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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

熟年デヴィッド・サンボーンがパワフルに!!

2005.12.18

60歳を迎えた「ディヴィッド・サンボーン」は益々パワフルで優雅でした。

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〔ニューアルバム/クローサー〕
NYの名門ジャズ・クラブ“ブルーノート”が「ブルーノート・東京」として青山に誕生したのは1988年11月との事です。以来、何度かの経営危機がありましたが今年で設立17年を迎え数々のビックイベントを開催しています。主に内外のジャズメンやフュージョン系の海外アーチストが出演しますが時には「井上陽水」など異色のアーティストも出演します。この陽水の2日間限りのスペシャルに聴いたと思っていましたが当然ながらチケットを手にすることは出来ませんでした。老舗NYの「BuleNote」に初めて恐る恐る入ったのは25年前で小さな店内に驚いた記憶があります。近くの「ボトムライン」や「ビレッジバンガード」も盛況でついつい寄ってしまいます。当時は飲み物と1ステージで15ドル程度だったと記憶しています。25年経った日本のブルーノートは10倍の料金という事ですね。年収は数倍なのに。
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サワノ・ジャズ沢野さんも言っていますが「JAZZは感じるもの」で知識は興味があればでいいと思います。ジャズのスタイル論や歴史は本気に調べないと難して理解しにくいと思いますが、美しいとかスィングするとかは誰でも出来る能力です。そしてやはりジャスは生演奏がいいと思います。時間と資金があればライブをお勧めします。

そしてこの夜、満席の客席を縫って大御所「デヴィッド・サンボーン」が登場しました。今年の夏で満60歳です。約1時間半にアンコールの二曲を入れて10曲吹きまくりました。
メンバーはデヴィッド・サンボーン(サックス)、ジェフリー・キーザー(キーボード)、マイク・ポープ(ベース)、テリオン・ガリー(ドラムス)、ドン・アライアス(パーカッション)のクインテットでした。彼のフル・ネームはデヴィッド・ウィリアム・サンボーン。
観客の年代層はやはり50代から60代が圧倒的で僕の前後左右も同年代でした。中には20代の若者もいましたが、僕らより少しの上の70代の往年のジャズファンも沢山聴いていらっしゃいました。そして、アーティストと観客が一体となって会場が沸きました。
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ペリー提督と楽天のその後は!?

2005.12.13

さて、前回の続きです。

まだ「国交の無いTBS」に対して「楽天はどの様な情報」を得ていたのでしょうか? ペリー提督には「ねじ伏せる戦略」以外にカードがあったのでしょうか?

国交の無い楽天には相手のTBSがどのような経営的風土を持ち、またどの様な外交政策を持っているのか、十分に情報を得るルートを持っていたのでしょうか?
その様な状況下では「第三者の知り得た情報」の元に「仮説」を設定し、何度も「机上演習」を行うほか方法はありません。この時、幕府もペリーもこの「間接情報」を得ていましたが、実は圧倒的幕府側の方が「量的にも質的」にも高かったと言われています。

当時の幕閣の中でも首座である阿部正弘は「オランダ国王の親書(44年手交)」「オランダ商館からの聞き取りレポート「和蘭風説書(オランダふうせつがき)」」「唐商館からの聞き取りレポート「唐風説書(とうふうせつがき)」」等のホット・ニュースを入手先から定期的な情報を得ていました。
また、「漂流民・ジョン万次郎」からの米国の国状、気質、等を直接的な表現で情報収集と「オランダ商館長の助言」等々多くの状況情報を得て、「米国軍艦来日の予測と目的」を的確に理解していました。更に漢語、オランダ語の通詞と英語を話すジョン万次郎というカードも持っていた事になります。但し、阿部には国禁という大きな壁が存在し、天皇や御三家、有力大名の意思を無視して強権の発動は難しいという行政上の枠がありました。

一方ペリーはというと、ペリーには多くの複雑な事情がありました。
まず、数年前に終息した米国とメキシコとの戦争(世に言うメキシコ戦争)で残った「大型汽走軍艦の再利用」と「リストラを含む軍縮問題」にどの様に対処するか。軍艦の実践の用途が少なく一部郵便船に転用していました。次にフィルモア大領の権力。彼はタイラー大統領の死去に伴い副大統領から選挙を経ずに昇格し残り任期が二年半あり、議会統治できず行政内の権限内で全ての問題を解決しなければならない立場でした。ですからペリーには時間があまりありません。それと中国問題が全て解決していない為に艦隊から一部軍艦を割かなければならない。さらに、ペリーは日本に対して「発砲厳禁」命令も大統領から受けていました。大砲は打てなかったのです。

企業統治の経験が豊かで判断力のある人の場合は、「収集した情報と仮説と強い意志」によって物事を成功させる確率が高いと思われます。しかし個人の経験や意思と「企業間レベルの経験」とは自ずと性質が異なるり「仮説」もまた多くのパラメーターがかみ合いパズル化してしまいます。
特に一方の思惑で活動した場合、「片方の経験・仮説・判断・行動」の微妙な関係により、事が中々決まらないものです。この場合双方の「企業力学」が作用し、結局思わぬ方向へ流れていくケースが多いと感じます。「楽天とTBS」「ペリーと阿部正弘」はどの様にこの不可解な問題に内政・外政に対処したのでしょう。

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ペリー提督と楽天

2005.12.12

楽天とTBSは、
楽天が経営統合提案を撤回」し、来年三月末までをめどに資本・業務提携に向けての和解交渉に入ることで基本合意した。交渉中には、楽天が取得したTBS株の半分程度の議決権を凍結し、株を買い増さないことも確認。両社はこの後覚書に調印し、正式発表する。」ということに落としどころを見ることになりました。

この出来事をニュースやゴシップやTV報道でしか得るこの出来ない一般人として接したとき知らず知らず「黒船に乗ってきたペリー総督」と「フロントで担当した浦賀奉行と時の老中阿部正弘福山藩主」との攻防戦に重ねてしまうのです。1853年7月8日(嘉永六年6月3日)に「四隻のペリー艦隊」は浦賀水道を深く進入しました。旗艦サスケハナ号は2450㌧、クルー300人、1850年に進水した米国海軍最新鋭の汽走軍艦です。母港を出たのは二年前で東イン艦隊の主力艦です。もう一隻のミシシッピー号1692㌧、クルー300人、1839年進水、海軍最古の汽走軍艦です。ペリーは米国東部から大西洋を越えて喜望峰を回り、インド洋を経て東インド艦隊に合流するまでこの船に乗って来ました。プリマス号とサラトガ号は蒸気船でなく帆船でした。夫々989㌧と882㌧です。

日本は当時鎖国政策で大型の外洋船は一隻も持ち合わせてはいませんでした。精々物流用の廻船で「千石船」です。トン数換算では百トンくらいでしょうか。千石船からすると旗艦は25倍も大きい船という事になります。鎖国の日本からして見るとこの船団は度肝を抜くほどの驚愕であったと思われます。

しかし、実際の艦隊が抱えている事情は日本人が思っているほど楽観的はありませんでした。そもそも汽走軍艦二隻の積める燃料炭は一週間分しか持っていません。それに彼らは石炭運搬船を伴っていません。速力も条件のいい場合で10ノットです。むしろ当時の帆船の方がずっと早い。それにペリーは江戸沖まで元々直進する心算はありませんでした。「水深測量」もしていない未知の水道に乗り入れる度胸は誰にもありません。虎の子の艦隊を一隻でも座礁させるなど論外です。

楽天は経営会議で和解を受け入れTBSに通告しました。その合意内容ですが、(1)楽天のTBS株保有比率が19・09%から10%未満となるよう、みずほ信託銀行への信託によって議決権を凍結(2)検討委員会を設置し楽天保有のTBS株の扱いやネットと放送の融合などの業務提携を協議する(3)交渉期限は来年三月末とし交渉中は楽天がTBS株を買い増さない-などです。

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和食と塩分

2005.12.11

先ごろのニュースで「和食はこんなにすごかった」〔読売新聞・YOMOURI ONLINE 12月7日〕という記事に共感しまた。


その冒頭で「食べ物はに食べるのが一番おいしいのはもちろんですが、夏の野菜火照った体を冷やして脱水症状にならないよう十分水分を補給できるもの、冬の野菜は体をおだやかに温めて血行をよくするもの、というように育つ季節に必要な機能が備わっている」という古来日本人が食生活に取り込んできた理(ことわり)があります。以前のブログで健康管理をするには特に「魚」が良く、「お刺身」も一つの健康食材です。「魚の油は心臓病予防に効果」があると実証されているようです。それは「イワシやサバ」などの青魚(いわゆる光物)に多く含まれる油の成分をとると「心臓病になるのを減らす効果」があるということでした。横山光宏・神戸大教授(循環器病学)らが日本人約2万人を対象にした大規模臨床試験で確かめられたそうです。

次に、
「秋から冬にかけての魚は、寒ブリにしても戻りガツオにしてもたっぷりと脂が乗っています。冬にこれを食べると、体にちょうどよい脂肪やカロリーがちゃんととれるしくみになっている」そうですよ。なんて日本人の食生活リズムはすごいんだろう。鰹は昔から日本近海の南から近づき北へ上りまた南に下るという南北移動を回遊しながら成長します。鰹は一定の緯度まで上るとUターンして南下を始めます。「下り鰹(稀に戻り鰹という人もいます)」です。黒潮と親潮が交錯する混合水域に「餌の倉庫」があります。ここで丸々と脂肪の乗った「下り鰹」に生まれ変わります。この時鰹が身につけた「脂肪やカロリー」が冬の日本人にはちょうどよいとことなんですね。なんてすばらしい。

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スタンフォードとスティーブ・ジョブス

2005.12.11

シリコン・ヴァレーとスタンフォード大学

先ごろ知人から二週間程度の「音信不通宣言」を頂きました。毎年恒例となっている娘さんとのニューヨークで「クリスマス休暇」を楽しむためです。羨ましくもあり、毎年元気で続けられる知人に対してエールを送りたい気持ちで一杯です。冬のニューヨークではロックフェラーセンターの巨大なクリスマス・ツリーとスケート・リンクを思い浮かべます。ブログを検索すると「この11月1日からロックフェラーセンターの展望台「TOP OF THE ROCK」が20年ぶりにオープン。今、一番話題の観光スポット。 70階にある屋上部分の高さは地上約260メートルにもなるんだそう。セントラルパーク、エンパイアステイトビル、クライスラービル、自由の女神、タイムズスクエア…などマンハッタンのランドマークを見渡せる360度の眺望は他にはない魅力。」とありました。
また、『ロックフェラーセンターはニューヨークの冬の風物詩。映画にも登場したりでおなじみのスケートリンクはすでに10月上旬からオープンしているし、11月30日にはクリスマスツリーの点灯式も行われる。スケートリンクとクリスマスツリーに、この展望台が加わって、ますますこの時期のロックフェラーセンターは観光客で賑わいそう。〔New York物語より引用〕』とも記述があり、知人親子がとても楽しく過ごせる雰囲気は万全の様子です。
ジョン・D・ロックフェラーはセブン・シスターズの基礎を作り稀有なロックフェラー財閥を成し遂げました。この人も魅力的なブログのテーマになりますが今日は西海岸にあるスタンフォード大学の話です。一つ前のブログで「スティーブ・ジョブス(Steve Jobs)」が米国のスタンフォード大学の卒業公演で学生たちに「贈った言葉」をテーマにしまた。
気候のよい西海岸のこの地に「スタンフォード大学」が出来た事が結果的に後の「シリコン・ヴァレー」を生む事になります。それはこの地で沢山のアメリカン・ドリームを生み出した事で世界中の人が当たり前に知るようになりました。「シリコン・ヴァレー」という地名は存在しませんが、少し前まではその「実在」を殆どの人が、ごく普通に受け入れていた節があります。今ではITという特定の企業が所在するかなり広いエリアの総称と理解されるようになりました。。「シリコン・ヴァレー」という地名は60年代にドン・ホフラーいうエンジニアが業界紙「マイクロエレクトロニクス・ニューズ」でこの表現を使ったのが最初と言われています。
かってこの地は見渡す限り果樹園で世界のプルーンの生産量の半分はこの地で作られていたといわれています。プルーン、洋梨、アプリコット、チェリーなどの生産地で米国でも有数の農業地帯として知られていました。この地の主要都市は「サン・マテオ」「サンタ・クルズ」「サンタ・クララ」の三都市ですが、最大面積のサンタ・クララが農業から工業に産業基盤をシフトしたことが大きく変化し始めた要因と言われています。
スティーブ・ジョブスが率いるアップル・コンピューターが最大勢力に育った80年代初めには10万㌈在った果樹園は1万㌈を切っていたと言われています。そしてその「アップル・コンピューター」ですが、スティーブ・ジョブスが果樹園のリンゴの採り入れ仕事から戻って直後に創業したことに由来しています。この事も有名な逸話として先輩から聞かされました。リンゴは栄養価が高いし、形も美しいし、腐りにくいというのが命名の理由だそうです。

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スティーブ・ジョブス

2005.12.11

Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」

これはアップルCEOのスティーブ・ジョブス(Steve Jobs)が今年の初夏に米国のスタンフォード大学卒業公演で若い卒業生に対して彼が最後に贈った言葉です。その公演は大学の公式サイトや国内のブログに沢山紹介されていますので、どなたでも全公演内容を読むことが出来でしょう。その中で沢山の心に心に響くフレーズがありますのが、この「Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」もとても深みのある言葉として印象深いものがあります。彼自身の言葉ではなく、70年代半ばに「スチュアート・ブランド」という人が製作した雑誌の一ページでのメッセージだそうです。彼はこの言葉に出逢い「常に自分自身そうありたい」と願って来たそうです。その言葉自体が真実である事を彼のスピーチを通してどなたでも感じることが出来るでしょう。そして彼が使う「Stay hungry, stayfoolish」が彼自身の言葉として実感できます。そして彼が今までに得てきた経験をこの言葉に託して、彼らに贈り、結びの挨拶としています。今年の夏に僕はこの公演内容を知人を通して知る事が出来ました。ことも感謝しています。

旅行者なら一度は購入するサンフランシスコの絵葉書セットの中に必ず霧の中に浮かび上がる「ゴールデンゲートブリッジ」が一枚はあるものです。このゴールデンゲートブリッジ(Golden Gate Bridge)の両端部分ですが、サンフランシスコ湾と太平洋を繋げています。古い吊り橋です。日本語では金門橋(きんもんきょう)が有名ですね。両端の太い柱の間の長さは1,280㍍で全長1970㍍あります。完成は1937年です。

勝海舟が日米修好通商条約の批准のために米艦ポータハン号を咸臨丸で護衛(公式にこうなっている)してこの海峡を抜けたのは1860年3月18日でした。橋はまだ存在していません。咸臨丸は明治政府が始めて発注した外洋機帆船でオランダ製です。木造3本マスト船で出港後3日間蒸気機関を使用しましたが後は帆走で一日平均約200海里を快走しました。
そして12年後、今度は「岩倉使節団」が4,554㌧のパシフィック・メイル社のアメリカ号でこの海峡を抜けたのは72年1月15日のことです。当時最新鋭の蒸気船でした。グ・ブック(航海日誌)には快晴とあります。やはり航海日数は23日間で平均220海里でした。帆走の咸臨丸と殆ど同じですね。ア号は石炭を1500㌧程度積載しいた様ですが、殆ど使い切ったとあります。パ社は名の通り郵便会社ですが、この当時太平洋を横断するような人の交流や物を販売するための物流もビジネスとして成り立っていません。ですから米国の国策として郵便を民間船会社に委託し、多くの資金の援助しました。今の小泉さんの郵政民営化の様な方式です。「高価で軽い郵便物」は船会社にとって魅力的なビジネスだったのでしょう。

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腐っても鯛 !!

2005.12.09

「腐っても鯛」!!

前回「下りカツオ」のブログをしました。下りカツオですぐに反応された方もいらっしゃいました。お魚は全般的に全て好きですが印象に強く残っているお魚があります。それはカツオでなく「」と「鮟鱇〔あんこう〕」です。何れも子供の頃の経験で父との思い出です。「鮟鱇」は次ぎの機会に譲って今日は「腐っても鯛」と揶揄される「」についてブログします。
昔々の江戸っ子にとって四月、五月の鰹は特別なものであった様ですが17世紀初頭の江戸社会では既に「一汁三菜」を基本とした懐石料理が定着していたようです。秀吉と利休で体表される「侘茶〔わびちゃ〕」の流れを考えても精進料理が前提である事は容易に想像できますね。そこで江戸での料理がどんな物かと必然的に疑問が沸きます。僕は料理を食べることと料理の本や写真集を見ることは出来ますが、「作る」ことは全く出来ません。作る事は大変な事だと思ってます。ですから食べるときには常に「感謝の気持」が必要だなぁと感じています。僕自身は魚であれば母仕込みの三枚におろす程度は出来ます。
江戸の料理を知る上で17世紀の半ばに出版された「料理物語」という本があります。当時の料理全般にわたって記述してある解説書で作者は不明ですがとても興味深い内容です。
この本の中で最も重要な料理素材として「海水魚」が挙げられていますが、この魚の部類を分解すると最上位は「海の幸」です。なぜくどくど説明するか言うと、実は江戸以前の最も重要な料理素材は「川魚」の「鯉〔こい〕」だったのです。
江戸の食文化が「鯉から鯛」へ変えてしまったと云う訳です。選手交代の理由は漁師の技術向上〔人も船も漁具〕と物流だったようです。中世で肉食がタブーの律令的国家であれば淡水魚の鯉が最も採りやすく安定的に供給でき、精進料理の素材としては第一であったのでしょう。
そしてその後は現在まで延々と素材の中では「海の幸」のが第一番とされ、その中でも「」が魚類の王座になったという訳です。
その鯛ですが本来は「真鯛」といいます。わざわざ「真鯛」と言う所に意味があるのです。子供の頃その真鯛を見に行きました。場所は千葉県鴨川市小湊にある「鯛の浦〔妙の浦〕」といところです。50年以上前のことです。検索すると今でも保護されて存在していました。「真鯛」はもともと深海性回遊魚で群れをなさないお魚ですが、僕が生まれる以前からこの浦では比較的浅い水深〔10~20m〕に生息しています。浦にはフェンスも無く、ただ定期的に餌を撒く程度だったと記憶しています。の場所に「群れ」で定住しています。鯛の生息で一般的でないこの現象はよく判っていないようです。昭和42年12月に文化庁の特別天然記念物に指定されたという事です。
小学生の時オヤジさんに連れられて「一丁櫓の伝馬船」に乗り「海女さん」達が餌付けをしているシーンが記憶にあります。確か船頭さんが軽く船べりを「トントン」と叩くとぐんじょう色の深い(僕にはとても深く感じました)底から鯛の群れが海面に浮上して来ました。殆ど素手で採れるような。その時かその後かはもう定かではありませんがオヤジさんから「真鯛の意味」を聞きました。

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今が「旬」の三陸の鰹

2005.12.04

鰹の「旬」は今!!

気仙沼港の今シーズンの一本釣り漁船による「鰹(カツオ)」の水揚げが11月30日に終わりました。
僕の子供の頃を思い出すと「鰹と鰹節」は一般家庭の食生活に深く関わり合いを持っていたと思います。その昔、武士が出陣する時「御神酒とスルメ・勝栗・鰹節・昆布」を三宝に飾り酒宴を張った事は小説や時代劇TVでよく知られています。少し前までは「朝の味噌汁」に代表される様に「鰹節」は調味料として万能でした。現代のように科学調味料が主流の食卓でも味にうるさいご家庭はきっと「鰹節や昆布」を上手に活用していると思います。最近の若い婦人は「ダシ」を取らずに味噌汁を作ってしまう豪傑がいるようですが。気仙沼の今シーズンの水揚げ累計は4,600百トン程度。国内ダントツです。二位の千葉県勝浦港が1,400百トンで大きく差があります。やはり鰹のメッカは金華山沖三陸沖の東北水域という事になります。ここには宮古釜石大船渡気仙沼と昔からの漁港が存在します。想像するに「鰹の一本釣り漁船」も年々廃業に追い込まれ、激減しているのでは。「萬久満」のオーナーの戸田さんが「築地市場の仲買問屋」が廃れて行くのを嘆くのと一緒で「鰹の一本釣り漁船」の後継者は殆どいないと言っていいでしょう。先日もTV番組で地中海沿岸のイタリアのシチリア島周辺の漁師の後継者はいないと現地の老漁師が嘆いていました。

鰹は昔から日本近海の南から近づき北へ上りまた南に下るという南北移動を回遊しながら成長します。北限は北から南下してくる親潮(鰹が乗っている海流は黒潮)の「(ふち)」が限界の様です。ここまで北上してきた鰹はUターンして南下を始めます。「下り鰹(稀に戻り鰹という人もいます)」です。黒潮と親潮が交錯する混合水域に「餌の倉庫」があります。ここで丸々と脂肪の乗った「下り鰹」に生まれ変わります。子供の頃よく食卓に鰹が出ましたが美味しいとは思いませんでした。理由は簡単です。南から北上して房総沖に現れた鰹はまだ痩せていて脂肪が少なく「うまみ」から程遠いのです。僕がよく食べた鰹は7月から8月にかけての夏鰹でした。30㌢程度のスマートな鰹でしたね。

稚魚は低緯度付近で生まれ螺旋状の回遊しながら3月ごろ先島諸島(石垣島)の南に現れ、4月から5月にかけて沖縄諸島から鹿児島周辺に近づきます。別なチームは5月に伊豆諸島周辺に現れ、6月になると房総沖まで上ってきます。一般には関東人はこの夏鰹を「」として食べていた訳です。

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海面上昇

2005.12.03

最近のニュースに『米科学誌「サイエンス」のなかで「CO2濃度が過去65万年で最高」とありました。(フジサンケイ・ビジネスアイより一部引用)

『海面の上昇と温室効果ガスの増加の速度について、米科学誌サイエンス(11.25付)に掲載された二つの研究で、現在のレベルが少なくともここ数千年で最も速いことが明らかになった。地球温暖化に結び付けて考えるにはさらに研究が必要だが、研究者らは「人類の活動が引き起こした結果ではないか」と推測している。現在の大気中の二酸化炭素(CO2)濃度は、過去約65万年間で最高水準であることが、欧州南極氷床掘削計画(EPICA)の成果で分かった。また、南極の氷床掘削は、ロシアのボストーク基地の氷床掘削により、約44万年前までの氷が採取・分析されており、EPICAの成果で約21万年間さかのぼることができた。日本も、ドームふじ基地の氷床を来年1月下旬までに深さ三千メートルまで掘削し、約百万年前の氷を採取する計画とのこと。現在のCO2濃度は約380ppmだが、ボストークによる約44万年前までの濃度は大体、180-300ppmの範囲内。EPICAによる45万-65万年前の濃度は、180-260ppm』と、さらに低かった様です。

米国の環境問題特別調査委員会が2000年にまとめた報告書(CEQReport)によると現在のCO2濃度に比べると2050年にはざっと二倍の濃度に達するそうです。すると「中緯度地域での気温は2-3℃上昇し、雨の降り方も全く変わってしまい、地球全体の年間平均降雨量は7%程度増加する。そして、南北の両極地域での気温は中緯度より3-4倍大きい」となっています。
仮に両極地域で5-10℃気温が上昇すると「グリーンランド」や「南極」の氷は確実に解けるそうです。
海面上昇です。

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伊藤穣一とAjax

2005.12.03

今年もあと僅かになりましたがIT業界で一つの話題として「Ajax」という言葉が定着しつつあります。

Ajax」は英語で「エイジャックス」と読みますが「Ajaxをローマ神話ではアヤックスといい、ラテン語で「アイアスまたはアイアース」と読み「ギリシャ神話」に登場する英雄の名前です。(Wikipedia

実は、今年の初めにJOIと在った時に彼の頭の中は「Ajax」で一杯でした。なので僕の定期的な報告をそそくさと聞き終えると、待っていたように早速Ajaxの概念と使い方と今後の発展性を盛んに語っていた事を思い出します。あれから10ヶ月以上経ちますが「Ajaxの急成長ぶり」に少々驚いています。
そしてやはりJOIの先見の確かさも合わせて認識しています。
勿論Googleの全面的なAjaxの採用もトレンドを推進した起爆剤と言えるでしょう。

当社製品に機能的には十分満足のいくレベル達しいませんが「FacerLite(フェーサー・ライト)」というDHTMLを活用したリッチクライアント製品(我々は対話型Webソリューションと呼んでいますが)を持っています。その製品の「コア技術」の一つに実は「Ajax」を取り込んでいます。
バージョン1の設計仕様は2004年の夏に終わっていますので、相当早いタイミングでAjaxの基本コンセプトを製品に取り込んだことになります。それは当社の技術者の発想でもあったのです。
このFacerLiteという製品の設計責任者は土井秀俊で、彼は大学院卒後、15年間IT企業のR&D部門に所属してソフトウェア技術の研究開発を長く勤めた後、弊社のコア・アーキテクトになりました。そしてこの「FacerLite」はUIの強化と多くのコンポーネントを装備して来春バージョン2としてリリース予定です。当社の戦略製品です。この製品にも多くのAjax機能を搭載しています。特に開発者が最小限のコーディングでAjaxの機能を使える事を前提にしたテンプレートやコンポーネントを搭載します。
そういえば先般SUNの技術エリアの責任者も面談中に今後はクライアントにプラグイン等を配布しない「ノン・プラグイン系でDHTMLとAjaxを使った市場」の要求が高まるでしょうと話してくれました。同様にある都市銀行のソリューション部長も「DHTML」の必要性を強く望んでいました。
JOIの先見性に驚きながらも確かな技術を製品に組み入れる当社の開発メンバーに敬意を感じています。

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美味しい魚が食べられなくなる?! 萬久満の戸田さん語る。

2005.12.03

『築地の仲買問屋がね激減しているんだよ。
問屋がなくなると「新鮮で美味しい海産物」が手に入らなくなるよ。
ご家庭ではスーパーでお魚を買うよね。街の魚屋さんがなくなっちゃったから。東京の小料理屋や居酒屋も仲買を通さず直接買うよね。どんどん仲買問屋が廃れています。美味しいお刺身食べれなくなるよ。』と、萬久満の戸田さんは憂いを含んだ声で話し出します。
生産地から巨大資本が直接買えば安くて入りますが、市場へは切り身となってサランラップに包まれた味気ない「お刺身」を手に入れることになります。「あれはぁ刺身じゃあないからねぇ」と戸田さんは言う。

徳川家康が秀吉の命を受けて江戸入府と同時に彼は「駿河」から多くの職人を一緒に引き連れてきました。特に「白魚」が好物であったので摂津の国佃村の漁師・森徳右衛門を呼び寄せ白魚の漁場開拓を命じたそうです。白魚は旬を過ぎると群れを成して川に入り、葦や水草などに卵を産み付けると、雌は死んでしまい、雄は卵が稚魚になるのを見けてから死ぬ性質を持っています。誠に健気な子孫継承です。その徳右衛門さんグループが住んだのが現在の「佃島」という訳です。入植にあわせて苗字帯刀を許し、漁業権も与えたそうです。かなりの特権という事になりますね。勿論その周辺にも太田道灌時代の漁師もいた訳ですので、いろいろゴタゴタが長く続いたようです。先住民を蔑ろにするといいことはなりません。徳右衛門さんは同時に摂津の住吉神社の分社もしています。現在もその場所は変わりません。この徳右衛門さん達が取った「白魚を含めたお魚」をお城に献納したそうですが、あわせてその残りを売り捌く特権も得たそうです。そのために「市場」を作ったそうです。その地は現在の日本橋を挟んだ両岸で、これが現在の築地市場の始まりです。日本橋の両岸は長く活用していましたが、関東大震災で現在の築地に移転を余儀なくされたそうです。
よく日本食のお店で「河岸(かし)」という言葉を耳にしますが、この日本橋の両岸が起源だそうです。言葉には常に歴史的背景が潜んでいますね。家康はもともと健康と質素を愛しながら「美食家」で知られていますが、江戸前のお魚を特にお気に入りだったそうです。彼の政策のお陰で「築地市場」も「江戸前寿司」も発展したのでしょう。

戸田さん。歴史を感じますね。そして、ずっと新鮮で「本物」の美味しいお魚を仕入れ続けてください。お願いします。

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クリスマスの星

2005.12.01

クリスマスの星

先週自宅マンションの玄関ホールで大人たちに混じって子供たちが楽しげにクリスマス・ツリーの飾り付けをしていました。僕らがよく見るクリスマス・ツリーによく見かける飾りつけとして、テッペンに大きな「」を見ることが多いと思います。やはりこのツリーも一番上に大きな星を子供達が一生懸命飾り付けをしていました。実はこの星に意味があるんです。
この大きな星は「ベツレヘムの星」と言われています。かってイエス・キリストが生まれたとき空に輝いて東方の博士たちをキリストの生誕地であるユダヤの小さな村ベツレヘムへと導いたという星なんだそうです。このベツレヘムの星の実在有無は未だ解明されていませんが、12月の夜空の「はくちょう座」は西北に少し傾いて「十字架」を切る形になります。知人に聖書を英文で読んでいる方がいます。理由は熱心なキリスト信者の知人と親近感を持った会話をするための前提として読んでいるそうです。そのくらい熱心であれば大抵のコミュニケーションは可能と感じます。取り組む姿勢がすばらしいですね。

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〔子供達が作り上げた小さなクリスマス・ツリー/夜にはライトアップも〕

今夜は特に日中に風があったせいか、夜空はとても澄んでいます。きっと空気のきれいな郊外の山に登れば南中に輝くオリオン座や天の川やはくちょう座を確認できるでしょう。

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