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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

船出にいい風

2006.11.22

船出にいい風が。。

長く風待ちをしておりましたが、やっといい風が吹いて来ましたので「船出」を決意しました。

奇しくも今日、11月22日Cutty Sarkの進水式を執り行った日です。ざっと140年前の1869年の月曜日の午後の出来事でした。その日は発注者である「ジャック・ウィリス」が待ちに待った日でした。ジャック・ウィリスは元帆船の船長であったジョン・ウィリスの次男です。当時親子で「ジョン・ウィリス父子商会」とう一隻の帆船を所有する小海運業を経営しておりました。
1,745トンという大型でも帆走性能のいい「ザ・ツイード」という船を持っていました。しかし大型船のツイードでは「お茶貿易」に投入することは無理と考えていました。そこで中国・英国間を突っ走る小型の高速船ティー・クリッパーの建造に着手したのです。
しかし彼に十分な資金をもっていませんでしたので、著名な造船所に発注することが不可能でした。
そこで無名でも斬新な設計を引き受けてくれる「ハーキュリーズ・リントン」と造船技師の「ウイリアム・スコット・モンクリーフ」を幸運にも見つけ出します。
しかし時はすでに帆船の時代では無い風潮がありました。その代表が1859年の着工から10年を費やし1869年11月17日に開通した「スエズ運河」です。既に世の中は汽船を中心とした輸送手段へ変革しようとしている矢先で、カティ・サークの進水は「時代錯誤」と陰で皮肉られる出来事でした。

〔今は英国Cutty Sark博物館として一般公開されている〕
しかし、後世の知識人から見た「Cutty Sark」は早く走る船として最も完成度の高い最終型と言われています。帆船のもっとも進化した形といわれている横帆と縦帆を組み合わせた「全装帆船〔フル・リグド・シップ〕」はヨットと比較にならないほどダイナミックで重厚で洗練されれた美しさを持っています。
全盛期のカティ・サークは平均速力で16.5ノットを保ち、ライト・アフト・ウィンドと呼ぶいわゆる真追風〔まおって・真後ろから吹く風〕では20ノットの快走を記録しています。現在のハイテクな建造技術をもってしてもこの速度は群を抜いています。

40枚を超える帆を展開して疾走する「フル・リグド・シップ」のカティ・サークを想像ください。
エンジン音や振動は全くせず、大きく風を受け、その為に10度程度傾斜します。音は風を切る音のみです。そしてバウ(船首)で白波を切り裂く「ザーッ、ザーッ」という音も幻想的な世界です。
帆船の圧倒的な優雅さと重厚さを感じる瞬間です。

偶然にもそのCutty Sarkと時期を同じくして「赤坂」の地より江戸城郭内の「九段下」に移転しました。

来年宮内庁は都内でもっとも自然な庭と知られる吹上御所の見学を許すそうです。

江戸中期には本丸・西の丸など江戸城内郭(うちくるわ)の総面積は30万坪を有に越す広さだったようです。その内、北の丸は現在の竹橋から千鳥ヶ淵、牛ヶ淵の堀に囲まれた地域を指します。家康さんが住みなれた浜松から関東に転封されて江戸城作り始めましたが、この北の丸付近の初期の頃は米蔵と大名宅だったそうです。それから50年を経た時に「明暦の大火」を経験します。江戸の三分の一と西の丸を残してすべて城郭も消滅しました。
その教訓を得て江戸の中期には北の丸城郭内に御三卿のうち「田安家」「清水家」の両家を屋敷を配置しました。北の丸にあった城門の呼び名が「田安門」「清水門」と呼んでいましたので、家名も同様にした様です。「一橋家」はというと、現在の気象庁のあったところの「一橋門」に屋敷を配置し、そう呼ぶようにしたようです。ちなみに田安と一橋は八代将軍吉宗の子であり、清水は吉宗の子の家重の子によって家名を立てました。当時将軍家と御三家は継嗣問題で不和が生じ疎遠となり、新しい血脈の別家(本家の将軍の血を引く)がほしかったようです。
明治になると北の丸にはお上をお守りする近衛師団が設置されています。
戦後に北の丸公園として生まれ変わっています。
今では重要文化財的な「田安門」「清水門」「旧近衛師団司令部邸」や千鳥ヶ淵水上公園等が都会の中の静寂を与えてくれます。

新事務所の移転に際して
①駅に近く二路線以上の交通手段(JRまたは地下鉄)があること。
②増床4-5割り増しで、坪単価が想定の範囲内であること。
③社員が生活しやすい窓が多く明るく天井が高いこと。
の三つをベースに今年の夏より選定に入りました。
多くの候補から10箇所程度現地見学を行いましたが、現在のこのビルは見た瞬間に「それだ」と思い即座に決定しました。
それは上記の三つの要素をすべて含んでいるだけでなく、この地が江戸城郭内であったという事も重要な決め手になりました。

来春三月の千鳥ヶ淵や牛ヶ淵の桜並木はきっと見物でしょう。
当社もここ五年間、積上げてきたすべての力を来年は発揮出ると感じています。

 

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