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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

黄砂が導くもの

2006.04.30

黄砂が導くもの

北京に春先に訪れると黄砂の砂嵐に出会うことはしばしばです。始まると数日間は強烈な砂嵐があるそうです。この現象は60年代から年を追う毎に日数は徐々に増加しているとの事です。
数日前の「北京・新華社通信」によるとチベット高原の砂漠化が進み、春先などの黄砂の新たな供給源となっていることが気象学者らの研究で分かったと報じています。中国の黄砂供給源は、これまで北西部の内モンゴルや新疆ウイグル両自治区や甘粛省の砂漠地帯とされてきました。それがチベット高原まで拡大したと言うわけです。

長くジャーナリストであった東京大学大学院環境技術政策学専門の石弘之氏が80年代の後半から「地球環境報告」というシリーズの中で中国の「砂漠化」を言い続けて来ました。この報告書によると元々砂漠でなかった土地が砂漠化し、それが「紙にインクが染みるように」広がっていったという事です。

例えばシルクロードで有名な敦煌付近についてお話します。驚いてしまいますが敦煌一帯は第二次世界大戦直後は紅柳が茂り「紅柳園」と呼ばれていたほど森林が広がっていたそうです。紅柳は中国の草原やオアシスに生息する一般的な樹木です。その紅柳が過去20-30年の間に「薪取りや家畜の餌」のために樹木は根こそぎ掘り尽くされ、もはや50キロ四方に渡って紅柳は殆ど無いそうです。砂漠はその侵略を欲しい侭にしていると言えます。

長い中国の歴史の中で人間と家畜の圧力で中国の「砂漠化」は必然的に広げられと言えます。

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多摩川がきれいになった!!?? 

2006.04.30

多摩川がきれいになった!!?? 

アユ解禁日は釣り人にとって待ち遠しいものはないと言われています。その日に備えてかなり以前から用意を整え、現地には前夜のうちに乗り込むという「達人」たちがいます。アユ釣りだけの全国の友釣連盟は数え切れないほど存在します。
アユには解禁日がありす。
当然ながら解禁日は鮎の生育状況などにより毎年変わりる事になりますね。今年の関東地区の解禁日は概ね6月1日周辺です。また、アユ釣りには事前に入漁券を買い求める必要があります。何ゆえ事前かというと当日は高いそうです。また何故お金を取るかというと、実はその河川の漁業組合がアユを放流するからなんです。その放流量も各河川で異なります。例えば1㌧とか2㌧とかその年に放流する量を事前に発表します。

昔からアユは四万十川吉野川産のものが上質と言われていました。いわゆる上質は「下りものだ」という訳です。長良川の鵜飼は毎年5月に、また友釣の狩野川が5月後半、そして関東の6月1日とアユ解禁の本番がやって来ます。
私たちが美味しく頂く「アユ」は既に大人の成長したアユですが、アユは川と海を行き来する回遊魚です。アユが川に棲み始める春から脂ののる秋の本番シーズンはかなり知られていますが、海で暮らす前半生についてはあまり知られていないようです。

今年の冬に多摩川河口近くの「京浜運河」で「稚アユ」の生息が確認されたとの報道がありました。同地区の市民団体「多摩川クラブ」メンバーが調査したもので、河口付近で稚アユの生息が確認されたのは初めてだそうです。

多摩川がきれいになった!」ということでしょうか。
実際に捕獲した場所は京浜運河の「浮島橋」付近だそうで、体長五センチ前後の稚アユ十数尾の生息が確認されました。
先ほどの放流でなく「天然もの??!!」という事になりますね。なんと素晴らしい。アユは綺麗な水にしか生息できません。その意味で多摩川が綺麗なったと言えるのでしょうか?

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オペレーション・セール

2006.04.29

日本のオペレーション・セール

長崎とオランダとの「交流400周年」を記念して2000年に始まった「長崎帆船まつり」は今回で7回目だそうです。開催中、日本丸や海王丸、ロシアのナジェジュダなどの帆船が長崎港に入港しその美しい姿を観客に披露しているようです。

米国の建国200年祭は「1976年7月4日」でした。この時世界的に最大級の大帆船パレードがありました。「オペレーション・セール'76」〔通称 OP SAIL'76〕です。
参加国はアルゼンチン・カナダ・チリ・コロンビア・デンマーク・西独〔当時〕・イタリア・ノルウエー・オランダ・ポーランド・ポルトガル・スペイン・ソ連と日本です。勿論米国は開催国として参加しています。

そして、「日本のオペレーション・セール」ですが、1983年10月23日に「大阪築城400年祭記念」のイベントとして過去国内最大規模のオペレーション・セールである大帆船パレードがありました。この日、「大阪南港岸和田沖から大阪港」までを日本全国から集まった数百隻のヨットと帆船群が帆走パレードを行いました。

交流400周年という「オランダと日本とは」どの様な歴史があるのでしょうか?

世界史の中に「日本」という国が取り込まれた発端はマルコ・ポーロの「東方見聞録」と言われています。彼は一度も「日本」という国を見ぬまま、平泉や佐渡に代表される金山のうわさを信じて「黄金の国・ジパンク゛」を描いたきらいがあります。

マルコの東方見聞録出版以前に鎌倉時代の「北条執権時代」に二度の「元寇」がありました。1274年(文永11)10月の「文永の役」と1281年(弘安4)夏の「弘安の役」です。中学の歴史でみなさん習いました。
マルコ・ポーロはヴェネツッア人です。
塩野七生女史が描く「海の都の物語・ヴェネツッア共和国」の初期の頃に彼は生まれています。
マルコは1270年に故郷のヴェネツッアを父や叔父と共に殆ど陸路を三年半かけて上都開平府〔現在の内モンゴル〕に着きます。そこにはかのフビライ・ハーンがいました。
ヴェネツッア人はヴェネツッア商人であり、海の都を千年亘って生き抜いた民族です。高度な造船技術を持つ交易の民が陸路というのが不思議でなりません。勿論スエズ運河も無いし、海のシルクロードも未だ整備されていなかったせいでしょうか。

彼がフビライに合った年に900隻の船団と船員を含めて三万人を動員した最初の元寇〔つまり文永の役〕を発します。と同時に大都〔現在の北京〕が完成した年でもありました。
30年後、東方見聞録を書き綴るときに、彼はこの元寇での出来事をつぶさに思い起こした事でしょう。
なぜ、大ハーンが日本を征服したかったかを。

国際感覚とビジネス感覚に鋭いマルコをフビライは寵愛した様です。その結果、帰国の願いを何度も退けられ結局故郷に戻ったのは実に25年ぶりだったそうです。
そして冒頭の「東方見聞録」を1299年〔正安元年〕に出版しました。

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新入生と初心

2006.04.27

花鏡〔かきょう〕」は世阿弥が60歳を過ぎた頃に書き留めたものと言われいます。
この頃の世阿弥は不遇でした。少年時代は将軍足利義満に見出された過度の寵愛を受けていた時と雲泥の差といえます。義満はこの美少年を溺愛しますが、彼に対する愛情は「」の保護者というよりも「愛人」に近かったかも知れません。当時に置いてはしごく当然な行為であり、この行為が廃頽したのはずっと後々の事ですから。もっとも足利家は代々日野家から正室を迎えていましたが義満も当然ながら最初は「業子」で次が姪の「康子」でした。血の濃い当時の常識的な近親結婚です。義満の政治的な勢力図よりも官能的な「」や「美少年」に意識が惹かれるのは自然な摂理といえるでしょう。30代で著名な「花伝書」を著した世阿弥ですが、60代のこの洗練された「花鏡〔かきょう〕」の中に今日のテーマの主題があります。

初心について」です。
彼は「四十以降から時々自得して、心に浮んだことを書きとめた」と断りがある様に長い期間にわたって執筆されたことが伺われます。

1500㌘にも満たない未熟児はファミリー全員の心配を他所に一ヶ月以上の集中治療室からようやく生還し、一般病棟に移れたようです。その後、少しずつ成長し始めました。ちょっぴり成長した赤ちゃんを僕が抱いたのは22年前の真夏でした。この未熟児の父は僕の長兄です。
「すくすくと真っ直ぐに、そして太陽の様に明るく」と願いを込めて兄はその通りの名前を命名しました。その名のとおり彼女は真っ直ぐに成長しこの春、著名大学を卒業し、子供の頃より天職と感じていた職業に就きました。
そして入社したその日に「初心」の気持ちを込めたメールを叔父である僕に送ってくれました。その長いメールを読みながら軽々と両手の中に納まってしまう軽い赤ちゃんを記憶が呼び戻されました。この可愛い姪の成長を楽しみにしています。

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カティ・サーク

2006.04.24

カティ・サークの名前の由来

アメリカス・カップ」ほどあらゆるスポーツ競技の中で人間の知恵と技術を自然条件の中に対応させてることを競うものは他にないと言われています。米国が鎖国の日本にペリー提督を乗せた東洋艦隊を1851年に差し向けたその年にニューヨークから英国に渡った一隻のヨット「アメリカ号」が一個の銀製のトロフィーを獲得しました。
この一隻のヨットの勝利から始まったこのレースは150年以上、「国家の威信」をかけたプレステージを誇る伝統へと進化させて来ました。
性能の良い「」を創り出すことは、
そこに生きる社会が「文化・経済・情報・交流・交易」などを通じてより良く発展するための重要な基礎的条件であると言うことを古くから古人は知っていたと思われます。
風を受けて走行する帆船造りにおいて「早い船を作りたい」という一心から芸術的な設計と評価される帆船が造られるようになりました。

その帆船が「カティ・サーク」に代表される数隻のクリッパー・シップです。
帆船の歴史は一説には6000年程度あると言われています。
この長い歴史の中でクリッパー・シップと呼ばれる帆船が人々に注目され、熱狂的なレースを展開したのは1850年位から1890年前後の短い間の事でした。特に日本人は三百年間続いた徳川幕府の鎖国政策によって100トンにも満たない和船からいきなり冒頭のペリー提督により黒船による「汽船」の洗礼を受けてしまいました。米国やヨーロッパのような「帆船」の生い立ちから完成までを経験していないのです。
その意味では米国人や英国人の様な国威としての「アメリカス・カップ」を捕らえられないでいる国民であるかもしれません。
ともあれ「カティ・サーク」に代表されてる高速帆船の魂は「アメリカス・カップ」に引き継がれています。

〔カティ・サークの舵輪〕

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ダ・ヴィンチ・コードとキーストーン

2006.04.23

映画のロードショウまでは「絶対に読みきる!!

三ヶ月ほど前知人と久しぶりにランチをしました。
その時の話題は「ダ・ヴィンチ・コード」一色です。一冊の分厚い単行本をテーブルの左に置き、その「語り」は途方にくれるほど長々とした物でした。語りながら如何にこの本が面白く、さらにその映画化の配役が素晴らしいかと、その度に左手で分厚い単行本をコツコツ叩くのです。昨年出版されたこの書籍はあっと言う間にベストセラーになったようです。僕はこの知人から聞くまで全く知りませんでした。その時の僕は勿論ランチにのみ興味があり、本の題名さえも記憶にありませんでした。確か話の途中で「そんな分厚い単行本でなく、文庫になったら読みますよ」と言い逃れた記憶があります。
そして、50分のランチが終わり別れ際に聞きました。
ところで「そのぶ厚い本だけど、もう何ページ読んだんですか?」と聞くと、
知人曰く、少し照れて「うぅぅぅん、と。まだ15ページ」
「はぁぁ」と僕が呆れ顔に「敬礼」して帰途につきました。

「ルーヴル美術館のソニエール館長が異様な死体で発見された。死体はグランド・ギャラリーに『ダ・ヴィンチ』の最も有名な素描<ウィトルウィウス的人体図>を模した形で横たわっていた。殺害当夜、館長と会う約束をしていたハーバード大学教授ラングドンは、警察より捜査協力を求められる。現場に駆けつけた死亡している館長の孫娘で且つ暗号解読官であるソフィーは、一目で祖父が自分にしか分からない暗号を残していることに気付く…。」と言うのが上・中・下に分冊された文庫本ダ・ヴィンチ・コード」の最初の数ページのあらましです。5月に公開される映画では、主役のハーバード大学教授ロバート・ラングドンは「トム・ハンクス」だそうです。相手の女性役で暗号解読官ソフィー・ヌブー役は〔アメリ〕のオドレイ・トトゥです。そして、この物語をより引き立てるベス・ファーシュ刑事役に「ジャン・レノ」と言う事で、くだんの知人が「一押し」した意味が四ヶ月を経てやっと理解できました。

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