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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

発見への投資

2007.12.20

1445年に「アルヴァロ・アェルナンデス」は念願のヴェルデ岬を越え、緑の椰子の樹木が生い茂るギニアに至りました。

ヴェルデ岬(北緯14°)」と言うのは、
アフリカ大陸最西端ある、現在はセネガル領内にあるの岬のことです。首都ダカールの市街地からすぐ西あり、目の前は大西洋です。沖にはベルデ岬諸島が点在する美しい岬です。アルヴァロ・フェルナンデスはエンリケ航海王子の命で、叔父の探検家ジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコに与えられたカラヴェラ船で探検航海し、ヴェルデ岬をまわって、 ダカールとガンビア河にはさまれたマスト岬に到達しています。そこはヴェルデ岬の約800km南の「シエラ・レオネ」(現在のシエラレオネ共和国)と呼ばれている場所です。
1447年、彼はヨーロッパ人として始めてシエラ・レオネに上陸しています。ちなみに、現在のシエラレオネ共和国は、長い内戦により、世界で有数の平均寿命が短い国のひとつとなっています。つい50年前に英国より独立しました。

エンリケ航海王子の生まれは1394年ですので、ヴェルデ岬越えは51歳の時ということになります。彼に残された時間はそう多くはありません。
ここまで来るまでにとても長った。
彼の父王と一緒に三年もかかった「セウタの攻略」が1415年の出来事です。
この攻略後の秋から継続的に探検事業に投資します。
実は、
ヴェルデ岬の少し手前にもう一つ越えなければならないの岬があります。
それが、「ボジャドール岬(北緯27°)」です。マディラ諸島やカナリア諸島の発見は探検航海の必然性で得た発見ですが、このボジャドール岬越えは「命を掛けた強い意思」がなければ、超えることは出ませんでした。
また、
カナリア諸島は古代ローマ時代よりアフリカに西海岸から100㌔沖合いに島の存在を当時の航海者たちは既知の世界としていたようです。
しかしそれ以南の海域は未知の難所して恐れられボジャドール岬の手前のナン岬でさえ、「この岬を越えたものは二度と帰ることが出来ない」と言われていました。
エンリケは1422年から12年間、毎年巨額の資金を投じて探検航海の船団を送り出しましたが、あえて「ボジャドール岬を越えようとする航海者」は一人もいませんでした。

多分、エンリケは痺れを切らしたのでしょう。
直属の従士である「ジル・エアネス」に世の迷信に惑わされことなく岬を越えよと厳命します。主従関係にあるエアネスは成功せずに二度と主君の前に現れまいと決心し、そして彼は見事1434年に「ボジャドール岬」を越えることに成功します。

カンティン岬→ナン岬→ジュビー岬と制覇し、そして、ボジャドール岬まで来ました。
セウタの攻略から数えると既に19年の歳月が過ぎています。
当時の航海者にとって、
アフリカ大陸の最も西端にあたる「ヴェルデ岬」は何処まで行っても終わりの無い気の遠くなるような、恐ろしい岬ということになります。
冒頭の「アルヴァロ・フェルナンデス」の航海者としての意思の強さを理解できると思います。この発見航海はインド航路開発の中で特記すべき「偉業」といえます。

しかし、経営的には魅力を感じないこの行為を、なぜエンリケは12年間(探検初期)も執拗に「発見航海の投資」に固執したのでしょうか? 
これまでの先行投資は莫大です。この事業で得た利益はとても小さく、経営を行おうとする事業家としては理解しにくい行為です。
彼をどう考えればいいでしょう。
地理的好奇心」または、投資対効果の「商業的な好奇心」、さらにキリスト布教という「宗教的な情熱」。いろいろ理由は挙げられますが、現代人の感覚で物事を考えてしまう僕には決定的な要素をなかなか想像できません。
発見の経営はとてつもなく投資が必要です。


ただし、この12年年間で多くのものを得ました。
ほとんど「イノベーション」と位置づけられる期間でした。
それは、従来の船から
  「カラヴェラ船」へのパラダイム・シフトです。
カラヴェラ船がいかに優れた革命的な船であったかは今度話したいと思います。

14世紀当時の地中海世界ではカタルーニャとジェノヴァが最も航海術、造船技術、海図製作技術が進んだ海事国家であったということは周知です。
話はそれますが、カタルーニャ(現在はスペインの自治州で州都はバルセロナ)は、古代にはカルタゴの植民地で次いで古代ローマの植民地でもありました。ポエニ戦役で軍略家でもある「ハンニバル・バルカ」を輩出したカルタゴの名家、バルカ家の領土でもあります。いわゆるカルタゴの飛び地です。

当時のポルトガルは、ヨーロッパの中で一番にぎやかで発展した国でした。特にリスボアは探検航海の中心地であったようです。この地にコロンブスが現れた頃、エンリケ航海王子はすでにヴェルデ岬を越え、ギニア湾に到達していました。
エンリケのトライヤル&エラーによって設計された「カラヴェラ」は速くて、向かい風も航行できる三角帆を搭載した帆船です。
春に赤い布、ガラス玉、鈴、馬等を積んでリスボアを出向し、秋になると象牙、金粉、胡椒、それに黒人奴隷を積荷として帰ってきました。ジャノヴァ人、ヴェネツィア人、も含めてあらゆる国々から野心のある商人や船乗りがリスボアに集まり、富みの分け前に預かろうとしたのは当然の成り行きでしょう。

特に逆風に逆らって航行する「間切り航法」や北極星の測定によって現在地を知る天文航法、カラヴェラ船の改良につぐ改良と、そのテストが実船で行われたに違いありません。
14世紀後半からポルトガルの国王は積極的に国内の商業を支援し、彼らの利益を保護しました。特にフェルナンド王(エンリケ王子世代よりずっと前)は海運の保護振興策を推進し、100トン以上の船を作る船主にはリスボンの森林の無料の伐採権を与えたり、1380年には船の保険会社の組織化も制度化しています。名君と言えるでしょう。


後年の1579年にかの有名な英国の奴隷商人「フランシス・ドレイク」がシエラ・レオネ
に到達し、本格的な奴隷ビジネスを展開することになります。

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