BrainSellers.com

Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

しのふ

2009.10.18

私のとても若い知人の女性から、ある問いかけをされて戸惑ったことがあります。
その問いかけとは、
「私は、彼からのプロポーズを望んでいますが、どうしたら彼は私にプロポーズを言ってくれるのでしょうか? 教えてください。」
「う~ん」と、しばし絶句。誰でもこの難問に答えるすべはありません。

そういえば、
NHKの大河ドラマで直江兼続の波乱万丈の生涯をドラマ化して放送していますが、少し前の放送で、兼継と千利休の茶室での問答がありましたね。利休の時代では、特別な場合を除き「茶の湯」はまず男のものでした。
戦国時代は数十年戦(いくさ)に明け暮れていたせいで、平均寿命は18歳と言われています。ですから、戦で命を落とすことは日常茶飯事ということになりますね。なので、あの時代に、「人生50年」は、命を全うした寿命と言う訳です。
だからこそ、その覚悟を「日常とする生活」の中での"茶の湯"というひとつの儀式の中で「一期一会」という感覚が自然と身についたのではと思います。多くの武士(もののふ)が命を落とすことが日常的な中で、過酷な戦国の世を生き抜いてきた武士のみが茶会での一期一会の重さを知っていたともいえます。
現代の私たちはどうでしょう。
私たちは一期一会の意味や理由をよく理解していますが、その実感はありません。いまの世の中で、日常的に命を落とすことが稀だからです。もちろん不治の病気や交通事故や偶然の犯罪事件に遭遇する不慮の事故も無くはありませんが、それとて稀といわざる得ません。

兼継は兜に「愛」をという文字を象った敬愛の精神をシンボルマークにしていますね。この時代には稀有な概念というべきかもしれません。茶室で問答した「利休」も同様に無言の表現を行ずる稀有な存在といえます。
この二人が同時代に生きたこと自体が稀有な事かも知れません。

さて、冒頭の若い女性の「恋愛」の悩みに戻りますが、
私たちの先祖が「愛」を表現するのは、ずっと後年の事と言われています。
万葉の時代を生きた私たちの先祖は、思慕することを「し・の・ふ」という言葉で表現しています。「愛」とはまだまだ距離がある表現だと感じませんか?
この「しのふ」はどうも故郷を思慕または賛美するときに使われていたようです。後年の私たちが使う「愛」の原型であろうという見方が強いですが、まだしっくりこないです。
また、面白いことに「し・の・ぶ」という言葉を耐える事の意として使われています。「しのふ」と「しのぶ」は清濁の違いで意味も異なりますが、しかし同類の言葉として存在しています。日本語の語彙の情緒さと、外国人が戸惑う表現の複雑さです。
古代の人は、思慕することと、忍耐することを同類でありながら区別する感性を持ち合わせていたことに驚きを感じます。
そして、その語彙を深く読んでいくと、
「思慕」とは、じっと思慕することと、もうひとつ、思慕の重みに堪えることと表裏一体の関係であることを想像できます。そして、もう一歩深く突っ込んで「重い抑圧のない思慕」などは、所詮は存在しない思慕というこになります。
この思慕ですが、その重みの中からな自身の心の内を相手に放ってゆける思慕と、重みの中に打ちしがれて沈み行く思慕の二つの展開になると思います。
なので、思慕を寄せる事は、賛美することと言い換えても良いのかも知れません。その方が自然ですね。
「賛美する行為」とは、いかに抑制された「思慕が存在する」ものであるかを一層明確に示しているというわけです。
そこで、兼継の「愛」の兜ですが、ご存知のように「愛」は、漢字として中国から輸入され言葉ですから、元来私たちの先祖である古代人たちが、本来持っていたものでないことは想像できます。
ですから、現代の愛のルーツを探すとしたらやはり私たちの本来の言葉である"やまとことば"からということになるのでしょうか。


さて、「愛」の話に続いて、興味深いテーマをひとつ。
「女装する女」という目から鱗が落ちるテーマです。
「女性が女装する」の現象は、男性の我々にはちょっと理解しにくいものですが、湯山玲子さんは的確に答えています。
簡単に言えば、女性である彼女たちが、彼女たちの普段着であるカチカチのビジネス・スーツやジーンズ等のカジュアルウェアを脱ぎ捨て、「女らしい」フェミニンなコスチューム、メイクも男性好みの蠱惑的(こわくてき)に仕立て上げ、立ち振舞いも優雅に変身する事を"女装"すると言うそうです。
「う~ん!!!」すごい。そういうものかぁ。
しかし、「女が女装する」ということに関して、殆どの女性が「あるある」と膝を打つそうです。
「本当に~」と思いたい。
これに対して男性側としては、
「だって、女が女らしくするのは自然なことでしょう? それは女装と言わないんじゃあないの」と言いたい。が、バッサリ湯山玲子さんに切り捨てられてしまいました。

張本人の女性はと、彼女は前置きして、
「最近仕事がハード過ぎて、女、忘れてる」とか「ふっと見た輝く指先のネイルに、あぁ自分は女なんだと確認できる」等々、口走っているようです。
彼女に言わせると「男性が女性の服装で装う=女装」と同意語と豪語します。女性がおしゃれの軸をフェミニンの方向にぐっと振った時、その心境は、殆ど男性の女装と同じだと言い切っています。
と、言うのは、多くの女性は頭の中が、常に女性ではないと。一日の心の動きの中で、女性という根拠で物事を考えている時間が、いったいどれくらい存在しているかといえば、そう多くないのだと。実は彼女は"ゼロ"に近いと自信満々に語っています。

逆に、男性にも同様な「男が男装する」があるといいます。
ただし、彼女は男ではないので、断定的な表現はせず、少し柔らかくなっています。
しかし、男性にも「男はこうあるべし」という男性文化社会で、常に男らしさを体得するので、奮闘努力の連続中に「男装」せずとも、その成果として「男らしさ」を出せるのだとも言っています。
確かに、その様なことはあると思うし、想像できます。

そして、まだまだ、玲子さんの自説は続きます。
スワロスキーの光り輝くアクセサリー、
今は流行らない豪華な毛皮、長いピンヒールが繊細なハイヒール、コルセットでキュッと締めたシャープなシルエット、、、、
女性がバシッとドレスアップして、大胆に着飾ったときの装いは、高級娼婦に似た勢いがある。という。
そして、そんなコスチュームを好んで着こなしている存在としては、
浜崎あゆみ、安室奈美恵、神田うの、叶姉妹等々があげられるそうです。もっと、多くの著名人の名前がありましたが、私が知る人はこの四人でした。

彼女たちの女をフル装備した"女装"は、圧倒的に男性よりも女性に人気というのが、ここでは重要なキーワードでしょう。
なぜ、女性に人気かと言うと、皆、野心家であり、下積みや人間関係の複雑さを超えてきた一種のサクセスストーリーを持ち、その内面は女というよりは「男」であると言い切る。
その上、女が女に身に着けるアイテムを再発見させてくれる存在らしい。
だから、
その総合評価が、圧倒的に女性の人気という秘密らしい。
う~ん。頷ける点が多い彼女の持論です。

この続きは、とてもエキサイティングな展開になり紙面が足りませんので、興味のある方は読んでみてください。 (参考:「女装する女」湯川玲子著・新潮社)

 

Copyright(c) BrainSellers.com Corp. All rights reserved.