BrainSellers.com

Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

再び客船よ!!

2006.05.28

フラッギングアウトとマドロス

日本の海運界は太平洋戦争で壊滅的な打撃を受けた戦後は「ゼロ・スタート」したのにも関わらず飛躍的な発展を遂げました。特に「計画造船」が成功のきっかけになったようです。その後二度にわたる「オイル・ショック」による経済活力の減速、大幅な円高によって海運界はまたしても経営不振を招きました。日本の造船技術や船員の質はほぼ世界のトップレベルに達しています。しかし経営的には国際競争力において非常に厳しい現状があります。その一つは日本の船員の人件費です。これも世界トップ・レベルです。
ここ数年は特需により海運大手は好成績を残してはいますが。

昔の古い外国航路の船員さんを「マドロス[オランダ語: matroos]」と呼んでいました。今は死後に近いと思います。オランダ語で船員という意味だそうですが、英語でもなくポルトガル語でもなく「オランダ語」が船員=マドロスと定着したところに遠く、歴史や文化を感じます。

横浜のクルーズ熱は日本一熱い?」という特集が先日ありました。
ヨコハマ経済新聞編集部の「田中あき子」さんという方のレポートでした。かなり長い記事ですが内容は十分読み応えがあり、浜っ子だけでなく「横浜を愛する」方にとっては纏まった内容と感心しています。早速横浜の知人に送ったところです。盛りだくさんの8っつのテーマに分かれています。
■「横浜国際マリンエンターテイメントショー」が開幕
 赤レンガパークの周辺の海に、大型クルーザーなどボート、ヨットが約50隻を集め5月19日から21日ま  で開催された「横浜国際マリンエンターテイメントショー'06」の特集です。
■横浜駅から乗れる海上交通船「シーバス」の秘密
 鉄道の駅からすぐに乗れるシーバスは電車やバスでの移動と違い、目的地へ移動しながら海の景色  や波の揺らめきを楽しめる、非日常的な心躍る「体験」である。生活のなかにそうした時間を組み込むこ との大切さを、地元の人たちは知っているのかもしれない。
■特別な日を演出する、船上のレストラン
 サザンオールスターズの1998年のヒット曲『LOVE AFFAIR~秘密のデート~』のなかに、「マリンルー  ジュで愛されて 大黒埠頭で虹をみて シーガーディアンで酔わされて まだ 離れたくない」というフレー  ズがあるが、まさに恋人たちや夫婦がロマンチックな景色と食事、時間を楽しみに来る船だ。船上で誕 生日を祝ったり、プロポーズしたりする人も多く、演出についての相談にはできるかぎり対応していると いう。
■本格中華のレストラン船「ロイヤルウイング」
■料理、音楽、景色、挙式と楽しみ方はそれぞれ
■クルーズを特別価格で楽しめる「横浜市民クルーズ」
■「飛鳥II」効果で一層高まった横浜のクルーズ熱
 横浜港の客船寄港数は平成17年には145隻へと増加し、3年連続で日本一となっている。「今年2月  の、横浜港に船籍を置く初の客船『飛鳥II』の就航セレモニーでは、7,000人の見送り客で客船ターミナ ルは埋め尽くされ熱気であふれていました。
■アマモで海の生態系の再生に取り組む「海をつくる会」
 華やかな場面の裏で、東京湾の環境を守る人々の事を記事にしています。

といものでした。

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イサム・ノグチと遊び

2006.05.21

子供達と遊び道具

今の子供達と自分が子供だった頃の違いを思い起こすと、その多くが「兄や弟」の事であったり、「近所の沢山の遊び仲間」であったりします。
そしてそこには必ず存在する延々と受け継がれた「遊びの方法と遊び道具」がありました。
子供時代は「海」も「川」も「山」も、その範囲にありました。

子供と子供の遊び道具は「生まれた風土より培われた一つの文化である」と言った人がいます。まさにそう感じています。子供たちの中で自然を利用した遊びは次から次へと伝承されて来ました。
多分、子供はその「直感によって道具の本質と機能」を取捨選択してきたのだろうと思います。
勿論現代に生きてる都会の子供達にも自然を求める本能はあると思いますが、昨今の密室化された人工的環境の中にあっての「自然」は中々手に取ることが出来ないのが実態です。時たまサラリーマンが都会から回帰現象のように田舎に暮らすと言い出す人がいます。そのサラリーマンにお子さんがいれば、その子達こそ「幸運な自然児」になれる可能性が無い訳ではありません。
しかし、殆どの都会の子供達は「カブトムシ」や「クワガタ」はデパートやお祭りの屋台の駕籠の中にいる「虫」で「お金」と引き換えに手に入れるものと半ば諦めています。虫が自然に生息している事はある程度理解しても「実態」が無く、「その自然環境」に入り込む事は殆どの子供達からは遠く離れすぎています。動く本物の「」は、本物と意識はあってもお金で買ったものであくまで「標本」に近いものです。虫が生息する自然環境やその生態を全く知らないのですから。
特に昨今では「虫」をビジネスの一つの商材にしています。

イサム・ノグチ1933年ニューヨークが主催したコンペに参加しまた。
その模型の名前が有名な「遊び山」〔 ブロンズ模型〕ですが、現在「横浜美術館」で『イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展』〔2006年4月15日(土曜)~6月25日(日曜)〕の展示物のリストに載っています。

このニューヨークのコンペに参加したイサムは市のワンブロックを全て取り壊し起伏に富んだ人工的な「遊び山」を作ろうと考えていた様です。この構想が実現すれば前代未聞の壮大な彫刻となるはずでしたが、ニューヨークはこの提案を拒否します。と言うよりははっきりとした「嘲笑」でした。その後もハワイ・アラモアナの遊園地やニューヨークの国連本部の遊び場などの模型を作り、働きかけますが、それらも含めて全て却下されました。


〔イサム・ノグチのつくばい〕
知人から送られたイムサ美術館に展示されている「つくばい」

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京都へ行こう!!

2006.05.18

京都タワーと相国寺の七層大塔

京都タワーは、京都駅烏丸中央口前にそびえ立つ展望塔です。高さは131㍍あります。1964年12月28日にオープンになったそうです。灯台をイメージしたそうですが、言われてみると何となく灯台にも見えます。
京都タワーに続いて人目を引くのは京都駅ビルです。
駅ビルは平安遷都1200年記念事業として改築が決定し、国際コンペの結果、札幌ドームや梅田スカイビルなどの設計でも知られる建築家原広司が設計を担当した。京都府は90年代初頭に市内の高さ規制を「60㍍」に緩和したそうですが、このコンペを企画する段階で高さ制限を緩和すべしとのガイドラインを「120㍍」まで建設可能とした様ですが、その事で景観保護派の市民の猛反発を受け、新聞を賑わす大騒動に発展しました。結局元の「高さ規制60㍍」に落ち着きましたが。
未だにこの二つの建物について「存否両論」があるようです。


〔設計は建築家山田守で構造設計は京都大学工学部建築学教室による。タワーの独特な姿は、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたもの。〕

現存する「洛中洛外図」の名を持つ絵図は相当な数にのぼるらしい。その中で特に「上杉本」と但し書きある「上杉本洛中洛外図屏風」は、狩野永徳(かのうえいとく)の絵筆によるもので、天正2年(1574年)に織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝えらています。信長はこの屏風と一緒に「源氏物語図屏風」も送っていますが天下人直前で憤死した信長にどの様な意図があったのでしょうか?

上杉本洛中洛外図屏風」には当時の客観的事実にもとづいた京都景観の鳥瞰図と俯瞰図の両方の性格を持っています。
この屏風がもつ高度な芸術性や歴史的文化財としての価値や重要性は門外漢のため触れずに「京都事情」をこの絵から読んでみたいと思います。


〔高さのみならず巨大な船のように市街地に横たわったボリュームやガラス張りのデザインに関しても、当初から古都の景観を損ねるとして論争が続いている。〕

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客船よ!!!

2006.05.18

客船よ! 晴海に!!
東京新聞都の発表によると「利用者がピーク時の10分の1に減っている晴海客船ターミナルに客船を呼び戻そうと今夏から晴海客船ターミナル発の豪華客船の旅を割安料金で提供する「都民クルーズ」事業を始める。」そうです。
日本の海の表玄関「横浜大桟橋」は明治27年〔1894年〕の完成です。以来一世紀に渡って活躍してきました。その横浜大桟橋から比べると「ブランド」も「実績」もだいぶ見劣りしますが、でも「晴海客船ターミナル」もなかなか頑張っています。
横浜大桟橋の設計は国際コンペで勝ち抜いた「ザエラ・ポロ」と「ファシッド・ムサビ」という外国人のグループです。
とても個性的なデザインと斬新な構造の空間美が特徴です。ご覧になった方はきっとその素晴らしさに驚愕することでしょう。屋上広場は24時間オープンしており、これからの季節はデート・コースとしては最適な空間です。

先日、
世界最大の豪華客船の「フリーダム・オブ・ザ・シーズ」のブログは以前書きました。〔5月3日・海との結婚式というブログ〕
その世界最大と云われる部分を少々紹介したいと思います。
まずは船体の大きさです。

〔1112フィートのFreedom of the Seas
パリのエッフエル塔とロンドンのCanary Whartとの比較です。こんな比較よりもQEⅡやQMⅡとの比較のほうが受け入れやすいと思いまずが何か意図しているものが有るのかも知れません。
この船の全長は約340㍍です。
ちなみに、これまで「世界最大のラグジュアリー船」と云われた「QMⅡ」は全長・全幅:345m×39.9m・総トン数:151,400tです。また「クルーズ客船の代名詞」と云われた「QEⅡ」は全長・全幅:293.5m×32m・総トン数:70,327tです。もちろん英国を代表するこの客船の命名者は「エリザベス女王陛下」です。常に思うことですが英国の海運界はこの辺が「粋」というか、スマートですね。かって日本にも有数の客船がありましたし、今でも世界的に恥ずかしくない客船を持っていますが、命名者が「お上」であった事はありません。

□参考「世界最大の豪華客船「フリーダム・オブ・ザ・シーズ」が完成」CNN/REUTERS

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初鰹

2006.05.16

江戸っ子気質!?

天明(てんめい)期は1781年から1788年までの10年に満たない期間ですが、この時期に料理の世界、特に初物に関する「江戸っ子気質」が花開いたと言われています。天明期は、安永の後で、寛政の前です。
徳川の将軍さんは、「家治さん」と「家斉さん」の時代です。
家治さんはあの「田沼意次」を側用人にした人です。8代将軍の吉宗さんに可愛がられていたようです。自分の世子が夭折したために一ツ橋家の長男を養子縁組して、「家斉さん」を次期将軍としました。

料理の世界で安永時代になると江戸府内に高級レストランが数多く出来るようになり、そこに通う粋なお金持ち達が「」とか「」といった概念が定着するようになったようです。この頃から江戸の「食通」意識に支えられてレストラン〔料理屋〕が非常な繁栄を遂げたと言われています。
そして、江戸府内の高級レストランがどんどん建ち並んでいきます。

食通意識は「遊び!?」に象徴される天明期の料理文化をより成熟させたと言われていますが、反面「遊び」である強烈な「初物」志向を生み出しました。
勿論「初物」はこの時期以前より珍重されていたここと思います。
しかし余りにも度を越したこの時期の「初物珍重」には時の農林水産省もガイドラインを取り決め制限対象を広めました。この時の幕府の担当は「幕府御膳所御台所」がガイドラインを策定し、「三奉行のうち町奉行」が中心となって統制処置をしたようです。
この範囲が凄まじいです。
統制内容は「四季初物惣目録」というカタログに載っていますが、
食類・生類・降物聳物・水辺・人事雑事・植物・神祗・天象の各部に及び、
やはり中心は食類で「極上上吉」の初鰹を筆頭に、初鮭・初酒・初蕎麦・若鮎・若餅・早松茸・早初茸・新茶・初茄子などの順に続きます。
昔から、日本人の嗜好は普遍ですね。

ここでも明らかなように「初鰹」は統制の第一等で「江戸っ子」の垂涎の的という事になります。

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横浜ベイクォーター

2006.05.15

横浜のブランドと新しいトレンド

1854年に進水した英国で建造された「蒸気船アーコ゛号〔スクリュウ船〕」〔1850㌧〕は英国から喜望峰を廻って64日間オーストラリアに着きました。その後ケープ・ホナー廻りで英国に帰港し、蒸気船としてはじめて世界一周を果たしました。
このころ少しずつ石炭の補給基地が世界の各地に整備されつつあったとは言え、とても高価な燃料費でした。

横須賀に入港したペリーの日本遠征隊の旗艦「サスケハナ号」は1855年3月10日にケープ・ホナー経由米国フィラデルフィアに帰着し、米国蒸気船軍艦としては最初に世界一周を果たしました。同じ年に僚船だったミシシッピー号が少し遅れて4月23日にニューヨークに帰ってきます。同船は帆船でした。

日本と米国間の航路、いわゆる「太平洋航路」が開設されたのは1866年のことです。
1867年1月1日に東洋のへの処女航海を果たしたのは「コロラド号〔3642㌧〕」でした。22日間かかって1月24日に横浜に入港しました。横浜での下船者は42名だったそうです。勿論郵便船でしたので郵便袋を沢山乗せて。

運行会社は「パシフィック・メイル〔太平洋郵船会社〕」で「サンフランシスコ-日本-シナ」を結ぶ航路として期待をかけたようです。この当時の船旅はとても高価だったと推察できますが、ゆったりとした船旅であったかどうか疑問ですね。
この二年前の64年には「P&O」が「上海-長崎-横浜」の航路を開設しており、同時に仏国のフランス郵船も上海-横浜間航路を持っていました。
この航路により極東の日本は世界の周回航路のシステムの一員となります。
その窓口が鎖国から開国を最初に経験した「横浜」でした。

このころより「国際航路のハブ」としての横浜の港湾機能とブランドが形成されつつあったと思われます。


〔セールを形どったホテル・パシフィコ横浜と日本丸〕

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カティ・サークと帆船の建造技術

2006.05.14

特に熱帯地域の「熱帯林」の減少が目立つます。

熱帯林は1990年から2000年の間に、「年間平均で1230万ヘクタール」が減少しているらしいです。
これは日本の国土の約3分の1の森林を毎年失っている事になります。
もう一つ重大な事は、単に面積の減少だけでなく、森林の質の劣化が進み、「密閉林から疎林」への変化も見逃せない深刻な事態だそうです。
森林破壊の主たる原因ですが、
まず、19世紀時代はの森林は「製鉄や家庭の燃料」でその多くを失い、さらに「牛や羊を飼う牧場」のために破壊が進行したといわれています。
次に 20世紀に入りますと、「住宅や建設用の木材」、「食料生産の場」として土木機械の開発が大規模化し、破壊に拍車をかけたと言う事です。
そして、21世紀になるとその破壊は飛躍的高まって来ました。森林は「新聞紙、OAコピー紙、ダンボール紙」など産業用に伐採され、さらに、食料生産(エビの養殖池、牛や羊の牧場、大豆やコーヒー、油脂など)のためにその範囲が更に拡大され、大量の伐採が進みました。 また、自動車タイヤの原料ゴムを採るゴム園も自動車の加速度的普及により拡大され、現在でも森林の減少は止まる事を知らずにいます。


〔カティ・サーク〕

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鰹と鰹のたたき

2006.05.13

「昔から鰹と鰹節ほど日本人の食生活に深く」関わり合いをもった民族はありません。
     そして今「鰹のたたき」がとても美味しい!!

武士が出陣する時は慣わしとして「お神酒〔おみき〕」と「スルメ」、「勝栗」、「鰹節」、「昆布」、を飾って酒宴を張り武運長久を祈ります。そして、「命を持ち帰る事こそ、功名の種」でございますという訳です。この台詞はNHK大河ドラマの「功名が辻」で一豊の妻・千代が必ず一度は口にしますね。武士の出陣は今生のお別れですのでこの様な酒宴を張ったのでしょう。また、非常の場合の携帯食料として煎り米の他に「鰹節」を持たせたようです。
何かの本で読んだ事がありますが、太平洋戦争のとき出征軍人には「千人針と鰹節」を持たせたらしいですよ。

目には青葉 山ほとゝぎす 初がつほ〔初鰹〕」は山口素堂の代表作ですが、江戸っ子の気質を反映しているこの句は4月、5月になると必ずどこかで聞くことが出来ます。それほど春の鰹は江戸人の気質をくすぐったのだしょう。当時の漁場は相模湾が外房〔勝浦が昔から有名です〕です。そこから鮮度を保ちながら江戸まで運ぶにはキロ単価を数倍しなければ元は取れないと思います。


〔鰹のたたき〕
土佐人が編み出したと言われる鰹のたたき料理は傑作です。
真偽の程は不明ですが、豊臣時代に山内一豊が土佐に攻め込んだとき合戦がこう着状態になったそうです。この時、毎日毎日兵士たちは土佐湾で捕れる鰹ばかりを食し、いい加減うんざりとしていました。その時に兵士の中にいろいろ食べたかを研究する者がいて「たたき」が偶然出来きたそうです。とても大胆な発想と思います。

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世界一周

2006.05.11

リスボン港は良港です。

テージョ川の河口幅が数キロと大型船の操船にも適していますし、最大喫水も十分です。
特に北大西洋が時化たときリスボン港に入港すると「ホッ」とします。
人口100万余の小国ポルトガルは当時荒れた土地であったために領土の拡大志向を「」に求めました。
国王ジョアン一世の第三子エンリケ皇子〔通称・航海王子〕はアフリカ西岸の探検事業に乗り出します。彼は自費でポルトガル最南端のサン・ヴィセンテ岬に近いサグレュに天文台や航海用具、海図の作成を主とする航海士養成学校〔ヴィト・ド・インファンテ〕を設立します。この岬の絶壁は75mほど在りますが、この上にあるの灯台を右舷側に見てリスボン港を目指します。
この養成所の卒業生に下級貴族の「ヴァスコ・ダ・ガマ」と「マゼランン〔フェルナン・マガリャンイス〕」がいました。

マゼランの世界周航コロンブスの新大陸発見に次ぐ大航海時代の壮挙でした。「フェルナン・マガリャンイス」は日本ではマゼランという英語名が一般的ですが、元来ポルトガル人で1480年ごろに生まれたとされています。マゼランの功績については以前ブログに書きました。僅か85トン〔旗艦のトリニダート号でも110トン〕の「ビクトリア号」一隻が苦しい単独航海の末、1522年9月8日にセビリャに帰着しました。
五隻の船団のうち最期の帆船であるビクトリア号を指揮したのはフアン・セバスティアン・エルカーノです。国王カルロス1世より地球の図に「汝は我を最初に周航せる最初の者」という文字を配した紋章が与えられましたが、再度の周航途中で命を落とします。


〔マゼランの旗艦・トリニダード号〕
帆船で初めてマゼラン海峡を僅か7日という奇跡的な短期間で通り抜ける。奇跡としか言いようが無い。

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カティ・サーク

2006.05.07

カティ・サークと新鋭海運国

日本とのポルトガルの関係はとても古く長い歴史があります。
日本とヨーロッパの関係が黎明期の1584年に実は「天正遺欧少年使節団」がリスボン港に着いていました。 特に日本との関係が活発になるのは、やはり「1543年」にポルトガル人三人を乗せた明国船が種子島に漂着したことでしょう。以前ブログに「ねじとグローバリゼーション」というテーマで話しました。そして、「ポルトガル船」が平戸に初入港したのは1550年のことです。
鉄砲のグローバリゼーションがその後の国内の「戦さ」の仕方に影響与えた事も「哀愁の若狭」でブログしました。

僕らは地球を含めて「九つの惑星」が太陽を中心に廻っている事を知っています。
しかし、古代人は「五惑星とか七惑星」としか知らぬままに「占星術」や「陰陽五行説」を考え出しました。今では辻褄が合いませんが。
五惑星を発見したカルデア人たちの知識はご存知のギリシャの天文学者プトレマイオスによって15世紀後半までヨーロッパ全域に「天動説」として君臨する事になります。
そして、16世紀になってやっとポーランドの天文学者コペルニクスによって地動説が発表され、宇宙の中心と考えられていた地球は実は太陽の一惑星に過ぎないことを提唱します。それまでの天文学や神学を支えてきた基盤が根本から崩れる大事件でした。特に聖書の解釈を天動説とした教会とガリレオの長期にわたる確執のあった有名なテーマでもありました。

当時のバビロニア人たちは「地球が宇宙の中心」に静止していると考えました。太陽など七つの惑星が地球をの周りを廻り、
そして、それらの惑星が一日の時間を管理する支配惑星という概念から、
一日一つずつ順次惑星が交代すると考え、その一周が七日かかるとしました。バビロニアで生まれた一週間・七日と言うのはこのことを指すようです。なんと紀元前10世紀以上の前の話です。


〔カティ・サークの船首付近〕

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カティ・サーク

2006.05.06

カティ・サークとお茶

「我々の日常飲む水は冷たく澄んだものを好む。日本人の飲むものは熱くなければならないし、その後竹の刷毛で叩いて茶を入れる事が必要とされている。」
1562年にイエズス会の伝教師として来日したポルトガル人ルイス・フロスは『日欧文化比較』という当時としてはユニークな文明評論を書いています。フロスはここで「お茶」を紹介しています。
また、
1560年にポルトガル人宣教師として始めて中国を訪れたダークルスが「中国では高貴な人の家に訪問客があれば『チャ』と言う一種の飲み物(中略)それは苦味があり、紅色でくすりになる飲料を出す」と述べているそうです。

ヨーロッパに最初にお茶を紹介したのはポルトガル人であると言われています。僕らに馴染み深い「シルクロード」は最も古い古代の通商ルートですが、そこには「お茶」の痕跡は無いそうです。9世紀にはアラビア人商人は茶に注目していた様ですが、取引をした形跡はやはり無いそうです。また、13世紀のマルコ・ポーロの「東方見聞録」にも茶に関する記述は無いそうです。

ヨーロッパ人は「お茶」を中国によって知りましたが、しかし中国のお茶が彼らに与えた文化的な刺激は日本のお茶ほど強烈では無かったと言われています。それはルイス・フロスの『日欧文化比較』の中で彼自身が語っています。
彼が見た日本と欧州の文化の違いで特に「我々は宝石や金、銀を宝物とする。日本人は古い釜や古いひび割れた陶器、土製の器等を宝物とする」いう一節です。
これは彼が既に「茶の湯」を知り、それをヨーロッパに伝えた事が上げられます。


〔カティ・サークの船内〕
当時はここにお茶やウールがぎっちりと詰まってました。
カティ・サークが現役の頃、お茶の積み出しは中国の広東・黄埔(ワンポー)・マカオの三港でしたが、その後上海と福州が加えられました。この「福州」こそがカティ・サーク達が活躍する歴史的な「クリッパー・レース」の開催地です。その理由はこの福州がお茶を摘み取るのに最も適した場所にあったとされています。
お茶の出来る時期は4月と6月でしたが、特に最初に積み出される新茶はロンドンで高額取引の対象でした。

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カティ・サーク

2006.05.05

水平線の彼方へ

地表の七割を占める「海の世界」の開拓は当然ながら陸地との深い絆をゆくっりと手繰りながら進んでいくようなものです。よちよち赤ちゃんが壁伝いに歩くような覚束ない足取りそのものです。
かって「七つの海」は地中海、黒海、アドリア海、カスピ海、紅海、ペルシャ湾、インド洋の一部でした。僕らが現代認識している「大西洋や太平洋や南極そして北極」などは想像すらしていない世界です。

船乗り達が目標を持たずに水平線を越えるには「勇気と経験」の積み重ねが必要であり、そこには到底計り知れない苦難があった事と思います。
そして長く世代を超えた試行錯誤の積み重ねによって「一定の仮説」が出来上がっていく事になりました。
潮流や風向きの連鎖の記憶を古い船乗りから新しい船乗りへ延々と引き継がれ、そして徐々に航路も確定していきます。
島々の分布、目印になる地形等々多くの情報が組み合わされ、より海域の世界が広がっていきました。
航海術とは基本的に「船を地球上のある地点から目的とするある地点へ、安全かつ能率的に航行させる」技術です。そこにはまず自船の位置を知らなければなりません。
そして、次に目的地の地点へ効率的な幾何学的「移動」の方法を求める必要があります。
極端に言えば、
自船の位置と言う「」を求め、
目的とする地点へ到達するめたの「」を求める事、
これが航海術の根本となります。


〔カティ・サークの船首付近・一部フィギアヘッドが見える〕

1859年の着工から10年を費やし1869年11月17日スエズ運河が開通しました。カティ・サークはその六日後の11月22日の月曜日の午後進水しました。既に世の中は汽船を中心とした輸送手段へ変改しようとしている矢先でした。カティ・サークの進水は「時代錯誤」と陰で皮肉られる出来事でした。
この運河の開通により、アジアからアフリカ大陸の喜望峰を周回する必要がなくなり一挙に5000海里も短縮されました。その上、スエズ運河を通れるのは汽船に限られていました。
ついでに、
スエズ運河の開通後は当初フランスとエジプトの共同所有とされていましたが、対外債務を抱えたエジプトは運河管理会社の株式をイギリスに売り渡すことを余儀なくされ、1882年には運河を保護することを理由にイギリス軍の駐留が始まりました。その後実質的にイギリスがスエズ運河を支配することになりました。そして、1967年の第3次中東戦争以後、スエズ運河は長い間閉鎖され、再開されたのは1975年6月のことです。

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カティ・サーク

2006.05.03

帆船は人間の創造物の中で最も美しいもの、偉大な傑作のひとつ

レ・ミゼラブル」「ノートルダムの鐘」で有名なビクトル・ユーゴーは仏国で著名な小説家であり詩人であり国民的に人気の高い政治家でもありました。彼は著書の中で「帆船は人間の創造物の中で最も美しいもの、偉大な傑作のひとつ」と賞賛し、帆船の活躍と海の情景を巧みに描き、彼自身の海への憧れを描写していると言われています。ユーゴーは三男ですが、彼の父は熱烈な共和党員でナポレオン1世時代には軍の将軍だった様です。父の意思により軍人を志しましたが20代で断念し以後、文学に打ち込んだ様です。冒頭の帆船への憧れは感情の豊かさを持つ詩人的な感性と軍人の初等教育で訓練された機能としての帆船を描写したのでしょうか。


〔米国の代表的なクリッパー:フライング・クラウド 〕
1851年に米国船主がティ・クリッパー・レースに深入りしなかったのは当時米国で起きたゴールド・ラッシュでの旅客運送の方が安全で且つ高収益であるとの見方が一般的です。この船は長さが72㍍、幅12.5㍍で金メッキした壁柱とマホガニーで出来た腰板等、貨物船にしては豪華な客室を備えていました。豪華さもさることながら「疾走する雲〔フライング・クラウド〕」の名の通り俊足でした。処女航海のNY→SFO間を89日間という驚異的な記録を持ちその後その記録を破られる事はありませんでした。この航海で毎日平均222海里を保持し、最大24時間で374海里を作り上げました。カティ・サークの約二倍の1782㌧の大きさです。別名「白い翼」とも呼びました。

フライング・クラウドが活躍したのはカティ・サークが進水する約20年前の出来事です。

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海との結婚式

2006.05.03

世界最大の開港祭である「ハンブルクの開港祭」が日本のGW最中に開催されます。

今年で「817回目」を数える「ハンブルクの開港祭」が5月5日から7日の週末に開催されます。この開港祭は世界最古・世界最大といわれています。お祭は、「ハンブルク港」の中心5~6キロの空と市内を流れるエルベ川と市内全域を全面的に使う規模です。3日間で予定されているイベントやプログラムも充実していて観客を飽きさることは無いそうです。3日間目白押しだ。
開催案内によると、
『大型帆船、博物館船、タッグボート等の水上プログラムをはじめ、陸上では500人以上もの役者を投入した「港マイル」が展開。中世ハンザ時代の海賊や船乗りたちの衣装やパフォーマンス、10ヶ所以上に設置されたステージでは多彩な音楽プログラムを楽しむことができる。聖ミヒャエリス教会でのオープンニングミサ、手工芸市、体験マイルなども見逃せない。空の舞台では、歴史的な飛行機やルフトハンザジェット機の航空ショー、パラシュート落下、熱気球遊覧など。夜には港イルミネーションや花火が空を飾る。』などなどです。
毎回100万人以上の観客でにぎわうイベント期間も、市内にはホテルが十分あるので、宿泊には問題がないとお祭りの歴史を感じる港街といえますね。

ユリウス・カエサルが志半ばで暗殺され彼自身の遺言により見出された無名のガイウス・オクタヴィウスは当時18歳の少年でした。しかしシーザーの目利通りオクタヴィウスはローマ帝国の実質的の初代皇帝アウグストゥスと成長します。数々の困難を乗り越えて。そして10世紀が過ぎローマ帝国末期に「ヴェネツッア共和国」が誕生します。
ヴェネツッアは辛うじて盛り上がっている地上と「生きている潟〔ラグーナ〕」の上に築いた国家です。ヴェネツッア人は現在ではユーゴスラビアとなっているアドリア海で船による交易を国のビジネスにしました。
中世の地中海での交易の商品と言うと香料や陶器といった嗜好品と思いがちですが、実はもっと実質的で「塩と塩漬けの魚」だったそうです。その後アフリカの回教徒が望む「木材と奴隷」に変わっていく事になります。
ヴェネツッア人は彼らの力やビジネスの基盤が「」である事を熟知していました。なので、いかなるヴェネツッア人も老朽船でない限り外国に売る事を禁じられていたそうです。たまヴェネツッア人が船を購入したり作ったりする場合は、国内の造船所で作られた船しか購入出来ませんでした。彼らはその様な法律を作ったのです。
ヴェネツッアをその後の共和国として発展の基盤を築き上げたのは991年に元首に就任したピエトロ・オルセオロ二世と言われています。ピエトロが15歳の時、同じ名前を持つ父が元首に選ばれました。しかし、オルセオロ一世は二年後に元首の地位を捨て、僧院に隠遁してしまいます。設立間もない共和国自身がとても不安定な国だったことも大きな要因だったのでしょう。父の隠遁から13年後にオルセオロ二世は30歳という異例の若さで元首に選出されます。

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大量の黄砂、東アジアを覆う

2006.05.01

ブラック・レイン

クールな役柄で人気を博し遺作となった「松田優作」が好演した「ブラック・レイン」という映画ありました。米国の刑事役にマイケル・ダグラスと若き日のアンディ・ガルシアと日本の刑事役には高倉健でした。今は亡き若山富三郎がやくざの大親分役でした。内田裕也も出たし、小野みゆきがとてもセクシーで美しかった。1989年のこの豪華キャストのハリウッド映画は松田優作の存在感をトコトン見せつけた映画であり、脇役で在りながら「彼の映画」として記憶に残るものとなりました。

「ブラック・レイン(Black Rain)」の意味は「原爆投下によって起こる放射能混じりの雨」のことを指していますが映画の本筋とは全く関係ありません。ただ、大親分の菅井役の若山富三郎が流暢な英語でブラック・レインの事を語るシーンが強烈な印象として記憶しています。これも蛇足ですが、この映画は『ブレードランナー』とワンセットで語られることが多いといわれています。そう、感じる映画とも言えます。

北京で雨がふると「黄砂(ファンサ)混じりの雨」ということになるらしい。


黄砂(ファンサ)の飛沫は先日のブログの米国調査機関も示しているように韓国、日本を含めた東アジア一帯の巨大なエリアまでカバーします。プランクトンの大量発生により魚が喜ぶ海域はオホーツク海のことです。新疆ウイグル地区や内モンゴル等で発生したファンサがオホーツク海まで飛んでいくということです。
日本でも北陸や九州に黄砂の被害が報告されていますが、お隣の韓国の被害は甚大で、その影響度も計り知れません。
まず、この時期中国沿岸部と韓国ではどんよりと曇る事が多く天気に恵まれません。
触媒は「偏西風」です。
この黄砂、大気汚染物質〔特に上海周辺と言われていますが〕などと共に大気中にとどまり、その黄砂が原因で空が霞みどんより曇ってしまうのです。

ブラック・レインまでは脅威にはならないまでも「イエロー・レイン」〔黄色の注意信号と黄砂の「黄」を絡めて〕とでも表現したくなります。

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