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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

一期一会

2007.11.06

「能の上演は一日限りが原則です。」
晴天の日を選び三日間の祭礼に奉納する神事能や十五日間通して興行する形は、時の権力者の許可を得て能の各派が一世一代で行う勧進能という能で、とても異例なことです。

日本の古い時代に「文中(ぶんちゅう)」という元号がありました。
当時、南北朝時代でしたので、正確には南朝方で使われいたと言うべきでしょうか。
歴史は必然ですが、偶然に思えることが多々ありますね。
この文中という元号ですが、1372年から1374年までのわずか三年しかありません。
この文久の最後の年(三年)に芸能の世界に画期的な「一期一会」がありました。
この年の初夏に当時の最高権力者であった室町幕府将軍足利義満と今日まで脈々と生き続ける能の理論を完成させた世阿弥が出会います。

このとき義満公は18歳、世阿弥10歳の洟垂れ小僧でした。

実際には、
「大和結城座・結城三郎清次(後の観阿弥)」が世に出れるか否かの一世一代の能を足利将軍家に披露した日でした。場所は、洛中、今熊野権現社の神事能で祭礼は三日間行われました。初日は「翁(おきな)」の祝い能から始まり、脇能は「淡路」で、「松風・村雨」、「自然居士」と続き、切能は「融(とおる)」で終えたようです。
このとき世阿弥は、橋がかりから露払い役として一役買いました。

再び、
能の上演は一日限りが原則です。
能はその一番に精力を傾注するから、連日の上演は出来ないといいます。
また、一番の能の密度を高めるためには、上演までの長い時間の持続が必要だそうです。

ここまで来ると能の本質である「一回限り」という理念は、もう否定できないでしょうね。

精神的にも肉体的にも、さらに経済的にも一定レベルに達していないと、能を見るという「心の奢り」に耐え切れないかもしれない。らしい。
そこまでの境地を会得するには、能役者と緊張度を同体にまで高めないと得られないでしょう。
今日は都合が悪いから、明日という訳にもいかないので、選択の余地も閉ざされていることになります。
舞台の能役者の研ぎ澄ました緊張は伝播し、もちろん観客側にも増幅された緊張が発生し、そこに「一番の能」が完成されるのでしょう。

世阿弥は後年「秘すれば花」といい、同じ曲は五年か三年の間隔を置いて演ずるようにと、曲を「ねかす」ことによる新鮮さの回復を説いています。
すばらしい発想と思いませんか?

能役者は自己の生涯をキャバスに置き換え、常に一度限りの絵を描くことを宿命としている。
文字通り、「一期一会」の精神を一番の能に託すのですね。

茶道にも通じるこの「一期一会の精神」は、そのまま現代のビジネスシーンにもそのままの形で活用できそうです。

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