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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

切磋琢磨

2010.12.02

創造性はどうしたら手に入れることがでしょうか?

もともと創造性や独創性は、誰にでも生まれつき備わっているものといわれています。
最も肝心なことは、もともと生まれつき備わっているこの能力を自ら知り、
そして伸ばし、育てることができるかと云うことだと感じます。
しかし、自分の能力を知ることはなかなか出来にくいものです。自分の能力を知るには、たぶん強い「感性」が必要ではないでしょうか。
そして、、
発見された自分の能力は、可能性を秘めていますが、とても小さく壊れやすいものです。
さらに、その能力を伸ばすために純粋培養して「開花」するまで守らなければなりません。

ドイツの黒い森といわれる山岳地帯の名も無い村ボイレンで、
小さなガレージで始めた独創的なコンサルティング会社が、
やがて世界的にデザインを提供する有力企業へ成長する過程は驚くべきものがあります。

創業者の名前は著名な「ハルトムット・エスリンガー」で、
彼がガレージで立ち上げたのは「フロッグデザイン」という会社でした。

彼が始めたことは「ビジネスとデザインが手を組むことで、いかに驚くべき力が発揮できる」でした。
このあまり真新しくないデザイン主導のビジネス戦略には、
多大な可能性があるというコンセプトに注力し、それを実施し、
そしてさらに世界的に評価される企業に育った訳ですが、
実際にはこのような成功例はあまり無く、とても難しいものだと思います。

数年前に若く素晴らしい才能と人間性豊かな五人の若手建築家集団と知遇を得ました。
この五人は、全員が同じ大学の建築課を卒業した同期です。
いわば「同じ釜の飯を食った」という程度の関係であれば、世間にはいくらでも例があると思いますが、彼らは一味も二味も違います。
彼らは、大学入学の18才からいわば同志とも云うべき連携を持ったグループで、
その関係は15年経ても変わらず、それどころか発展しています。
もちろん全員が建築関係か、それに近い他の仕事を持ちながら、第一線で第一級のジョブをこなし、それはそれで社会的にも十分に評価される立場です。
しかし、著名な建築デザイン会社に属しながら、別に五人だけの緩やかな共和制とも云うべきバーチャル・カンパニーを持っています。

このバーチャル・カンパニーは彼らにとって、純粋の中にも遊び心を持ち、
それでいて人間くさい欲望のはけ口にも利用するという「とても、まじめなおもちゃ」のような存在です。
三十代で彼らのような経験を積める事自体稀有なことです。
また、そこまで至ったプロセス、バーチャル・カンパニーがプロデュースした作品等々、どれをとってもボクに出来なかった素晴らしい経験で、うらやましい限りです。その素晴らしさを彼ら自身が身にしみて実際に理解できるには、あと20年くらい必要かもしれませんが。

五十代半ばを超えた私の身長は、少なくとも同世代の中にあって、小さいと感じることはありません。しかし、五人の若者は全て175㎝の私より少なくとも10㎝は高く、全員に囲まれたは私はとても分が悪い。
なぜか彼らとは、気が合い、定期的に食事をし、飲み、語っています。
時には話題が嵩じて深夜に及ぶ事が多々あります。三十代半ばの彼らと歩調を合わすことは体力的にも、気力的にも並大抵ではなく、脱落寸前であることは間違いありませんが、なんとかついて行っています。
でも、気のいい彼らは私を帰宅させることはせず、スムーズに抱き込んでいきます。

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Dopamine

2010.11.13

先月半年ぶりに韓国に出張しました。
出張の数日前のある日の午後の事でした。
お客様訪問の後、帰社途中でネクタイを買い求めました。
素材はニットでとても細く、色は美しい黄色です。
とても発色のよい黄色で、且つ細かな刺繍がとても綺麗でした。
ネクタイの色や形は自分の中にだけ流行があるようで、一般的な流行と非同期で感ずるようです。なので、自分の好みでしか行動しません。勿論時たま頂く事もありますが、残念なことに一生箱の中か、または勝手に甥っ子が持ち帰ったりもします。

後日、衝動的に鮮やかな黄色のネクタイを購入したことを、子供のころからとても強いスピリチュアルを持っている知人に話したら「とてもいいことです。」と思わぬ反応を示しました。
私と黄色いネクタイの相性は現在のところいい様です。

時折、街の中をお客様訪問の行き帰りで好きなものに出会います。その時、その瞬間に、きっと私の脳はドーパミンが多量に放出しているのでしょう。
なぜって、気持ちいいからです。
人は美しい音楽や美味しい食べ物、好きな異性に出会ったとき、さらに人間自身が本来持つ本能的な喜びを感じた時、またはある行動をとって周囲に認められたり褒められたりした時に、脳内に神経伝達物質が放出されるそうです。
この物質と云うのが「ドーパミン」だと、脳科学者の茂木健一郎は説明しています。
特に人間の脳が一番喜びを感じるのは、他人とのコミュニケーションだと彼は断定しています。
その中でも、特に目と目とが合うことが「」はとても喜ぶらしいです。そう云えば。。。頷けるか。
コミュニケーションでの基本は「話す」という行為ですが、それよりも「アイコンタクト」の方がもっと効果的ともいいます。ダイレクトですものね。
昔から「目は口ほどにものを言う」と云いますから。

さらに、茂木健一郎は語ります。
第一印象は重要なファクターだと。
その為に女性は全体のお化粧もさることながら、アイメークを念入りにするのはこのためだそうです。
アイラインをくっきり強調し、アイシャドウでより鮮明に印象付け、マスカラでまつ毛を強化して人目を引く。メイクのひとつひとつに脳に喜びを与える行為を女性は自然に行い、他者とのコミュニケーションに備える。
他者と目と目とが合えば、「このひとから注意を向けられている」や「関心を持たれている」と感じ、脳にドーパミンが発生し、喜びを得るという図式らしい。そして、より美しなる。この繰り返しだと。それも毎日です。これはすごい事です。

そう云えば、子供が困ったことがあったとき、無意識に母親の方を見る。すると母親もやさしく見つめ返すことで、見つめ、見つめ返す。見つめ返された子供の脳は喜び、より愛情に濃厚さを増し、親子間の絆がより強固になるという連鎖反応が行われているのでしょう。でも、昔の親子関係はそうでしたが、今はなかなか難しそうですね。

ただ、想いを寄せる人に出会えれば脳は喜び、ますますその人に会いたくなるものです。ドーパミンの放出によって脳は快楽を得て、更に、更に、快楽得ようと行動を強化するということになります。
これを「病みつきになる」かまたは、「クセになる」と云い換えましょう。
茂木健一郎さんが云いたいのは、
女性がこの世に存在すること自体が、感動を呼び、共感させ、感謝の気持ちに変わると云うことでしょうか。
だとしたら、私の母の口ぐちのように、女性の存在意義は高く、大切に守るべきものなのでしょうね。

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新しいシルクロード

2009.08.23

   子供たちが空に向かい 両手をひろげ
   鳥や雲や夢までも つかもうとしている
   その姿は きのうまでの 何もしらない私
   あなたに この指が届くと信じていた
   空と大地が ふれあう彼方 あなたにとって私 
   ただの通りすがり ちっと振り向いてみただけの 異邦人

この美しい詩は「異邦人」という曲で久保田早紀が1979年に作詞・作曲し、そして自ら歌い大ヒットしましたポピュラーソングです。そして、今までに何度もカバーされた名曲といえます。

徳永英明というハスキーで、高域音がキレイな歌手が、過去に大ヒットした女性ボーカルの曲だけを収録した三枚のCDシリーズがあります。彼自身の自曲の歌も美しい旋律ですが、彼の選んだ女性ボーカルの曲も劣らず絶妙です。特にあの歌声は女性に大人気ですが、このCDの中で彼が歌う数曲にとても魅力を感じます。そして、異邦人はこの中にもカバーされています。
私は、カラオケというものを10年ほど前に体験しましたが、それ以前は、人前で歌を披露する度胸を持ちあわせていませんでした。それは、ひとつの拘(こだわ)りといえるかも知れません。
それが、起業をきっかけに、人の付き合いの中でどうしても避けられないと納得した時点で、この拘りを捨てました。以来、カラオケを少なくとも以前よりは楽しく振舞えるようになりました。

たくさんの歌手がカバーする異邦人ですが、私は特に徳永英明の歌声が好きです。たまに誘われてカラオケしますが、映像が決まってイスタンブールなんです。異邦人とは字のごとく外国に定住または長期滞在する外国人を意味しますが、少し前まではコンスタンティノーブルと名づけられていたイスタンブールとの関連性は全く無い様に思えますが、不思議と映像とメロディーが素晴らしくマッチングします。

コンスタンティノーブルはシルクロードの臍(ヘソ)にあたる最も重要な結節ポイントです。
この西に、この道の到着点であるローマがあります。そして東に、出発点の長安(現在の西安・兵馬俑で有名な)があります。中国、モンゴルと中央アジアの地獄のような砂漠を横断する、長い長い乾いた道をローマから長安を結ぶ長距離交易路が、絹の道といわれる「シルクロード」であることは誰ひとり知らぬものはないほど、ひとつの言葉として認識されています。この路はまさに、世界史の背骨というべき道です。
中国製の「シルク」をローマまで運ぶ道であったために、ドイツの地理学者「リヒトホーフェン」が"絹の道"と命名しましたが、もちろんシルクだけでなくあらゆる商品が行き来しました。しかし、これほど名前と現実の世界が大きくかけ離れた印象をもつ言葉はないと思います。

イスタンブールはトルコの首都ですが、西に隣接するブルガリアやその北にあるルーマニアは黒海に面したバルカン諸国です。この地は、古代から様々な民族が入り込む一方、東ローマ帝国やオスマン帝国に長く支配されました。私の仲の良い知人にルーマニア人がいます。ルーマニアは陽気な社会主義国家と言えます。ブルガリアやユーゴスラビアはスラブ民族系と言う感じを強く受けますが、ルーマニアはラテン民族の血を強く引いていると言われています。その意味では知人は底抜けに明るい人です。どう見てもラテンとしか言いようのない気質を感じます。彼女は自国のルーマニア語とスペイン語とイタリア語を自在に操り、日本語も漢字以外はほぼ使いこなします。
ルーマニアを持ち出したのは意味があります。
バルカン地方は、九世紀から十世紀にかけてビザンチン僧侶が熱心に、布教をした地域でもあります。その為に正教協会が、農村の隅々まで建てられていると言われいます。この教会こそビザンチン芸術であり、ビザンチン文化です。
この地方のどこに行ってもビザンチン様式の修道院や宗教絵画をお目にかかることができるそうです。

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食と芸術

2009.07.24

雨ニモマケズ.....風ニモマケズ.....雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ............」
そして、
「.....一日ニ玄米四合ト、味噌ト少シノ野菜ヲタベ.....」と続く詩は著名な明治の大詩人・宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中の一小節です。誰でもが一度は口ずさんだ有名な詩です。賢治は他にも身近なことをテーマした詩が多く、なかでも「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」は幻想的で、叙情的で、とても美しい詩です。それに夢があります。
彼は、叙情的な詩を詠う詩人としてだけでなく..一日ニ玄米四合ト、味噌ト少シノ野菜ヲタベ..にあるように、農民の日常生活を芸術の域にまで高めようと理想に燃えていた科学者でもあったと言われています。食というあり前のことを、単に食の充足のみとする従来の考えから脱却する発想をもっていたと言われています。
「食」を理論的な視点で語ると、
『人間が社会的・歴史的存在である限りにおいて、食にまつわる儀式や習慣、食品や料理法への知的理解度、さらには食事の作法やその場での演出等々、全てをあわせ持ったものが「食」であり、食そのものが重要な文化的要素である』だそうです。まったくもって妙を得ていると思います。

しかし、過去の日本の文人や学者は、どうしても孔子の「論語」の思想が支配的だった為に、いわゆる「君子は道を謀りて食を謀らず」や孟子の「君子は厨房を遠ざく」といった類の儒教的な発想で長い間推移してきた背景があります。私も大いに孟子の教えを盲目的に守っているひとりであると自認していますが。。。。

私の知人に自分の本業のほかに「ベジタブル&フルーツマイスター」の活動を野菜ソムリエとして、アンチエイジングライフを楽しんでいる方がいます。
コンセプトは、「アンチエイジング医学に基づいたものでありながら、人間の自然治癒力、免疫力、潜在能力を引きだすこと。」だそうです。野菜と果物に含まれる抗酸化物質による酸化防止等によって、驚くほどアンチエイジングになり、生活空間を変えられるそうです。よ。

食とは、全てひとの口に入るもの。
その影響は10年後や20年後に現れてくるものだと思っています。とても重要な生活そのものですね。
ところで、
日本の芸術や芸能のルーツを辿れば、やはり中国から渡来したと誰でも想像し、知っていることですが、日本の芸術や芸能のほとんどは中国のいわゆる唐様の芸術や芸能の輸入です。しかし、一旦輸入されると、国内に定着しはじめ、その後「その風土や習慣にとけ込んでしまう」ところが日本的でとても面白いですね。また、それ以前に渡来して定着したものにも、新たに新規の文化が混入し、重なり、より和洋化された文化が醸成されるという訳です。そして何年も重ねて、混ざって、独自化したのですね。
日本人の受け入れ安さと工夫は素晴らしいものがあります。時間が経つにつれて日本固有の文化に成長するのですから。

芸術や芸能」はそれぞれの発展過程で、修行や鍛錬が厳しく行われ、競演や競技に発展し、理論武装され、その道の極意が発見されるまでに至ります。
日本の文化は多岐にわたりますが、代表的な芸術・芸能は六道と言われいます。
書道、花道、連歌道、能楽道、花道、茶道です。

しかし、前述の「料理」または「料理法」に関する芸術性や長い伝統で育成された文化は、なぜかこの六道に列挙されていないのです。それは、儒教のせいでしょうか。それとも、元々食という文化は理論や極意を必要としない領域なのでしょうか?

現代まで、料理または料理法も当然ながら長い年月を経て熟成し、芸能といわれる域に達していると感じますが、さて「」に数えられないその理由はあるのでしょうか?

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おひとり様一回限り

2009.07.20

おひとり様一回限り」とは、映画館や音楽会の入場券の裏面に、小さく印刷れているその券の使用目的です。
現在では、インターネットやチケット"ぴや"やコンビニで受け取ってしまう味気ない簡易チケットにはありませんが、以前の入場券には必ず印刷されてた言葉です。

この言葉に私たちはあまり意味を感じられず、当然ながら意識もしません。
しかし、人生のあらゆる出来ごとはこれと同じではないでしょうか?
人々は"死の一回限り"にのみ、真実を見て、生における「おひとり様一回限り」を演ずることになります。

あるテレビ局の知人に誘われ京都で集った、友人の会に参加し、食事をしながら業界を隔てた多くの知遇を得ました。交友関係の幅広い知人で、この様な会をしょっちゅう集めて、ありがたくも声を掛けてくれるのです。
その京都ですが、一口で言い表せない特別な魅力を持っています。例えば、金閣寺、銀閣寺、清水寺、龍安寺等の寺院と庭園、その他にはおいしい京料理のお店等々好きな場所や好きなお店を挙げたらきりがあません。私は、この様な場所は他に知りません。

幼名を春王といった足利義満(あしかが・よしみつ)は室町幕府の第3代将軍で、清和源氏の一家系で、あの有名な鎮守府将軍・八幡太郎源義家(はちまんたろうよしいえ)の子を祖とする足利氏の嫡流です。彼は数え10歳で3代将軍に就任しましたが、祖父尊氏(たかうじ)も成し遂げられなかった約60年続いた懸案事項の南朝のM&Aにもその手腕を発揮し、難事案件を難なくまとめ上げます。
また、晩年には西園寺家から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け(または無理に寄進させてた)、金閣(舎利殿・後の金閣寺)を中心とする「北山第」(きたやまてい)を造営したことは周知の事実です。日本人でほぼ金閣寺を訪れていない人はいないくらい、修学旅行等の定番観光コースです。

今から七百年も前に、ここから豪華絢爛の北山文化が生まれいます。
さらに、もうひとつ、義満は重要な古典文化の興隆に深く深く携わっています。
それは「お能」です。能は義満抜きでは語れないほど深く彼自身の内面的な領域まで関わっています。
能の発祥はここでは省きますが、
大衆の支持によって芸術性を高揚した観阿弥の芸は、少年時代の世阿弥の可能性とともに、時の将軍・足利義満の目にとまります。
この出会いは、二者にとって非常に運命的であり、恣意的でもあります。
また、この出会いこそ、両者の目的が合致した、観阿弥・世阿弥親子にとっても将軍義満にとっても非常に重要なことでした。
義満の将軍職在職期間は26年間と比較的長い期間ですが、彼はその後院政を統べるので、その期間をいれるとほぼ40年間担当しました。これは当時もその後にもかなり突出した長期政権となりました。だからこそ、文化の醸成に金も時間も人も、長期に渡って必要な手を打てますし、今に残る芸能の基盤がこの当時うまれ育ったことに納得できます。
ここにひとつの疑問が沸く筈です。
彼は、何故観阿弥・世阿弥親子の田楽から脱皮しようしたこの当時の能に興味をもって、国家的に庇護を考えたのでしょうか?という疑問です。
能の歴史に初心者である私に解るはずなく、なので見識者の言葉を借りることにします。
すると、こうです。
この新しい芸能は、義満にとって既成の貴族文化に一矢を報いる絶好の自己証明の機会であったろう」とし、「それは教えられた貴族文化の中には絶対に存在せず、しかしたいていの貴族芸術よりもさらに貴族的となりうる可能性を秘めた芸能であった」と権力者である義満側からみたこの能という新しい芸能を自己の成長に重ねようとした彼の意図を鋭く抉っています。
この二つの言葉を繰り返せば、繰り返すほどに、しっくりと当時の義満の自信と気合いが充実している権力者としての気迫が伝わるようです。そうは思いませんか?

この事によって、この新しい能は、今日に生きる原点となり、世阿弥は、義満の庇護の下にこの新しい芸術に専念します。そして、世阿弥の血の滲むような努力は、「時に応じ所よりて、愚かなる眼にもげにもと思ふやう」に大衆の支持にを引きつけながら、しかも貴族の高い鑑賞眼にもかなう高度な芸の工夫に費やされることになります。

義満は、応永15年(1408年)3月、北山第に後小松天皇を招いて二十日にあまる歓待にあけくれます。そして、4月27日には、天皇臨席のもとに御所で次男・義嗣(よしつぐ)の元服式を行います。巨大な権力者には良くあることですが、彼も将軍職はすでに長男の義持(よしもち)に譲っていましたが、腹違いの次男義嗣を偏愛したと伝えられています。結局この偏愛が理由で義嗣は兄に殺されることになります。
そして、義満は元服式の二日後に発病します。
発病の原因は、度重なる行事によるストレスや義満が皇位簒奪(こういさんだつ)する意図を持ってとして暗殺ではという憶測もありますが、5月6日に気力精力とも常人を超えた最高権力者はあっけなく亡くなります。

時の最高権力者による観阿弥・世阿弥親子の大パトロンは、能を愛し、能を育成し、自らも芸能に深く関与し、700年後も延々と生き続ける芸能を世に送り出し、50歳の生涯を閉じます。

時の最高権力者という庇護者を失った世阿弥は、この後長い不遇の時代を送りますが、義満よりも35年も長生きし、80歳の天寿を全うします。

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プレステージ(続き)

2009.07.17

前回からの続き

ロンドン博の三年前、1848年にカリフォルニアで金が発見され、これを「ゴールド・ラッシュ」と呼んだことを中学の社会科で習ったと思います。歴史は時には面白い組み合わせをしますね。ゴールド・ラッシュの続く中、ロンドン博もアメリカ号の建造も英国でのレースも、ペリー提督による江戸幕府派遣もなされたという訳です。カリフォルニア、ニューヨーク、英国、日本と場所こそ異なりますが、ほぼ同時進行で歴史は時を刻んでいきます。
ゴールド・ラッシュ以前は、一寒村であったカリフォルニアに、東海岸から数十万人も金を目当てに人々が集まったといわれています。詳しい統計はありませんが、その半数は幌馬車を仕立てて砂漠を横断し、一路西海岸を目指しました。ロッキー山脈を越えるアドベンチャー的な危険を伴った旅であったと思います。しかし、残りの半数は海路を選んだと言われています。その証も確かにあります。もしかしたら、陸路よりもっとリスクが高いのでは?! いや、むしろ安全だったのかも。
金鉱発見前の1848年4月以前は一年間にサンフランシスコ湾に入港した帆船はわずか四隻でした。それがその後一年で、なんと775 隻という途方もない激増ぶりです。航路はもちろんニューヨークを出帆して、南アメリカの最南端のケープ岬回りでカリフォルニアに到達するのですが、当時の帆船のスピードでは早くて150日、遅くて240日でした。需要と供給はまさに現在のエアーラインと同じです。多くの人を運ぶには、多くの機材の確保と効率的なローテーションが必要となり、必然的に足の速い船が欲しくなり「快速帆船の建造」となります。これは時代の要求です。ここに登場したのが、すなわちサンフランシスコへの急行便として建造されたクリッパー・シップである「カリフォルニア・クリッパー」です。
船を作るときにもっとも重要なことは、天候の要素を除くと、斬新な設計の精度とその船をドライブする船員の技術力です。このような時に時代には必ず要求された人が現れるものです。
それが、「ドナルド・マッケイ」という帆船設計者です。
彼がカリフォルニア・クリッパーとして最初に設計した「スタグハウンド」という帆船は、1851年の処女航海で110日間の区間最高記録を出しました。ざっくと50日間の短縮です。そして、この船の実績を踏まえてより斬新な設計をした「フライング・クラウド」は同じ年になんと、89日間21時間という前人未踏な区間記録を作ります。時間当たりの平均速力は18.5ノットになります。これはとんでもない記録です。この当時のホーン岬周りは航路的にかなり精度が高まったとはいえ、まだまだ予断を許さない未知のエリアが多かったと思います。昔のシーマンは素晴らしく強靭な精神の持ち主が多かったんだと、いまさらながら感じるところです。西風の多いホーン岬沖は東に向かうときにはまだ、比較的進めても、反対に西に向かうときは帆船にとって非常に厄介なエリアであることは間違いありません。行きはよいよい、帰りは怖いというやつです。いや、本当に間違いなく恐ろしいエリアなのです。

実は、ニューヨークで建造された「アメリカ号」にはこの様な環境が徐々に整えられていました。
そこで、「パイロット・スクーナー」について話したいと思います。
パイロット・スクーナーは船の形式ではありません。使い方または、用途に名づけられたものなのです。一般に港には港の特性があります。風の吹き方、島、潮流、浅瀬、水路、泊地、錨地等、その港特有の性質があるために、船が港外にやってくると、その港に精通した水先案内人(パイロット)を乗船させ、そのパイロットの誘導によって入港することが常識となっています。エンジンを持たない当時の船ではパイロットは不可欠なものです。この同時のパイロットは自由競争制でしたので、港外に入港船が見えるや否や小型艇に飛び乗って、一番先にお客さんのところにセールスに行かねばなりません。よって、高速艇が必要となりました。これをパイロット・スクーナーと呼び、足の速いスクーナーは当時は花形であり、きっと評判が評判を呼んだのではと思います。

NYCの五人のオーナー達が「アメリカのスクーナーを代表するヨット」として建造するに当たって、新興国のアメリカらしく、ニューヨーク港で俊足のスクーナー設計者であるジョージ・スティアーズという弱冠31歳の青年デザイナーを選んだことも納得がいきます。彼は確かに青年でしたが、すでにそれだけの重責を負託されるにふさわしい実績の持ち主でした。ジョージは造船一家の父親も元で、十代から設計を手掛け、すでに多くのスクーナーを竣工させていました。そして、彼が21歳の時に設計した「ウイリアム・G・ハグスタッフ号」という船が素晴らしい快速船であったと記録にあり、長く歴史に刻まれる事になるのです。この若手の起用は時代や実績だけでなく、たぶんにスティーブンス会長のトップが持つ感性や積極性や賭けがあったのではないでしょうか。

建造についてもいくつかの強い意志が込められています。
その根底には、「米国の建造技術を見せる」に集約されています。
ひとつは、自力で大西洋を小型船スクーナーで横断できる仕様を設計及び造船所に申し入れたこと。想定外のこの事は、設計者にとっても造船技術者にとっても、操船するクルーにとってもとても大きな負担となりました。しかし、その負担は船の高速性能の他に、堅牢な船体構造となって具現化されました。そして、クルーにしても、当時からヨットレースはプロの仕事なっていましたので、熟練者の中でも超一級のスキッパーが選定されました。さらに、建造費は三万ドルと当時としては飛びぬけて高価な船になったこと。これも、英国においても恥ずかしくない艤装を求めた結果となり、最高級のアメリカ・クルミ材を船体にふんだんに用い、さらに船室は彫刻を施したマホガニー材で内装しました。

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