BrainSellers.com

Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

I want you

2005.08.30

激務で死んでいると思っていたJAZZ師匠から突然のお達し。
「9月のB&Sをセットせよ!」との事。
「で、可能な限り女性を同伴せよ。」なんて云っていませんよ。
そんな時絶妙なタイミングで知人が一枚のCDを差し出す。越智順子のニュー・リリース「I want you」です。「おっ~ッ!!」知ってたよ。先日サイトで見たんだ。
うン十年前によく買った「スイングジャーナル誌」の人気投票で彼女は「女性シンガー部門5位」だそうです。勿論「その実力」は認めていますが、この雑誌の読者は思ったよりも少なく、なお且つ僕もそうでしたが「偏頗」がありすぎる嫌いがあります。なので、順位はそんなに気にしなくてもと思ったりもする。それとも最近の読者はストレートなのかしらん。
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とてもバランスとリズムがいいと感じました。機会あれば一度生の声を聞きたいものです。そういえば件の知人もお誘いせねば。

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地球の大きさと郵政民営化

2005.08.29

現代の僕らは手っ取り早い通信手段として携帯電話を手放せない。また別な便利さを認めているがe-Mailです。これもとっても魅力的な手段です。そしてやはりインターネットですね。「ワット以来の産業革命」には100年後の人々が時代を振り返ってきっとこの時代のデジタル革命のことを「なんとかの考察」とか言って話題にするでしょう。それくらいの革命がここ数年間続いています。極端に言えば世界中コミュニケーション出来ない場所は存在しないところまで来ています。地球はとても小さな存在になりました。今を生きている凡人の我々にはなかなかこのパラダイムシフトが掴みにくいと思れますが。
さて、小泉さんの掲げる「閣議決定」での「郵政民営化の基本方針」がありますが、基本的には明治以来の延々と続いている国益組織を大改革すると言うものですね。郵政民営化によって国民に大きな利益をもたらすことも謳っています。眼目は「郵政公社の4機能」の取り扱いと「郵便貯金の膨大な資金」の活用方法を活性化させるという様なことと認識しています。
以前のブログでも書きましたがマゼランは地球は「丸い」事を多大な犠牲を払って三年かかって証明しました。マゼランに続き80年後のドレーク船長も地球を一周しました。でも三年かかっています。〔散々略奪をしながら〕その後著しく造船術、操船術、気象学等々飛躍的に発展しましたが、「地球の大きさ」は殆ど変わりませんでした。まだまだ大きかったのです。

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日課の散策〔朝凪・夕凪〕

2005.08.28

今日は朝から曇り空で多少は蒸し暑くとも日差しが強くない分散策日和です。時たまいい風が来ます。その途中の出来事です。
いつもの散策道に巨大な陸亀がのっし、のっしと歩いていた。
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〔散策道に突然現れた陸亀さんにちょっちビビる。とにかく真っ直ぐ、その上早い!〕
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〔オーナーの大きさと見比べれば、その大きさが判るはず〕
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〔のっし、のっし。〕
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〔隣の知人に聞いてみよう。彼女の住まいはこの近くのはず。近所の名物なのか??!!〕

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ディナーは850円〔朝凪・夕凪〕

2005.08.28

三軒茶屋名物「東京餃子楼」

メニューは数えるほど。ビール等のお酒類とご飯をオーダーしませんが、その他のメニューほ殆どオーダーしても五種類しかありません。シンプルです。餃子命です。
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〔ランチやディナーの時間になると10名程度の行列が毎度のごとくできる〕
三軒茶屋駅から2-3分のところ。世田谷通りに面しており、キャロット・タワーの並びです。若者からご年配までたくさんの贔屓客がいます。

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今夜が十五夜 ! 〔朝凪・夕凪〕

2005.08.28

中秋の名月は哀愁を帯びています。

旧暦(昔で言う天保暦)の8月15日の月は中秋の名月と呼ばれ、古くからこの日に「ススキと月見団子」お供えしてお月見を楽しむ習慣があります。毎年12-13回の満月があるのに、「中秋の名月(あるいは、仲秋の名月)」は特別な夜です。それは「八月十五日(旧暦)」と書いて「なかあき=中秋」と読み、このとき月を「中秋の名月」と呼ぶ古い古い風習からです。中秋の期間は旧暦では7-9月を秋として、その真ん中の8月を中秋と位置づけているからでしょう。中秋の月になると、暑い暑い夏も峠を越え、大陸から乾燥した空気が流れ込んで空は澄み、月の光がいっそう冴えわたるからではないでしょうか。田舎の夜空では南西の地平線の向こうにさそり座の「アンタレス」が見えるかも。派手な夏の星座から地味な秋の星座へ移り行く時期でもあります。自然の摂理はすばらしい。秋は気持的にも落ち着いて物事に集中できるシーズンでもあります。
今年は、9月28日の今夜がその日にあたります。そう「十五夜のお月さん」ですね。一般に中秋の名月の日が満月になるとは限りませんが、肉眼ではここ数日満月に見えます。今夜はちょっと雲が。。。風が出で雲を吹き飛ばせば「まん丸に美しく輝く月」を楽しめます。

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クイーン・エリザベス一世

2005.08.27

クイーン・エリザベス一世の苦難

グット・クイーン・ベスの話ではありません。「クイーン・エリザベス一世」という豪華客船の話です。と、云うのは昨日、坂本竜馬の「いろは丸」や世界最大級の豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス」「サファイア・プリンセス」(113,000トン)の話題をしている内に「QE1」の悲しい出来事を思い出しました。
クイーン・エリザベス一世(QueenElizabethⅠ)は、 1940年に就航しました。
〔総トン数=83,673トン〕〔長さ 1,031㍍〕〔幅 118㍍〕で、乗客定員は2,283名収容です。当時は巨大船です。ディカプリオ様とケイト・ウィンスレットが共演して日本で大ブームの「タイタニック」はQE1より30年前に就航しています。(タイタニック号 /1912年就航/ 46,328トン)処女航海のみしたと云う方が正解ですね。船主は英国の老舗の「ホワイトスター社」です。しかし、この事故が原因で1934年にはQE1の船主である「キュナード社」に買収されています。そのキュナード社も先頃カーニバルコーポレーションの傘下に入り新なる活動を始めています。世の変遷は人智では図り知れぬものです。
確か1972年か73年だっと思います。当時僕はアプレンテス(apprentice)でした。最低半年のこの期間は主席先輩の下で見習いの日々を送っていました。場所は香港です。「クイーン・エリザベス一世」は「クイーン・エリザベス二世」と引継ぎ、四半世紀に亘る長い航海を終えて、第二の人生を歩むためにこの香港で洋上大学に変貌するための大儀装中でした。しかし、その儀装途中で不慮の失火にり三日三晩燃え続けました。後は鉄の塊が辛うじて浮いていると言う感じでした。神戸を出航する時に既に海事テレックスで既にその事実を知っていましたが、彼女に会うまでは実感は全く湧きませんでした。勿論現役時代の彼女知りません。「ダイヤモンド・プリンセス」の火災をTVや新聞で読んで「QE1」のことが突然思い出されました。「ダイヤモンド・プリンセス」の儀装には千名の従事者がいたと聞いていますが1人も死亡者を出さず消化出来たことは不幸中の幸いと思います。火災時の担当者の災難に唯々、心が痛みます。「QE1」の火災は多くの関係者が亡くなっています。昔「QE1」に乗船した方が居ないのかと検索すると『クイーンエリザベス一世号(1958(昭和33)年四月、ニューヨーク港からクィーン・エリザベス一世号に乗船)』がありました。

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勘違い

2005.08.25

グローバル化の先駆者はおっちょこちょい!
先日地下鉄の改札を入り、ホームの降りたとたんに電車が来ました。「おっ~と。ラッキー!」で乗り込んだ電車は反対方向でした。今月二度やりました。間違えても電車はすぐに来て時間を取り戻せますが、そうでない場合もあります。以前ブログに書いたコロンブスの勘違いを少しお話します。彼は計四回の大航海を経験しますが、この最初の航海で勘違いの連続で、でも新大陸発見をします。そもそも彼の「マスタープラン」は十年を費やしたきちんとしたプロポーザルでした。
そして、このプロジェクトの最も重要なポイントは実は「数学」でした。
平たく言えばアンダルシアのパロス港から「ジパング」と「インド」へたどり着ける総航行距離数が必要なのです。闇雲に行きません。船も人も食料も、そもそも目的もあるわけですから。コストです。提案書に投資金額と用途もきちんとうたっています。勿論最も注目する「投資対効果」も。その当時「平ら」から「丸い」の実証はだれも成し遂げていませんが、学者たちの間ではどうも「球体であろう」ということは広まっていました。そこで問題なのが地球の「円周距離」と「陸地と海洋の比率」です。あの時代にそんなのわかりっこないと思いますよね。僕もそう思っています。いました。
コロンブスの愛読書というのがあります。ピエル・ダイイ著「世界の姿」〔1480年〕です。このピエルさんは地球の経緯度各1度を56ミリャ三分の一と計算したアラビアの地理学者アルフラガーノ(九世紀)の説を採用し組み立てています。このロジックで言うと円周を二万400ミリャとしています。このミリャという単位ですが、1アラビア・ミリャで1973.5メールに相当します。面倒なのでこれからはメールで行きますが、このアルフラガーノさんの計算ロジックで言うと円周は40,259キロ㍍となります。実際の地球の円周は40,053キロ㍍です。
信じられない!!!殆ど、どんぴしゃです。

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時差とブログ・その2

2005.08.24

毎日きちんと書く事が大事です。
ブログの原型は帆船時代から続く航海日誌で日本で公式にこのロク゛・ブック(航海日誌)を活用したのは坂本竜馬の「海援隊」が運行した「いろは丸」で在った事を前回お話しました。竜馬は株式会社的な機能を持つ廻船会社を作る構想を持っていたと思われます。海援隊の当初はまだ株式会社ではありませんでしたが機能的には一部を持っていたようです。その「いろは丸(160トン)」(竜馬自身が命名)ですが、伊予大洲藩所有の三本マストを有する蒸気船です。その購入にはいろいろ事情がありましたが、ここでは割愛します。海援隊が傭船として借受、運行していました。
1867年4月23日(慶応三年)午後11時頃、瀬戸内海の六島沖で紀州和歌山藩船・明光丸衝突し、いろは丸が沈没しました。この衝突は日本で最初の蒸気船同士の衝突となりました。現代で言うと海難審判です。海難審判は海難事故の原因究明と事故の再発防止を目的しています。但し、刑事責任は問いません。裁決は、免許取り消しや業務停止などの懲戒処分と勧告です。昨年、三菱重工業長崎造船所(長崎市)で建造中の豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス」(11,3000トン・火災後船名を二番船と船名を入替えてサファイア・プリンセス号とした)の火災で海難審判が開始されました。日本国内で、建造中の船舶火災についての審判は初めてだと思います。僕の知人のお父上がこの造船所の社員であったので、その大変さをお聞きした事があります。とにかく造船所の事故では日本最大(客船の大きさも日本最大です)でしょう。

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時差とブログ

2005.08.23

グローバリズム「平らから丸いへ」の続き

フェルディナンド・マゼラン1519年9月20日5隻の船団と237人の乗組員を率いてスペインのサンルカル・デ・バラメダ港を出帆しました。そして、三年後の1522年9月6日に「マゼランの地球一周」という偉業を成し遂げる形で帰国しました。マゼラン本人はその前年に不慮の事故で41歳で亡くなっています。前回もブログでその辺の話をしました。このプロジェクトの最大の目的てある「地球は平らから丸い」というグローバリズムを実証した事で十分に達成しました。が、その延長線上で新しい航路を開発し「地球は丸い」から「すこし小さく」なった事も証明しました訳です。もちろん、香料諸島から物理的に高価な香料を満載してた訳ですので、領土権や交易権という副産物もありました。(本当は主目的)しかし、その多くの犠牲もありました。出港時のクルーは237名で帰港時のクルーはわずか18名と言われています。生存率7.6%です。この脅威的な数字は恐怖さえあります。この犠牲はとても大きな課題ですが、実はこのプロジェクトの隠れたもう一つの大きなグローバリズムがありました。それは「時差」です。

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グローバリズム「平らから丸いへ」

2005.08.22

『1850年地球はまだ丸くなかった』

地球は球体ですが、その昔大型の帆船〔当時としての〕の出現前は人間の活動に当然制約もありましたので、地球という大地はその当時途方もないスケールで広大な土地でした。本来丸いはずの地球は人間の行動範囲や生活範囲においては「平ら」という概念が一般的でした。当時の学者たちの間では球体の理論があったとは云えまだ見ぬ平らな大地または海洋によって「丸い」を証明する手段を持ち合わせていなかったというのが現実でした。地球が丸い事を身をもって現したのは1519年から22年にかけてのいわゆる「マゼランの地球一周」によって実験的に実証されました。残念な事に「フェルディナンド・マゼラン」自身はフィリピン近海のマクタン島で不慮の事故により亡くなりました。そして、彼の船団は、まる三年を費やして地球を一周し、最初の出港地「サンルカル・デ・バラメダ港」に戻りました。この時から地球は「平ら」の時代から「丸い」時代になったと言えます。「フェルディナンド・マゼラン」に因んで「マゼラン海峡」が名付けられました。クリストファー・コロンブスがインドと間違えて到達した「西インド諸島」の船出より28年後の出来事です。また、フランシス・ドレークが略奪を繰り返しながら地球一周をしたのが55年後のことです。その頃信長は15歳でチョード家督を継いだ頃。エリザベス一世は14歳でまだ姉メアリーの影に隠れていたころ。そんな時代です。地球規模という概念とそれぞれ東西で二人の天才を鳥瞰する事はワクワクする様な歴史の符牒です。

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野沢神社の夜はふけて

2005.08.21

今週の土日はご近所の野沢神社のお祭りです。散策の途中でお祭りと静かな満月を見つけました。
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〔今晩の準備に余念のないお祭りスタッフです。〕
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〔なんとあでやかにお化粧したお嬢ちゃん。この頃から訓練が始まっています。
夕刻になると美しい浴衣に着替えるのでしょうね。〕

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かねこ・はじめの六本木ピットイン

2005.08.20

かねこはじめさんの「六本木ピットイン」に誘われて。

もう、三十年以上も前に「新宿のピットン」に初めて行ったときの事をはっきり覚えています。と言いたいところですが、鮮明に覚えている部分と怪しい記憶も多々あります。僕は当時14歳。その頃夕刻に毎日ラジオを聴いていました。TVよりもラジオの生活でした。司会は大橋巨泉です。まだ大橋さんが三十代の後半だったと思います。昔のジャズ・ファンなら彼の元夫人がジャズ・シンガーの「マーサ三宅」だったことは良く知られています。確かお嬢さんがいて、「大橋」を名乗っていたはず。大橋さんは学生時代からのジャズ研で磨いた知識を十分にその番組で発揮していました。相当なジャズ好きでしたね。そのラジオのタイトルはもう思い出せませんがバークレーから帰国したばかりの「渡辺貞夫」を中心に置いた番組でした。中学生の僕が「バークレー帰りのナベサダ」を聴きまくっていた事〔彼は本当に吹きまくっていたのです。キョウレツでした。〕は今思うととても「生意気」な事だったなぁと感じます。あのサワノジャズの澤野由明さんのメッセージを聞くまでは。彼曰く「ジヤズは押し付けるものでも、押し付けられるものでもありません。ジャズは形式でなく、「心で感じるもの」。ジャズを知るためには、ただそっと耳を傾けるだけで良いのです。本当にいいジャズは初心者にも、ずっと何年もジャズを聴いて来た人にも同様に心に響くはず。」なのですから。たった30分の番組でしたが毎日聴いて興奮していました。相当変わっていたと思われます。きっとその延長線がはじめての「ピットイン」だったのでしょう。当時を思い出すと大橋さんの他にもう一人、とても魅力的なジャズ評論家を覚えています。声に魅力があり、その知識の幅にも説明の仕方も生真面目さと真摯さを感じられずにいられない位重厚な解説者でした。口調がやさしく、その響きが今でも頭の芯に残っています。
今は亡き「油井正一」さんです。

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初めての

2005.08.19

世界の七不思議に新しい不思議が加わる !
以前「スエズ運河とCatty Sark」というブログで世界の七不思議の話をしました。内容は、紀元前279年にエジプトのアレキサンドリア港の入ロ、 ファロス島に建てられた「ファロス灯台」がテーマでした。TV番組で毎週土曜日の9時から日立「世界ふしぎ発見!」という番組をご覧になっている方がいると思います。「世界の七不思議」を意識したこの番組は世界中の不思議を現地取材を中心に毎回楽しく放送しています。時たま見て「なるほど」と思う事があります。残念ですがTVは土日にしか見る事がありません。司会の草野さんやレギュラー解答者の黒柳さんと板東さんの会話も楽しい。この「世界の七不思議」の命名者は文献で確認出来た人という事でフェニキアの詩人で探検家の「アンティパトロス」(マケドニアの同名の軍事家とは別人)と云われています。(最初の命名者は古代ギリシャのビザンティウムの数学者フィロン)この当時の世界観は地中海を中心した沿岸部を主体としています。彼はBC266年にガレー船に乗り込んで地中海からイオニア海に入り、ギリシャのペロポネソス半島の北西部にの大地にそびえる「ゼウス大神殿」を訪れます。この当時ただ単に訪れることを目的とした移動は一般人はしなかったと思われます。その点ではアンティパトロスはとても裕福であったと思われます。この大神殿は64㍍もあり、ご神体は大理石の台座に宝石や象牙をはめ込んだ玉座があり、高さ十数㍍のゼウス神像が安置されていたと言われています。アンティパトロスはこの主神のゼウス神像に圧倒され、「人類の燦然たる文明を歴史に記録するという神から与えられた使命感」を強く感じたといいます。ここが普通の人とそうでない人の違いでしょうか? 彼のその使命感によって後の私たちがこうして世界の七不思議を体験できるのです。その意味ではアンティパトロスに感謝すべきでしょう。ファロス灯台に戻ります。

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サワノジャズ

2005.08.18

大切な友二度と失いたくない恋人。そういった一期一会の出会いが人生にあるように。求めずして、私はジャズの魅力に取りつかれ、そしてジャズの良心に触れてきました。それはまさしく巡り合せであり、かけがえのない出逢いだったのです。ジャズは押し付けるものでも押し付けられるものでもありません。ジャズは形式でなく、「心で感じるもの」。ジャズを知るためには、ただそっと耳を傾けるだけで良いのです。本当にいいジャズは初心者にも、ずっと何年もジャズを聴いて来た人にも同様に心に響くはず。喜びや哀しみ、それら全てを内包した人生のきらめく瞬間を共有する音楽なのだ。』

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陶酔そのいち

2005.08.17

先日久々に「カラオケ」行きました。とっても優しい「甥と姪たち」と。
彼らの歌をたくさん聴きました。全く知らない「歌手と曲」でした。ですがとってもい~い雰囲気で聞かせてくれました。僕の甥と姪はみんな雰囲気があっていいです。陶酔の二時間でした。元々音楽を聞くことは大好きでしたが、でも「カラオケ」は五年前からなんです。すっかり「板」〔?〕に付いてきました。それ以前は全く行きませんでしたので。以前勤めていた会社の同僚や元部下達は僕が今「カラオケ」で歌うことを想像も出来ないと思います。でも楽しいです。
その優しい姪と甥たちが歌った「歌」でとっても感動した曲を僕も歌いたくなりました。
そこで何度聞いても歌手と曲名を覚えられないので「歌手と曲」をその場で携帯に送ってもらいしました。
翌日、得意のAmazonでOrderしまた。

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齢82歳!

2005.08.16

先週のお盆休みの土日は久しぶりに田舎で過ごしました。

既に親父様は十年以上前にお隠れになりましたが、母上様は健在です。既に80歳を超えています。子供としてはいつまでも元気でいて欲しいものです。自分の年を数えると母上様の齢も必然的に判るのも。宇宙のリズムや人が一生でやり遂げる期間を考えれば、人生80年一瞬の出来事です。ですが、その一瞬に執着してしまう自分がここにいます。この日、一族郎党が集まりました。総勢20人足らず。この齢82歳の彼女から始まった縁で広がったファミリーです。彼女の事を孫たちは「コマチ」と呼んでいます。「コマチ」の意味は「小野小町」のことです。若い頃知らない人がいないくらい美人であったと昔の人が孫たちに吹聴し、それから「コマチ」と呼ぶようになりました。もう20以上前からの呼び名です。ひのコマチが活躍します。お盆には恒例のBBQをやる事になっています。当日の朝より各自が分担して用意をします。勿論BBQですからお肉を焼きますが、実はその前に「海の幸」がすごいのです。最初は惜しげもなく「鮑の踊り焼き」を食べます。すぐ後に伊勢えびのこれも「踊り」焼きです。っとお刺身食べたわ。その後サザエを1人二個ほど平らげ(実は食べきれない)、そしてやっと野菜の出番です。言葉で説明するよりもこの映像をご覧ください。
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<十分に火を通さず中心が少し生の焼き方がコツ/超新鮮なあわびしか出来ない>
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<これ一人分??!!>
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<次は地元近海の伊勢海老だ。身がたっぷり入っていそう。海老さんごめんなさい。成仏して。>
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<もう焼けたかな。どれから食べようか?>

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アフリカ大陸の岬

2005.08.15

今日が海峡・岬編の最後です。最後にふさわしくテーマは「喜望峰」です。
喜望峰は南アフリカ共和国にある岬の名前です。一般的にはアフリカ大陸南端と殆どの人が思っています。実際には東南東へ約150km離れている所にさらに岬があります。アガラス岬です。ここが、「アフリカ大陸南端」(南緯34度50分、東経20度00分)となります。この岬より喜望峰があまりにも有名なので忘れがちな存在です。1488年にポルトガル人の「バルトロメウ・ディアス」が発見しています。「嵐の岬」と命名しました。後にポルトガル王が「希望の岬」と名づけています。ですので、「喜望峰」と「希望の岬」は別物です。1652年オランダ東インド会社が植民を行い、のちのケープタウンの原型を開拓しました。
ひとつ寄り道へ。
脱獄絶対不可能と言われたサンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラズ刑務所をテーマにしたクリント・イーストウッド主演の映画がありましたね。実話を基に、そこから奇跡の脱出を果たした男たちの姿を描いたサスペンス映画でしたが、ケープタウンから約12キロメートルの沖合いロベン島も島の大部分は刑務所として使われたていました。当時のロベン島に収監された囚人はオランダの植民地の人々や南アフリカ出身者、インドネシア出身者もいたらしいです。また、日本と違い1836年から1931年まで、ハンセン病患者を隔離(島に隔離するなんてすごい。それも地の果てに)するためにも使われました。その後、20世紀の後半、島は政治犯収容所として使われ、ネルソン・マンデラウォルター・シスールロバート・ソブクウェ等が収監されたとの事。1999年、ユネスコの世界遺産に登録されています。

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南アメリカ大陸の海峡

2005.08.14

昨日はアジアの海峡でした。今日は地中海の入り口にあるジブラルタル海峡二つの大陸の端っこにある海峡がテーマです。
最初は「ジブラルタル海峡」です。この海峡は、ヨーロッパのイベリア半島とアフリカの北端を隔てる海峡です。この海峡によって「大西洋と地中海」を分けています。水深は286m、海峡の幅は14km~44kmです。地中海の位置づけからイメージすると古来から戦略的に重要な位置づけにあることは想像できます。まだまだローマが小国家の頃、既にカルタゴは大国で現在のスペイン南部とアフリカの地中海沿岸部を網羅するほどの独立国家でした。そのとき地中海の出入り口であるジブラルタルはとても重要な海峡でした。話は紀元前300-200年ごろの話です。この後第二次ポエニ戦役があり、ハンニバルの父が南スペインで活躍し、ハンニバル自身は第三次ポエニ戦役まで長い長い戦役が続きます。この話は長いので別なテーマで。この海峡を昼間航行すると、イベリア半島の南端にあるスペイン領のアルヘシラスという町とアフリカの間はわずか14km位ですので、船橋の倍率の高い双眼鏡からはよく見えます。イベリア半島側にあるジブラルタルの岩山と北アフリカ側のスペイン領セウタにあるアビラ山の二つをヘラクレスの柱と呼ぶそうです。
次に「マゼラン海峡」です。南アメリカ大陸の南端とフエゴ島との間の海峡です。太平洋と大西洋の二大海洋を結ぶ海峡となります。1520年、フェルディナンド・マゼランが通過し命名しました。航海の難所として有名です。年間を通じて時化の常用海峡です。帆船時代にとても通過すること自体大変なことでした。
正式名称はマガリャネス海峡と言いそうです。この名前はあまり知られていません。日本では「マゼラン海峡」が海図上でも常識になっています。1914年のパナマ運河開通までは、太平洋と大西洋間の唯一の安全な航路でした。多くの船がこの海峡を通りました。現在商船でこの海峡を通ることは特別な行為以外全く無いと思われます。

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アジアの海峡

2005.08.13

二つの世界を結ぶ運河」の話の後は「海峡と岬」の話です。特に今日はアジアの海峡に触れてみたいと思います。海峡といえば82年に公開された東宝の映画の「海峡が印象的でした。当時まだJRを国鉄と言っていた頃、社内の革新的な技術集団が「青函トンネル構想」の予備調査を昭和32年頃から開始しました。世界に類を見ない大工事です。特にこの頃、青函連絡船・洞爺丸等の海難事故が発生しました。この沈没により多く犠牲者を出しました。この事故を契機に、トンネルの信憑性が高まり、昭和39年に「青函トンネプロジェクト」のGOサインが出たのです。映画では、阿久津技師扮する高倉健とベテランのトンネル掘りの男たちが竜飛岬に集まる。そして岩盤と水との闘いが始る。開業が昭和63年という約四半世紀にわたる大プロジェクトをやり遂げる感動の映画です。プロジェクトXにも出ましたね。そういえば吉永小百合がとっても綺麗だったなぁ。

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パナマ運河と地球温暖化

2005.08.12

問題は24㌢の落差です。
昨日スエズ運河のブログを書きました。今日はパナマ運河です。スエズ運河の開通から遅れる事、約50年、資金的障害、工事工法等の難度の高い障壁、政治的等々の多くの障害を越え1914年8月15日に開通しました。この運河開通によって例えば東海岸の米国エリアから日本へ東廻りで向かうとき約3,000マイルの短縮航海となる。またエクアドルからヨーロッパへバナナ・ボートが向かうとき、約5,000マイルの儲けとなる。パナマ運河はスエズ運河の様に出口と入り口の海面差はありませんが、パナマ運河は太平洋側のほうが大西洋側より海面が24l㌢高くなっています。運河の上下の交換地点として人口の湖を造成し、その豊富な降水量を利用し、標高の高い部分を船の水位を上げて通過させるためにドック(閘門(こうもん))を採用しています。パナマ運河の大西洋側からアプローチする場合は、カリブ海からターミナル港→ガッツン・ドック→ガッツン湖→ゲイラード・カット(渓谷)→ペデロ・ミゲル・ドック→ミラ・フローレス湖→ミラ・フローレス・ドック→太平洋側ターミナル港となります。ドック(閘門)のサイズにより、パナマ運河を通過する船舶のサイズは、船幅で32.3㍍以下、水深で12㍍以下に制限されています。パナマ運河を通過できる船の最大のサイズを「パナマックスサイズ」と呼んでいます。特に第一次大戦後軍艦を縮小する軍縮会議をやりましたが、一番大きな旗艦をパナマックスサイズを前提とした事は有名ですね。現在のパナマ運河はパナマ共和国が管轄していますが、ドック式による船の幅と水深の限界や大型船舶の通過を可能とするため、2010年を目指して第2パナマ運河の建設が計画されています。

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スエズ運河とCatty Sark

2005.08.11

前回羅針盤」と「六分儀の話題を出しました。
このブログ自身のメイン・タイトルでもある「Catty Sark」に行くのに中々辿り着けません。いろいろ道草をしてしまいます。たどり着く為には周辺のいろいろな情報を拾っていかないと情報不足になります。「羅針盤」と「六分儀」もそうですし、お茶とコーヒーの話もそうです。そうそう、中世の帆船の話や著名な探検家の人生も。例えば、灯台のことも。世界でいちばん古い灯台があります。それは紀元前279年エジプトのアレキサンドリア港の入ロ、 ファロス島に建てられた「ファロス灯台」がそれです。最近、海中から灯台の一部が発見されて話題になりました。アレキサンドリア港に寄港したことがありますが、ファロス島には行っていません。世界の七不思議の一つに挙げられる「ファロスの灯台」は、大地震により倒壊してしまい、今ではその姿を見ることはできません。1995年に行われた調査で発見された数々の彫像や石材は、ファロスの灯台の一部であると言われています。また、著名な1477年に建設された「カイト・ベイの要塞」は、このファロスの灯台跡に建てられています。この灯台は、完成までに20年かかり、高さが135メートルもあったといいます。その時代にそんな高度な技術があったのかと不思議ですが、 実際に1477年まで存在していた様です。勿論現役で使われていたらしい。すると、ざっと1700年以上使われていたことになります。なので「世界の七不思議の一つ」なんですね。このアレキサンドリアは地中海性気候でとてもいいところです。
因みに、日本の古代の灯台は、遣唐使の時代といわれています。遣唐使船に多くの高級官僚や随行員及び水夫たちが乗り込み、何度と無く遭難が発生し、多くの人命が失われたのを救うために、遣唐使船の帰り道にあたる九州地方の岬や島で、「昼は煙をあげ、 夜は火をもやして船の目じるし」にしたのが最初の様です。 これが日本での灯台の始めといわれています。

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哀愁の若狭

2005.08.10

種子島銃」は日本で最初のグローバリゼーションです。
そのグローバリゼーションの技術革新が「螺旋と螺子(ネジ)」だったのです。二つの技術革新を乗り越え種子島銃の日本初の模造が出来ました。この異文化で且つ強烈な海外技術を当時の日本人は「驚愕」こそしましたがすんなりと受け入れています。また種子島銃の新製造技術をいちはやく取り入れたのは「根来と堺」です。時代は戦乱期ですので京に近い両者は最新の武器に関心が高かったとも言えますが、やはり磨かれた「投資のセンス」です。今のベンチャーキャピタリストや経営者と同様の思考です。「継続は力なり」。堺で代々老舗を張るのはとても大変な事だったと窺えます。勿論黒潮によって琉球や南海諸島と紀伊沖が一本につながっていたことも大きいでしょう。当然海路の方が陸路よりはやく行き来できますから。このコミュニケーション手段にも洗練さを感じます。長い間に構築したものでしょう。南のはずれの島での出来事も数週間で京や根来に届いたと思われます。さて、本題に。島主種子島の時堯さんは板金兵衛さんにポルトガル銃の模造を命じた訳ですが、昨日もブログに書いたとおり旨くいきません。金兵衛さんは美濃出身で、当時砂鉄の豊富な種子島に渡って来た刀鍛冶でハイ・スキルだった様です。彼は苦心の末、数ヶ月で模造銃を作り上げました。でもこれは根本的な技術を習得したモノでなく、今までのスキルと経験で作りました。ですから銃底部の「雌ネジ」を解決していません。勿論これで試射すると不発や暴発を引き起こし射手が怪我します。昔、製図と工作の実習で自分で「ボルト&ナット」を製図し、その後旋盤で一本の太い円柱から「製図寸法通りのボルト&ナット」を作り出す実習がありました。旋盤が在っても結構ドジして何度も作り変えました。結局、1セットの「ボルト&ナット」を作るのにほぼ一日かかりました。「雌ネジ」の発想の無い金兵衛さんは本当に苦しんだ事でしょう。勿論銃身内の「螺旋」も同様です。ここに「若狭伝説」が生まれるのです。ポルトガル人商人(一説には船長)が「雌ネジ」の製法を教えるかわりに若狭を嫁にくれと金兵衛さんに要求したのです。史実は不明ですが、この方が哀愁があって物語としてはいい。最後に「この紋所が目に入らぬか!!」と格さんが印籠を高々と上げて水戸の黄門様がお出ましになります。ここでは出ませんよ。そして優しい若狭は父のために泣く泣くポルトガルへ行き、金兵衛さんは「国産初ポルトガル・タイプ和製銃」を完成します。その後若狭の消息は不明。これが昨日の続きです。この物語が読みたくて「たまゆらの海―火縄銃悲歌」を以前から探していますが未だに手に入りません。

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ねじとグローバリゼーション

2005.08.09

日本のグローバリゼーションは何時のことか?
日本が狭い国内で戦国の世を迎えているころ、コロンブス1492年にカリブ海をインドと間違えて、それでも「新大陸を発見」している。西インド諸島であ。また、ヴァスコ・ダ・ガマが苦難の末東廻りで喜望峰を越え「インド航路」を発見している。胡椒とシナモンとクローヴ(丁子)の所為だ。さらにマゼラン西周りを目指し、1519年から22年にかけてホーン岬(マゼラン海峡と名づけた)を超えて地球を一周している。

日本の最初のグローバリゼーションは勿論「種子島の鉄砲」の伝来でしょう。1543年(天文十二年)8月25日(太陽暦9月23日)のことです。もうすぐですね。「南蛮の雲の立つ日や蝉の声」と詠んだのは蕪村ですが、まだ見ぬ異国の文物に憧れ南蛮の空を幻に見たなんとも風流な歌です。毎年種子島では7月25日と26日に「鉄砲祭」を全市民総出で南蛮船の山車、南蛮行列、鉄砲太鼓等賑々しく楽しむそうです。
日本のグローバリゼーションはこの種子島に渡来した鉄砲によって「第一波」を受けたわけですが、やはりそこには当然技術革新を伴いました。鉄砲が渡来して国内で簡単に模造したと考えがちですが、そんなに簡単な事ではありません。今と全くおんなじです。技術を獲得するには血の滲む様な活動があったと思います。この種子島の鉄砲によって国内ではまったく未知の技術に出会った訳ですから。それは「螺旋とネジ」の概念と工法です。この種子島の出来事からたった6年後の1549年(天文18)8月15日にはチョー・エリートで元貴族で筋金入りの戦闘的信仰集団のキーマンであるフランシスコ・ザビエルが支那のジャンク海賊号で櫻島に渡来しています。これは文化的・宗教的なグローバリゼーションであると僕は思っています。

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井真成が帰ってきた!

2005.08.08

古の俊才「井真成(せいしんせい)」に逢いに!
昨年10月西安で唐代の日本の遣唐使として中国に渡り、そのまま唐の玄宗皇帝に仕えた日本人留学生「井真成」の墓誌が発見され大きな話題となりました。「井真成」は中国名で日本名は未だ不明です。彼が約1300年ぶりに帰国した。彼に逢いに東京国立博物館に古の俊才「井真成を訪ねた。
630年(舒明〈じょめい〉2年)に始まる遣唐使は、以後260年の間に20回計画され、そのうち実際には十数回実行されたといわれています。無論国家プロジェクトです。遣隋使の後を受け、その当時中国の強大な王朝と関係を築くことにより、進んだ文化を取り入れるという基本路線がこのころ定着しました。
以前のブログでも説明しましたが、
日本の国名は飛鳥時代、隋に対して使われた「日出ずる処(ところ)」の系譜を引く国号ということで、以前は「日出ずる処」と「日没する処」でつかわれ、対等な意味で使われているのに対して、この時代になると「日本」という国号を「中国を世界の中心とし、その東辺に位置する国であることを自認した国号であること」が特徴的です。謙りです。この意味は今も小泉さんが悩んでいる米国や中国や北朝鮮に対する外交的な問題となんら変わらない「駆け引き」や「複雑な力関係」があったことを示しています。この様な日唐関係を背景に遣唐使という文化使節としての役割が発揮された時代でもあったのです。渡航手段は当然です。七世紀から八世紀の国内の船は貧弱そのものです。この時代地中海の船と比較するとその稚拙さがよく判ります。但し、地中海と違い黒潮支流の対馬海流を突っ切って行かねばならない外洋の気構えは相当なものだったと感じます。勿論遣唐使で使用した船の仕様は不明です。断片的な文献で想像すると言うのが今の定説となっています。今回の展示物の中でも非常に素晴らしかったのは「吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき)」(ボストン美術館蔵)でした。残念なことに明治時代に制作された模本でしたが。この絵巻を見ると、構造船で二本マストです。横帆のみです。上部甲板に小屋らしき構造物が三つあります。指揮所と高級官僚の住まいと思われます。また、両舷合わせて16竿の艪が装備されています。無風時の推進力でしょう。帆は網代帆(あじろほ)が一般的ですが、この時代でも麻布帆あったらしく、国家プロジェクトの遣唐使にはたぶん麻布帆の使用が許可されていたと思われる。長さはせいぜい30㍍で300トンクラスといった所でしょうか。航海日数は約一週間。航路は長い間に三つ開発されていました。これもそうせざる得なかったといった方が無難。朝貢のタイミングも悪い。秋から冬に限定されていたらしく、きっと遭難の主要原因となっていたことでしょう。
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<東京国立博物館 平成館の入場チケット・デザイン>

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ジェットストリーム

2005.08.07

数日前のブログ偏西風の蛇行の話をしました。また、偏西風の上空はジェットストリームがあることも。日本の気象はこのジェットストリームの蛇行で常に影響を受けています。この気流ですが、昔から日本の気象庁はある程度認識していた様ですが、最初に遭遇したのは日本人ではありません。それは第二次太平洋戦争時に東京を空爆しようとしたB29パイロットです。米軍の気象部隊もある程度この気流のことは認識していましたが、最初の大規模空爆時、東京上空を編隊で目指しましたが、突然時速250㌔㍍という猛烈な気流に押し流され、東京上空をアッという間に通過したそうです。爆弾の投下は出来なかったという事でした。これで、初回の東京空襲は気流によって運良く失敗に終わりましたが、二回目からはそうはいきません。彼らはこの気流をうまく利用し、短時間でスピーディに日本の上空までやってきて、計算尽くされた投下方式で確実に爆弾や焼夷弾を落としていったそうです。やはり理論的な国か?迎え撃つ日本陸軍は、ジェット気流の高度まで航空機を上昇させることはできませんでした。それには過給機の装備が必須だったのです。神風という神頼みだけではやっぱりだめです。
戦時中のジェット気流のことはさて置き、ここ数日真夏日の連続です。真夏日はその日の最高気温が30℃以上の日と定義されていますが、真夏日の最高記録は1895年(明治27年)熊本で89日連続と言うのが在ります。しかし、ここ数年の地球規模の温暖化偏西風の蛇行等で、東京も毎年この熊本の記録に追従して増えていくことでしょう。夏がより暑く、冬がより寒く。そういえば昨夜も「熱帯夜」でしたね。熱帯夜はその日の夜から明け方にかけて25℃以上の暑くて寝苦しい夜をさしますが、実は気象庁は定義していません。なので当然統計は採っていないそうです。この辺はやっぱり官庁的です。

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8月6日午前8時15分!

2005.08.06

6時半起床! 8月6日土曜日。今日も昨日同様暑そうだ! 贅沢であるが朝風呂に浸かる。朝のひんやりした風が気持ちいい。「午前8時15分」を待ち、西に向かい黙祷する。外は気温が上昇しはじめ、ファミリーの一員であるシジュウカラが一羽特有の泣き声で餌を啄ばんでいる。静かだ。
60年前の広島と長崎に人類史上克ってない不幸で悲惨な出来事があった。僕は長崎出身の知人は居ないが広島の知人をたくさん持っている。1人は僕自身メンターとして育成している(大変口幅ったい言い方で恐縮ですが)若者がいます。この知人には是非大成して日本を代表する起業家に育って欲しいと思っている。また、もう1人の知人はご両親共に実際に被爆し、そのため自身も被爆の影響を受けていると思っている方です。定期的に体調を崩れているのを記憶しています。そのほかの数名のヒロシマ出身の知人がいるが今も楽しくお付き合いをさせて戴いています。

昨夜のNHKはヒロシマと戦後一色でした。19:30から「広島巡礼2005」。そして21:00から「NHKスペシャル被爆者 命の記録~放射線と闘う人々の60年」を観て、22:00から教育TVの「最後の旅路-戦後六十年 ガダルカナルへの想い-」までTVに釘付けでした。
広島巡礼2005は、「広島と長崎に原子爆弾が投下されて60年。原爆の犠牲となった被爆者、そして家族たちは、憎しみを乗りこえて、世界に平和を訴え続けてきました。しかし、21世紀の現在、世界では民族紛争やテロが勃発し、憎しみの連鎖が続いています。残念なことにヒロシマとナガサキの悲願である核兵器の廃絶も実現していません。」 この夏、広島と長崎では、平和を祈る音楽のイベントを開催し、その指揮者には世界を舞台に活躍している佐渡裕が執ります。広島で被爆40周年の時に「平和コンサート」を指揮した、故レナード・バーンスタイン氏の最後の弟子である佐渡裕が師の思いを受け継いで指揮を とります。特別に編成されるワールド・ユース・オーケストラと広島交響楽団、広島と長崎の市民合唱団、そして世界各地から集まっ てくる音楽家やゲストが平和への思いを胸に、一つの舞台に立ちます。様々な角度から被爆60年の広島と長崎のメッセージを伝えます。(NHK広島巡礼2005解説の抜粋)
◆放送日時:NHK8月6日(土)19:30~20:43

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今夜の歌姫は迫力満点!

2005.08.05

とても還暦を過ぎたと思えない京子ママは今夜も妖艶にB&Sに現れた。

今日の歌姫は本当に迫力満点だ。
前半7曲、休憩後7曲、アンコール一曲は圧巻!
B&Sの熱気は久々だ。
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<まもなく開演!>
照明が全体からスポットに変ると、トリオメンバーがそれぞれの配置につく。ドラムの大槻が「ワン・ツゥー・スリー・・・・・」といい発音でカゥントを始めると「小沼ようすけ」が技巧的なエレキ・ギターを弾き始める。こんな技巧的なギターリストは久しぶりだ。よほど練習していそう。大槻のリードに誘われてハモンドオルガンの「金子雄太」がゆったりとハモンド独特の柔らかなメロディーを繰り出す。「大槻英宣」のドラムは大人しいが確実だ。彼らの持ち曲が前座的に終わりを告げるころ「神谷えり」が優雅にテーブルの間を縫って現れる。知人から教えられた通り美形でだ。顔立ちが日本人に見えない。しなやかさがエリーの第一印象だ。今日の「ボディ・アンド・ソウルは、神谷えり(vo) 金子雄太(org) 小沼ようすけ(g) 大槻カルタ英宣(ds)」だ。エリーは個別に彼らとのセッションは経験済だけど、全員でのセッションは今日が始めて。その為に開演当日の午後に数時間の練習セッションをやっている。その為に彼女は彼らを紹介するとき、今日が全員参加のセッションであることをすっかり忘れて「今日で何度目だっけ?」とようすけに目で確認しているうちに自分自身で練習セッションがあまりらも「燃焼」してしまったために、そのことを思い出したて、一人でテレていた。「え~と。」を連発。
神谷えり」は1971年3月17日東京生まれの24歳だ。顔はコケティッシュだがステージ慣れしたゆったりとした雰囲気を醸し出す。

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美しいビーチの続き

2005.08.04

さて、昨夜の続きを最初に片付けないと。
ご存知の通りワイキキ・ビーチは昔々保養地としての意味合いから、湿地帯を埋め立て、次にさんご礁の海岸をビーチ化しました。その時ビーチ用の砂を大量にオァフ島のどこからかトラックで運んできました。最初は馬車ですね。その後1939年~2000年までワイキキ・ビーチの砂は少しずつ侵食されると、その都度とこからとも無くトラックで運び、補充されてきました。いままで補充された砂の量を計算した人がいて、その量は25万立方ヤードとの事です。
1939年から途方もない砂を島のあっちこっちからかき集めたということになります。当然砂にも限りがありますし、トラック輸送にしてもお金がかかります。毎年の如く市は予算化しなければなりません。ワイキキ・ビーチは昔から日本人には憧れの響きがありますが、実は三つの海岸が隣接して呼ばれています。もっとも狭いクヒオ・ビーチはワイキキ分署から始まり、真ん中で少し広めのワイイキ・ビーチ、その隣が広々としたカピオラニ・ビーチと続きます。そこで新しい砂の補充方法が提案されたのです。この方法はトラックでの砂運びを止めて海岸から2,000フィート沖合いの海底から吸い上げて、砂浜に補充するという計画です。総費用は50万ドルで工期は30日間。公聴会も開き賛成を得たそうです。なぜ沖合いの砂を吸い上げるかと言うと、海流の自然現象で、海岸から流された砂はある一定の海流システムによって一箇所に蓄積されるからだそうです。ワイキキの砂も自然現象により剥ぎ取られ沖合いの海底に放流されると言うわけです。もう一ついい事があります。それは沖合いの砂と海岸の砂は長い期間に同化し、微生物にいたるまで生態系が同じという事です。他の場所の砂はそうは行かないでしょう。この事実はHAWAII大学の海洋学部と民間研究機関によって調査研究を重ね、市に報告されたそうです。
ちょっと昨日のテトラポット計画と似ていませんか?

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美しいビーチ

2005.08.03

今日も真夏日だ!こんな日はカイルア・ビーチの椰子の木陰が無理でも生家の浜辺で冷たいコークと好きな歴史小説でも読んでいたいものだ。僕らがビーチで海水浴を楽しむのは源流から分流した「黒潮」です。三陸沖で寒流の「親潮」と合流するこの黒潮の規模は幅50-100㌔㍍、深さ200-1000㍍、で毎秒2500-6500万トンの大容量の海流です。速さは最大で2-7ノットもあります。ヨットや帆船や商船(推進機のある船)はこの海流の恩恵にも障害にも会います。物事何事も二面性が潜んでいますら。この季節の土日の子供ちたの不幸な海の事故はこの海流特有の速さが一つの原因と密かに思っています。この世界最大・世界最強の海流は既に六万年前(後期更新世後半)に存在していたと言われています。ただし、その流路に関して日本近海の島々の形状と黒潮の流路が複雑な事もあり、学会でも諸説があるらしい。いずれにしても日本海に黒潮が入り込んだのは8500年前の頃で完新世の時代と言われています。対馬海流の誕生です。これでほぼ今の黒潮の全体像は確立。この海流の生い立ちと人類は結構密接な関係にあるようです。以前読んだ本で、六万年前頃にアジア大陸の東の端に既にホモ・サピエンスが定着し、旧石器文化を形成していたらしいのです。「安田喜憲教授」が提唱する「長江文明」が是としたら、温帯ジャポニカは長江下流の川口から黒瀬海岸を経由して日本国内に伝播したのではという仮説はすんなりと理解できます。蛇足ですが、この長江文明の数々の遺跡を見て見たいものです。昆明から河口まで相当な距離ですが遺跡走破をしてみたい。定年後か。そういえば温帯ジャポニカで思い出しましたが、ジャーナリストで株式会社インサイダーの高野孟氏が塾長を努める「鴨川自然王国・帰農塾」が面白そうです。共鳴すれば参加もよし。

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クール・ビズ

2005.08.02

今日も暑いぞ~!!ある日知人との会話の中で「クール・ビズ」という言い方は英語にしても日本語にしてもダサい言葉ですねぇ。っと同意を求められたが、突然と言う事と、何事にも細かな点に注力しない性質であるため、無反応でいたら、相手は「ムっ!」としたようだ。「クール・ビス」に意味は必要なく行動と思うけど。
「それにしても暑い!!」以前から親しくさせて頂いているクオリティ株式会社の中澤取締役が「うちは社長の浦が環境問題にはきちんとした主張を持っていまして、以前よりビル内の室温は28度なんですョ。」とハンカチで額の汗を拭きながら、お話されていました。「室温一度の差」は全世界的に取り組むと凄まじいエネルギーに加算される。
アネット・ベニングが魅力的な瞳をキラキラと輝かせながら意思の強そうな唇から『20%は必要よ!!!』と言うと。どうでもいいマイケル・ダグラスが『いやいやせいぜい10%だ。そうでないと、フニャ、フニャ。。』云々。これは96年に封切られたハリウッドに在りがちな「アメリカン・プレジデント」というハッピーエンド映画です。マイケル・ダグラス演じる合衆国大統領とアネット・ベニング演じる環境ロビイストのロマンスです。アネットが温暖化防止案でCO2を20%削減を主張すると大統領は10%の妥協案で何とか収拾を図ろうとする。なぜかその後恋に落ちしまうのです。大統領がアネットに電話をかけるシーンが印象的でした。ダンスのシーンもよかったです。アネットならば僕だってダンス踊りたいと思うけど。アネット・ベニングは僕の最も好きな米国女優ですが、リメイク版の「めぐり逢い」が最も彼女の素晴らしさが表現されていると思います。既にハリウッドは96年に「環境問題」を取り上げるほど日常的意識で居た訳ですね。その時に日本では? 97年12月に温暖化防止・京都会議(COP3)が開催されたことを考えると、その認識の高さをどの様に解釈したらよいのでしょうか?

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アジアのこころ

2005.08.01

ヘロドトス世界地図は興味津々! ヘロドトスによって「アジア」が生まれる。

以前ブログにも出てきたホメロス」の作といわれていれ、世界文学史上最高傑作といわれている叙事詩「イーリアス」によれば、小アジア西岸の豊かな都市トロイは、アガメムノンやアキレスに率いられたギリシャ軍に攻められ、10年にもおよんだ攻防戦もオデュッセスの考案した「トロイの木馬」で完結する。この時点で後のローマ帝国は気配さえない。勿論ユリウス・カエサルも当然この世にいない。
アジアの語源を探ると、そのものとはアッシリア語の「アスー(asu)」にたどりつく。これは「出て行く」を意味する動詞で「日の出てゆくこと」、つまり「日の出」を意味するそうです。なるほど。これに対して「ヨーロッパ」の語源は、同じくアッシリア語の「エレーブ(erebu)」でこちらは「入っていく」を意味します。これらのセム語がギリシャに入って、それぞれ「アシアー(Asia)」及び「エウローペー」(Europe)というギリシャ語の名詞が作り出される。紀元前5世紀にもなるとギリシャ語はほぼその完成の域としています。実際5世紀のアレキサンドリアの文献学者ヘシュキオスは、「エウローパー」を日没の土地という意味を記述しているそうです。このギリシャ語から欧語のAsia及びEuropeが由来しているので、「アジア」の語義はもともと「日の出ずるところ」であり、これに対して「ヨーロッパ」のそれは「日没するところ」になる。その意味では、アジアとヨーロッパとはそもそも対概念と考えるべきでしょう。もちろん、お互いに相補的であつて、両者をもって初めて「世界」が完成する。ということです。なるほどなるほど。
ヨーロッパはもともとアジアを予想する概念であって、それだけでは完結しない。アジアもまたヨーロッパをはじめから前提し、それなしには完結しない。両者が相補って初めて「世界」は一つのものとして成立するということです。(アジアの語源・伊東俊太郎著より)

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