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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

投機性

2007.12.17

米農務省が今月7日に、「2007~08年度のコーヒー需給見通し」を発表しました。

注目のブラジル産生産高は、6月見通しの3,620万袋から3,760万袋まで140万袋上方修正されている様です。そう言えば、今年の秋に旱魃の影響で生産が大きく計画を下回るという発表を記憶しています。
ですが、この発表聞く限りではその懸念はなさそうですね。旱魃があったものの生育期の気象環境が良好だったことで、全体としては6月報告の内容を大きく修正る必要はないと判断された模様です。
業界予想として今後も大きな変化は無いようです。

さて、
CuttySarkの活躍の時代を語るとき「緑茶」や「紅茶」や「ウーロン茶」と並んで必ず「コーヒー」から話さなければなりません。なぜかというとヨーロッパや特に英国ではアルコール以外で流行したのは、紅茶よりもコーヒーだったからです。
コーヒーの起源を調べると、たどり着くところ総てイスラム圏の伝説です。イスラムの神秘主義の僧侶達(スーフィーと呼ばれた人たち)が好んで常用して飲み物ということになります。この「覚醒剤的作用」を持つ「健康的な」飲み物がイスラム世界に出現したのは、遠く15世紀後半で場所は南アラビアのアデンとのこと。
イスラムの中でも神秘主義のスーフィー達は「飲むと眠れない」コーヒーの力によって、コーランを読み、祈り続けたと言われています。一日中眠らずにコーランを読むことを好んだ、あるいは強いたことから、コーヒーは彼らの欠かせない要素となった様です。
南アラビアのアデンから、イエメンのスーフィー達によって16世紀初頭にはエジプトのカイロでコーヒーが飲まれる様になりました。
その後、ローマ帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ帝国の首都イスタンブールにコーヒーが現れるのは1554年です。これはかなり明確に知られた史実です。なぜかというとお店の開店の宣伝を打ったからです。店主は「ハクムとシャムス」という二人のシリア人によって二軒の「コーヒー・ハウス(コーヒーの家)」が生まれました。
それがオスマン・トルコ帝国スレイマン二世の治世下(1566-74)では600店舗あまりに増えたそうです。
イスラムの神秘主義のスーフィー達(非社交的)の間で飲まれたコーヒーはいつの間か飲む特別空間を作り上げ、「社交の場」を醸成することになります。
コーヒーの特殊性といわざる得ません。
この社交性を生むという特殊性は「英国」によって極端に花開きます。

古いコーヒーの呼び名に「アラビア・モカ」という呼び名があります。
アラビアで採れるコーヒーが、その積み出し港の「モカ」をとって名乗ったことは当然の成り行きでしょう。現在のイエメン共和国の港町でアラビア半島南西端に位置します。目の前は、「紅海」です。現在見る影もなく寂れています。

モカは17世紀中頃にはすでに年間八万袋(一袋60㌔)を出荷していたとあります。ただ、積み出し港はモカだけでなく、モカよりも多くの出荷を行っていた港もありながら、イエメンのコーヒーを代表することになったのは、やはりヨーロッパを中心とする世界観によるものでしょう。
特にモカは英国、オランダ、フランス、等のヨーロッパの主要国の船舶が直接寄港することを許され、買い付けを許可されていたからだという説があります。
船はモカ(イエメン)を出港し「ルージュ色の海」すなわち紅海を抜けてカイロの倉庫に入ります。紅海は「ルージュ色の海」と呼ばれ神秘的でヨーロッパ的には異国情緒がフンダンなイメージですが、この紅海の航海は甘くはありません。シャレではありません。
当時の造船技術と航海用具と技術を想像すれば、危険を伴う航海といえます。「ルージュ色の海」は、その艶やかな名称とは裏腹に、逆風、低流、浅瀬など多くの困難があります。紅海は難海域です。

特に12月から5月までは風は主として南風でジッタからスエズへの航行を比較的楽にさせ、逆に他の月は北風によってスエズからジッダに返してくれるというものです。
しかし、この頃紅海の南端はすでに季節風の猛威に晒されています。

スエズからジッダまで630マイルあります。
順風で15日から17日と記録にありますが、悪くすると20日から22日かかっていました。コーヒーは生産者と生産国の生活レベルと、コーヒーを飲む消費者の間には経済的な大きな乖離が存在します。
また、お茶と同様生産国と消費国の距離は当時の世界観では地の果てとは言わないでも、その距離は相当なものです。
現代では、生産の主要地が赤道近くの発展途上国であるのに対して、消費の方は欧米先進国と日本が中心となっているため、生産高のおよそ8割が輸出されているようです。また、消費側の欧米先進国や日本の消費量は比較的安定していますので、この場合、相場のリスクは主に生産国の要因となります。

前述の米農務省のコーヒー需給見通し発表ですが、コーヒーが木の実であることを考えると、1年草である大豆やコーンに比べて安定的な供給が期待できそうですが、「霜害や病害」の影響のために必ずしもそうとは言えません。これはワインの原料である葡萄の育成と同様ですね。
話はそれますが、ラッセル・クロウ主演の「プロヴァンスの贈り物」というワイナリーの物語があります。原作はピーター・メイル著作「南仏プロヴァンスの12ヶ月」を原作としています。とてもいい物語です。
さて、その霜害ですが、
場合によって樹木の枯死に繋がる恐れもあります。そして、その影響が長期化する可能性を秘めています。こう書いてて疑問に感じているのですが、どうして熱帯地方で霜害があるのでしょう。
意外な感じです。
でも理由は簡単です。良質なコーヒーの生産ほど、一定の高度(山の)が必要だからだそうです。コーヒーの評価では、より標高の高い産地のものが結果的には品質的にも高い評価を受けるという実態があるからです。

しかし、この頃の相場を左右する一番の「リスクは輸送」です。
もちろん、生産に関するリスクは当然ありますが、紅海を通ってスエズまでの航行情報はジッダ→スエズ→カイロまで瞬時に伝達され、コーヒーの相場に直接影響を与えます。
1732年にモカから3000箱のコーヒーを積んだ12隻の船が沈没し、それまで50㌔当り数ピアストロ(当時の価格)していた相場が一気に30倍の35.5ビアストロという高値をつけたという記録がありました。

17世紀のポルトガルやオランダはすでに高速で長距離輸送が出来る三本マストの大型帆船を持っています。当初はモカで仕入れたコーヒーをインドで高く売れるという魅力でした。そこでも相場が立ちました。

そして、もっと利益の増す方法を編み出します。
それはジャワで「コーヒー・プランテーション」を作るという発想です。
自らコーヒーを生産するという方法を取ったとき、コーヒーはヨーロッパの植民地主義の歴史を暗黒面に導く商品となり、文字通り地球上の自然とシステムを変えるほどの代表的な商品になっていったのです。
相場は世界規模」に変貌した訳です。

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