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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

ブリタニア

2009.07.31

紀元前五五年年八月二十六日は大英帝国の歴史の始まりである。」と言ったのは、ウィンストン・チャーチルです。この日は、歴史上初めてローマ軍の軍船がブリタニア(イングランド)の海岸に達した日です。ちろん、総司令官はかのユリウス・カエサル(後のシーザー)です。
私は塩野七生さんの「ローマ人の物語」がとても好きで手軽な文庫本を読破しています。特に好きな年代は何度か読み返していますが、カエサルがブリタニアをほんの一瞬ですが「斥候遠征」したことがあります。このことを契機に英国がその存在をローマに知らしめたとして、後年チャーチルが「歴史の始まりである」という名言を残します。
カエサルがブリタリアの攻めたのは、彼が45歳でガリア戦役が始まって四年目のことです。七生さんは一般的な「ガリア戦記」(戦記は出来ごとを年代順に書き残した記録書)といわず実際の戦争の行動期間をいい表すために「ガリア戦役」としています。言われてみるとそのほうがすっきりします。この戦役は通算八年間続くことになりますが、最終的にはこの戦役によってカエサルの持つパワーは強大に成長していくことになりますが、、当初はそう大きな軍団ではありませんでした。彼はこの八年間に彼に従う強靭なチームを作り上げていく事になります。もちろんルビコン前の出来事です。彼女のこの本を読めば読むほどユリウス・カエサルが魅力的で、惹かれていきます。且つ彼が「大器晩成」だったことがよく理解できます。

私たち日本人は、この国のことを説明するとき、ごく日常的に「英国」または、「イギリス」と呼んでいますが、たぶん説明足らずの表現ということになるでしょうね。この国の成り立ちは歴史上の経緯からして複雑な構成要素がたぶんにありました。正式には「イングランド(England)」と表記しますが、本来の意味は、"グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国"(イギリス)を構成する4つの「国」(country)の1つである。」と認識した上で、使わなければならないンでしょうね。ですので、少なくとも「イングランド」と表現することが最低条件の様な気がします。

英国は日本同様に島国ですが、日本と異なり近隣に強大な国々が歴史上頻繁に勃発したので、そのつど影響を受けます。日本での占領の危機は二度の元寇と日本が自ら招いた先の大戦の米国の実質占領の三回しか経験がありませんが、英国はカエサルのローマ軍が引き上げた後、ゲルマン系アングロ=サクソン人が侵入して、ケルト系ブリトン人を征服または追放してアングロ=サクソン七王国を興します。その後、アングロ=サクソンの諸王国はデーン人を中心とするヴァイキングの侵入によって壊滅的な打撃を受けますが、最後にウェセックス王アルフレッドがヴァイキングに劇的に打ち勝ってロンドンを奪還します。この当時の指導者であるアルフレッド王(在位871年 - 899年)がロンドンを手に入れたのは、878年の「エディントンの戦い」於いてです。
そして、東部地区を除いて、ほぼイングランド南部を統一します。その後、エドガーの時代に北部も統一され、現在のイングランドとほぼ同じ領域の王国となるわけです。世界史専攻の人には簡素化しすぎた説明かもしれませんが、お許しください。
この様に、英国はカエサルの時代から戦乱が続き、この後も長く長く続きます。日本と違いこの国では、実際にイングランド人以外の統治が長く続くことになる訳ですが、一番長期に政権を維持したのはやはりフランスです。例えば、かの有名なヘンリー三世がいますが、彼はアンジュー王家の血統を厳格に守り、生涯イングランド人になることを拒み続けた王として有名です。
しかし、その彼が1239年に生まれた長男を、イングランド名の「エドワード」と名付けたことから、国民はこの命名を喜び、エドワード一世として王位に就くや、イングランド名の国王としての再来と、強く彼を支持する国民感情が高まったようです。実はそこを狙ってエドワードという名をつけた訳ではなく、全く別な理由で命名されたのですが。

エドワード一世も、血統では父王同様全くのアンジュール人でしたが、ノルマン征服(1066年に所謂ノルマンディー公ギヨームによって征服され、ギョームがウィリアム1世(征服王)として即位し、ノルマン王朝は開かれます。当然、アングロ=サクソン系の支配者層はほぼ一掃されてしまいます)の1066年からすでに200年を過ぎているとあって、貴族階級だけでなく、広く英仏の混血化が進んで、当時はフランス語しか話さなかった貴族階級も英語を使い始める時代に突入していくのです。そして彼は父王とは全く異なる国王として統治に望み、多くの事績を残していくことになります。
彼は歴代イングランド王の中で、きわめて有能な国王の一人としてその名を残しました。
しかし、一方では、対ウェイルズ戦(1276-1295)、エドワード三世まで続く、対スコトランド戦(1296-1341)、その後は1337年から始まる、フランスとの百年戦争、ヘンリー六世の時代の仏からの撤退(1453)、そして1455年から始まるばら戦争に続く訳ですが、この撤退を契機にフランス系のイングランド諸領主も次第にイングランドに定着し、イングランド人としてのアイデンティティを持ちはじめ、最終的には民族としてのイングランド人が誕生するという物語となります。
英国がその国威を世界に示す基盤は、15世紀後半にやっと固まってくるのです。

さて、カエサルはいかにして、ドーバー海峡を渡海し、ブリタニア人と戦ったかというと、彼女はこんな風に表現しています。
彼はブリタニアを島と知っていましたが、島全体の大きさも住民の性向も人口も大型船の入港できる港も情報としては持っていませんでした。たぶん当時のローマ側でその情報を持っていることは皆無であったろうと、説明しています。当時も今も、情報は比較的商人に集まるものですが、カエサルの情報網もブリタニアについては、商人も通わない遠隔の地であるとの認識だったことに間違いありません。この時代の先進国はやはりローマ帝国でしたから。
なので、彼は将来的にローマ帝国に組み入れるための「偵察および調査」と位置づけしています。では、当時のドーバー海峡の制海権を持つブリタニア人(北欧船)の船はどんなものかというと。
カエサルのガリア戦記には「彼らは、低潮時の浅い水深のときでも、浅瀬を乗り越えていける様に、われわれの船より幾分平坦な船底の船体をしている。また、波が荒くてもそれを乗り切れるように、船首と船尾をかなり高くしている。そして、どんな衝撃にも耐えられるように、いたる所に丈夫な樫材を用いている。ビームの太さは一インチの鉄釘で締め付けた一フィート角の木材からなり、アンカーはロープの代わりに鉄の鎖で繋がれている。ただ、セールがやわらかななめし皮でできており、重い船体を有効に操船することができにくいであろう思われる。ただし、強風にさらわれ易いこれらの海面にうまく適合している。」と的確に相手の船の長所と短所を捉え、かつ自船の優位点は速力と自在にオールで漕ぐ事ができるという点であることも、十分に理解していました。

情報の限られていた当時としては、強風、怒涛、潮汐、浅瀬という海上の問題点を捉えたカエサルの眼力はずば抜けたものでしたし、北欧船の持つ基本的な要素を的確に捕らえていると思います。当時のブリタニア人が持つ北欧船に対して、地中海船は穏やかな夏の風を対象にし、ほとんど潮汐の影響を考慮しないで作られていました。もっとも、この場合の相違点は船体構造に関するもので、セールの形は北欧船でも地中海船でも横帆が一般的で、その上に三角帆がかけられた構造でした。ずっと後に、地中海船の象徴のように称されたラティーン・セールは中世に出現し、このセール・スタイルによって、横帆は完全に衰退しますが、それはずっとずっと後の事です。ともかく、カエサルは相当危うい「偵察および調査」を戦に勝ちもせず、かと言って負けもせず、なんとか凌ぎます。

さて、ウィンストン・チャーチルが大英帝国の歴史の始まりであるといった記念すべき名言に匹敵する出来ごとが、今から四百年以上も前の十六世紀後半にありました。この出来ごとによってイングランドは本格的に世界に君臨するきっかとになります。それは、当時世界最強を誇っていたスペイン海軍無敵艦隊「アルマダ」との熾烈な海戦です。
この時の英国海軍の最前線基地がプリマスです。現在でもプリマスは英国海軍の重要な軍港です。小高い丘には英国人として初めて世界周航を果たしたフランシス・ドレイクの銅像があります。ドレーク像と同じくスペイン無敵艦隊との海戦で勝利した記念碑も並んで建てられています。
カトリック世界の盟主であるスペインのフェリッペ二世は、当時ヘンリー八世以来の英国がカトリック教会を弾圧し、プロテスタントの英国協会を旗揚げしたことに、怒りを露わにしていました。スペイン支配からの独立を目指したオランダを英国が支援したことも怒りを増幅させます。反カトリック路線の「エリザベス一世」が即位するや、フェリッペ二世は英国侵攻を決意します。スペインの影響下の地中海の国々から集められた軍船を合わせ、およそ130隻あまり、当時の軍団編成としては最大規模の艦隊を組閣します。

未だ小国の英国が、西欧で最も豊かな大国スペインに真正面から挑んで勝ち目のない事は明らかでした。この辺は数年前に上映された「エリザベス一世」がとても印象的に表現しています。エリザベス一世には"ケイト・ブランシェット"が演じていますが、彼女の冷たい顔立ちは配役としては好演と言えるでしょう。この映画はイングランドの生い立ちと宗教的な変遷の知識がないと、楽しめないと感じます。その意味では、大衆性に不向きかも知れません。この映画売は売れたんでしょうかねぇ?
ただ、とても凝った衣装と宮殿や城の撮影には臨場感をたっぷりと堪能できます。
スペイン海軍との海戦に勝利したイングランドは、その後、世界に名を轟かす大英帝国へ発展します。

若い時、あまり面白みのないこのプリマスを訪れたのは二つの歴史上の重要な出来ごとからです。ひとつは、前述のスペイン艦隊との海戦ですし、もう一つは、17世紀に清教徒を含んだピルグリム・ファーザーズの一団、102名がこのプリマス港から、歴史上誰でもが知っている「メイフラワー号」に乗船し、新大陸に向かったことです。その到着地点は偶然にも、現在のアメリカ東部マサチューセッツ州の都市プリマスです。本当に歴史は時折、小説のようなアメイジングな偶然を作り出します。なのでここに誤解が生まれます。この事は、彼らが出発地と同じ名を同地に名づけたとよく言われますが、それは嘘で、どうも偶然漂流したらしいです。

イングランドは、チャーチルやエドワード一世やエリザベス一世といった個性的で戦争戦略に飛びぬけた力量を発揮する優れたリーダーを輩出する国柄なんですね。
近年では、鉄の女、"マーガレット・サッチャー"の「フォークランド紛争」が記憶に鮮明です。
我々は決して後戻りはしないのです!」とは彼女の有名な紛争終結宣言ですが、第二次大戦後の衰退し続けたイギリスを立て直した指導者としては一定の評価を得ており、イギリスを世界でも有数の競争力のある国家に生まれ変わらせた功績は大きいと思います。

サッチャーの最も尊敬する政治家はチャーチルというのも頷けませんか?

 

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