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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

ねじとグローバリゼーション

2005.08.09

日本のグローバリゼーションは何時のことか?
日本が狭い国内で戦国の世を迎えているころ、コロンブス1492年にカリブ海をインドと間違えて、それでも「新大陸を発見」している。西インド諸島であ。また、ヴァスコ・ダ・ガマが苦難の末東廻りで喜望峰を越え「インド航路」を発見している。胡椒とシナモンとクローヴ(丁子)の所為だ。さらにマゼラン西周りを目指し、1519年から22年にかけてホーン岬(マゼラン海峡と名づけた)を超えて地球を一周している。

日本の最初のグローバリゼーションは勿論「種子島の鉄砲」の伝来でしょう。1543年(天文十二年)8月25日(太陽暦9月23日)のことです。もうすぐですね。「南蛮の雲の立つ日や蝉の声」と詠んだのは蕪村ですが、まだ見ぬ異国の文物に憧れ南蛮の空を幻に見たなんとも風流な歌です。毎年種子島では7月25日と26日に「鉄砲祭」を全市民総出で南蛮船の山車、南蛮行列、鉄砲太鼓等賑々しく楽しむそうです。
日本のグローバリゼーションはこの種子島に渡来した鉄砲によって「第一波」を受けたわけですが、やはりそこには当然技術革新を伴いました。鉄砲が渡来して国内で簡単に模造したと考えがちですが、そんなに簡単な事ではありません。今と全くおんなじです。技術を獲得するには血の滲む様な活動があったと思います。この種子島の鉄砲によって国内ではまったく未知の技術に出会った訳ですから。それは「螺旋とネジ」の概念と工法です。この種子島の出来事からたった6年後の1549年(天文18)8月15日にはチョー・エリートで元貴族で筋金入りの戦闘的信仰集団のキーマンであるフランシスコ・ザビエルが支那のジャンク海賊号で櫻島に渡来しています。これは文化的・宗教的なグローバリゼーションであると僕は思っています。

種子島の西村小浦(西の海岸にある狭い入り江と言うのが当時の言い方らしい)に支那ジャンク孫東珠号が漂着しました。総勢120名。ポルトガル人は3人だけ。船長は海賊商人の王直で他は明国人、琉球人、黒人等雑多でした。明人の五峰という人を通訳に引見した島主種子島時堯は、ポルトガル人が持っていた鉄砲のうち二挺を買い上げました。当時の金額で1-2億円とも言われています。この殿様はよほど先見の明があったのでしょうか? 彼は自分でもその操作を覚え十六間の的であれば百発百中の手並みになったと言われています。よほど変わり者ですね。火薬の調合法を家臣の篠川小四郎に学ばせたそうです。このとき、紀州根来寺の人が鉄砲 をゆずってくれるよう懇望してきたので、時堯は津田監物丞を遣わして一挺を杉坊に贈り、使用法も伝授したとの事。太っ腹と言うしか在りません。もちろんその裏には「種子島チーム」「根来チーム」といった傭兵化の発展性(戦国武将としてビジネスをする)まで考えていたかも知れません。模造は刀鍛冶八板金兵衛に下命したそうです。とは言っても銃身、銃底部分などの加工技術は全く判りませんでした。銃身は発射から着弾までの精度をあげるに内側に螺旋状の条溝を刻み付けることが必要であります。所謂「螺旋」です。また、銃底部分はねじを切って蓋をしなければならない。「ネジ」の概念とその工法です。この「ネジ」の工法については鍛工八坂金兵衛はが重要な役割をしています。彼女なくして国産初火縄銃「種子島銃」は完成しません。世の中の回天の影には必ず女性の影がある。なんちゃって。彼女の話は明日。

時に信長9歳の洟垂れ小僧。

 

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