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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

時差とブログ・その2

2005.08.24

毎日きちんと書く事が大事です。
ブログの原型は帆船時代から続く航海日誌で日本で公式にこのロク゛・ブック(航海日誌)を活用したのは坂本竜馬の「海援隊」が運行した「いろは丸」で在った事を前回お話しました。竜馬は株式会社的な機能を持つ廻船会社を作る構想を持っていたと思われます。海援隊の当初はまだ株式会社ではありませんでしたが機能的には一部を持っていたようです。その「いろは丸(160トン)」(竜馬自身が命名)ですが、伊予大洲藩所有の三本マストを有する蒸気船です。その購入にはいろいろ事情がありましたが、ここでは割愛します。海援隊が傭船として借受、運行していました。
1867年4月23日(慶応三年)午後11時頃、瀬戸内海の六島沖で紀州和歌山藩船・明光丸衝突し、いろは丸が沈没しました。この衝突は日本で最初の蒸気船同士の衝突となりました。現代で言うと海難審判です。海難審判は海難事故の原因究明と事故の再発防止を目的しています。但し、刑事責任は問いません。裁決は、免許取り消しや業務停止などの懲戒処分と勧告です。昨年、三菱重工業長崎造船所(長崎市)で建造中の豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス」(11,3000トン・火災後船名を二番船と船名を入替えてサファイア・プリンセス号とした)の火災で海難審判が開始されました。日本国内で、建造中の船舶火災についての審判は初めてだと思います。僕の知人のお父上がこの造船所の社員であったので、その大変さをお聞きした事があります。とにかく造船所の事故では日本最大(客船の大きさも日本最大です)でしょう。

この「いろは丸沈没事故」で活躍したのはやはり「航海日誌」でした。当時海難審判はありませんでしたので、この海難事故は個別交渉です。この時代に「万国公法」を持ち出しても「ラチ」は明かなかったのではと思います。この様な時代背景の中で竜馬はしたたかな交渉能力と広範囲な人脈の駆使して賠償金をもぎ取ります。その交渉は、当然ながら土佐藩対紀州藩の事件に発展しました。土佐藩の重役・後藤象二郎、事件の判例がなかった為、イギリス海軍の提督の出馬、後藤と紀州藩勘定奉行・茂田一次郎とのトップ会談等々、あらゆる手を竜馬は使います。そして、遂に賠償金の支払いに同意するのです。賠償額は当初八万両でしたが減額されて七万両となった様です。今から専門化が審査すればどっちもどっちと言う所だと思いますが、さすが龍馬は戦略家でした。
この事件を契機により「航海日誌」の重要性が高まったということです。何事もイベントがあると人間強く燃えるものです。それが逆境であればあるほど燃えるのですね。竜馬を見てそう感じます。

 

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