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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

ブルーリボン

2005.10.05

ブルーリボン賞!!」「赤目四十八瀧心中未遂」が2003年度の映画賞を総ナメ!
荒戸監督が、6年の歳月を費やして映画化した渾身の一作「赤目四十八瀧心中未遂」が2003年度の映画賞を席巻している。特に主演の寺島しのぶへの評価は凄まじく、東京国際映画祭、報知映画賞、ヨコハマ映画祭、日刊スポーツ映画大賞、キネマ旬報ベストテン、毎日映画コンクール、ブルーリボン賞と、現時点で7冠を総なめ!
 
ブルーリボンといって思い出すのは映画界の華やかなプレスリリースです。在京のスポーツ各誌の映画記者で構成する「東京映画記者会」の映画賞が発端だそうです。取材活動をする記者によって、「映画への姿勢」「人柄」なども考慮した選考がなされ、受賞者にはモンブランのペンと青いリボンで結んだ賞状が贈られる事から「ブルーリボン賞」と名付けられたということです。

しかしここでは主演男優賞や主演女優賞受賞者が受賞の為にステージに登場し、華麗にお辞儀をするという賞でなく、「船のスピード」にこだわる「非常に権威と格調の高い称号」に対するお話です。 
勿論その起源は古くこのブログのテーマ名でもある「カティ・サーク」で代表される古きよき時代の高速帆船「ティー・クリッパー・レース」に端を発しています。その後のレースの場所はお茶から羊毛に替わり「ウールクリッパー・レース」にその真髄が引き継がれます。そして今回のテーマである大西洋を高速で走るというブルーリボン〔Blue Riband〕に醸成されたのです。

さて、この物語はコーヒーからお話しは始まりました。
イギリスのクリッパー・シップをほぼ完璧の形にまで形成した一番の要因はイギリス人の紅茶好きの飲用習慣と言われいます。この要因の前段階として特記すべき点は「私掠船」による「奴隷貿易」です。私掠船には時の国王からの「私掠免許状」を与えられていました。いつか奴隷貿易の話も出でくると思いますが、今では想像も出来ないほどの悲惨な行為でした。それをしたのは当時の英国、オランダ、スペイン、最後に新興の米国等です。
当時のヨーロッパ貴族達の「お茶」の習慣化が帆船による高速船を生んだと云えます。
その習慣は十七世紀後半に始まった様ですが、そのきっかけは当時爆発的に流行した「コーヒーから紅茶」に移行したという説がもっとも有力です。1652年にロンドンで初めてコーヒー・ハウスが開かれたを伝える陶版が市内に今でもあるということです。18世紀の始めにロンドンで2000軒~3000軒、コーヒー・ハウスがあったと伝えられています。現在の英国の紅茶文化からはちょっと想像できませんが。ロンドンでコーヒー飲用のキッカケを作ったのはチャールズ一世の寵臣だった「ウィリアム・ロード」です。もっとも彼は王政擁護のために相当手厳しい事を施策として打ったので、形勢が逆転するといの一番に処刑されています。彼は自分を中心としたサロンのメンバーにコーヒー飲用の習慣を着けたようです。それが話題となりユダヤ人が薬の一種として飲用を展開して言ったというのが真相らしいです。あまりに流行って社会不安〔効能について社会不安?〕になり禁止令も出たようです。ではなぜ英国は今のようにコーヒーから紅茶になったのでしょうか?他のヨーロッパ諸国は今でもコーヒーなのに。理由は簡単で多分英国人が紅茶のほうを好んだという理由だけらしい。

次はお茶の話です。もちろん当時は日本と中国を除けば緑茶の習慣はなく、同じ葉を発酵させて紅茶が主流でした。まずは東洋の紅茶がヨーロッパに持ち込まれた理由からはじめましょう。
1610年頃、オランダ東インド会社はマカオと平戸で緑茶を仕入れ、当時オランダ領だったジャワのバンタムを経てオランダ本国へ送っていました。このルートがヨーロッパにへお茶が輸入された最初だったといわれています。抜け目のない商人はこれらをオランダの上流社会や姻戚関係のポルトガル宮廷へ持ち込みました。
さて、ドーバー海峡をはさんだ英国事情ですか、ここで大きな転機がありました。
1662年にチャールズ二世の王妃となったポルトガル王女カサリーンは結婚前の宮廷での紅茶の習慣をそのままイギリス王室に持ち込み、それがすぐに貴族社会に波及しました。この波は非常に大きなインパクトがありました。
なぜなら一足先にすでに普及していたコーヒーよりも後発の紅茶を好むようになったのは、「上品さ」や「嗜好」も要因のひとつですが、やはりカサリーンの影響がもっとも納得いく理由に思えます。
さてこうなると紅茶の需要はますます多くなり、その貴重性と流行とビジネスが入り混じった別な世界を作り上げていくことになりました。
カサリーンの嫁入りから25年を経た頃には、英国はオランダ人から法外な価格で紅茶を入手するのでなく、直接輸入を実現しました。
まさに新しいビジネス・モデルの発想です。
1689年、イギリス東インド会社はイギリス政府の庇護を受け、紅茶貿易を確立し、1721年には紅茶輸入の独占的権利を獲得するに至ります。実に17世紀後半から18世紀後半まで約一世紀に渡りイギリス東インド会社は紅茶をど独占し、政府に莫大なキャッシュを与え、これが引き金になりイギリス経済の基盤に寄与した訳です。割を食ったのは紅茶ビジネスを開拓したオランダ東インド会社ですが、その後再び陽の目を見ることはありませんでした。アイデアもルートもソリューションの全てをオランダは英国に乗っ取りされたと言う事になりますね。
ビジネスの世界は下克上です。

さて、紅茶の最大消費地区、ヨーロッパと特に英国のために紅茶はどのように運ばれたのでしょうか?
モチロン、当時の大量搬送手段は船しかありませんでした。
そこに、ティー・クリッパーとして「カティ・サーク」が前述の様に最後の華として生まれたのです。それを次のコーナーでお話ししたいと思います。

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