BrainSellers.com

Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

海の日

2006.07.30

海の日」を数日に控えた横浜大桟橋に二隻の大型客船が入港しました。


〔横浜名勝・みなと横浜の大桟橋〕

先週の7月13日と15日に横浜の大桟橋に大型豪華客船である「飛鳥Ⅱ」と「にっぽん丸」が世界一周航海を終えて帰国しました。約三ヶ月の航海を無事に終えたこの二隻の客船はいずれも「帰国祝い」のセレモニーで帰国の歓迎を受けた事でしょう。
飛鳥Ⅱ」の前寄港地はホノルルです。そして横浜を出港した後神戸に向かうとの事。そして「にっぽん丸」の前寄港地はカムチャッカでした。やはり次は神戸に向います。

〔夜の大桟橋は幻想的な雰囲気〕

「海の記念日」の由来は、明治天皇が明治9年に東北へご巡幸の帰途に当時最新鋭の「灯台視察船・明治丸 」で青森港から函館を経て横浜港に無事到着された日を記念したものとなっています。
しかし、初めて記念日としたのは、昭和16年7月20日です。
この前年に太平洋戦争に突入しています。
政府としては「開戦抑揚の意味」もたぶんにあったのでしょうか?


〔世界一周航海を終えて帰国したにっぽん丸〕


〔同じく世界一周航海を終えて帰国した飛鳥Ⅱ〕

>>続きを読む

再び黒船

2006.07.02

大西洋横断競争」は1830年代の終わりに差し掛かった時に突然起きました。
それは「蒸気力」の発展に関する劇的な進歩、発展への期待感による大西洋横断の「定期蒸気船航路開設」の機運が高まったからです。

勿論大西洋横断定期航路は「帆船」でした。開設は1818年と古く「ブラック・ボール・ライン」が運行していました。
横断に要した日数は非常なばらつきがあり、「最短で16日」ですが「最長では73日」もかかっていたようです。この日数の開きが風任せの帆船という事なんですね。帆船の大きさは初期の時代は300㌧程度でしたが、後年1000㌧を超えるサイズまで現れましたが、「速度の向上」は改善されませんでした。推進力は「自然の風」ですから当然です。
年間平均航海数は30日台といったところでした。
蒸気船の場合は計算上、少なくとも15-16日間で横断が予測でき、最短も最長も殆ど差は無いはずです。
帆船の速度の不安定さを考えれば蒸気船の長所は歴然です。
なので、誰がが「定期航路用の蒸気船」を建造すれば、当然の如く競争原理が働き、ライバル会社が立ち上がります。

1836年には「イギリス-アメリカ汽船会社」が設立され、ロンドン-ニューヨーク間に最新鋭の豪華客船の投入を計画し、建造に入りました。それが「ブリティッシュ・クイーン号」〔1863㌧〕で当時の蒸気船の中でも最大級で25日分の石炭と800㌧の貨物と500人の乗客を乗せる事ができるという計画でした。

そして同じタイミングで「鉄道と海底トンネルと船舶」に多彩な能力を発揮した「ブルネイ」が設計と製造の指揮をとった「豪華客船」がありました。
今から170年前の1836年7月に建造を開始した「グレート・ウェスタン号」です。建造から一年後、ブリストルで進水し、ロンドンに回航されエンジンを据え付けました。現在の造船方式とだいぶ異なっています。
現在では船の形が出来上がるとエンジン・ユニットがパーツの様に工程の一部としてセットされます。
グレート・ウェスタン号は全ての艤装を完了し、ロンドンから母港のブリストルに戻り、1837年4月8日午後二時に蒸気定期船航として始めての航海に臨みました。二度主機関を停止するトラブルはあったものの4月23日の午後にニューヨーク港に到着します。「所要航海日数は15日間」でした。乗客はたったの7人であったと言われています。
この日ニューヨーク港の桟橋はこの船を見ようと大群衆が集まったようです。
それは「新しい大西洋航路という時代の幕開け」を象徴する出来事であったと当時の新聞が語っています。

一方「ブリティッシュ・クイーン号」はようやく完成し、同年7月にニューヨーク航路に投入されました。この船は7回大西洋を横断しています。その後イギリス-アメリカ汽船会社は新鋭船「プレジデント号」〔2366㌧〕を投入します。

まさしく、本格的な「大西洋航路の幕開け」です。


〔海上を飛ぶように疾走する次世代高速船「テクノスーパーライナー(TSL)」〕

>>続きを読む

再び客船よ!!

2006.05.28

フラッギングアウトとマドロス

日本の海運界は太平洋戦争で壊滅的な打撃を受けた戦後は「ゼロ・スタート」したのにも関わらず飛躍的な発展を遂げました。特に「計画造船」が成功のきっかけになったようです。その後二度にわたる「オイル・ショック」による経済活力の減速、大幅な円高によって海運界はまたしても経営不振を招きました。日本の造船技術や船員の質はほぼ世界のトップレベルに達しています。しかし経営的には国際競争力において非常に厳しい現状があります。その一つは日本の船員の人件費です。これも世界トップ・レベルです。
ここ数年は特需により海運大手は好成績を残してはいますが。

昔の古い外国航路の船員さんを「マドロス[オランダ語: matroos]」と呼んでいました。今は死後に近いと思います。オランダ語で船員という意味だそうですが、英語でもなくポルトガル語でもなく「オランダ語」が船員=マドロスと定着したところに遠く、歴史や文化を感じます。

横浜のクルーズ熱は日本一熱い?」という特集が先日ありました。
ヨコハマ経済新聞編集部の「田中あき子」さんという方のレポートでした。かなり長い記事ですが内容は十分読み応えがあり、浜っ子だけでなく「横浜を愛する」方にとっては纏まった内容と感心しています。早速横浜の知人に送ったところです。盛りだくさんの8っつのテーマに分かれています。
■「横浜国際マリンエンターテイメントショー」が開幕
 赤レンガパークの周辺の海に、大型クルーザーなどボート、ヨットが約50隻を集め5月19日から21日ま  で開催された「横浜国際マリンエンターテイメントショー'06」の特集です。
■横浜駅から乗れる海上交通船「シーバス」の秘密
 鉄道の駅からすぐに乗れるシーバスは電車やバスでの移動と違い、目的地へ移動しながら海の景色  や波の揺らめきを楽しめる、非日常的な心躍る「体験」である。生活のなかにそうした時間を組み込むこ との大切さを、地元の人たちは知っているのかもしれない。
■特別な日を演出する、船上のレストラン
 サザンオールスターズの1998年のヒット曲『LOVE AFFAIR~秘密のデート~』のなかに、「マリンルー  ジュで愛されて 大黒埠頭で虹をみて シーガーディアンで酔わされて まだ 離れたくない」というフレー  ズがあるが、まさに恋人たちや夫婦がロマンチックな景色と食事、時間を楽しみに来る船だ。船上で誕 生日を祝ったり、プロポーズしたりする人も多く、演出についての相談にはできるかぎり対応していると いう。
■本格中華のレストラン船「ロイヤルウイング」
■料理、音楽、景色、挙式と楽しみ方はそれぞれ
■クルーズを特別価格で楽しめる「横浜市民クルーズ」
■「飛鳥II」効果で一層高まった横浜のクルーズ熱
 横浜港の客船寄港数は平成17年には145隻へと増加し、3年連続で日本一となっている。「今年2月  の、横浜港に船籍を置く初の客船『飛鳥II』の就航セレモニーでは、7,000人の見送り客で客船ターミナ ルは埋め尽くされ熱気であふれていました。
■アマモで海の生態系の再生に取り組む「海をつくる会」
 華やかな場面の裏で、東京湾の環境を守る人々の事を記事にしています。

といものでした。

>>続きを読む

客船よ!!!

2006.05.18

客船よ! 晴海に!!
東京新聞都の発表によると「利用者がピーク時の10分の1に減っている晴海客船ターミナルに客船を呼び戻そうと今夏から晴海客船ターミナル発の豪華客船の旅を割安料金で提供する「都民クルーズ」事業を始める。」そうです。
日本の海の表玄関「横浜大桟橋」は明治27年〔1894年〕の完成です。以来一世紀に渡って活躍してきました。その横浜大桟橋から比べると「ブランド」も「実績」もだいぶ見劣りしますが、でも「晴海客船ターミナル」もなかなか頑張っています。
横浜大桟橋の設計は国際コンペで勝ち抜いた「ザエラ・ポロ」と「ファシッド・ムサビ」という外国人のグループです。
とても個性的なデザインと斬新な構造の空間美が特徴です。ご覧になった方はきっとその素晴らしさに驚愕することでしょう。屋上広場は24時間オープンしており、これからの季節はデート・コースとしては最適な空間です。

先日、
世界最大の豪華客船の「フリーダム・オブ・ザ・シーズ」のブログは以前書きました。〔5月3日・海との結婚式というブログ〕
その世界最大と云われる部分を少々紹介したいと思います。
まずは船体の大きさです。

〔1112フィートのFreedom of the Seas
パリのエッフエル塔とロンドンのCanary Whartとの比較です。こんな比較よりもQEⅡやQMⅡとの比較のほうが受け入れやすいと思いまずが何か意図しているものが有るのかも知れません。
この船の全長は約340㍍です。
ちなみに、これまで「世界最大のラグジュアリー船」と云われた「QMⅡ」は全長・全幅:345m×39.9m・総トン数:151,400tです。また「クルーズ客船の代名詞」と云われた「QEⅡ」は全長・全幅:293.5m×32m・総トン数:70,327tです。もちろん英国を代表するこの客船の命名者は「エリザベス女王陛下」です。常に思うことですが英国の海運界はこの辺が「粋」というか、スマートですね。かって日本にも有数の客船がありましたし、今でも世界的に恥ずかしくない客船を持っていますが、命名者が「お上」であった事はありません。

□参考「世界最大の豪華客船「フリーダム・オブ・ザ・シーズ」が完成」CNN/REUTERS

>>続きを読む

カティ・サークと帆船の建造技術

2006.05.14

特に熱帯地域の「熱帯林」の減少が目立つます。

熱帯林は1990年から2000年の間に、「年間平均で1230万ヘクタール」が減少しているらしいです。
これは日本の国土の約3分の1の森林を毎年失っている事になります。
もう一つ重大な事は、単に面積の減少だけでなく、森林の質の劣化が進み、「密閉林から疎林」への変化も見逃せない深刻な事態だそうです。
森林破壊の主たる原因ですが、
まず、19世紀時代はの森林は「製鉄や家庭の燃料」でその多くを失い、さらに「牛や羊を飼う牧場」のために破壊が進行したといわれています。
次に 20世紀に入りますと、「住宅や建設用の木材」、「食料生産の場」として土木機械の開発が大規模化し、破壊に拍車をかけたと言う事です。
そして、21世紀になるとその破壊は飛躍的高まって来ました。森林は「新聞紙、OAコピー紙、ダンボール紙」など産業用に伐採され、さらに、食料生産(エビの養殖池、牛や羊の牧場、大豆やコーヒー、油脂など)のためにその範囲が更に拡大され、大量の伐採が進みました。 また、自動車タイヤの原料ゴムを採るゴム園も自動車の加速度的普及により拡大され、現在でも森林の減少は止まる事を知らずにいます。


〔カティ・サーク〕

>>続きを読む

世界一周

2006.05.11

リスボン港は良港です。

テージョ川の河口幅が数キロと大型船の操船にも適していますし、最大喫水も十分です。
特に北大西洋が時化たときリスボン港に入港すると「ホッ」とします。
人口100万余の小国ポルトガルは当時荒れた土地であったために領土の拡大志向を「」に求めました。
国王ジョアン一世の第三子エンリケ皇子〔通称・航海王子〕はアフリカ西岸の探検事業に乗り出します。彼は自費でポルトガル最南端のサン・ヴィセンテ岬に近いサグレュに天文台や航海用具、海図の作成を主とする航海士養成学校〔ヴィト・ド・インファンテ〕を設立します。この岬の絶壁は75mほど在りますが、この上にあるの灯台を右舷側に見てリスボン港を目指します。
この養成所の卒業生に下級貴族の「ヴァスコ・ダ・ガマ」と「マゼランン〔フェルナン・マガリャンイス〕」がいました。

マゼランの世界周航コロンブスの新大陸発見に次ぐ大航海時代の壮挙でした。「フェルナン・マガリャンイス」は日本ではマゼランという英語名が一般的ですが、元来ポルトガル人で1480年ごろに生まれたとされています。マゼランの功績については以前ブログに書きました。僅か85トン〔旗艦のトリニダート号でも110トン〕の「ビクトリア号」一隻が苦しい単独航海の末、1522年9月8日にセビリャに帰着しました。
五隻の船団のうち最期の帆船であるビクトリア号を指揮したのはフアン・セバスティアン・エルカーノです。国王カルロス1世より地球の図に「汝は我を最初に周航せる最初の者」という文字を配した紋章が与えられましたが、再度の周航途中で命を落とします。


〔マゼランの旗艦・トリニダード号〕
帆船で初めてマゼラン海峡を僅か7日という奇跡的な短期間で通り抜ける。奇跡としか言いようが無い。

>>続きを読む

カティ・サーク

2006.05.07

カティ・サークと新鋭海運国

日本とのポルトガルの関係はとても古く長い歴史があります。
日本とヨーロッパの関係が黎明期の1584年に実は「天正遺欧少年使節団」がリスボン港に着いていました。 特に日本との関係が活発になるのは、やはり「1543年」にポルトガル人三人を乗せた明国船が種子島に漂着したことでしょう。以前ブログに「ねじとグローバリゼーション」というテーマで話しました。そして、「ポルトガル船」が平戸に初入港したのは1550年のことです。
鉄砲のグローバリゼーションがその後の国内の「戦さ」の仕方に影響与えた事も「哀愁の若狭」でブログしました。

僕らは地球を含めて「九つの惑星」が太陽を中心に廻っている事を知っています。
しかし、古代人は「五惑星とか七惑星」としか知らぬままに「占星術」や「陰陽五行説」を考え出しました。今では辻褄が合いませんが。
五惑星を発見したカルデア人たちの知識はご存知のギリシャの天文学者プトレマイオスによって15世紀後半までヨーロッパ全域に「天動説」として君臨する事になります。
そして、16世紀になってやっとポーランドの天文学者コペルニクスによって地動説が発表され、宇宙の中心と考えられていた地球は実は太陽の一惑星に過ぎないことを提唱します。それまでの天文学や神学を支えてきた基盤が根本から崩れる大事件でした。特に聖書の解釈を天動説とした教会とガリレオの長期にわたる確執のあった有名なテーマでもありました。

当時のバビロニア人たちは「地球が宇宙の中心」に静止していると考えました。太陽など七つの惑星が地球をの周りを廻り、
そして、それらの惑星が一日の時間を管理する支配惑星という概念から、
一日一つずつ順次惑星が交代すると考え、その一周が七日かかるとしました。バビロニアで生まれた一週間・七日と言うのはこのことを指すようです。なんと紀元前10世紀以上の前の話です。


〔カティ・サークの船首付近〕

>>続きを読む

カティ・サーク

2006.05.06

カティ・サークとお茶

「我々の日常飲む水は冷たく澄んだものを好む。日本人の飲むものは熱くなければならないし、その後竹の刷毛で叩いて茶を入れる事が必要とされている。」
1562年にイエズス会の伝教師として来日したポルトガル人ルイス・フロスは『日欧文化比較』という当時としてはユニークな文明評論を書いています。フロスはここで「お茶」を紹介しています。
また、
1560年にポルトガル人宣教師として始めて中国を訪れたダークルスが「中国では高貴な人の家に訪問客があれば『チャ』と言う一種の飲み物(中略)それは苦味があり、紅色でくすりになる飲料を出す」と述べているそうです。

ヨーロッパに最初にお茶を紹介したのはポルトガル人であると言われています。僕らに馴染み深い「シルクロード」は最も古い古代の通商ルートですが、そこには「お茶」の痕跡は無いそうです。9世紀にはアラビア人商人は茶に注目していた様ですが、取引をした形跡はやはり無いそうです。また、13世紀のマルコ・ポーロの「東方見聞録」にも茶に関する記述は無いそうです。

ヨーロッパ人は「お茶」を中国によって知りましたが、しかし中国のお茶が彼らに与えた文化的な刺激は日本のお茶ほど強烈では無かったと言われています。それはルイス・フロスの『日欧文化比較』の中で彼自身が語っています。
彼が見た日本と欧州の文化の違いで特に「我々は宝石や金、銀を宝物とする。日本人は古い釜や古いひび割れた陶器、土製の器等を宝物とする」いう一節です。
これは彼が既に「茶の湯」を知り、それをヨーロッパに伝えた事が上げられます。


〔カティ・サークの船内〕
当時はここにお茶やウールがぎっちりと詰まってました。
カティ・サークが現役の頃、お茶の積み出しは中国の広東・黄埔(ワンポー)・マカオの三港でしたが、その後上海と福州が加えられました。この「福州」こそがカティ・サーク達が活躍する歴史的な「クリッパー・レース」の開催地です。その理由はこの福州がお茶を摘み取るのに最も適した場所にあったとされています。
お茶の出来る時期は4月と6月でしたが、特に最初に積み出される新茶はロンドンで高額取引の対象でした。

>>続きを読む

カティ・サーク

2006.05.05

水平線の彼方へ

地表の七割を占める「海の世界」の開拓は当然ながら陸地との深い絆をゆくっりと手繰りながら進んでいくようなものです。よちよち赤ちゃんが壁伝いに歩くような覚束ない足取りそのものです。
かって「七つの海」は地中海、黒海、アドリア海、カスピ海、紅海、ペルシャ湾、インド洋の一部でした。僕らが現代認識している「大西洋や太平洋や南極そして北極」などは想像すらしていない世界です。

船乗り達が目標を持たずに水平線を越えるには「勇気と経験」の積み重ねが必要であり、そこには到底計り知れない苦難があった事と思います。
そして長く世代を超えた試行錯誤の積み重ねによって「一定の仮説」が出来上がっていく事になりました。
潮流や風向きの連鎖の記憶を古い船乗りから新しい船乗りへ延々と引き継がれ、そして徐々に航路も確定していきます。
島々の分布、目印になる地形等々多くの情報が組み合わされ、より海域の世界が広がっていきました。
航海術とは基本的に「船を地球上のある地点から目的とするある地点へ、安全かつ能率的に航行させる」技術です。そこにはまず自船の位置を知らなければなりません。
そして、次に目的地の地点へ効率的な幾何学的「移動」の方法を求める必要があります。
極端に言えば、
自船の位置と言う「」を求め、
目的とする地点へ到達するめたの「」を求める事、
これが航海術の根本となります。


〔カティ・サークの船首付近・一部フィギアヘッドが見える〕

1859年の着工から10年を費やし1869年11月17日スエズ運河が開通しました。カティ・サークはその六日後の11月22日の月曜日の午後進水しました。既に世の中は汽船を中心とした輸送手段へ変改しようとしている矢先でした。カティ・サークの進水は「時代錯誤」と陰で皮肉られる出来事でした。
この運河の開通により、アジアからアフリカ大陸の喜望峰を周回する必要がなくなり一挙に5000海里も短縮されました。その上、スエズ運河を通れるのは汽船に限られていました。
ついでに、
スエズ運河の開通後は当初フランスとエジプトの共同所有とされていましたが、対外債務を抱えたエジプトは運河管理会社の株式をイギリスに売り渡すことを余儀なくされ、1882年には運河を保護することを理由にイギリス軍の駐留が始まりました。その後実質的にイギリスがスエズ運河を支配することになりました。そして、1967年の第3次中東戦争以後、スエズ運河は長い間閉鎖され、再開されたのは1975年6月のことです。

>>続きを読む

カティ・サーク

2006.05.03

帆船は人間の創造物の中で最も美しいもの、偉大な傑作のひとつ

レ・ミゼラブル」「ノートルダムの鐘」で有名なビクトル・ユーゴーは仏国で著名な小説家であり詩人であり国民的に人気の高い政治家でもありました。彼は著書の中で「帆船は人間の創造物の中で最も美しいもの、偉大な傑作のひとつ」と賞賛し、帆船の活躍と海の情景を巧みに描き、彼自身の海への憧れを描写していると言われています。ユーゴーは三男ですが、彼の父は熱烈な共和党員でナポレオン1世時代には軍の将軍だった様です。父の意思により軍人を志しましたが20代で断念し以後、文学に打ち込んだ様です。冒頭の帆船への憧れは感情の豊かさを持つ詩人的な感性と軍人の初等教育で訓練された機能としての帆船を描写したのでしょうか。


〔米国の代表的なクリッパー:フライング・クラウド 〕
1851年に米国船主がティ・クリッパー・レースに深入りしなかったのは当時米国で起きたゴールド・ラッシュでの旅客運送の方が安全で且つ高収益であるとの見方が一般的です。この船は長さが72㍍、幅12.5㍍で金メッキした壁柱とマホガニーで出来た腰板等、貨物船にしては豪華な客室を備えていました。豪華さもさることながら「疾走する雲〔フライング・クラウド〕」の名の通り俊足でした。処女航海のNY→SFO間を89日間という驚異的な記録を持ちその後その記録を破られる事はありませんでした。この航海で毎日平均222海里を保持し、最大24時間で374海里を作り上げました。カティ・サークの約二倍の1782㌧の大きさです。別名「白い翼」とも呼びました。

フライング・クラウドが活躍したのはカティ・サークが進水する約20年前の出来事です。

>>続きを読む

オペレーション・セール

2006.04.29

日本のオペレーション・セール

長崎とオランダとの「交流400周年」を記念して2000年に始まった「長崎帆船まつり」は今回で7回目だそうです。開催中、日本丸や海王丸、ロシアのナジェジュダなどの帆船が長崎港に入港しその美しい姿を観客に披露しているようです。

米国の建国200年祭は「1976年7月4日」でした。この時世界的に最大級の大帆船パレードがありました。「オペレーション・セール'76」〔通称 OP SAIL'76〕です。
参加国はアルゼンチン・カナダ・チリ・コロンビア・デンマーク・西独〔当時〕・イタリア・ノルウエー・オランダ・ポーランド・ポルトガル・スペイン・ソ連と日本です。勿論米国は開催国として参加しています。

そして、「日本のオペレーション・セール」ですが、1983年10月23日に「大阪築城400年祭記念」のイベントとして過去国内最大規模のオペレーション・セールである大帆船パレードがありました。この日、「大阪南港岸和田沖から大阪港」までを日本全国から集まった数百隻のヨットと帆船群が帆走パレードを行いました。

交流400周年という「オランダと日本とは」どの様な歴史があるのでしょうか?

世界史の中に「日本」という国が取り込まれた発端はマルコ・ポーロの「東方見聞録」と言われています。彼は一度も「日本」という国を見ぬまま、平泉や佐渡に代表される金山のうわさを信じて「黄金の国・ジパンク゛」を描いたきらいがあります。

マルコの東方見聞録出版以前に鎌倉時代の「北条執権時代」に二度の「元寇」がありました。1274年(文永11)10月の「文永の役」と1281年(弘安4)夏の「弘安の役」です。中学の歴史でみなさん習いました。
マルコ・ポーロはヴェネツッア人です。
塩野七生女史が描く「海の都の物語・ヴェネツッア共和国」の初期の頃に彼は生まれています。
マルコは1270年に故郷のヴェネツッアを父や叔父と共に殆ど陸路を三年半かけて上都開平府〔現在の内モンゴル〕に着きます。そこにはかのフビライ・ハーンがいました。
ヴェネツッア人はヴェネツッア商人であり、海の都を千年亘って生き抜いた民族です。高度な造船技術を持つ交易の民が陸路というのが不思議でなりません。勿論スエズ運河も無いし、海のシルクロードも未だ整備されていなかったせいでしょうか。

彼がフビライに合った年に900隻の船団と船員を含めて三万人を動員した最初の元寇〔つまり文永の役〕を発します。と同時に大都〔現在の北京〕が完成した年でもありました。
30年後、東方見聞録を書き綴るときに、彼はこの元寇での出来事をつぶさに思い起こした事でしょう。
なぜ、大ハーンが日本を征服したかったかを。

国際感覚とビジネス感覚に鋭いマルコをフビライは寵愛した様です。その結果、帰国の願いを何度も退けられ結局故郷に戻ったのは実に25年ぶりだったそうです。
そして冒頭の「東方見聞録」を1299年〔正安元年〕に出版しました。

>>続きを読む

カティ・サーク

2006.04.24

カティ・サークの名前の由来

アメリカス・カップ」ほどあらゆるスポーツ競技の中で人間の知恵と技術を自然条件の中に対応させてることを競うものは他にないと言われています。米国が鎖国の日本にペリー提督を乗せた東洋艦隊を1851年に差し向けたその年にニューヨークから英国に渡った一隻のヨット「アメリカ号」が一個の銀製のトロフィーを獲得しました。
この一隻のヨットの勝利から始まったこのレースは150年以上、「国家の威信」をかけたプレステージを誇る伝統へと進化させて来ました。
性能の良い「」を創り出すことは、
そこに生きる社会が「文化・経済・情報・交流・交易」などを通じてより良く発展するための重要な基礎的条件であると言うことを古くから古人は知っていたと思われます。
風を受けて走行する帆船造りにおいて「早い船を作りたい」という一心から芸術的な設計と評価される帆船が造られるようになりました。

その帆船が「カティ・サーク」に代表される数隻のクリッパー・シップです。
帆船の歴史は一説には6000年程度あると言われています。
この長い歴史の中でクリッパー・シップと呼ばれる帆船が人々に注目され、熱狂的なレースを展開したのは1850年位から1890年前後の短い間の事でした。特に日本人は三百年間続いた徳川幕府の鎖国政策によって100トンにも満たない和船からいきなり冒頭のペリー提督により黒船による「汽船」の洗礼を受けてしまいました。米国やヨーロッパのような「帆船」の生い立ちから完成までを経験していないのです。
その意味では米国人や英国人の様な国威としての「アメリカス・カップ」を捕らえられないでいる国民であるかもしれません。
ともあれ「カティ・サーク」に代表されてる高速帆船の魂は「アメリカス・カップ」に引き継がれています。

〔カティ・サークの舵輪〕

>>続きを読む

「貴婦人」と「海難」

2006.01.31

懐かしの知人と再会

先週の27日に広島在住の懐かしい知人と再会し食事をしました。広島での生活はすでに二年を超えていますがとても楽しんでいるように見受けられます。週末は元々好きな釣りを楽しんでいるようです。先週の週末には「真鯛」を吊り上げ、生きのいい「真鯛のお刺身」を食したそうです。
自分で吊り上げ、自分で食すとは、なんとうらやましいことでしょう。それも真鯛です。
また、最近良く釣るのは「めばる」だそうです。めばると言えば「煮付け」が堪らない美味しさです。こうなったら近々広島に寄ろうと思っています。

彼が広島から東京に上京すると入れ違いに広島港に「貴婦人・海王丸」が寄港しています。
28日のことです。航海訓練所(横浜市)所属の練習帆船「海王丸(2,556トン)」が広島港に入港し、学生達の手により全装帆〔三十六枚のセール〕が披露されました。見学客へのサービスですね。「海の貴婦人・海王丸」を見ようと沢山のファミリーが押しかけ、一万人以上集まったようです。

>>続きを読む

海洋丸 再び就役!!

2006.01.09

海王丸がしばしの入院治療から復帰して再就役しました。
お疲れ様でした。


帆船時代の海洋冒険小説ではC・S・フォレスターの「ホーンブロワー・シリーズ」がとても有名で数年前日本でも深夜TV放映をしていました。この業界で知人になった企画専門の先輩は東京湾で小型ヨットを楽しんでいます。その様な知人を数人知っています。

ジャック・オーブリーを演じるラッセル・クローの「マスター・アンド・コマンダー」を以前ブロク゛しましたが、つい先日このDVDがツタヤで特売1000円で売っており、迷わず購入してしまいました。以来数回もこの映画を見ています。この映画の題材は1812年から始まった第二次英米戦争をテーマにしていると言われていますが、題名の「マスター・アンド・コマンダー」という職位が良く判りませんね。
「マスター・アンド・コマンダー」は海尉艦長〔コマンダー〕と航海長〔マスター〕を兼ねるという意味ですが近代の職制しか知らない僕には19世紀初頭の英国海軍の呼び名を勉強した記憶はありません。ただ、航海長兼海尉艦長は小型フリゲート艦で艦長が航海長を兼ねるときに使用するものと察しがつきます。映画の中でも彼は「SaleMaster!!〔航海長〕」と部下を呼んでいるシーンがある筈です。
航海長の職位は副長、海尉の次の職位となります。
なので、オーブリー船長の立場は大型帆船でそれも海兵隊が乗り込んでいる正規軍艦で女王陛下から任命されている職位と考えると「勅任艦長〔ポスト・キャプテン〕」が正規職位と思われます。この身分は国王陛下から授けられた終身身分だそうです。

昨年の台風で富山港の碇地から座礁・損傷した海王丸〔独立行政法人・航海訓練所の練習用帆船(2,255トン)〕がお正月、修理を終えて再び就役しました。5日午後には海上技術学校生97人による乗船式があり、そのニュースが報道されました。その後出港準備を行い、10日に横浜を出港して、26日には広島港に入港する予定だそうです。〔ニュース

>>続きを読む

海王丸海難審判が結審

2005.11.29

震度5強でマンション倒壊の危険

1995年1月17日火曜日,午前5時46分に起きた「阪神・淡路大震災」の震度は5~7でした。記憶に新たな「新潟県中越大震災」〔2004年10月23日17時56分〕の震度はやはり5~7でした。

国土交通省のトップページには今回の「構造計算書偽造問題対策連絡協議会の議事概要」〔姉歯一級建築士と一連の騒動〕が連日アップテートされています。
行政」と「建築設計士」と「建築確認民間委託会社」「ゼネコン」「販売会社」の5者を巻き込んだ大問題に発展しました。現在もその範囲は拡大中です。そして国内に住む全ての「マンション・オーナー」や「ホテル・オーナー」は戦々恐々です。国会で取り上げなければならないほどの社会問題に発展することは必定となるでしょう。
歴史に残る大事件に変貌してしまいました。この一連のリストにあるマンションを購入した方は気の毒ということり他はありません。何れ何らかの国家レベルの救済処置が無ければ到底終息できそうに無いと思います。泣き寝入りはあまりにも酷すぎます。時間と共に究明されることを祈ります。
そしてこの事件の確信犯には厳しく社会的制裁を与えるべきと思います。

>>続きを読む

蜃気楼を見る!?

2005.11.20

以前に「三木谷さんは蜃気楼を見せられるか!?」というブログを書きました。その中で本物の蜃気楼のことを説明したのですが、特にイタリアの「メッシーナ海峡」と日本海の「富山湾」が昔から有名ですが、なんと最近「函館」にも蜃気楼が現れたそうです。

以下ニュースの抜粋を載せます。(2005/11/17 14:38)
ゆらめく船影 函館沖に蜃気楼が出現

函館沖の津軽海峡に蜃気楼(しんきろう)が現れているのが、十六日、函館市日乃出町の海岸から確認された。 正午ごろ、水平線上にクレーン船のような小さな船影が浮かび上がり、静かにゆらめく姿が見られた。 蜃気楼は大気の下層に急激な温度差などによる密度の差があるとき、光が異常屈折して、遠くの物体が近くに見えたり、浮き上がって見えたりする現象。函館海洋気象台は「海面近くの冷え込んだ空気の上に、陸から暖かい空気が流れ込んだためではないか」と推測している。(杉山育子)

>>続きを読む

東大生と船大工

2005.11.03

東大生と船大工」の組み合わせは不思議という他無い。

和船は子供の頃良く遊んだ。
いわゆる「一丁櫓の伝馬船」(いっちょうろのてんません)です。山も川も海もその全てが遊び場でした。夏の山はバケツ一杯のカブトムシやクワカダを採りました。夏の早朝ずっと昔から申し送りのカブトムシが好きな木がある場所へむかいます。10箇所以上の特別な場所がありました。海はというと、海水浴と磯物〔貝やカニ〕と伝馬船遊びです。当時、初めて櫓を漕ぐのは普通小学校の低学年で中学生の悪ガキ先輩と一緒に乗り込みます。最初は漕いでも漕いでも右廻り〔右利きはどうしても引きが強いので〕に回転するだけですが、一時間位するとなんとか直進できるようになります。しかし、子供には櫓は長く重く、背が低いため櫂が十分に水中に達しないためスピードはゆっくりとなります。また、すぐに支柱の杭から離脱して、櫓を海中に持っていかれそうになります。櫓を落とすと港の中で立ち往生と言うことになり、ちょっと大変です。でも、一人で櫓を漕いで伝馬船が真っ直ぐに走ると爽快な気分になります。今でも鮮明に覚えています。

今では「一丁櫓の伝馬船」(いっちょうろのてんません)」は少なく、あってもその殆どは耐久性と価格の点でFRP製になります。和船の従来の「木」で製作する船大工も殆ど廃業していますし、材料も高価ですので中々見かけません。
しかし東大の三崎臨海実験所が一隻の伝馬船を発注した事が話題になりました。そもそも東大生と伝馬船はピンと来ませんよね。

>>続きを読む

株式会社によるリスク分散

2005.11.02

株式会社によるリスク分散

十七世紀当時のお茶の最大消費地区であるヨーロッパへの帆船による輸送は一大プロジェクトでした。
帆船の建造には2-3年要しますし、膨大な資金が必要です。また、ある程度の大型船を造船できる造船所も限られていました。
その上経験豊かな船長と航海士達と多くの熟練な船員が必要となります。そして嵐による沈没も当然のごとく予想しなくてはなりません。

その意味でも「イギリス東インド会社」は今で言う株式会社に近いやり方でリスクの分散と管理的なスキームを形成していたのだと思われます。
さて、
ヨーロッパへのお茶輸送はお茶の摘み取りができる「四月と六月」に決まっていました。
ティー・クリッパーの全盛時期、中国からロンドンまでの最短レコードは
・福州から89日間
・上海から90日間
・マカオからは89日間
・広東からは99日間
という今現在の高度なコンピュータで設計した外洋ヨットと電子機器搭載のハイテク航法を考えても驚異的な記録が残っています。
お茶の生産時期の六月はちょうど南シナ海は南西のモンスーン(季節風)が相当強く吹きます。実はこれが相当厄介です。現代でも状況は変りませんので、たぶん福州のバゴダ泊地から出航した当時のクリッパーはこの南西季節風に捕まりその俊足にブレーキが掛かった事でしょう。
気象.gif
〔南西のモンスーンはちょいと厄介〕

>>続きを読む

アフリカ大陸の岬

2005.08.15

今日が海峡・岬編の最後です。最後にふさわしくテーマは「喜望峰」です。
喜望峰は南アフリカ共和国にある岬の名前です。一般的にはアフリカ大陸南端と殆どの人が思っています。実際には東南東へ約150km離れている所にさらに岬があります。アガラス岬です。ここが、「アフリカ大陸南端」(南緯34度50分、東経20度00分)となります。この岬より喜望峰があまりにも有名なので忘れがちな存在です。1488年にポルトガル人の「バルトロメウ・ディアス」が発見しています。「嵐の岬」と命名しました。後にポルトガル王が「希望の岬」と名づけています。ですので、「喜望峰」と「希望の岬」は別物です。1652年オランダ東インド会社が植民を行い、のちのケープタウンの原型を開拓しました。
ひとつ寄り道へ。
脱獄絶対不可能と言われたサンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラズ刑務所をテーマにしたクリント・イーストウッド主演の映画がありましたね。実話を基に、そこから奇跡の脱出を果たした男たちの姿を描いたサスペンス映画でしたが、ケープタウンから約12キロメートルの沖合いロベン島も島の大部分は刑務所として使われたていました。当時のロベン島に収監された囚人はオランダの植民地の人々や南アフリカ出身者、インドネシア出身者もいたらしいです。また、日本と違い1836年から1931年まで、ハンセン病患者を隔離(島に隔離するなんてすごい。それも地の果てに)するためにも使われました。その後、20世紀の後半、島は政治犯収容所として使われ、ネルソン・マンデラウォルター・シスールロバート・ソブクウェ等が収監されたとの事。1999年、ユネスコの世界遺産に登録されています。

>>続きを読む

南アメリカ大陸の海峡

2005.08.14

昨日はアジアの海峡でした。今日は地中海の入り口にあるジブラルタル海峡二つの大陸の端っこにある海峡がテーマです。
最初は「ジブラルタル海峡」です。この海峡は、ヨーロッパのイベリア半島とアフリカの北端を隔てる海峡です。この海峡によって「大西洋と地中海」を分けています。水深は286m、海峡の幅は14km~44kmです。地中海の位置づけからイメージすると古来から戦略的に重要な位置づけにあることは想像できます。まだまだローマが小国家の頃、既にカルタゴは大国で現在のスペイン南部とアフリカの地中海沿岸部を網羅するほどの独立国家でした。そのとき地中海の出入り口であるジブラルタルはとても重要な海峡でした。話は紀元前300-200年ごろの話です。この後第二次ポエニ戦役があり、ハンニバルの父が南スペインで活躍し、ハンニバル自身は第三次ポエニ戦役まで長い長い戦役が続きます。この話は長いので別なテーマで。この海峡を昼間航行すると、イベリア半島の南端にあるスペイン領のアルヘシラスという町とアフリカの間はわずか14km位ですので、船橋の倍率の高い双眼鏡からはよく見えます。イベリア半島側にあるジブラルタルの岩山と北アフリカ側のスペイン領セウタにあるアビラ山の二つをヘラクレスの柱と呼ぶそうです。
次に「マゼラン海峡」です。南アメリカ大陸の南端とフエゴ島との間の海峡です。太平洋と大西洋の二大海洋を結ぶ海峡となります。1520年、フェルディナンド・マゼランが通過し命名しました。航海の難所として有名です。年間を通じて時化の常用海峡です。帆船時代にとても通過すること自体大変なことでした。
正式名称はマガリャネス海峡と言いそうです。この名前はあまり知られていません。日本では「マゼラン海峡」が海図上でも常識になっています。1914年のパナマ運河開通までは、太平洋と大西洋間の唯一の安全な航路でした。多くの船がこの海峡を通りました。現在商船でこの海峡を通ることは特別な行為以外全く無いと思われます。

>>続きを読む

アジアの海峡

2005.08.13

二つの世界を結ぶ運河」の話の後は「海峡と岬」の話です。特に今日はアジアの海峡に触れてみたいと思います。海峡といえば82年に公開された東宝の映画の「海峡が印象的でした。当時まだJRを国鉄と言っていた頃、社内の革新的な技術集団が「青函トンネル構想」の予備調査を昭和32年頃から開始しました。世界に類を見ない大工事です。特にこの頃、青函連絡船・洞爺丸等の海難事故が発生しました。この沈没により多く犠牲者を出しました。この事故を契機に、トンネルの信憑性が高まり、昭和39年に「青函トンネプロジェクト」のGOサインが出たのです。映画では、阿久津技師扮する高倉健とベテランのトンネル掘りの男たちが竜飛岬に集まる。そして岩盤と水との闘いが始る。開業が昭和63年という約四半世紀にわたる大プロジェクトをやり遂げる感動の映画です。プロジェクトXにも出ましたね。そういえば吉永小百合がとっても綺麗だったなぁ。

>>続きを読む

パナマ運河と地球温暖化

2005.08.12

問題は24㌢の落差です。
昨日スエズ運河のブログを書きました。今日はパナマ運河です。スエズ運河の開通から遅れる事、約50年、資金的障害、工事工法等の難度の高い障壁、政治的等々の多くの障害を越え1914年8月15日に開通しました。この運河開通によって例えば東海岸の米国エリアから日本へ東廻りで向かうとき約3,000マイルの短縮航海となる。またエクアドルからヨーロッパへバナナ・ボートが向かうとき、約5,000マイルの儲けとなる。パナマ運河はスエズ運河の様に出口と入り口の海面差はありませんが、パナマ運河は太平洋側のほうが大西洋側より海面が24l㌢高くなっています。運河の上下の交換地点として人口の湖を造成し、その豊富な降水量を利用し、標高の高い部分を船の水位を上げて通過させるためにドック(閘門(こうもん))を採用しています。パナマ運河の大西洋側からアプローチする場合は、カリブ海からターミナル港→ガッツン・ドック→ガッツン湖→ゲイラード・カット(渓谷)→ペデロ・ミゲル・ドック→ミラ・フローレス湖→ミラ・フローレス・ドック→太平洋側ターミナル港となります。ドック(閘門)のサイズにより、パナマ運河を通過する船舶のサイズは、船幅で32.3㍍以下、水深で12㍍以下に制限されています。パナマ運河を通過できる船の最大のサイズを「パナマックスサイズ」と呼んでいます。特に第一次大戦後軍艦を縮小する軍縮会議をやりましたが、一番大きな旗艦をパナマックスサイズを前提とした事は有名ですね。現在のパナマ運河はパナマ共和国が管轄していますが、ドック式による船の幅と水深の限界や大型船舶の通過を可能とするため、2010年を目指して第2パナマ運河の建設が計画されています。

>>続きを読む

スエズ運河とCatty Sark

2005.08.11

前回羅針盤」と「六分儀の話題を出しました。
このブログ自身のメイン・タイトルでもある「Catty Sark」に行くのに中々辿り着けません。いろいろ道草をしてしまいます。たどり着く為には周辺のいろいろな情報を拾っていかないと情報不足になります。「羅針盤」と「六分儀」もそうですし、お茶とコーヒーの話もそうです。そうそう、中世の帆船の話や著名な探検家の人生も。例えば、灯台のことも。世界でいちばん古い灯台があります。それは紀元前279年エジプトのアレキサンドリア港の入ロ、 ファロス島に建てられた「ファロス灯台」がそれです。最近、海中から灯台の一部が発見されて話題になりました。アレキサンドリア港に寄港したことがありますが、ファロス島には行っていません。世界の七不思議の一つに挙げられる「ファロスの灯台」は、大地震により倒壊してしまい、今ではその姿を見ることはできません。1995年に行われた調査で発見された数々の彫像や石材は、ファロスの灯台の一部であると言われています。また、著名な1477年に建設された「カイト・ベイの要塞」は、このファロスの灯台跡に建てられています。この灯台は、完成までに20年かかり、高さが135メートルもあったといいます。その時代にそんな高度な技術があったのかと不思議ですが、 実際に1477年まで存在していた様です。勿論現役で使われていたらしい。すると、ざっと1700年以上使われていたことになります。なので「世界の七不思議の一つ」なんですね。このアレキサンドリアは地中海性気候でとてもいいところです。
因みに、日本の古代の灯台は、遣唐使の時代といわれています。遣唐使船に多くの高級官僚や随行員及び水夫たちが乗り込み、何度と無く遭難が発生し、多くの人命が失われたのを救うために、遣唐使船の帰り道にあたる九州地方の岬や島で、「昼は煙をあげ、 夜は火をもやして船の目じるし」にしたのが最初の様です。 これが日本での灯台の始めといわれています。

>>続きを読む

船を貸してほしい

2005.07.18

『たった一枚の写真で人生が変わる!!??』その出来事は中学一年の夏休み。
そのセピア色の写真は衝撃的である。写真の背景はピラミッドのスフィンクス。この建築物を背景に少なくとも50名以上の異様な風体の男たちが思い思いのポーズで納まっている。アンバランスでもあり、妙に印象的でもある。この男たちは幕末を生き抜いて来た武士集団である。半数がチョンマゲだ。後々調べてそれが明治四年に横浜を出航した岩倉具視使節団であることが判りました。百年以上前の出来ことでした。結局この写真がキッカケで、その後暇さえあれば図書館に行き月に100冊以上読む読書家(?!)に変身した。
「船を貸してほしい」
使節団ツアー・コンダクターの能士・大隈重信は当時政府顧問であったギード・フルヘッギ(オランダ系米国人)に相談し、渡米のための船として英国および米国政府に申し入れをします。企画は米欧14ヶ国訪問、期間は10ヶ月の予定。実際には米国に200日、英国に120日、途中条約改定で失敗と大金をだまされ、世界を一周して帰国し時には、632日間を費やしていました。このことが、「快挙か暴挙か」はいずれ。

>>続きを読む

翼よ!あれが巴里の灯だ。

2005.07.18

『翼よ!あれが巴里の灯だ。』チャールズ・リンドバーグはニューヨークのルーズベルト空港からパリのル・プールジェ空港まで、途中ドライブ・インにも寄らず、5,810kmを長期距離トラックの運ちゃんの様に「睡魔と闘い」ながら33時間30分飛び続け、単発飛行機で大西洋横断を成功させます。1927年の事でした。彼は、強靭な意志と肉体と「志」を持って航空機時代を現実のものとし、飛行機によって未来を変えるキッカケを与えて呉れました。
歴史は時々この様な飛躍的な行動を起こす人を生み出します。

それが飛行機でなく船であれば「君よ!あれが犬吠崎灯台の灯だ。(船は女性名詞です)」と言う事になります。前回羅針盤」と「六分儀の話題を出しました。羅針盤は紀元前の中国で開発されましたが、「北」という方向を指せてもやはり眼で見る「岬とか島と浅瀬」とかの「目印」が必要です。日本の江戸時代に盛んに行われた近海航路の夜間の目印が「北極星」であった様に。近代は北極星から灯台に変わりました。日本の灯台の近代化は明治元年から飛躍的に改善され、その後の海運国日本の成長のために、非常に重要な役割を果たしました。灯台の機能は、「光」と「音」と最近では「電波」によってその位置を知らせています。灯台「専門的には航路標識」は海上保安庁が所管していますが、光によって位置を確認できる灯台とそれ以外で目印になる陸票や浮票をあわせ、ざっくり日本全国に5200基程度あり、管理・保守されています。

数ヶ月間の航海を終え太平洋から横浜にアプローチする時は最初に犬吠崎灯台を捕らえることができます。「帰ってきた」という実感を得られるふるさとの温かみを感じる光源です。
その後、勝浦灯台鴨川灯台を経て、東京湾へ。野島埼灯台洲埼灯台第2海堡灯台を過ぎると難所の「浦賀水道」に入っていきます。(専用サイト「日本の灯台」は各地の灯台を走破しつつその数には圧巻です。写真がとても美しい)


海運国日本になる以前の明治元年のころ、明治新政府は洋式灯台建設を開始し、灯台位置の測量、資材の運搬、保守管理に使用する浚渫船が必要でした。いわゆる灯台船です。当初は海外から中古船を購入してこれを当てていました。その後灯台の数が増加するに従い、新鋭船が必要となり英国に発注することになりました。それが「明治丸」です。

>>続きを読む

Copyright(c) BrainSellers.com Corp. All rights reserved.