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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

先行投資

2007.12.28

先行投資には、仮説思考が必要です。
もちろん、そこには市場の魅力が前提ですね。

仮説思考とは、「何か物事に取り組む際に、その時点で考えられる仮の結論を置いて考える思考法」のことです。一定の事実を積み重ねて、全体像を捉えて思考する方法でなく、先に可能性を示す「仮説」を立てる事を常とします。
その仮説を検証することからスタートする思考法のことですが、やり方は仮説を立証する為に何をすればいいかを外部環境から情報を集めてひとつひとつ検証し、立証する作業を最初に行います。仮に、出来ないようであればさらに「仮説を立て直す」というサイクルを繰り返し、真の、または真に近い「仮説」を実証し、設定を行うことになります。

セウタの攻略後、その収入よりも多くの維持費が王の財政を圧迫しています。
また、北アフリカでの戦いの費用は当然のことながら国家予算で組まれています。
しかし、
エンリケ航海王子が王から独占権を得たボジャードール岬以南の発見の航海費用や交易所の建設等、その他総ての探検開発費用は彼の収入によるものです。

現在の「市場の魅力」は、
目指す市場の絶対的な規模や可能性、その市場内での競争上の構造と市場の成長率です。特に気にするのは、規模、成長率、競合ですね。さらに当然のことながら経済、技術、社会、政治、環境など、広範囲の直接的にも間接的にも外部環境の影響を受けることになります。
彼が生涯に亘って推進した探検航海の費用は王室からは一切支出されることはありません。
エンリケは探検航海の他に、イスラム教徒との戦いや海外の教会建立などの費用は、彼自身の所領とキリスト教団から得たものです。

さて、
エンリケの事業経営に関する仮説はどのようなものだったのでしょう。
探検航海の投資は想像以上に莫大です。
現在の宇宙開発事業の様なものです。国家レベルの事業です。
彼は、
そこに市場の魅力は十分にあったのと仮説を持っていたのでしょうか?
セウタの攻略から探検航海に目を向けて以来、所領等の事業経営収入の利益のほとんどを「発見の航海に投入」しています。

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発見への投資

2007.12.20

1445年に「アルヴァロ・アェルナンデス」は念願のヴェルデ岬を越え、緑の椰子の樹木が生い茂るギニアに至りました。

ヴェルデ岬(北緯14°)」と言うのは、
アフリカ大陸最西端ある、現在はセネガル領内にあるの岬のことです。首都ダカールの市街地からすぐ西あり、目の前は大西洋です。沖にはベルデ岬諸島が点在する美しい岬です。アルヴァロ・フェルナンデスはエンリケ航海王子の命で、叔父の探検家ジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコに与えられたカラヴェラ船で探検航海し、ヴェルデ岬をまわって、 ダカールとガンビア河にはさまれたマスト岬に到達しています。そこはヴェルデ岬の約800km南の「シエラ・レオネ」(現在のシエラレオネ共和国)と呼ばれている場所です。
1447年、彼はヨーロッパ人として始めてシエラ・レオネに上陸しています。ちなみに、現在のシエラレオネ共和国は、長い内戦により、世界で有数の平均寿命が短い国のひとつとなっています。つい50年前に英国より独立しました。

エンリケ航海王子の生まれは1394年ですので、ヴェルデ岬越えは51歳の時ということになります。彼に残された時間はそう多くはありません。
ここまで来るまでにとても長った。
彼の父王と一緒に三年もかかった「セウタの攻略」が1415年の出来事です。
この攻略後の秋から継続的に探検事業に投資します。
実は、
ヴェルデ岬の少し手前にもう一つ越えなければならないの岬があります。
それが、「ボジャドール岬(北緯27°)」です。マディラ諸島やカナリア諸島の発見は探検航海の必然性で得た発見ですが、このボジャドール岬越えは「命を掛けた強い意思」がなければ、超えることは出ませんでした。
また、
カナリア諸島は古代ローマ時代よりアフリカに西海岸から100㌔沖合いに島の存在を当時の航海者たちは既知の世界としていたようです。
しかしそれ以南の海域は未知の難所して恐れられボジャドール岬の手前のナン岬でさえ、「この岬を越えたものは二度と帰ることが出来ない」と言われていました。
エンリケは1422年から12年間、毎年巨額の資金を投じて探検航海の船団を送り出しましたが、あえて「ボジャドール岬を越えようとする航海者」は一人もいませんでした。

多分、エンリケは痺れを切らしたのでしょう。
直属の従士である「ジル・エアネス」に世の迷信に惑わされことなく岬を越えよと厳命します。主従関係にあるエアネスは成功せずに二度と主君の前に現れまいと決心し、そして彼は見事1434年に「ボジャドール岬」を越えることに成功します。

カンティン岬→ナン岬→ジュビー岬と制覇し、そして、ボジャドール岬まで来ました。
セウタの攻略から数えると既に19年の歳月が過ぎています。
当時の航海者にとって、
アフリカ大陸の最も西端にあたる「ヴェルデ岬」は何処まで行っても終わりの無い気の遠くなるような、恐ろしい岬ということになります。
冒頭の「アルヴァロ・フェルナンデス」の航海者としての意思の強さを理解できると思います。この発見航海はインド航路開発の中で特記すべき「偉業」といえます。

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投機性

2007.12.17

米農務省が今月7日に、「2007~08年度のコーヒー需給見通し」を発表しました。

注目のブラジル産生産高は、6月見通しの3,620万袋から3,760万袋まで140万袋上方修正されている様です。そう言えば、今年の秋に旱魃の影響で生産が大きく計画を下回るという発表を記憶しています。
ですが、この発表聞く限りではその懸念はなさそうですね。旱魃があったものの生育期の気象環境が良好だったことで、全体としては6月報告の内容を大きく修正る必要はないと判断された模様です。
業界予想として今後も大きな変化は無いようです。

さて、
CuttySarkの活躍の時代を語るとき「緑茶」や「紅茶」や「ウーロン茶」と並んで必ず「コーヒー」から話さなければなりません。なぜかというとヨーロッパや特に英国ではアルコール以外で流行したのは、紅茶よりもコーヒーだったからです。
コーヒーの起源を調べると、たどり着くところ総てイスラム圏の伝説です。イスラムの神秘主義の僧侶達(スーフィーと呼ばれた人たち)が好んで常用して飲み物ということになります。この「覚醒剤的作用」を持つ「健康的な」飲み物がイスラム世界に出現したのは、遠く15世紀後半で場所は南アラビアのアデンとのこと。
イスラムの中でも神秘主義のスーフィー達は「飲むと眠れない」コーヒーの力によって、コーランを読み、祈り続けたと言われています。一日中眠らずにコーランを読むことを好んだ、あるいは強いたことから、コーヒーは彼らの欠かせない要素となった様です。
南アラビアのアデンから、イエメンのスーフィー達によって16世紀初頭にはエジプトのカイロでコーヒーが飲まれる様になりました。
その後、ローマ帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ帝国の首都イスタンブールにコーヒーが現れるのは1554年です。これはかなり明確に知られた史実です。なぜかというとお店の開店の宣伝を打ったからです。店主は「ハクムとシャムス」という二人のシリア人によって二軒の「コーヒー・ハウス(コーヒーの家)」が生まれました。
それがオスマン・トルコ帝国スレイマン二世の治世下(1566-74)では600店舗あまりに増えたそうです。
イスラムの神秘主義のスーフィー達(非社交的)の間で飲まれたコーヒーはいつの間か飲む特別空間を作り上げ、「社交の場」を醸成することになります。
コーヒーの特殊性といわざる得ません。
この社交性を生むという特殊性は「英国」によって極端に花開きます。

古いコーヒーの呼び名に「アラビア・モカ」という呼び名があります。
アラビアで採れるコーヒーが、その積み出し港の「モカ」をとって名乗ったことは当然の成り行きでしょう。現在のイエメン共和国の港町でアラビア半島南西端に位置します。目の前は、「紅海」です。現在見る影もなく寂れています。

モカは17世紀中頃にはすでに年間八万袋(一袋60㌔)を出荷していたとあります。ただ、積み出し港はモカだけでなく、モカよりも多くの出荷を行っていた港もありながら、イエメンのコーヒーを代表することになったのは、やはりヨーロッパを中心とする世界観によるものでしょう。
特にモカは英国、オランダ、フランス、等のヨーロッパの主要国の船舶が直接寄港することを許され、買い付けを許可されていたからだという説があります。
船はモカ(イエメン)を出港し「ルージュ色の海」すなわち紅海を抜けてカイロの倉庫に入ります。紅海は「ルージュ色の海」と呼ばれ神秘的でヨーロッパ的には異国情緒がフンダンなイメージですが、この紅海の航海は甘くはありません。シャレではありません。
当時の造船技術と航海用具と技術を想像すれば、危険を伴う航海といえます。「ルージュ色の海」は、その艶やかな名称とは裏腹に、逆風、低流、浅瀬など多くの困難があります。紅海は難海域です。

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