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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

連想と日本人の恥

2009.08.07

夏の開放的な空の色や強い日差しや木陰を通り抜けた新鮮な風に出会うと、子供のころの出来事を思いだすことがあります。それも中学生や高校生でなく決まって小学生のころの事です。
例えば、今日の様な休日の朝をゆったりと迎えたりすると、より感じます。強い日差しを早朝から感じ、テラスの前にある桑の木の葉が、風で強くゆれるだびにリビングの中まで差し込んだ光の影がゆらゆらと揺れて、連想を促進するようです。
連想とは、ひとつ手がかりがあると、それが引き金になって止めどなく広がる様です。

自宅の小さなポーチに、ピンクのツツジが未だに咲いています。
ツツジの季節は春先が、とても鮮やかな色を見せてくれますが、いくつかの鉢植えのツツジは、手入れの甲斐あってか、未だに数輪の花を保っています。
先日のよく晴れた午前中に、そのツヅシの花に「カラスアゲハ」がその大きな羽をゆっくりと羽ばたきながら吸蜜作業をしています。おぉぉぉと、思わずカメラを取りに自室にもどり、調整をしてファインダーを覗いたころには、ゆっくり羽ばたいて次の好みの場所に移動していきました。とても残念な思いをしました。
「カラスアゲハ」自体はそう珍しいものではありませんが、美しく咲いたツツジのピンクとカラスアゲハの燐粉で輝く漆黒の大きな翅(はね)のコントラストは、とってもファンタジックなんです。彼女は開長すれば10cmは有にある大型の蝶なんです。
私は、海も山もある田舎で育ったので、たくさんの野生の昆虫類や魚介類と一緒に育ち、遊んだので、今思うととてもエキサイティングで幸せな環境にあったと改めて感じています。

子供のころは「国蝶」である「オオムラサキ」も意識せず、何度となく見ましたし、ツツジにとまった「カラスアゲハ」は普通の蝶としての認識が強く、珍しい昆虫の部類ではありませんでした。このシーズンの小学校低学年から高学年の男の子の興味はやはり「カブトムシ」や「大クワガタ」でした。それもまだ、誰も捕まえていない時期に持っていることが男の子のステータスでしたので、ふたりの兄から教わった樹液の多く出すカブトムシの秘密の樹木は誰にも教えず、一人で採りにいったものです。もちろん、クラスの女の子には見向きもされない行為ですが。
初夏の早朝のまだ夜が明けきっていない午前四時ごろ、夜遊びして疲れきったカブトムシたちが、お腹をすかしておいしい蜜を吸いにくるのを待ち構えるようにして、一回に20-30匹捕まえることができます。入れ物は深めの金属製のバケツです。なぜかというと、金属なので滑ってあがってこないからです。バケツの中でオスが何十匹も渦巻いいるなんで、いま考えると気持ち悪いですね。もちろん、価値の無い(失礼!)メスはリリースします。

都会でありながら、二つの大きな公園の狭間にある自宅は、野鳥や昆虫が比較的多くやってきます。特に「シジュウカラ」は数年間かけてカップルの餌付けに成功したので、毎日数回は餌のひまわりの種を採りに来ます。シジュウカラはとても警戒心の強い小型の野鳥ですが、数年間の餌付けもあって、しばしポーチのテーブルの餌と水を飲んだりして、帰って行きます。ただし、一度に二羽が餌をとることはしません。やはりそこは野鳥です。しっかりしています。

さて、蝶の話に戻りますが、
カラスアゲハ」は黒地を基調にして、オスは青緑の光沢がとても強く輝いて見えます。メスは紫の麟粉(りんぷん)が角度によりますが、強く見えます。
少し昆虫(蝶)を好きな人だと理解できますが、上翅(えわばね)の裏ににとっても特徴があるんです。人間もそうですが、昆虫も全部同じように見えて、実は全て単体での固体差があります。なので蝶の翅も実は型が全て違いますが、翅の裏に白く帯が浮き出てい特徴があります。色合いとして、カラスアゲハより少し見劣りするクロアゲハという蝶がいます。この二種類の蝶の違いはこの白い帯です。この帯のコントラストがとても美しいですよ。

子供のころは、昆虫採取という夏休みのテーマがありましたが、山や野にいって手当たりしだい「蝶」や「トンボ」を捕まえたことがあります。もちろん、宿題の標本にする訳ですが、蝶に防腐剤等いろいろいな薬品類を注射し、標本箱に羅列しました。いま思うと、とっても残酷なことをしていると慙愧に耐えません。今では、まったく逆のことをしています。たとえば、自宅の観葉植物に遊んでいるクモをそっと捕まえて、ポーチの植木に逃がしてあげたりします。山にも海にも慣れ親しんだ小学生頃に、たぶんそれを教えてくれる大人はいなかったと記憶します。ですので、自分の行動に子供とは言えまったく躊躇しませんでした。

小学生のあのころから現在まで、多くの失敗や恥を積み重ねてきたいようです。強烈に覚えていること。忘却のかなたにあるもの。そのレベルはまちまちです。今振り返ると「ゾッ!」とすることもあります。さて、自覚は、どのように変化し、僕の今にあるのでしょうか?

最近ほぼ同じタイミングで、二人の東洋人の留学生と知り合いました。
二人に共通した印象があります。
ひとつは他人を容易に信用しない、または見ず知らずの人を寄せ付けない強烈なバリアーと保守的な発想です。もうひとつは、他人にまったく頼らない強靭な自立意識です。そのために、寝ずに働くことを厭わない精神。その素晴らしい生き方に喝采をしつつ、柔軟性の無い硬くて脆そうな精神に危惧を感じます。しかし、それが外国で暮らす彼らの自身を守る手段なのかもしれませんので一概に評価はできません。でも、人当たりはいいのです。その強靭な自立を支えているもとはなんでしょうか?

数年前に読んだ著書があります。
韓国の碩学の大家である「李御寧(イ・オリョン)」の「縮み志向の日本人」です。
日本文化を忠実に語る場合、それは「構え」の文化であると、彼は言いきっています。その「構え」もまた日本文化の基本を語る「縮み」志向から来ているといいます。なぜ、構えが縮みなのかを葛飾北斎の浮世絵から出発し、「動きを縮めた美学」から能を引き出し、「道」がつく、六道のすべてが「構え」を重要視していると展開します。「構え」は一つの動作、ひとつの時間の「凝縮」なので、凝縮の形を突き詰めると、それは「縮み」文化に到達するといいます。

『西欧文化圏を特徴づける基本的なテーマが内面的な「罪の文化」であるのに対して、日本の社会は外面的な「恥の文化」によって貫かれている。』と言ったのは、ルース・ベネディクトです。
彼女は一度も日本に訪れることなくこの"恥の文化"を表現した「菊と刀」を第二次世界大戦中の調査研究をもとに1946年に出版しています。この時、彼女はすでに59歳で、亡くなる三年前のことです。そして、今から、およそ60年前の出来事です。

この著書は、日本文化を明確に論じた、古典的な文化人類学の著作としてその後、著名になりました。この中で、西欧と極東の日本という、文化相対主義の概念で日本文化の「恩や義理」などといった日本文化固有の価値を提唱しましたが、近年その評価は揺らいでいます。
その反論理由は、こうです。歴史的に発展し、階級・階層・地域の分化を含む複雑な社会を「公的な恥」という単一テーマでは捉えられないとするものです。とはいえ、多数の評者は、あの当時の世界情勢と極東の島国の日本を捉えた古典人類学としての評価を一定以上に保っているようです。

恥を捉えるとき、恥は「強い制裁」と言い換えることも出来ます。
太宰治も人間失格の中で主人公に「恥の多い生涯を送ってきました」と言わしめています。
では、恥とはいったい何でしょう。
R・ベネディクトはこういます。それは「他人の批評に対する反応です。人は公開の場で嘲られたり、または拒否さけたりすることによって、あるいはこっけいな扱いをされた場合に、自己自身を想像することによって恥じるという精神的な苦痛を感ずる。」となりますが、しっくりと理解できる表現です。
人は長い人生の中でこの恥という制裁を何度が体験する事になります。
特に羞恥が起こるのは、自分が内密にしたいと望んでいる自分の劣等な部分が白日のもとに露呈される状況が最も恥じる事といえるでしょう。
恥のひとつの側面に「面子」があります。
面子は「誇り」とか「恥」とは異なった動きと行動を引き起こします。
ひとつの例があります。
ある会社のある部長の配下に、ひとり優秀な部下がいました。この部下は部長に信頼されて、常々高い評価を有し、部長は他の部門にも自慢げに子飼いであることを吹聴するほど気に入っています。互いに信頼関係を築いいるといえます。ある時優秀な部下は、とても素晴らしい企画を考え、同僚に話し、高い評価を受けたので、きちんと稟議書を書き、信頼している部長は必ず了承すると思い、ひとつ上の役員に企画書を説明します。その役員は素晴らしい企画として、正式に上申するようにと彼に言います。彼は意気揚々として信頼する部長に役員の評価も交えて承認を依頼します。ところが、肝心の部長は冷たく却下します。
彼は信頼する部長であるが故に、安心し、説明を省き、承認を前提に、ひとつ飛び越したオペレーションをしてしまい、もっともバックアップが必要な部長の面子を潰したのです。
しかし、ここで人間の度量が引き出されます。
面子は潰された(恥)が、プライド(誇り)の高い人は、承認します。
誇りが面子に勝つ場面といえます。

私たちが悩む恥の起源はとこにあるかと考えると、ひとつには江戸時代の幕藩体制の武士道という流れの中に醸成されたと思います。ここに三百年前の実際にあった事件があります。
1712年(正徳二年)陸奥(むつ)二本松(にほんまつ)藩での出来事です。藩士の二羽又八に十四歳の息子、六之介が岡田長兵衛の屋敷前で切腹自殺をします。
自殺の原因はたわいの無いことです。六之介と岡田長兵衛の息子で十三歳の翁介と遊んでいる時に「蝉の抜け殻」を見つけます。原因はこの抜け殻の取り合いです。翁介が六之介から奪い取り、自宅へ逃げ込みます。彼は追いますが、翁介の従者は屋敷の門を閉めてしまいます。
六之介は、蝉の抜け殻をとられた上に、従者に行く手を阻まれました。これだけの為に、彼は「大いに憤り、扉に打ちかかり、自ら腹を切りて死してけり。」とし、わずか十四年の人生を閉じます。確かに切腹はこの時代でも特殊な領域にあったと思いますが、自分の家、相手の家に与える影響は計り知れなく深刻です。翁介の父である岡田長兵衛はこの事件で、知行没収です。二羽家の事は記録にありませんが、たぶん何らかのお咎めがあったでしょう。六之介の行為が少年期より訓練されたものであることは確かですが、かといってとこの様な行為が日常的な行為であったとは、思えません。
しかし、恥辱をはらすためならば、意地と自分の命をいとも簡単に等価交換できる死と隣り合わせに自己をおくという武士道は、まさにR・ベネディクトの"菊と刀"の世界といえます。六之介の行為は、武士の意地によって、自らの命をひきかえにした報復行動という、あくまで恥辱をはらすという一点に集約された行為は、恥の「強い制裁」であると感じます。

少年の頃より多くの恥を積み重ねて今日に至るわけですが、「恥の重み」が徐々に軽さを増しているように、昨今の風紀を感じます。たぶん、R・ペネディクトが指摘した"自己自身を想像することによって恥じるという精神的な苦痛を感ずる"という部分が徐々に欠落しているのかも知れません。日本人の恥の文化を定義した彼女にとっても予想外の変化でしょう。

 

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