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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

法隆寺と林業

2009.10.25

東海や関西の出張はよくありますが、決まって名古屋と大阪です。
たまに、京都の出張がありますが、しかし、さすがにその先の奈良の出張はありません。そううまくいきません。しかし、仕事とは言え京都の佇まいを身近に感ずることは楽しいことです。
京都も奈良(飛鳥とか)も、情緒豊かで、いずれもとても好きな都市といえます。
特に奈良は。
何故かと言うと、奈良には「法隆寺」があります。
ご存知のように、法隆寺は世界最古の木造建築です。
以前、中国の友人を奈良に誘ったことがあります。スバ抜けて優秀なITの技術者ですが、とても寡黙で落ち着いた雰囲気を持っている若者で、その彼と法隆寺を散策しました。
そして、回廊の中に入り、立ち並ぶ柱に直接手を触れさせ、これが1,300年前の木だと教えると、途端に驚きの表情に変わります。
彼の驚きは、1,300年前の建築物という点ではありませんでした。
それもその筈です。中国四千年の歴史の中では、1,300年はさぼと古いものでなく、もっと古い建築物があることを当然のように自負しています。
が、彼が今まさに触れている柱の表面には、干割れやささくれがなく、柔らかな感触を伝え、とても1,300年間の風雪に耐えたとは全く感じさせない状態であることに驚いたのです。

法隆寺の「あの柱」に触れた方は、同様に感じたと思いますが、回廊のたくさんの柱からは、柔らかな温もりを感じ、また、そのような木が長い間、構造材として重い建物を支えていることに不思議さも同時に感じます。
木材は、一般的に時代とともに、その表情を刻々と変化させます。主な原因は乾燥と捩れによる歪みです。仮に乾燥による割れやねじれが生じなくても、必ずといっていいほど表面は風蝕によって少しずつ痩せていくと云われています。
特に風蝕によって、柔らかな部分から減って、木目が徐々に浮き彫りになり、やがてそれも痩せて「とても硬い節」だけが高く残ることになります。

文献では、風蝕は"百年に一分"が失われると定説がある様です。特に、軒下等で風雨を受けやすいところでは、百年で三㍉程度ずつ痩せるそうです。風蝕とはすごいものですね。なので、古い鑑定方法には、その痩せ方で、建物の年代を判断する方法もあるそうですよ。

そして、日本は古代より木造建築の顕著な国でもあり、そして森林国家でした。
その森林国家である日本が、現在最も可能性のある森林経営の時期を迎えているそうです。
ですが、昨今、その森林資源が危機に瀕していると警鐘がなされています。
過去の経緯から想像すると、林業は第一次産業の中でも最も不活発な産業に衰退してしまったかも知れません。
その理由は、
この産業の主な活動は治山治水の施策と山間部の雇用対策という名目で補助金を確保し、公共事業として長い間放置されてきた事が大きな要因と云われています。特に、戦後の復興特需期に、大げさに言えば日本中の森林を伐採し、その貴重な資源をほとんど伐り尽くした時期がありました。その証拠に、現在の森林の八割が林齢五十年以下と、長期政策せずして伐採した事実を極端に物語っているといわれています。
別な言い方をすれば、その後の長い期間、お金と人的労力を負担し続けた時代があったということです。
そして、日本の森林は忍耐の期間を終えて、いよいよ収穫期という分岐点を迎えているそうですが、このタイミングを逃さず効果的な施策を実施しないと冒頭の危機がやってくると云う訳です。

人工林というのは、木が生えてから五十年くらいまでに手を入れないと再生が難しくなるそうです。日本の人工林は、総森林面積の40%もあるそうです。逆に言えば、適切な間伐を行うとその後の森林整備コストが大幅に減少し、徐々に採算性が向上して、「林業」としてのビジネスが成り立つということになりますね。
間伐という行為で私が以外に思ったのは、森林を健全に保つには成長量の70-80%前後を安定的に伐採しなければならないということです。
全国規模でいえば、間伐材は相当量になるということになります。

私どものコア・ビジネスで、オンデマンド印刷を主軸としたSaaSビジネスをしていますが、最終的には紙への印刷を行います。実は、この間伐材を使用した原紙を使用することで、環境保護と資源の有効活用の両面で、ここ最近推進が活発になっています。このことは、当社からの申し出でお客様に採用を頂きますが、逆にお客様自らの発案によって、間伐材用紙をお使いになることがあります。間伐材等も含めて森林保護と環境保全を目的として有効利用とする世界的な仕組である"FSC"(参考Ⅰ)があります。
私たちの取り組みも、この方針に則って、環境保護に賛同していきたいと思っています。


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秋の星たちとオバマ大統領

2009.10.11

毎週散策に出かける自由が丘で三十年以上続いている"女神まつり"がこの三連休に開催されます。
10月は"秋祭(あきまつり)"のシーズンです。
ちなみに近所の三軒茶屋の"三茶de大道芸"は来週の週末です。
そういえば、親しい知人が今週末"横浜ジャズ・フェステバル"も開催していると教えてくれました。
"秋祭"は収穫を神様に感謝することと五穀豊穣の祈願から古来より行われているものですが、「能」の起源もここにあるといわれています。稲作を守護する神様は、春に田に迎えいれて、収穫が終わった秋に再び山へ送りるという意味合いがあるそうです。そして、能はその発祥のころ「猿楽(さるがく)」あるいは「猿楽の能」と呼ばれていました。
日本語には美しい季節を表現する言葉が多いですが、"秋祭"の他によく使われる「秋」に因んだ言葉として"秋晴れ"、"寒露(かんろ)"、"秋渇き"や"霜降(そうこう)"などがありますね。
古来、日本人の情緒には洗練された感性を感じますが、特に"行く秋"や"紅葉"は語彙の品格もさることながら、その情景を実感として感じるほど言葉に力があると思います。
とは言え、秋は気候的には過ごし易い季節にも関わらず人恋しくなるのはなぜでしょうか?

"人恋しさ"は、秋の星座をみても同じように感じます。
とてもにぎやかな夏の星座や豪華な冬の星座に比べ秋の星座はスター的存在の星も少なく、数ヶ月間はとても寂しい夜空が続き人恋しさを促進させるようです。

昔々、
ペルシャ湾にそそぐチグリス川とユーフラテス川の狭隘部にあったバビロニアに住む"カルデア人"たちは、世界観や人生観の方針を決めるために星の動きで運命を占うことができると信じていました。五千年前の出来事です。
彼らは現代のように光の技術を持っていませんでしたから、晴れた日の夜は漆黒の夜空に満天の星を仰ぎ見ることができました。
彼らは夜空を仰いで何を感じたのでしょうか?

「夜空を見上げるとそこには美しく輝く星たちが存在し、心をひかれ、想像は果てしなく続き、そして物語りや星たちを称える歌を作る。」
そして、
「神々はきっとひとつひとつの星に存在し、それぞれの役割を持ち、この世界を作り上げた。」
などと想像してしまいます。
五千年前のカルデア人の人生観や世界観はあまりに遠くて想像の域を超えていますが、彼らが名づけた星の名前から彼らの"想い"や"願い"を感ずることができそうです。
その想いとは、
特に明るく星たちや印象的な星たちを繋いで、"羊や牛や蟹やサソリ"など自分たちの身近な動物や生活用品のシルエットを夜空に描きました。彼らのその行為は生活や人生そのものであったかも知れませんが、現代のぼくらは、その事自体がとても新鮮で情感溢れてると感じます。
そして、数世紀後、ギリシャ人たちは"ヘラクレス"や"アンドロメダ"など、神話の英雄や美女や怪獣たちをやはり夜空に配置し、より洗練された物語に発展させ、より複雑にしました。

夏の星たちの中でも存在感のある"さそり座"が西へ回り込んでしまうと、秋の代表的な星である"ペガサス座"の四角形が現れます。二等星がひとつと三等星がみっつの東西方向にやや長いめの大きな四角形ですから、誰でも発見することができます。この四角形の左(東)の一辺は、実は春分点北極星を結ぶとてもドラマチックな線となっています。見方は、この一辺を当分だけ南に下がると春分点となり、春分(三月21日ごろです)のときに太陽がくる方向ということになりますね。
そして、その一辺を北へ四倍伸ばすと北極星がキラキラと輝いています。
この星は、王子ベレロポンの乗馬になって怪獣キマイラを退治する美しい翼をもった天馬ペガサスに生まれ変わる雄大なギリシャ神話に登場します。

カルデア人もギリシャ人も現代の我々も、何千年も変わること無い星たちを見上げていますが、文明の発達と人間の本来持っている本能を徐々に失いつつある私たちは、悲しいことですが夜空を見ても美しく輝く星たちを確認し、「おひつじ」や「てんびん」や「かに」を繋ぐことができません。そして、いつの間にかギリシャ人たちやローマ人たちが作り上げた美しく情緒溢れる物語もいつしか"本の世界"だけになる事でしょう。

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連想と日本人の恥

2009.08.07

夏の開放的な空の色や強い日差しや木陰を通り抜けた新鮮な風に出会うと、子供のころの出来事を思いだすことがあります。それも中学生や高校生でなく決まって小学生のころの事です。
例えば、今日の様な休日の朝をゆったりと迎えたりすると、より感じます。強い日差しを早朝から感じ、テラスの前にある桑の木の葉が、風で強くゆれるだびにリビングの中まで差し込んだ光の影がゆらゆらと揺れて、連想を促進するようです。
連想とは、ひとつ手がかりがあると、それが引き金になって止めどなく広がる様です。

自宅の小さなポーチに、ピンクのツツジが未だに咲いています。
ツツジの季節は春先が、とても鮮やかな色を見せてくれますが、いくつかの鉢植えのツツジは、手入れの甲斐あってか、未だに数輪の花を保っています。
先日のよく晴れた午前中に、そのツヅシの花に「カラスアゲハ」がその大きな羽をゆっくりと羽ばたきながら吸蜜作業をしています。おぉぉぉと、思わずカメラを取りに自室にもどり、調整をしてファインダーを覗いたころには、ゆっくり羽ばたいて次の好みの場所に移動していきました。とても残念な思いをしました。
「カラスアゲハ」自体はそう珍しいものではありませんが、美しく咲いたツツジのピンクとカラスアゲハの燐粉で輝く漆黒の大きな翅(はね)のコントラストは、とってもファンタジックなんです。彼女は開長すれば10cmは有にある大型の蝶なんです。
私は、海も山もある田舎で育ったので、たくさんの野生の昆虫類や魚介類と一緒に育ち、遊んだので、今思うととてもエキサイティングで幸せな環境にあったと改めて感じています。

子供のころは「国蝶」である「オオムラサキ」も意識せず、何度となく見ましたし、ツツジにとまった「カラスアゲハ」は普通の蝶としての認識が強く、珍しい昆虫の部類ではありませんでした。このシーズンの小学校低学年から高学年の男の子の興味はやはり「カブトムシ」や「大クワガタ」でした。それもまだ、誰も捕まえていない時期に持っていることが男の子のステータスでしたので、ふたりの兄から教わった樹液の多く出すカブトムシの秘密の樹木は誰にも教えず、一人で採りにいったものです。もちろん、クラスの女の子には見向きもされない行為ですが。
初夏の早朝のまだ夜が明けきっていない午前四時ごろ、夜遊びして疲れきったカブトムシたちが、お腹をすかしておいしい蜜を吸いにくるのを待ち構えるようにして、一回に20-30匹捕まえることができます。入れ物は深めの金属製のバケツです。なぜかというと、金属なので滑ってあがってこないからです。バケツの中でオスが何十匹も渦巻いいるなんで、いま考えると気持ち悪いですね。もちろん、価値の無い(失礼!)メスはリリースします。

都会でありながら、二つの大きな公園の狭間にある自宅は、野鳥や昆虫が比較的多くやってきます。特に「シジュウカラ」は数年間かけてカップルの餌付けに成功したので、毎日数回は餌のひまわりの種を採りに来ます。シジュウカラはとても警戒心の強い小型の野鳥ですが、数年間の餌付けもあって、しばしポーチのテーブルの餌と水を飲んだりして、帰って行きます。ただし、一度に二羽が餌をとることはしません。やはりそこは野鳥です。しっかりしています。

さて、蝶の話に戻りますが、
カラスアゲハ」は黒地を基調にして、オスは青緑の光沢がとても強く輝いて見えます。メスは紫の麟粉(りんぷん)が角度によりますが、強く見えます。
少し昆虫(蝶)を好きな人だと理解できますが、上翅(えわばね)の裏ににとっても特徴があるんです。人間もそうですが、昆虫も全部同じように見えて、実は全て単体での固体差があります。なので蝶の翅も実は型が全て違いますが、翅の裏に白く帯が浮き出てい特徴があります。色合いとして、カラスアゲハより少し見劣りするクロアゲハという蝶がいます。この二種類の蝶の違いはこの白い帯です。この帯のコントラストがとても美しいですよ。

子供のころは、昆虫採取という夏休みのテーマがありましたが、山や野にいって手当たりしだい「蝶」や「トンボ」を捕まえたことがあります。もちろん、宿題の標本にする訳ですが、蝶に防腐剤等いろいろいな薬品類を注射し、標本箱に羅列しました。いま思うと、とっても残酷なことをしていると慙愧に耐えません。今では、まったく逆のことをしています。たとえば、自宅の観葉植物に遊んでいるクモをそっと捕まえて、ポーチの植木に逃がしてあげたりします。山にも海にも慣れ親しんだ小学生頃に、たぶんそれを教えてくれる大人はいなかったと記憶します。ですので、自分の行動に子供とは言えまったく躊躇しませんでした。

小学生のあのころから現在まで、多くの失敗や恥を積み重ねてきたいようです。強烈に覚えていること。忘却のかなたにあるもの。そのレベルはまちまちです。今振り返ると「ゾッ!」とすることもあります。さて、自覚は、どのように変化し、僕の今にあるのでしょうか?

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食と芸術

2009.07.24

雨ニモマケズ.....風ニモマケズ.....雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ............」
そして、
「.....一日ニ玄米四合ト、味噌ト少シノ野菜ヲタベ.....」と続く詩は著名な明治の大詩人・宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中の一小節です。誰でもが一度は口ずさんだ有名な詩です。賢治は他にも身近なことをテーマした詩が多く、なかでも「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」は幻想的で、叙情的で、とても美しい詩です。それに夢があります。
彼は、叙情的な詩を詠う詩人としてだけでなく..一日ニ玄米四合ト、味噌ト少シノ野菜ヲタベ..にあるように、農民の日常生活を芸術の域にまで高めようと理想に燃えていた科学者でもあったと言われています。食というあり前のことを、単に食の充足のみとする従来の考えから脱却する発想をもっていたと言われています。
「食」を理論的な視点で語ると、
『人間が社会的・歴史的存在である限りにおいて、食にまつわる儀式や習慣、食品や料理法への知的理解度、さらには食事の作法やその場での演出等々、全てをあわせ持ったものが「食」であり、食そのものが重要な文化的要素である』だそうです。まったくもって妙を得ていると思います。

しかし、過去の日本の文人や学者は、どうしても孔子の「論語」の思想が支配的だった為に、いわゆる「君子は道を謀りて食を謀らず」や孟子の「君子は厨房を遠ざく」といった類の儒教的な発想で長い間推移してきた背景があります。私も大いに孟子の教えを盲目的に守っているひとりであると自認していますが。。。。

私の知人に自分の本業のほかに「ベジタブル&フルーツマイスター」の活動を野菜ソムリエとして、アンチエイジングライフを楽しんでいる方がいます。
コンセプトは、「アンチエイジング医学に基づいたものでありながら、人間の自然治癒力、免疫力、潜在能力を引きだすこと。」だそうです。野菜と果物に含まれる抗酸化物質による酸化防止等によって、驚くほどアンチエイジングになり、生活空間を変えられるそうです。よ。

食とは、全てひとの口に入るもの。
その影響は10年後や20年後に現れてくるものだと思っています。とても重要な生活そのものですね。
ところで、
日本の芸術や芸能のルーツを辿れば、やはり中国から渡来したと誰でも想像し、知っていることですが、日本の芸術や芸能のほとんどは中国のいわゆる唐様の芸術や芸能の輸入です。しかし、一旦輸入されると、国内に定着しはじめ、その後「その風土や習慣にとけ込んでしまう」ところが日本的でとても面白いですね。また、それ以前に渡来して定着したものにも、新たに新規の文化が混入し、重なり、より和洋化された文化が醸成されるという訳です。そして何年も重ねて、混ざって、独自化したのですね。
日本人の受け入れ安さと工夫は素晴らしいものがあります。時間が経つにつれて日本固有の文化に成長するのですから。

芸術や芸能」はそれぞれの発展過程で、修行や鍛錬が厳しく行われ、競演や競技に発展し、理論武装され、その道の極意が発見されるまでに至ります。
日本の文化は多岐にわたりますが、代表的な芸術・芸能は六道と言われいます。
書道、花道、連歌道、能楽道、花道、茶道です。

しかし、前述の「料理」または「料理法」に関する芸術性や長い伝統で育成された文化は、なぜかこの六道に列挙されていないのです。それは、儒教のせいでしょうか。それとも、元々食という文化は理論や極意を必要としない領域なのでしょうか?

現代まで、料理または料理法も当然ながら長い年月を経て熟成し、芸能といわれる域に達していると感じますが、さて「」に数えられないその理由はあるのでしょうか?

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クチナシの香りとBaiu

2009.07.10

今年の春に北京と上海を訪れました。

帰国日に土曜日を挟んだのでほんの僅かの時間を博物館の見学に充てました。
見学は二時間と決めていますので、毎回テーマを絞りますが、今回は墨絵の「三清」です。

三清とは、枯木に石と竹を配置して描いた墨絵を指す言葉らしいです。枯木の過ぎ去った哀愁や山石や川石の冷淡な石のヒヤリとする触感に対して、若竹のもつ青く、清々しい生命力を加えることによって、人の世は若竹のように清々しく生きたいとものと、表現する墨絵らしいです。
墨絵を輸入して日本文化に置き換えた日本の墨絵には、この様な思想はないと言われいますが、第一級の芸術家であれば輸入された墨絵を見れば絵に込められた意図は十分汲み取ることができたと理解する方が自然でしょう。

さて、三清ほど非日常的な文化でなくても、私たちの日常の中にも「森羅万象」を感じる、または接する機会はあると思います。その一つが香りだと思います。私たちが身近に感じる三つの香りを日常の中に見つけたいと思います。

初夏の今、早朝、自宅から駅に向う間に「クチナシ」の強い香りを感じます。この白い花弁から噎(む)せかえるような甘い香りに、心惹かれない人はいないでしょう。

次に、早春のころ、愛の香りと称えられる「ジンチョウゲ」が花開きます。紅梅や白梅より、やや遅い時期の二月下旬のころですね。「沈丁花」と漢字では書きますが、本来は漢名の「瑞香」が望ましいそうです。かな変換でも沈丁花と変換されますので、ほぼ一般的といえますが。
花は、内側が白で、外側が紫紅色に染まる二つの色合いを、たくみに配分したいでたちがもっとも多いです。とにかく、ジンチョウゲは情熱的な香りの広さ、深さ、激しさを持っていると思います。まさしく、愛の香りにふさわしい香りの花です。

さらに、秋になると、一日が爽快な気分で始まる事をたくさん経験しますが、反対に寂寥沈静のうちに一日の幕を閉じることもままあります。秋とは、なんとなくものを想い、そしてボーっと過ごしたいというような感覚に陥りやすいと思いませんか?
秋の一段と爽やかさが増す中秋の頃に、つつましく花を飾る「キンモクセイ」は私たちの心を引き付けます。私はこのころ、自宅の裏口の遊歩道に大きなキンモクセイあり、その下を毎朝くぐって通います。その芳しい香りは、一日を爽快な気分にさせてくれます。

これで日本の三香がそろいました。
この三香は庭木や公園や緑道と、どこにでも植えられていますので、目にし、香りを嗅ぐことが多いポピュラーな樹木です。

クチナシの固有種は一重咲きだそうですが、私たちがみるクチナシは八重咲きです。しかも、その葉は一年を通していささかも色が褪せぬばかりか、健康的な明るさが感じられるのも特徴です。光沢の強い濃青色は5月により鮮明になり、やがて花開き香りを放ちます。
池坊の口伝の中に、
"クチナシを瓶に指すときは、紫陽花、竜胆(りんどう)、野菊なとのように高く生けてはならぬ"とあります。きっと、この花の放つ香りを、低く生けて、より深く、より細やかに、生かそうとしたのでしょう。池坊は室町時代にその基本形式を確立したと聞きましたが、可憐な一輪を無造作に瓶に「投げ入れ」から豪華な大立花(だいりっか)の活花まで、その領域は幅広く、奥が深いです。
反対に、茶道においては"クチナシの花"を茶席に生ける事を極度に忌み嫌った。とあります。クチナシの放つ深々とした強い香りが、密室の静けさを基本とする室の空気をあやしくかき乱すことに、茶人たちは、疎ましさを感じたのではないでしょうか。

クチナシの名前の由来ですが、内部に黄色の肉塊と種子をもつ果粒が、秋になっても、頑として口を割らない、そのかたくなな用心深さゆえという説があります。クチナシの匂いにつられて近寄ると、名前の由来を改めて感じます。

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京都へ行こう!!

2006.05.18

京都タワーと相国寺の七層大塔

京都タワーは、京都駅烏丸中央口前にそびえ立つ展望塔です。高さは131㍍あります。1964年12月28日にオープンになったそうです。灯台をイメージしたそうですが、言われてみると何となく灯台にも見えます。
京都タワーに続いて人目を引くのは京都駅ビルです。
駅ビルは平安遷都1200年記念事業として改築が決定し、国際コンペの結果、札幌ドームや梅田スカイビルなどの設計でも知られる建築家原広司が設計を担当した。京都府は90年代初頭に市内の高さ規制を「60㍍」に緩和したそうですが、このコンペを企画する段階で高さ制限を緩和すべしとのガイドラインを「120㍍」まで建設可能とした様ですが、その事で景観保護派の市民の猛反発を受け、新聞を賑わす大騒動に発展しました。結局元の「高さ規制60㍍」に落ち着きましたが。
未だにこの二つの建物について「存否両論」があるようです。


〔設計は建築家山田守で構造設計は京都大学工学部建築学教室による。タワーの独特な姿は、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたもの。〕

現存する「洛中洛外図」の名を持つ絵図は相当な数にのぼるらしい。その中で特に「上杉本」と但し書きある「上杉本洛中洛外図屏風」は、狩野永徳(かのうえいとく)の絵筆によるもので、天正2年(1574年)に織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝えらています。信長はこの屏風と一緒に「源氏物語図屏風」も送っていますが天下人直前で憤死した信長にどの様な意図があったのでしょうか?

上杉本洛中洛外図屏風」には当時の客観的事実にもとづいた京都景観の鳥瞰図と俯瞰図の両方の性格を持っています。
この屏風がもつ高度な芸術性や歴史的文化財としての価値や重要性は門外漢のため触れずに「京都事情」をこの絵から読んでみたいと思います。


〔高さのみならず巨大な船のように市街地に横たわったボリュームやガラス張りのデザインに関しても、当初から古都の景観を損ねるとして論争が続いている。〕

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