚とは違った意味合いですが、
体長が最も大きい16㎝以上のものを「大羽(オオバ)」、
12㎝を下回るものを「中羽(チューバ)」、
10㎝以下のものを「小羽(ショーバ)」と呼び分けています。
鰯は総体的、昭和の初期には年間百万トン以上も捕れたそうです。年間捕獲高には何度か波があるようですが、現在は二十万トン前後でしょう。その波の周期を40年周期という人もいます。昔から鰯の有名な産地は千葉県の銚子、福島県の小名浜、宮城県の石巻でしたね。いまも量は別にしても、産地は変わりません。

件の「籠や」の鰯は「マイワシの梅煮」です。ご主人兼板前の佐々木さんの定番メニューです。この鰯の梅煮を期待して食べに来る固定客も多いと聞きます。僕もその一人ですが。
この店の鰯はいわゆる「大羽ないし中羽」です。この季節は最も油が乗っていて、うまみがあります。
もちろん鮮度がよければ「刺身」でも、「ぬた」、でも「酢の物」にも可能です。サンマ同様ジュージュー焼いた「塩焼き」に大根おろしを添えて醤油かけて食べるのも最高です。
祖母は「ぬた」の名人でした。子供のころは当然食べませんが、最近はとても好きになり、食べるたびに必然的に祖母を思い出します。
「酢の物」も健康にいいですね。鰯そのものは栄養価も高いし、酢は体にいい訳ですが、ダブルでいいですね。
また、煮魚ほど鮮度を求められますが、籠やの鮮度は抜群です。

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「装うことは教養です。」

2007.10.23

装うことは教養です。
とは、その著書「スーツの法則」で中島渉が何度も繰り返し使った言葉です。

先週の土曜日に封切りされた「グッド・シェパード 」という映画あります。
とても好きな俳優である「マット・デイモン 」の主役映画です。
是非機会があれば見てください。
内容は映画のサイトに数多く紹介されていますが、物語はCIAの誕生をめぐり、ある将軍からリクルートされたマット・デイモンが扮する主役の1人の男が、運命に翻弄されながらも自身の立ち位置を作り上げていくシリアスな構成です。
CIAの誕生の時代ですから、まさに「冷戦」のさなかです。
物語は「キューバ問題」から展開します。

詳細はさておき、この映像の中に当時の実写を多数使用しています。
JFKで著名な「第35代米国大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ」と
フルシチョフの名が一般的な「ソ連の最高指導者のニキータ・セルゲーイェヴィチ・フルシチョフ」と、
この映画の中心となるキーバのカストロの呼び名で知られる「国家元首フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス」などです。

冷戦時代に凌ぎを削った二人の国家元首ですが、
JFKもフルシチョフもスーツはイタリア仕立てだったようです。
どうも、JFKの方が先にイタリアの仕立て屋(といっても「ス・ミズーラ(SU MISURA)」という高級仕立てですが)「アンジェロ・リートリコの工房」で数着のスーツを誂えたようです。
JFKの先祖はイタリアでしたから、当然イタリア人の「アンジェロ・リートリコ」をそのネットワークで以前から認識していたのでしょう。

一方、フルシチョフはJFKのスーツを見たのか偶然なのか、
その後やはり「アンジェロ・リートリコの工房」でスーツを作ったようです。

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「早く」決めた者

2007.10.19

ヨーロッパの港の中で、思い出と情緒さにおいて「リスボン」は格別です。
当時から石畳みの坂の多い港町でした。現在は大規模な港湾都市に成長しています。

アプローチは大西洋からテージョ川へ進みますが、大海と境が無いほど川幅は広く壮大です。当時は橋は一つしかありませんでした。
昔は「サラザール橋」と呼ばれていましたが、現在は「4月25日橋(1966年完成)」とか。ずっと後の1998年に斜張橋の「ヴァスコ・ダ・ガマ橋」が三角江の上を通っています。名前の由来についての説明は不要でしょう。彼が苦難の末インドに到達してから500周年の記念だそうです。

テージョ川を少し上り、客船バースの手前に来ると「ベレンの塔」と「発見のモニュメント」が視界に入ります。青い空に白い二つの塔が良く映えます。
「ベレンの塔」はマヌエル様式というのだそうです。かなり以前に世界遺産に登録されています。
「発見のモニュメント」の下に「方位盤」が刻んでありますが、本来はモニュメントの上部から下を望むことでその意味が理解できます。

テージョ川の河口に建てられたこの二つの記念碑をご覧になった方は古きよき時代のリスボンの国力を感じるでしょう。


  〔発見のモニュメント〕

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選択肢の拡張

2007.10.17

エンリケ航海王子が「発見の航海」を目前にいくつかの準備を開始します。

その一つはポルトガル南端のサクレス(現在のイベリア半島西南端のセント・ヴィンセント岬の先端)の宮廷に天文台を設けたことです。彼はこの天文台で太陽の赤緯の正確な表の作成をしました。
二つ目は、その宮殿を航海学、地図学の研究機関としたことでしょう。この研究機関に人種、学派を問わず学者と船員を集め、教皇と国王から特許を受けて、自己の事業として航海と発見の研究を開始しました。
それは、1419年のことでした。

エンリケ王子は、その生涯において、国家プロジェクト的な事業を個人の立場で「発見の航海」を主宰しています。
まさに、大航海の幕を開いたといえるでしょう。
ただ、近年の文献ではちょっと単純ではなさそうです。
エンリケ王子の人物像としては、そのたどった足跡が果たしてどこまで本当か?
もしかしたら、後世の創作によるものであるのか、という謎が指摘されています。さらに、現在エンリケ王子の肖像画でさえ、その真偽を疑われているほどです。

最近読んだ「エンリケ航海王子」(大航海時代の先駆者とその時代 (刀水歴史全書)金七紀男)でも、興味深いものでした。
以前からの王子のイメージは、宮廷での権力争いを避けてただひたすら新しい世界を切り拓くことに専念したというエンリケ像でしたが、そうではなくて、中世末という危機の時代に西アフリカへの進出を企てる一方で、モロッコ侵略を試みて人質の弟を見殺しにし、さらに、兄と国王の対立では兄を見捨てて甥の国王に恭順してしまうという感じです。そのなかで、抜け目無く、国王からさまざまな特権を得るという生身の人間としてエンリケを描いています。真偽は別として。
ですから、彼の探検事業の動機や目的についても、けっこういろいろな説が存在するということです。

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選択肢への助走

2007.10.16

数日前に「高祖劉邦」とその宰相蕭何(しょうか)の話をブログしました。

面白いことに、秦を滅ぼした漢の宰相蕭何が最初に行ったのは秦の始皇帝が作成した膨大な「地図」を接収する事から始まりました。政策を打つ上でも、軍事的にも民事的にも必要だったのでしょう。

ところで、海図は、船が航行するときには無くてはならない物ですが、現代においては海図といえば「海上保安庁刊行」の航海用海図をさします。そして、{Map}も{Chart}も地図のことをいいますが特に海図や航空図の場合にはChartが一般的です。毎年ハワイで長躯のトレッキングをしますが、やはり手に持つのはMapでした。
海と陸では時折面白い違いがありますね。

人間が船を作り出し海に出るようになったのは、はるか紀元前の時代と言われていますが、現代の人から「海図」として認められる内容のものは、羅針盤の出現以降となります。羅針盤が発明された13世紀のころから、ヨーロッパでは、航海者のために港や港から港の航海のためのマニュアルを作成しました。
このマニュアルを「港湾誌(ポルトラノ)」といいます。この説明書の付図として航海用の地図が添付されるようになりました。
この海図を「ポルトラノ型海図」といます。
この海図には現在のような緯度経度も水深もありません。
あるのは、「海岸線」と「沿岸の地名」と「32方位の線」が記入されています。
この「32方位の線」が重要なんです。
ポルトラノの特色は、海図上にいくつかの中心があり、
その中心に方位盤を置き、その中心から放射状に32本の方位線を伸ばします。羅針盤の東西南北を32に分割した結果と同じ方位が得られるわけです。
これによって、
「この方位を基準にしてラダー(舵)の角度を切れば自身の港から目的の港に到達できる」と言う訳です。
が、そんな簡単ではありません。
地上を進むわけでなく、風と海流と夜間という前提が崩れる要素の中を舵角のみでは到底目的地に進む事は至難の業です。
きっと当時の船乗りは、長い間の経験とノウハウでこのポルトラノを活用したのでしょう。

下の海図は現存するポルトラノ型海図の「ピサ図」です。名前の由来は分かりません。


現在のChartの基礎になった「メルカトル図法」による近代的な海図の出現は1600年頃です。
約300年くらいはこのポルトラノで船乗りは荒波を乗り切ったのです。

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選択肢

2007.10.15

子供のころ田舎町で育った私は遊びは海岸と港と山(海と山が隣接しているので)でした。そのころ漁師のオジサンたちは「やま=山」の話をさかんにしていました。
子供心にもそれか生死を分かつテーマだということをなんとなく理解していました。

やまを合わせる」という方法は古代の航海者たちが自然に作り上げた沿岸航法のひとつです。陸上の山やその他の立標(樹木等)や島など、二つの物標で出来る見通し線を二つ以上作って、その交点で自船の位置を決定する方法です。
しかし、この方法は視界のクリアーなときだけです。
そうい言えば田舎に住んでいた子供のころは誰でもそうでしたが、海流の激しい海岸だったので、泳ぐときは常に陸上の「目標」を確認しながら遊びました。今思えばそのように育てられたのでしょう。激しい海流を知らない夏休みだけの海水浴客たちは、数年毎にその犠牲になっていた様です。

海上の天候は気まぐれですし、天気予報は当然時間単位で拾いますが今のように局地化されていません。当時の小型漁船は相当の装備をしていました。当然ですが小型のレーダーも積んでいます。
しかし濃い霧が発生するとリスクは飛躍的に上がります。

孫子の兵法に
「凡そ戦いは、を以て合い、を以て勝つ。故に善く奇を出だす者は、窮まり無きこと天地の如く、竭きざること江河の如し。」
という定石の戦術論があります。

全体の意味は「およそ戦闘というものは、定石どおりの正法で不敗の地に立って敵と会戦し、状況の変化に適応した奇法で打ち勝つのである。したがって、うまく奇法をつかう軍隊では、その変化は天地の動きのように窮まりなく、長江や黄河のように尽きることがない。」とあります。
ビジネスの世界でもその進め方は「奇法と正法の二つ」に過ぎませんが、その都度、、その都度変化する社内外の状況は「混じりあった変化」となり、窮(きわ)め尽くせるものではないということでしょう。
なんと奥深い言葉でしょう。

だからこそ、「早く意思決定」することが勝算の確立を高めるひとつの要因なのでしょう。

言葉としては至極簡単な「スピード経営」も実際のビジネス・シーンでは「度胸」だけでは決められない「迷い」が生じるのです。

前述の戦術論に下記の言葉が続きます。
「終わりて復た始まるは、四時是れこれなり。死して更(こもごも)生ずるは日月これなり。」です。
大意は、
「終わっては繰り返して始まる四季のように、暗くなってまた繰り返して明るくなる日月のようである。」と。
入り混じった変化を窮めることの難しさは、「丸い輪をぐるぐる回って終点のないようなものである。」と投げ捨てるように著しています。

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本卦(ほんけ)還り

2007.10.12

中国は多くの英雄を輩出していますが、その英雄には必ず輔弼(ほひつ)の役を演じる脇役が存在します。その中でも最も好きな人物は「蕭可(しょうか)」という兵站と行政を担当した参謀です。

漢の司馬遷が著した「史記」には多彩な人物がたくさん出てきます。
その中で蕭可はひときわ異彩を放っています。彼が仕えた英雄はあの「高祖劉邦」です。
ご存知の様に劉邦は始皇帝が崩御した後、次の時代を作った人ですが「項羽と劉邦」の戦いはあまりにも有名です。
貴族出の項羽と違い劉邦は農民上がりで小さな勢力でした。
その劉邦を自立させ、援助し、決起にまで持ち込み、最後には「項羽」の打倒までずっと輔弼します。この死闘は五年間にもおよびました。

蕭可は兵站等の一番苦労する黒子に徹し、華やかな戦場での働きは「張良」という名族の軍師に委ね、全体像を鳥瞰する立場を一生とり続けました。
孫子の兵法の「~戦いは兵站にあり」です。
現在国会で問題になっている「インド洋での海上自衛隊の給油活動を行うテロ対策特別措置法」も日本が支援するいわば兵站戦略ですね。

先日、お世話になった大先輩二人の「還暦のお祝い」のお誘いがありました。
すでに私は重要なお客様と会食の予定がありましたが、当然のことながらその会食を変更し、このお二人の大先輩の「還暦」のお祝いに駆けつける事にしました。私はこの二人に「商いのいろは」を叩き込まれましたので時代や環境や立場が変わってもこの関係は不変です。
満60歳を迎えるお二人との交誼には多くの思い出があります。

時に、
長寿の祝いに「古希(こき)がありますね。
「人生七十古希稀なり」と詠ったのは唐の詩人・杜甫です。古代ではそれほど稀だったのでしょう。
喜びの「喜」は草書で七を三つ書きますね。ですから77歳を「喜寿」というんだということを祖母の祝いのとき知りました。祖母は「米寿(べいじゅ)」の88歳を全うせず、87歳で生涯を終えましたが、とても孫思いの祖母でした。

さて、
秦の始皇帝が周辺の六国(りっこく)を打ち滅ばして中国全土を支配下に治めたのは紀元前221年です。
そして、蕭可がその多彩な能力を発揮して高祖劉邦をして、漢帝国を樹立したのは紀元前202年です。
実は還暦の元となる十干と十二支はすでに使われていたようです。

中学の歴史で習った日本での暦の導入ですが、漢帝国の樹立よりずっと後の604年で、推古天皇の即位とあわせて発令されました。
これと同期して日本の建国は神武天皇の即位の日を二月十一日と定め、「紀元節(きげんせつ)」といって建国記念日としていることは周知の事実です。子供のころ祖母が家の前に「日の丸」を掲げたことを記憶しています。

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直感

2007.10.11

直感という感性

当社の主力ソフトウェア製品に「biz-Stream」というミドルウェア製品があります。
当然のことながら、この製品の戦略会議を月に数度は行います。
それは、製品や戦略の賞味期限が非常に短縮化しつつある現在の状況では、特にこのエリアのビジネス・シーンほど「スピードアップ」が製品の可否を有する死活問題になっているからです。
ですが、
経営者の意思決定は、全てといっていいほど単純なものは無く、一般的に複雑で前例の無いことのほうが多いはずです。と、思っています。
その多くの経営判断の要素の中で「直感」という「感性」はとても重要と思っています。

さて、
新世界の発見者であるコロンブスはどの様に「直感」という「感性」を活用して、歴史始まって以来の快挙を成し遂げたのでしょう。
その偉業の価値は地球規模的にも、もっとも遠い地域の発見であったからです。
彼は極めて信仰心が篤く、「直感」を重んじ、科学を尊重し、情熱もひと一倍で且つ、
「美しい」ものを求め、「新しいもの」を求める知識欲も旺盛だったようです。
それにジェノヴァ人です。
この「ジェノヴァ人」というのがキーワードかも知れません。
そういえば、キャップテン・クックも「直感を重んじ、科学を尊重し、情熱もひと一倍で且つ、知識欲も旺盛」といわれています。信仰心はちょっと分かりません。
話を戻して「ジェノヴァ人」についてですが、
ベニスの商人に代表される「ベェネツィア人」でもく、ピサの斜塔で有名な「ピサ人」でもなく、ナポリ湾を有する「アマルフィ人」でもなく、「ジェノヴァ人」というところに意味があるようです。
「ジェノヴァ」「ピサ」「ベェネツィア」に「アマルフィ」を加えた四都市が、「四つの海の共和国」いう名で、歴史上9世紀から15世紀末まで呼ばれていました。
近代にイタリアと言う名で呼ばれる「四つの海の共和国」はその地域的環境や文化の醸成の仕方でまったく気質の異なる民族になってしまいました。結果的には「異能の人種」を作り出したともいえます。

ベェネツィアは「ベェネツィア共和国」でご存知の通り、この中世の時代で国家に対する忠誠心、言ってしまえば「共同体意識」が存在したという点で例外に属すると言われていますが、それに反してコロンブス〔伊では(クリストフォロ・コロンポ)と呼ばれています〕を作り出した「ジェノヴァ人」はまさに個人主義の塊でした。現代のビジネスマンそのものとう感じがします。
彼らは各自その才能を自分勝手に思う存分発揮する文化を持つ人種だったようです。

現代人の評価でも当時の「ジェノヴァ人」はビジネスにしても船乗りにしても、天才的というのが共通概念です。

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