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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

歴史の功罪

2008.01.13

歴史は時々皮肉な現象を生むことがあります。
ただし、現代の我々がその功罪を論ずることは簡単でなく、その評価は難しいことも認識しています。

エンリケ航海王子は1434年ボジャドール岬の迂回に成功したにも関わらず、1440年までに新たな航海は三回しか行われませんでした。
しかし、1441年に国内事情が一段落すると、再びエンリケは積極的に西アフリカ探検とマデイラ諸島の開発に乗り出します。
この状況は彼の兄のペドロが1439年に摂生に就任したことと同期しています。摂生であるペドロも南下政策を推進したといえます。多分、西アフリカ沿岸の探検航海と商業開発を最優先事項とした政策があったのでしょう。
再開の西アフリカの拠点は「アルガルヴェの港町ラゴス」です。
ポルトガルもヴェネツィア共和国も領事館をラゴスに置いたようです。それだけ初期の西アフリカ開発において重要な港だったといえます。エンリケ航海王子も1434年にしばらく滞在しています。この頃エンリケは国王よりラスゴの譲渡を受けていたようです。
探検航海の当初の主目的は「皮革と油脂の原料となるアザラシ」の捕獲です。そして、彼らは初めて「アゼゲ族のモーロ人の男女二人」を捕らえます。
続いてリオ・ロード付近で10名を捕獲します。

モーロ人を奴隷として捕獲するという野蛮な非道は、改宗(イスラム教徒から)を施すという聖なる行為に転換してしてしまいます。そのことの不自然さを、当時の人々は気が付かない思考形態を改めて感じることが出来ます。

ポルトガル人は奴隷確保に熱中します。
1444年にエンリケの家臣でラゴスの徴税官である「ランサローテ」はエンリケの許可を得て、民間人の船主と貴族数名と一航海毎に「共同ファンド(株式会社的な)」を作り、純粋に商業目的で探検航海を行っています。
六隻のカラヴェラ船団を仕立てて「235人の奴隷」を捕獲してラゴスに帰港します。
奴隷一人の価格は4,000レアルと資料に残っていますので235人の総売上は94万レアルとなります。
ちなみに当時リスボンで小麦13.8リットル(単位はアルケイレ)が9レアルと記録がありますから、「94万レアルは小麦1,441トン」ということになりますね。膨大な量です。
エンリケはこれより少し前にボジャドール岬以南の航海独占権(当然商業行為も含む)を譲渡されていますので、五分の一権利を行使しています。
こののち、徐々に民間人の共同ファンドが実施されていきます。これは取りもなおさず、事業として成り立ってる証明となります。もちろん、奴隷ビジネスです。

日本人や韓国人が対象となってしまった北朝鮮による「拉致」とは若干の違いはあるものの、本質的には「さらって」くるので同じでしょう。
この後は歴史が証明してくれています。
これより、ヨーロッパ人はこぞってアフリカに出向き奴隷として現地人を捕獲し、本国へ持ち帰ります。

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裁量権

2008.01.11

「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船) たった四はいで夜も眠れず」

この川柳はとても有名ですね。巨大都市江戸からあっと言う間に日本国中に広がりました。当時の江戸は情報発信という点でも巨大な震源地だったようです。
「上喜撰」(じょうきせん)は当時の高級茶の銘柄です。もちろん、この蒸気船(上喜撰)は米国海軍の黒船四隻の事ですが、ある日、不意に浦賀へ進入した蒸気船によって江戸という大都市が上を下への大騒ぎしたことを、カフェインの効いた高級茶によって夜も眠れないに引っ掛けています。情感が目に浮かぶようです。流石いとうほかありません。

この川柳はペリー提督の「黒船艦隊来る」がきっかけによって江戸市民によって詠まれたわけですが、艦隊発見の第一報が「浦賀奉行所」入ったのはこの艦隊がすでに浦賀沖にアンカー(錨)を打った後でした。
この時の伝令の報告書は「およそ三千石積みの船四隻、帆柱三本ているも帆を使わず、前後左右、自在にあいなり(中略)あたかも飛ぶ鳥のごとく、たちまち見失い候」というものでした。
時は、1853年6月3日(嘉永六年六月三日)の事でした。

日本側の見張りは「三千石積み」と目測します。
当時国内にはいわゆる米千石を積載できる和船の「千石船」が大型船の部類にはいる他と比較できる具体的なサイズでした。

幕府の取り決めを無視して長崎でなく直接江戸に来たペリー提督の心理はよく理解できるものですが、いくら国是を取り決めても国際社会がそれは「是」としてくれない以上、いかんともしがたいです。
さて、その四隻の黒船ですが、
旗艦の「サスケハナ号」は2,450トン、乗組員300名、1850年に竣工した米国海軍最新鋭の汽走軍艦です。米国母港を出港したのは二年前で、すでに東インド艦隊に所属していました。もう一隻は「ミシシッピー号」で1,692トン、乗組員300名、1839年竣工で米国海軍最古の汽走軍艦でした。
当時はまだ太平洋航路は当然ながら未開発でしたので、ペリーは米国東部のノーフォークを1852年(嘉永5)11月24日に出発して大西洋を渡り、アフリカ南端の希望峰を回り、インド洋を経て東インド艦隊に合流するまで、この艦でやって着ました。実に長い旅です。

話を戻しますと、日本の千石船は1,000石の米を積める大きさの船を指しますが、これをトン数に換算して「サスケハナ号」と比較してみたいと思います。米1,000石の重さは約150トン程度なので、積載能力換算で「150トン」積みの舟となります。これを一定の喫水(荷物を載せて実際に水の中にどのくらい沈むかというライン)にして排水量換算にすると約200トン前後と推定できます。ですから、千石船の三倍どころか、約20倍近い大きさということになります。見張役はよほど泡を食ったということになりますね。

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