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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

裁量権

2008.01.11

「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船) たった四はいで夜も眠れず」

この川柳はとても有名ですね。巨大都市江戸からあっと言う間に日本国中に広がりました。当時の江戸は情報発信という点でも巨大な震源地だったようです。
「上喜撰」(じょうきせん)は当時の高級茶の銘柄です。もちろん、この蒸気船(上喜撰)は米国海軍の黒船四隻の事ですが、ある日、不意に浦賀へ進入した蒸気船によって江戸という大都市が上を下への大騒ぎしたことを、カフェインの効いた高級茶によって夜も眠れないに引っ掛けています。情感が目に浮かぶようです。流石いとうほかありません。

この川柳はペリー提督の「黒船艦隊来る」がきっかけによって江戸市民によって詠まれたわけですが、艦隊発見の第一報が「浦賀奉行所」入ったのはこの艦隊がすでに浦賀沖にアンカー(錨)を打った後でした。
この時の伝令の報告書は「およそ三千石積みの船四隻、帆柱三本ているも帆を使わず、前後左右、自在にあいなり(中略)あたかも飛ぶ鳥のごとく、たちまち見失い候」というものでした。
時は、1853年6月3日(嘉永六年六月三日)の事でした。

日本側の見張りは「三千石積み」と目測します。
当時国内にはいわゆる米千石を積載できる和船の「千石船」が大型船の部類にはいる他と比較できる具体的なサイズでした。

幕府の取り決めを無視して長崎でなく直接江戸に来たペリー提督の心理はよく理解できるものですが、いくら国是を取り決めても国際社会がそれは「是」としてくれない以上、いかんともしがたいです。
さて、その四隻の黒船ですが、
旗艦の「サスケハナ号」は2,450トン、乗組員300名、1850年に竣工した米国海軍最新鋭の汽走軍艦です。米国母港を出港したのは二年前で、すでに東インド艦隊に所属していました。もう一隻は「ミシシッピー号」で1,692トン、乗組員300名、1839年竣工で米国海軍最古の汽走軍艦でした。
当時はまだ太平洋航路は当然ながら未開発でしたので、ペリーは米国東部のノーフォークを1852年(嘉永5)11月24日に出発して大西洋を渡り、アフリカ南端の希望峰を回り、インド洋を経て東インド艦隊に合流するまで、この艦でやって着ました。実に長い旅です。

話を戻しますと、日本の千石船は1,000石の米を積める大きさの船を指しますが、これをトン数に換算して「サスケハナ号」と比較してみたいと思います。米1,000石の重さは約150トン程度なので、積載能力換算で「150トン」積みの舟となります。これを一定の喫水(荷物を載せて実際に水の中にどのくらい沈むかというライン)にして排水量換算にすると約200トン前後と推定できます。ですから、千石船の三倍どころか、約20倍近い大きさということになります。見張役はよほど泡を食ったということになりますね。

いったい、ペリー提督の日本での「裁量権」は何処まであったのでしょう?

彼は米国大統領の内命によって日本に遠征して来ましたが、ノーフォーク軍港を出港してより百三十日以上の日数がかかっています。逆の言い方をすれば、米国本国へ指示を仰ぐ場合、相当数の日数が必要となる訳です。通常の書簡では当時整備されたばかりのP&O社を使うことも出来ますが、外交機密文書であれば、そうもいかず、だぶん直接軍艦を本国へ戻す以外は方法がないと考えるほうが自然ですね。

彼自身はこのプロジェクトを成功裏に終えるために、日本側の情報を可能な限り入手し、想定問題と課題を何度も自問自答し、十分な「交渉プラン」の自主トレーニングをしたのだろうと思われます。僕らのビジネスとまったく同じです。交渉を有利に展開させる為には、自分の手の内を出来る限り見せず、相手のことを総て知ることが望ましいでしょう。

さて、
実際この提督の権限は何処まであったのか、とても興味が沸きます。
冒頭の川柳の「四はいの蒸気船」は「サスケハナ号」と「ミシシッピー号」の二隻のみで、他の「プリマス号(989トン/乗組員200人/装備砲22門)」や「サラトガ号(882トン/乗組員200人/装備砲22門)」の二隻はエンジンは無い帆船の軍艦でした。
この頃の蒸気船は石炭を燃料にボイラーを焚き、船の両脇にある「外輪車」を回して、カ推進力を得るものです。
実はサスケハナ号もミシシッピー号も外輪車のみの推進力では一週間しか走れませんでした。この事は石炭の積載量に比例します。多く積めれば長く走れる。当然の理屈です。でも、この船の本来の活動目的は軍事目的です。武器や乗員等の大事なスペースを総て燃料に割く訳にはいきません。なので、補給船を数隻従えて艦隊行動をします。これはごく近代の原子力船以外は変わりません。当時の資料で不確かですが1日当たりの石炭の消費量は約26トンという記録があります。
その速度も条件のいい時で7から10ノット弱です。同列には議論できませんが、よく訓練された帆船より遅いことになります。

大型の汽走軍艦の建造を積極的に推進したのは、かって帆船大国の英国でなく、米国で重視されました。理由はメキシコ戦争と言われています。この時期から英国の国営造船業を米国の造船業が超えることになります。新興国の米国の方が上昇する工業力がついて来たということでしょうか。

米国海軍で「蒸気船の導入」に一番積極的な軍人がペリーでした。
彼は米国では「汽走軍艦の父」と言われています。大型汽走軍艦二隻の建造を開始します。竣工したのが日本までやってきた「ミシシッピー号」と「ミズリー号」の姉妹船です。二隻とも東インド艦隊に着任する予定でしたが「ミズリー号」はジブラルタル入港時に乗組員の不注意で火災になり沈没してしまい編入すべき東インド艦隊にたどり着くことは出来ませんでした。

「黒船艦隊来る」で巨大な姉妹船が並んで浦賀水道にはいったら、日本サイドはもっと驚いたことでしょう。
そして、
メキシコ戦争終了後に完成した次の姉妹船は、ペリーの旗艦の「サスケハナ号」と「ポータハン号」です。後に二隻ともペリー艦隊に編入され、日本にやってきます。
結局ペリーが日本遠征艦隊を編成する時点で、遠洋航海が可能な蒸気艦は「ミシシッピ」「サスケハナ」「ポーハタン」「サラナック」の4隻のみであったと思われます。ペリーはこのうち第1次遠征で2隻、第2次遠征では3隻を率いてきました。
日本遠征は米国海軍の総力を挙げた国家プロジェクトであったと言えます。
当初ペリーは幕府との「外交法権」の交渉を有利にするために12隻(13隻という報告もあります)の艦隊編成を計画していました。
しかし、集合地点の上海や那覇で待っても一向に他の艦船は間に合いませんでした。彼は「残りの艦船はいったいいつ到着するのか全く予測ができない有様である」と「日本遠征日記」の中で嘆いています。当時は無線も衛星携帯電話も無い時代でしたので、当然のことだったでしょう。
彼は気走軍艦の威圧感がどれほど日米交渉に有効であったかをよく知っていたのです。

さて、「ペリー提督の裁量権」に戻りますが、
大統領から日本国皇帝への国書、及び大統領・海軍長官から彼が直接受けた命令の範囲内のすべての具体的な政策決定権がありました。
しかし、彼自身はすでに判明しているいくつかのアクション・プランがありました。
ひとつは時間と思われます。通信手段が船しかありませんので書簡はすべて船での移動です。実際には日本から本国への照会に四ヶ月、回答がもどって来るまの往復八ヶ月が基準となります。なので、権限の裁量も段々と大胆になってきます。

次に、艦隊の編成権です。
彼は日本に強い衝撃を与えることをはっきりと意識し、「12隻からなる艦隊」の編成権を得ています。彼は当時の米国海軍内ではほぼ最高位の高位にあったので、それが出来たいともいえますね。
さらに、親子関係にあった超大国「英国」への示威活動にも大きな狙いをもっていたようです。米国は「新興国」です。この時代は日本までのルートは英国の「シーレーン」を借りざる得ませんでした。英国は太平洋航路を除くかなりの海域について、少ない艦船で万全なシーレーンをすでに構築していました。しかし、米国が保有する大型汽走軍艦五隻のうち、三隻が極東に配備されました。これで、東アジア海域の軍事力バランスは一気に、米国が圧倒的に有利になっています。この示威運動はのちのち多く効果を生みます。

もう一つは、彼の役職名です。
大統領からの任命段階では、「アメリカ東インド艦隊司令長官(Commander-in-Chief,U.S.naval of the East India Squadron)」のみでした。この官名はあくまで極東の艦隊の長官であり、外交的な意味する役職でありません。
そのことに不便さを感じた彼は、裁量権の範囲内として、官名を自分の判断で変えます。
「Commander-in-Chief,U.S.naval of the East India,China and Japan seas.」とし、中国と日本海域を自己の管轄海域に組み入れた役職とししまた。
最初の日本への接触はこの官名で書簡のやり取りをしています。

そして、第二回目の遠征時にはもっと大胆になります。
英語名で「Commander-in-Chief,U.S.naval forces in the East India,China seas, and Special Ambassador to Japan.」となり、漢文訳では、「亜美理駕(アメリカ)合衆国特命欽差大臣専到日本国兼管国師船現泊日本海被理(ペリー)」という長ったらしい役職名になりました。
これでついに彼は「遣日特別大使」の肩書きを名乗ってしまいました。

また、彼は外交官を同乗させていませんでした。本国から連れて着ませんでしたし、上海の米国駐華弁務管(公使待遇の外交官)マーシャルにも同行依頼をしていません。
加えて、初めて国交の条約を締結することを目的とているにも関わらず「リーガル担当」も乗せていません。このことは後に本国の上院で問題になります。連れてきたのは、せいぜい漢文担当の中国人の秘書官とオランダ語通訳の二名です。日本語を話す通訳も同乗して来ませんでした。この事はこの交渉が長引く上で、徐々に不利となって行きます。

ですが、それよりももっと興味深い点があります。
ペリーの思考は「戦略」がきちんと整理されていたと伺えることが多くあります。
彼の戦略の立て方は現代のビジネスマンが立てる思考回路とまったく変わりません。
私たちは、
第一に、自社を取り巻く外部環境や自社の内部環境を把握し、その事実から重要な項目を抽出し将来を予測します。第二に、その【重要事項】を元に戦略仮説をたてます。そして第三に、最善の仮説を選択する意思決定をリスクをテイクしながら行います。最後に、アクションプランを作成しゴールを明らかにすることやメンバーを動機付けるなど、立案した施策が確実に実行されるようにする。といったセオリーを知っしいます。
そして、その為に、「仮説思考」を行います。
彼の「仮説思考」も
事実を積み重ねて、網羅的に考えるのでなく、先にある仮説を立てて、それを検証することからスタートしています。その仮説を立証する為に何をすればいいかの情報を集めを積極的に行い、それについて検証し、立証しようとします。もし、出来ないようであれば新たに仮説を立て直す、というサイクルを繰り返えす方法を取っています。

彼は総て自分で考え、自分で判断し、自分で実施しした様です。
そして、裁量権の範囲も拡大解釈してしまう傾向だったのでしょう。
なので、外交官もリーガルも不要というよりは、ノイズと感じたかも知れません。
自ら企画したこのプロジェクトのトップであった彼は数年間「孤独な毎日」であったことが想像できます。

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