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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

プレステージ(続き)

2009.07.17

前回からの続き

ロンドン博の三年前、1848年にカリフォルニアで金が発見され、これを「ゴールド・ラッシュ」と呼んだことを中学の社会科で習ったと思います。歴史は時には面白い組み合わせをしますね。ゴールド・ラッシュの続く中、ロンドン博もアメリカ号の建造も英国でのレースも、ペリー提督による江戸幕府派遣もなされたという訳です。カリフォルニア、ニューヨーク、英国、日本と場所こそ異なりますが、ほぼ同時進行で歴史は時を刻んでいきます。
ゴールド・ラッシュ以前は、一寒村であったカリフォルニアに、東海岸から数十万人も金を目当てに人々が集まったといわれています。詳しい統計はありませんが、その半数は幌馬車を仕立てて砂漠を横断し、一路西海岸を目指しました。ロッキー山脈を越えるアドベンチャー的な危険を伴った旅であったと思います。しかし、残りの半数は海路を選んだと言われています。その証も確かにあります。もしかしたら、陸路よりもっとリスクが高いのでは?! いや、むしろ安全だったのかも。
金鉱発見前の1848年4月以前は一年間にサンフランシスコ湾に入港した帆船はわずか四隻でした。それがその後一年で、なんと775 隻という途方もない激増ぶりです。航路はもちろんニューヨークを出帆して、南アメリカの最南端のケープ岬回りでカリフォルニアに到達するのですが、当時の帆船のスピードでは早くて150日、遅くて240日でした。需要と供給はまさに現在のエアーラインと同じです。多くの人を運ぶには、多くの機材の確保と効率的なローテーションが必要となり、必然的に足の速い船が欲しくなり「快速帆船の建造」となります。これは時代の要求です。ここに登場したのが、すなわちサンフランシスコへの急行便として建造されたクリッパー・シップである「カリフォルニア・クリッパー」です。
船を作るときにもっとも重要なことは、天候の要素を除くと、斬新な設計の精度とその船をドライブする船員の技術力です。このような時に時代には必ず要求された人が現れるものです。
それが、「ドナルド・マッケイ」という帆船設計者です。
彼がカリフォルニア・クリッパーとして最初に設計した「スタグハウンド」という帆船は、1851年の処女航海で110日間の区間最高記録を出しました。ざっくと50日間の短縮です。そして、この船の実績を踏まえてより斬新な設計をした「フライング・クラウド」は同じ年になんと、89日間21時間という前人未踏な区間記録を作ります。時間当たりの平均速力は18.5ノットになります。これはとんでもない記録です。この当時のホーン岬周りは航路的にかなり精度が高まったとはいえ、まだまだ予断を許さない未知のエリアが多かったと思います。昔のシーマンは素晴らしく強靭な精神の持ち主が多かったんだと、いまさらながら感じるところです。西風の多いホーン岬沖は東に向かうときにはまだ、比較的進めても、反対に西に向かうときは帆船にとって非常に厄介なエリアであることは間違いありません。行きはよいよい、帰りは怖いというやつです。いや、本当に間違いなく恐ろしいエリアなのです。

実は、ニューヨークで建造された「アメリカ号」にはこの様な環境が徐々に整えられていました。
そこで、「パイロット・スクーナー」について話したいと思います。
パイロット・スクーナーは船の形式ではありません。使い方または、用途に名づけられたものなのです。一般に港には港の特性があります。風の吹き方、島、潮流、浅瀬、水路、泊地、錨地等、その港特有の性質があるために、船が港外にやってくると、その港に精通した水先案内人(パイロット)を乗船させ、そのパイロットの誘導によって入港することが常識となっています。エンジンを持たない当時の船ではパイロットは不可欠なものです。この同時のパイロットは自由競争制でしたので、港外に入港船が見えるや否や小型艇に飛び乗って、一番先にお客さんのところにセールスに行かねばなりません。よって、高速艇が必要となりました。これをパイロット・スクーナーと呼び、足の速いスクーナーは当時は花形であり、きっと評判が評判を呼んだのではと思います。

NYCの五人のオーナー達が「アメリカのスクーナーを代表するヨット」として建造するに当たって、新興国のアメリカらしく、ニューヨーク港で俊足のスクーナー設計者であるジョージ・スティアーズという弱冠31歳の青年デザイナーを選んだことも納得がいきます。彼は確かに青年でしたが、すでにそれだけの重責を負託されるにふさわしい実績の持ち主でした。ジョージは造船一家の父親も元で、十代から設計を手掛け、すでに多くのスクーナーを竣工させていました。そして、彼が21歳の時に設計した「ウイリアム・G・ハグスタッフ号」という船が素晴らしい快速船であったと記録にあり、長く歴史に刻まれる事になるのです。この若手の起用は時代や実績だけでなく、たぶんにスティーブンス会長のトップが持つ感性や積極性や賭けがあったのではないでしょうか。

建造についてもいくつかの強い意志が込められています。
その根底には、「米国の建造技術を見せる」に集約されています。
ひとつは、自力で大西洋を小型船スクーナーで横断できる仕様を設計及び造船所に申し入れたこと。想定外のこの事は、設計者にとっても造船技術者にとっても、操船するクルーにとってもとても大きな負担となりました。しかし、その負担は船の高速性能の他に、堅牢な船体構造となって具現化されました。そして、クルーにしても、当時からヨットレースはプロの仕事なっていましたので、熟練者の中でも超一級のスキッパーが選定されました。さらに、建造費は三万ドルと当時としては飛びぬけて高価な船になったこと。これも、英国においても恥ずかしくない艤装を求めた結果となり、最高級のアメリカ・クルミ材を船体にふんだんに用い、さらに船室は彫刻を施したマホガニー材で内装しました。

「八甲田山」のカメラマンであった「木村大作監督」が渾身の力を注ぎこんだ「劒岳―点の記」が劇場公開されています。二十代の頃に新田次郎の作品は数多く読みました。特に感銘を受けたのは「栄光の岩壁/孤高の人/銀嶺の人」の三部作でした。もちろん「劒岳―点の記」も読み涙したものです。主人公の測量師は当時未踏の頂だった剣岳に地図を作るために観測点の設置を命じられます。しかし行く手には「剣岳は登ってはならない山」とする地元の信仰と、近代的な知識と装備を備えた日本山岳会が立ちはだかります。そして、新聞は話題性のみを取り上げて無責任な「測量隊と日本山岳会」の構図を作り出し、民衆を巻き込んで煽ります。主人公の前にはこれでもかと困難が山積みされますが、決して怯むことなく、かといって、たぎる思いを吐き出すこともせずひたすら「自分の仕事」に取り組みます。

「諸君がロンドン博と無関係といっても、世間ではレースを展覧会の行事としてみるであろう。敗れた時には国際的な恥辱になるから、レース出場は思いと止まる様に。」とは、フランス滞在中の米国商務長官W・ライヴィズ長官が直接ル・アーブル港に整備のために停泊中のアメリカ号まで出向いて説得した言葉です。
レースを主催した英国のロイヤルYSのメンバーの多くは海運や海軍関係者など英国海洋社会の指導的な立場の人々が会員です。当然英国と米国の海洋技術の代理戦争化したとしても不思議はありません。

日本の地図の中で空白であった剣岳に初登頂は、アメリカ号の勝利より50年後の出来ごとですが、ここに流れてる技術者や関係者としての誇り、情熱、意欲、寡黙さ、意気込み等は同質なものと思います。また、映画を実写で綴った木村大作もその一人として数えられるでしょう。

自国で発達し、改良を重ねた帆走艇の造船技術の優秀性を、かっての宗主国である英国の人々に見せつけて、存在そのものを認めさせたいという思いは十分にあったろうと思います。当時の英国は、いまだに海洋技術では米国など亜流に過ぎなないとう風潮が強く、これに対する強度な反発もあった事は事実です。
ひとの心に宿す情熱や意欲こそ不屈の精神を最大限に発揮できる原動力はありません。「アメリカス・カップ」と後年名づけられるこのレースの歴史はそれを証明し続けていますが、はじめての国際レースであるこの時ほど、関係者の心に何よりもそれが強くあったと思います。

アメリカ号の俊足の秘密はその設計・造船及び艤装にありました。
斬新な設計、船首のえぐり込んだ形の逆シェイプした継ぎ目のない船型、速力を最大限に引き出す流線形のセール、効果的なセールの張り方、どれをとっても最新技術の塊のようなスクーナーです。特に帆走船の走行効率は、セールにどのように風を「受けるか」でなく、どのようら効果的に風を「流すか」にかかってきます。この船のセールは、それを見事に成し遂げています。
ただ言える事は、アメリカ号は全てにおいて洗練された艇であったかもしれませんが、それとて米国内で製造される他のスクーナーと比べて、新技術を導入している訳ではありませんでした。

さて、肝心のレースに戻りましょう。
レースは14隻のクラブ所属艇にアメリカ号が参加する形で行われ、ワイト島を時計回りに一周する五三マイル(約九六㌔)のコースです。アメリカ号のスピードはスタート開始から目覚ましい速さでした。スタート地点は、カウズとポースマスの間のソレント海峡の東よりで、開始後しばらく走るうちに、アメリカ号はクラブ艇群を抜き始め、英仏海峡にさしかかる頃はトップに踊り出ます。
レースはアメリカ号の独走ともいえる抜群のリードで終始しましまた。
時計回りのコースで、ワイス島南岸沖を走る間にさらにリードを広げ、西端を回って、ソレント海峡にかかる頃には、後続艇は見えないほどだったとそうです。アメリカ号の圧勝です。


このプレステージというテーマもそろそろ終息しなければなりません。
あまりもテーマが壮大しすぎて、まとめがうまく見つかりません。
まだ名前のなかった国際レースが後年「アメリカス・カップ」となりましたが、この「アメリカス・カップ」が国際的に高いプレステージを誇ることの裏付けとして、よく使われている言葉に「国威をかけた海戦」と表現しますが、それは初回のこの時点から歴史上に現れていました。
その現象はたくさんありますが、一つは、米国商務長官W・ライヴィズ長官の「レース中止勧告」です。さらに、実は「英国女王陛下のヴィクトリア女王の観戦」も事実として存在し、プレステージの昇華に色濃く影響を与えています。

一隻のスクーナーが両国民に与えた感動の中に「国家」に比べるべき誇りと屈辱の重みがあった事は、動かしようのない事実です。

そして、この事実を事実として認められた事こそ、誇りと屈辱の相互関係を「プレステージ」という伝統に置き換えられるのではないかと思います。
そして、、これを「クラブ対クラブ」という純粋な形で奪い合うという歴史を160年たった現在でも継続することか出来るほど、当時の英国も米国も「プレステージ」が高かったのだと、今更ながら感動します。

出来れば、生涯に一度「アメリカス・カップ」を海上から観戦したいと夢見ています。

 

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