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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

蜂蜜と墨

2005.09.19

数日前のブログに「エルサレム」についてお話しました。「キングダム・オブ・ヘブン」でオーランド・ブルームがいかに美しかったかも。
そして、『パレスチナ人は国を持たず。アラブ世界でも常に差別されてきた。また、国により保護を得られないために個人の努力、それとパレスチナ人同士の団結により人生を切り開いてきた。また、命ある限り決して奪われる事がない「教育」のみに投資をし続けた。故にパレスチナ人の勤勉さはアラブ社会では際立っており、ある人は医者であり、作家であり、画家であり、弁護士であり、大学教員であり、ジャーナリストであり、研究者でもある。』という話も。
古代にパレスチナに住んでいたヘブライ人(ユダヤ人)が母語として用いていた言葉は「ヘブライ語」でした。その後ヘブライ語は二千数百年の間、ユダヤ教の言葉として聖書や儀式や祈りとまたは、別々の言語を話す遠隔のユダヤ人達とのコミュニケーションを取る場合などに使われるのみで、忘れ去られてしまいました。
でも20世紀に入るやヘブライ語が「現代ヘブライ語」として再生され、他の言語に替わってイスラエル国に居住する「ユダヤ人の多数言語の地位」を占めるようになっているそうです。一定期間使用しなかった理由は古代の聖書ヘブライ語は「聖なる言葉」すなわち「神の言語」であったためだとされています。二千数百年の間使われなかった言葉が再び復活出来る物なのでしょうか?

さて、冒頭書いたパレスチナ人の「教育」について興味深いことを依然書物で読んだ事があります。
だいぶ昔の事と思いますが、子供に初めて「ヘブライ語」の文字を教えるとき当然ノートは無く「石版」です。問題はその石版にどの様にして文字を書くのか言う事ですが、それがとても不思議な方法なんです。
その石版に手に「蜂蜜」を付けて文字を書くそうです。書き終わると石版についた文字=蜂蜜を舐めるのです。子供たちは初めて文字を習い同時に甘い甘い蜂蜜の味覚を一度に味わうのです。
これはヘブライ語が「神の言語」であったためでしょうか?
それとも教育という誰にも奪う事の出来ない形にしか表せない虐げられた民族の最終的な継承方法であったからでしょうか?だとしたら壮絶な継承方法といわざる得ません。
このヘブライ語の事を考えると、子供たちに文字と感覚を同時に定着させる東洋の「書道」を思い浮かべます。「書道」もまた文字に対する感覚が独特であったといわざる得ません。ヘブライ語の文字と味覚の関係と書道と墨の関係はある面、近似していると思います。書道を習う子供たちは、決まって手やブラウスの袖やズボンに墨で必ずといっていいほど汚します。文字は墨の汚れとなって体感出来るのではないでしょうか。
しかし残念な事に、「ヘブライ語と蜂蜜」も「書道と墨」の関係も今ではそれを教育の基本姿勢とすることは近年の電子化や教育の改革によって難しいと云わざる得ない気がします。
文字は「染み」を作るものである事を、手を汚しながら体で理解することの重要性は、文字の電子化の波に呑まれて、自然淘汰されて仕舞うのでしょうか?

そのことが、今とっても大事な事であるという事をたぶんはっきりとは認識出来ないまま、何十年や何百年という歳月を過ぎ、よりその重要度が取り返しのできない「染み」となっていつまでも残る事になりはしないだろうか?

 

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