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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

第三者割当増資

2005.10.09

戦略と資金調達
明治38年8月10日米国東部のポーツマス市で日本の小村寿太郎全権とロシアのウィッテ全権が約一ヶ月間にわたり歴史的な死闘を演じていました。
日露戦争で使った戦費は当時の金額で15億円で、その殆どを国債約6億円と外貨8億円の発行で賄いましたのでそっくり借金で残りました。日本はその懐の寂しさを考えると賠償金はなんとか12億円はほしいところでした。日露戦争の最大の山場は皆さんもご存知の歴史的な「奉天会戦」です。この戦闘で日本軍は25万人弱投入し、内7万人を失いました。ロシア軍は32万人を投入しましたが9万人が祖国へ帰れませんでした。加えて捕虜として2万人以上を日本に捕捉されています。しかし、死亡率の高さは人口的に見ても日本軍に分が悪い結果となりました。戦争はユリウス・カエサル以前から今日の米国のイラク介入まで、全て「お金」です。兵力に余力のあるロシア軍はシベリア鉄道をフル活動して新たにハルピンに120万人の大軍を集結し始めて日本に無言の圧力をかけて来ます。この大軍の質は極東軍でなく、上質な本国の精鋭部隊がコアと成って居ますので、当然日本軍が再び勝つことは至難のことです。この精鋭部隊で生成される大部隊を前に満州軍参謀長の児玉源太郎は急遽東京に帰り大本営陸軍部会で有名な演説をします。「ロシア軍の精鋭が集結しつつある。既に当方は40歳までの老兵をかき集め、満州に送った。手持ちの予備兵はいない。将校は定員を5割も割っている。ハルピンを奪うなら後9億円と46歳まで動員し急遽13万人を即席で訓練し、六ヶ月の戦闘が必要でる。その上、ウラジオスックまで攻めるにはさらに20億円を調達し、52歳まで30万人投入し、向こう12ヶ月間戦う必要がある。それも計画通りいってだ! さぁ。どうする。」この一言で会議は一気に「和睦」に傾きました。その後日本海海戦の圧倒的勝利により、「講和」のタイミングをやっと手に入れたというのが実情です。それも米国の介入によって。日本は人もお金も尽きかけていますがロシアはというと、こちらもあまり言い状態では有りません。ロシアの戦費は外債7億ルーブル強、内債6億ルーブル強を集めましたが、その資金も底を尽きかけていましたし、肝心の元満州軍司令官のクロパトキン将軍の「同じ過ちを繰り返さなければ勝てる」に信を置けず、かつ国内で「血の日曜日事件」を起きて、革命の匂いがプンプンしている。どっちもどっちの状態です。なので両国には、このポーツマス平和交渉を締結しなければならない事情がありました。

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ベンチャー投資の先駆け

2005.09.04

奇貨居くべし』〔きかおくべし〕

歴史小説を好んで読んでいます。中国の紀元前2-8世紀から紀元後数世紀を多く読んでいます。特に最近読んでいる作家は宮城谷昌光氏の小説です。その中でまだ手を付けていない題名の小説があります。それが冒頭にあるタイトルです。先日著名なベンチャー・キャピタルの若手の投資家にお会いし、当社の事業内容を説明した後『奇貨居くべし』でしょう? と冗談を投げると「ポカン」という反応でした。当方の冗談の投げかけを反省したエピソードです。

『奇貨居くべし』〔奇貨可居〕「史記」

宮城谷昌光氏の小説「奇貨居くべし」は当然ながら主人公が居ます。秦の始皇帝を<見出し><磨き><天下を統一>させた呂不韋(りょふい)です。時は戦国末期。韓の豪商呂不韋は商いで邯鄲(かんたん)によく出かける。そこで偶然「秦の太子安国君の庶子」である「子楚(しそ)」が人質としてこの都に住んでいることを知ります。当然庶子で人質であれば暮らしぶりはラクでしはないでしょう。そこで呂不韋は『奇貨居くべし』と感じ子楚に会うのです。『奇貨居くべし』は「掘り出しもの、取っておけば後々高値になる」といった意味です。呂不韋のすごい所はその財産と雄弁さでついに不遇な一介の庶子を「太子」にさせる事に成功するのです。この太子・子楚こそ始皇帝(秦王政)の父王なのです。この小説はまだ僕は読んでいませんが呂不韋が秦王政を育て、中国統一し、自身は「相国(宰相)」まで上り詰めるという内容です。
「子楚」という「奇貨」は呂不韋の手元に置かれ、ついには大高騰してしまうのです。まさしくベンチャー投資の先駆けです。IPOで大化けした最初の事例かも知れません。

辺土の秦が戦国末期とは言え「大国」を切り取り「中国統一」を成し遂げられたのは呂不韋や秦王政の力ではなく、春秋戦国時代からの非常な努力と長い改革の歴史を乗り越えた準備が合ったからなんです。この長い準備のおかけで僅か10年足らずで統一に驀進するのです。

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グローバリズム「平らから丸いへ」

2005.08.22

『1850年地球はまだ丸くなかった』

地球は球体ですが、その昔大型の帆船〔当時としての〕の出現前は人間の活動に当然制約もありましたので、地球という大地はその当時途方もないスケールで広大な土地でした。本来丸いはずの地球は人間の行動範囲や生活範囲においては「平ら」という概念が一般的でした。当時の学者たちの間では球体の理論があったとは云えまだ見ぬ平らな大地または海洋によって「丸い」を証明する手段を持ち合わせていなかったというのが現実でした。地球が丸い事を身をもって現したのは1519年から22年にかけてのいわゆる「マゼランの地球一周」によって実験的に実証されました。残念な事に「フェルディナンド・マゼラン」自身はフィリピン近海のマクタン島で不慮の事故により亡くなりました。そして、彼の船団は、まる三年を費やして地球を一周し、最初の出港地「サンルカル・デ・バラメダ港」に戻りました。この時から地球は「平ら」の時代から「丸い」時代になったと言えます。「フェルディナンド・マゼラン」に因んで「マゼラン海峡」が名付けられました。クリストファー・コロンブスがインドと間違えて到達した「西インド諸島」の船出より28年後の出来事です。また、フランシス・ドレークが略奪を繰り返しながら地球一周をしたのが55年後のことです。その頃信長は15歳でチョード家督を継いだ頃。エリザベス一世は14歳でまだ姉メアリーの影に隠れていたころ。そんな時代です。地球規模という概念とそれぞれ東西で二人の天才を鳥瞰する事はワクワクする様な歴史の符牒です。

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初めての

2005.08.19

世界の七不思議に新しい不思議が加わる !
以前「スエズ運河とCatty Sark」というブログで世界の七不思議の話をしました。内容は、紀元前279年にエジプトのアレキサンドリア港の入ロ、 ファロス島に建てられた「ファロス灯台」がテーマでした。TV番組で毎週土曜日の9時から日立「世界ふしぎ発見!」という番組をご覧になっている方がいると思います。「世界の七不思議」を意識したこの番組は世界中の不思議を現地取材を中心に毎回楽しく放送しています。時たま見て「なるほど」と思う事があります。残念ですがTVは土日にしか見る事がありません。司会の草野さんやレギュラー解答者の黒柳さんと板東さんの会話も楽しい。この「世界の七不思議」の命名者は文献で確認出来た人という事でフェニキアの詩人で探検家の「アンティパトロス」(マケドニアの同名の軍事家とは別人)と云われています。(最初の命名者は古代ギリシャのビザンティウムの数学者フィロン)この当時の世界観は地中海を中心した沿岸部を主体としています。彼はBC266年にガレー船に乗り込んで地中海からイオニア海に入り、ギリシャのペロポネソス半島の北西部にの大地にそびえる「ゼウス大神殿」を訪れます。この当時ただ単に訪れることを目的とした移動は一般人はしなかったと思われます。その点ではアンティパトロスはとても裕福であったと思われます。この大神殿は64㍍もあり、ご神体は大理石の台座に宝石や象牙をはめ込んだ玉座があり、高さ十数㍍のゼウス神像が安置されていたと言われています。アンティパトロスはこの主神のゼウス神像に圧倒され、「人類の燦然たる文明を歴史に記録するという神から与えられた使命感」を強く感じたといいます。ここが普通の人とそうでない人の違いでしょうか? 彼のその使命感によって後の私たちがこうして世界の七不思議を体験できるのです。その意味ではアンティパトロスに感謝すべきでしょう。ファロス灯台に戻ります。

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