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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

プレステージ

2009.07.13

十八世紀後半に、スコットランドの機械職人の子として生まれた"ジェームス・ワット"(James Watt, 1736年1月19日 - 1819年8月19日)によって凝縮機、調速機、変速機の発明がなされ、これらの新技術によって、当時の蒸気機関は飛躍的な発展を遂げることになります。その結果、その後の産業革命が革新的に進展しました。その意味では、ワットの名は世界的に永遠に記憶に残ることになります。そして、英国で始まった産業革命は忽ちのうちに、西欧の世界を工業の中心に押し上げ、英国は「世界の工場」と称されるようになりました。

しかしです。二十世紀初頭に入ると製造業の中心は大西洋を渡って、米国にその主導権を握られることになります。米国は大量の自動車の生産、大規模な石油資源の開発と発掘、莫大な石油資源の化学による新素材の開発など、産業を原動力として世界の物づくりの頂点を極め、長く世界の製造業を牽引してきました。
ですが、米国は1980年代以降になって、自ら「脱製造業」のスローガンを掲げ、強力にこれを推進し、猛スピードで「経済のサービス化」や「ソフト化」に移行していきました。

その結果どのような事が起ったかは、周知の通りとなりました。
二十一世紀初頭の現在、世界の製造業の主軸は太平洋を越えて、中国から東南アジア諸国連合とインドを結ぶトライアングル地域に完全に移ったと納得せずにはいられません。
その証拠に、世界が終ってもビック3は残ると言われるほど強固なGMやクライスラーは経営破綻となり、政府介入、売却、事業解体等を余儀なくされました。唯一残っているフォードにしても、米国製造業を象徴する「フォーディズム」はすでに形骸化しているといわれいます。これに代わって、いまは、「トヨタイズム」です。

昨年秋に発した金融危機の主な舞台は、米国東部と英国、フランス、ドイツ等、北太平洋の沿岸地域でした。日本も被りましたが、この国々に比べると軽度であろうと言われいます。言ってみれば、世界の金融が大西洋を越えて影響し合ったと言えるのではないでしょうか。
また別の観点で捉えると、
脱製造業から強欲な金融至上主義にある時点から、その軸を大きく振ったその真意は、元来血の中に埋め込まれている欧米文明という根本的な思想のせいかもしれませんね。

しかし、その様な破壊的な金融危機の中で、世界でほぼ唯一、経済成長率が堅調なのは中国、インドネシア、インド等のアジアの大国です。
これらの国々は、いずれも製造業によって国内需要を基本として成長し続けています。

歴史は繰り返すという訳です。


さて、製造業という観点で、英国と米国とアジア諸国の過去と現在をなぞって見ました。こうして過去を振り返ると見えてくるものがあります。それは、英国です。大航海時代に始まり、産業革命を興し、世界の工場と称されるように、「常に世界をリード」してきたその国威は、まさしく世界で初めてPrestigeを得た国として十分な存在感を感じます。でも、その英国を常に脅かしたのは、米国です。

そこで、西欧諸国の中で最も存在感のある英国と大西洋で向かい合う大国の米国との「プレステージ」を一つの行動によって立証したいと思います。この二国は長くプレステージを奪い会いました。しかし、この"Prestige"という言葉は、日本人の私たちには馴染みの薄いものです。では、この二国間の"Prestige"は、どこに存在し、どのような形で私たちの目に映るのでしょうか。

PrestigeをWikipediaで調べると、
名前の付け方が多様化した時代にマーケティング・広告宣伝にかかわる人たちからそれまであまり日本語としてはなじみのない"プレステージ"という言葉を商品名として使用することが広まる。日本でも一般化し、ネーミングとして様々なものに使用されている。ただしその意味は、「地位、名声、卓越性、傑出」していることといった英語の本来の意味に加え、そこから連想される、「贅沢さ、特別なもの、他にないもの」、といった意味も加えられている。でした。

この解説文を読むと、日本人の言葉の使い方、行間の読み取り方、語彙の豊富さ、どれをとっても驚異としか言いようがありません。しかし、驚異がどこにあるかは、説明を省きます。

そのプレステージとは、ヨットの事です。

事の始まりは「アメリカ号」という名のヨットです。名称はヨットですが、実はスクーナーです。アメリカ号は二本マストで縦帆装置の儀装を持つ、全長101ft余り(31mくらい)、170.5tの小型帆船と言われるものです。しかし、日本人の私たちの感覚のヨットはたぶん1t未満ですから、小型船とは言え170.5tという大きさは、想像を少し超えていますね。この船は1851年に建造されました。
今から160年くらい前のお話という訳です。
このスクーナーは、前方にフォアマスト(船の前にあるマスト)があり、後方にメインマスト(船の後あるマスト)がある基本構造をしています。北欧やロシアでさんかに建造されましたタイプです。のちの米国では、四本マストや五本、六本、七本マスト等建造された記録がありますが、スクーナーの帆は縦に帆を張る縦帆船です。一般に縦帆船は、向かい風に対する逆走性能と操帆作業の容易さに利点がありますが、大型船になると操帆が困難で、且つ危険もあっのたで、不向きとされています。なので、スクーナーなどの小型沿岸船に採用されていたようです。この逆を言えば、大型帆船は横帆装置を備えた横帆船が圧倒的に多いということになります。

アメリカ号を保有する「ニューヨーク・ヨットクラブ(YC)」は、1844年に誕生した設立七年目の歴史しか持っていないヨットクラブです。それでも米国唯一のクラブなんです。やはり新興国家の米国とヨットクラプにおいて五十年以上の歴史のある英国では格が違いすぎます。
この艇は英国でレースをする目的で、1850年秋からニューヨークで建造され、1851年5月に完成しました。6月21日に出港し、大西洋を自力で横断航海して英国を訪問しています。また、先ほどスクーナーは沿岸船と言いましたが、大西洋を横断する様には一般的には出来ていませんし、レースのためだけに新造船を作るという所からして、常識から外れていますし、いろいろな点で納得がいきません。

さらに、アメリカ号の英国訪問には、不可解でしっくり来ない点が多いです。

"招待"されたような英国訪問ですが、実際のヨットレースの参加権は招待側の規程で、そもそもその権利を有していませんでした。ではなぜ招待されたか?
経緯はこうです。
1850年の早い時期に、英国人の何人かとニューヨークのビジネスマン何人かで、ヨットに関する書簡が多数交換され始めました。
そして、結果的に「来年51年はロンドンで博覧会が開催されるが、このタイミンクで、最近YN港で快速と評判のパイロット・スクーナーを英国に派遣し、英国艇とレースする」と。
この書簡のやりとりで、アメリカ号を招いた、または挑発した人物が存在するはずですが、公式な資料には出でこないそうです。また、当然時期的にロンドン博が意識されていいますが、"出展物"としては、全く念頭にない英国派遣でした。あくまでも、招待レースという意識です。
また、「パイロット・スクーナー」という聞き慣れない言葉が出てきますが、ことは後々説明したいと思います。

さて、書簡の交換でレースの決定をした後、YC(ニューヨーク・ヨットクラブ)の会長、ジョン・コックス・ティーブンスは、五人の有志を募ってシンジケートを組み、ヨットの製造に入ります。このヨットの設計者は、ジョージ・スティアーズという若手設計者に委託されますが、後年彼はこの名声によって軍関係の造船を担当する造船所を経営することになります。当時31歳であったと記されています。
そして、招待側の責任者はワイト島のカウズに本拠を持ち、最も権威のあるクラブとして著名なロシヤル・ヨット・スクォードロン(RYS)の主要メンバーの一人であったろうという憶測ですが、この説が現在では最も有力らしいです。

アメリカ号はこの様な経緯で大西洋を渡り、最初フランスの港で船体をシャープな黒に塗りかえる事と、レース用の艤装及び整備をしたとの事です。そういえば、この二年後にマシュー・カルブレイス・ペリーが提督として真黒な五隻の船で浦賀に乗り込んできます。米国は相手国に乗り込む時は「真っ黒」が国柄なんでしょうか?
いずれにしても、カウズにある「ロシヤル・ヨット・スクォードロン」の招待艇のとしての待遇を受けたものの、やはりレースの出場権は得られませんでした。

その理由は、長く伝統のある海運国として、貴族や上流のソサイティで作られたクラブらしく、ヨットはあくまで個人所有が基本であるとされていたためです。共同所有のアメリカ号は、その資格に欠けるとの見解です。
しかし、これは表向きの理由で実際には、アメリカ号がカウズに到着した翌日の朝、練習中のロシヤル・ヨット・スクォードロン所属の新鋭艇ギムロック号を軽々と追い抜いていったスピードに、恐れをなして、レースを行う勇気を失ってしまったという、まことしやかな説もあります。実は、本当に恐ろしく早かったのです。それには理由があります。それはのちほど。
出場権を得るために、ア号のスティーブンス会長は奔走します。他のクラブへの懇願や新聞での世論を利用し、ア号を招いたロシヤル・ヨット・スクォードロンへの批判を煽り、結局「特例」を作り出します。
この時の屈辱的な体験がもとで、トロフィーの胴体にある言葉が刻まれる事になります。
それは、「いかなる国のヨットクラブに対しても開かれた争奪カップ」と。
この有名な言葉によって、クラブ対クラブで自由に競い合うチャレンジ・カップとしての伝統の基礎がなされたと言えます。
この言葉の持つ意味は、まさに「プレステージ」を意味する言葉して重要です。
と、言うのは、このトロフィーの争奪戦は、国際的な競技機構や各国の競技機関などの公的な権威に一切関与されない事と、ヨットクラブの自主性だけによって行われる意味を包括しており、その事によってこのレースに対する心構えが、極めて高度な精神に昇華させている理由と言えます。

はたして、1851年8月22日のクラブ・レースのアメリカ号の参加が認められます。

さらに、このレースに前もって用意されたものがあります。
それがこののち非常に有名になる「銀杯のトロフィー」です。この日のために用意しましたが、特に名前はなく「100ギニーのロシヤル・ヨット・スクォードロン」と、呼ばれていました。
100ギニーは当時の貨幣単位で金貨100ポンドです。純銀で重さは134オンス(2,798g)です。
このトロフィーは、三年前の1848年に王室御用のロバート・アンド・セバスチャン・ガラード社という宝飾店で数個の同一の物が制作され、その一つをクラブが購入して、当日の優勝トロフィーとしたようです。

お話が長すぎます。休憩して次号に続くことにします。

 

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