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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

イサム・ノグチ と ドウス昌代

2006.01.09

今年の「お正月休み」は例年より少し日数が少ない上、公私の行事で個人的な自由時間を取れていませんでしたが唯一素晴らしい「二冊の書籍」に出会いました。

一冊は、
さゆり〈上・下〉です。
アーサー ゴールデン (著), Arthur Golden (原著), 小川 高義 (翻訳),文春文庫
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もう一冊は、
イサム・ノグチ〈上・下〉―宿命の越境者-
ドウス 昌代 (著),講談社文庫
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この二冊を選んだ理由はありますが、たまたまこの二冊は時代がオーバーラップしていました。お正月の三ヶ日と今週で六冊分の分量は決して多くはありませんが「読みたくて仕方が無いくらいの面白い本」でしたが、纏まった時間がとれずそれが結構ストレスに感じたほどです。

最初にドウス昌代 著「イサム・ノグチ」から始めようと思います。

美術に造詣の深い知人がいます。多くの美術展覧会や美術館廻りに出かけて行かれるようです。時々案内を頂きお誘いを受けます。
レオナルド・ダビンチレスター手稿も知人からのお誘いがキッカケとなり出かける事にしました。そういえば古の俊才「井真成(せいしんせい)」も知人からのお知らせでした。
そして今回は「イサム・ノグチ展」のお誘いでした。この展覧会は世界的に著名な「イサム・ノグチ」の彫刻から空間デザインへ~その無限の創造力~というタイトルでが東京都現代美術館で昨年の9月16日(金)から11月27日(日)まで開催されていたものです。
実は再三件の知人よりお誘いのお声がありましたが「多忙」を理由にお断りをしていました。知人はすっかり気分を害したのか、または会期も終了したせいか「ぷっつり」この件での会話がなくなりました。
いゃあ。悪い事したなぁと反省している次第です。

そして、僕はその事をすっかり忘れた年末の日曜日でした。
新日曜美術館という番組で「イサム・ノグチ」を見て衝撃を受けてしまいました。司会の山根基世さんとはなさんが担当するこの番組は日曜日に良く見る番組ですが、その日は違いました。ゲストのドウス昌代さんの「イサム・ノグチ」に対する姿勢・アプローチ・個人的な意見でなく調査の集約としての説明に一種の感動を覚えたのです。
そしてすぐさまAmazonでオーダーしました。その時、ついでの様に件の書籍二冊を注文しました。そしてすぐに知人にメールし、「お詫びとイサム・ノグチの素晴らしさ」を伝えお許しを頂いた訳なんです。このついでの「さゆり〈上・下〉」アーサー ゴールデン著も実は、トンでもないほど読み応えのある小説でした。ついでという行為に感謝です。

「イサム・ノグチ」をフィクションとして克明に記述した「ドウス昌代」さんを「イサム」というアーチストを浮き彫りにする事によって、実は彼女自身の姿勢をよく理解出来たと錯覚に陥るほど素晴らしい出来栄えと思います。
「イサム」を語るには日米の時代背景が欠かせませんが、それよりもイサムの父、野口米次郎という詩人であるが人間的に軽薄さを拭えない米国への出稼ぎ目立ち屋人間が必要となります。
と同時にイサムの母であるレオニー・ギルモアの当時とても珍しい大学卒という高等教養を持つ女性であったこと。また、彼女の両親の生い立ちと更に祖父の北アイルランドからの移住の経緯も含めて重要なイサム成形があったと感じます。「イサム」が現在のように著名〔戦後という区切り〕になる以前が最もイサムという人間性の魅力が溢れていると感じました。

ドウス昌代さんは世界中に点在しているイサムの断片的な点を一個ずつ探し、調査し、点と点との共通部分を探り、ゆっくりと時系列に繋ぎ合わせ一つの「イサム・ノグチ」という人生を完結させました。

彼女と彫刻との出逢いをこの書の冒頭で彼女自身が説明しています。
大学時代は「美術史専攻」で卒論のテーマは「中国六朝及び西域文化の影響をもろに受けた飛鳥時代の仏教彫刻」で当時唐招提寺の研究家安藤更生が指導教官であったそうな。芸術家「イサム・ノグチ」への関心は卒業の7年後にNYのウォール街での見た「赤い立方体」だったという事です。それから30年です。
イサム・ノグチが「記憶が薄れて白紙に戻ってしまう前に」と83歳で本格的な自伝を残そうと思いたったそうです。晩年、より多忙のなか彼は録音テープを使って作業を進めようと考えようですが、録音したものを聞くと焦点が定まらず同じ事を繰り返して中々思う様に行かなかったそうです。彼はその自伝作成のウォーミングアップ中に亡くなりました。

この事を読んでいるとき、きっと「イサム・ノグチ」は自分の生まれた背景、自分の少年期、成功した自分等々をテーマに自分の意思を忠実に世に残すために「ドウス昌代」の出現を待っていたのではないでしょうか? その時のドウス昌代さんはイサムの期待に十分応えられる程の美術知識と人生の経験者としての責任と自信と自覚があったのだと思います。
僕はそう思えてなりません。この本を読んだ方はどの様に感じのでしょうか?

これと同じ事が「さゆり」のアーサー ゴールデンとの関係がそれです。ですがこちらは完全な小説〔フィクション〕です。

知人は大事にしませんと。

■参考
イサム・ノグチの情報サイトです
http://www.consolstile.com/noguchi/

一度は訪れて見たいと思います。
モエレ沼公園
http://www.sapporo-park.or.jp/moere/

 

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