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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

井真成が帰ってきた!

2005.08.08

古の俊才「井真成(せいしんせい)」に逢いに!
昨年10月西安で唐代の日本の遣唐使として中国に渡り、そのまま唐の玄宗皇帝に仕えた日本人留学生「井真成」の墓誌が発見され大きな話題となりました。「井真成」は中国名で日本名は未だ不明です。彼が約1300年ぶりに帰国した。彼に逢いに東京国立博物館に古の俊才「井真成を訪ねた。
630年(舒明〈じょめい〉2年)に始まる遣唐使は、以後260年の間に20回計画され、そのうち実際には十数回実行されたといわれています。無論国家プロジェクトです。遣隋使の後を受け、その当時中国の強大な王朝と関係を築くことにより、進んだ文化を取り入れるという基本路線がこのころ定着しました。
以前のブログでも説明しましたが、
日本の国名は飛鳥時代、隋に対して使われた「日出ずる処(ところ)」の系譜を引く国号ということで、以前は「日出ずる処」と「日没する処」でつかわれ、対等な意味で使われているのに対して、この時代になると「日本」という国号を「中国を世界の中心とし、その東辺に位置する国であることを自認した国号であること」が特徴的です。謙りです。この意味は今も小泉さんが悩んでいる米国や中国や北朝鮮に対する外交的な問題となんら変わらない「駆け引き」や「複雑な力関係」があったことを示しています。この様な日唐関係を背景に遣唐使という文化使節としての役割が発揮された時代でもあったのです。渡航手段は当然です。七世紀から八世紀の国内の船は貧弱そのものです。この時代地中海の船と比較するとその稚拙さがよく判ります。但し、地中海と違い黒潮支流の対馬海流を突っ切って行かねばならない外洋の気構えは相当なものだったと感じます。勿論遣唐使で使用した船の仕様は不明です。断片的な文献で想像すると言うのが今の定説となっています。今回の展示物の中でも非常に素晴らしかったのは「吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき)」(ボストン美術館蔵)でした。残念なことに明治時代に制作された模本でしたが。この絵巻を見ると、構造船で二本マストです。横帆のみです。上部甲板に小屋らしき構造物が三つあります。指揮所と高級官僚の住まいと思われます。また、両舷合わせて16竿の艪が装備されています。無風時の推進力でしょう。帆は網代帆(あじろほ)が一般的ですが、この時代でも麻布帆あったらしく、国家プロジェクトの遣唐使にはたぶん麻布帆の使用が許可されていたと思われる。長さはせいぜい30㍍で300トンクラスといった所でしょうか。航海日数は約一週間。航路は長い間に三つ開発されていました。これもそうせざる得なかったといった方が無難。朝貢のタイミングも悪い。秋から冬に限定されていたらしく、きっと遭難の主要原因となっていたことでしょう。
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<東京国立博物館 平成館の入場チケット・デザイン>

遣唐使という国家プロジェクトに選出されるには当時の律令制度の中でもある程度の身分と品位と「桁違いの頭脳」を持ち合せている必要がありました。それは選出された多くの著名人をみていも推測できそうです。「井真成」は日本から717年に派遣された第八次遣唐使の時の留学生であったと推測されています。この中国名の「井」は日本名を短縮した呼び名というのが定説です。皇帝から頂いた賜名ということも在るそうですが。「葛井(ふじい)氏」か「白猪(しらい)氏」の何れかであろうと言われています。決め手はないようです。「真成」は本名とのこと。この一行は総勢557人で、阿倍仲麻呂や吉備真備の著名人と同行です。阿倍仲麻呂は「井真成」の一歳年上、吉備真備も二歳ほど年上。留学生の多くは貴族の家柄で、阿倍仲麻呂の父は正五品に相当する中務大輔、吉備真備の家柄は阿倍より低かったが、右衛仕少尉。これから推定すると、「井真成」も名門の出身であったに違いない。しかし現在の所全く記述が無いそうです。733年、第九次の遣唐使が長安に到着しましたが、このとき「井真成」らの唐滞在はすでに17年を経過していました。彼らは学殖豊かで、経綸に富んだひとかどの人物になっていた筈。史料によると、この年阿倍仲麻呂は両親が年老いたことを理由に帰国を願い出ましたが皇帝はこれを許さなかった様です。とても優秀だったからでしょう。阿倍仲麻呂はそのまま残留し、唐で没しています。殆どの人は長い間文化を極め、その後帰国し、日本で活躍するといったパターンです。本来は「井真成」もそうなる予定でした。彼はほんのちょっと生きていれば既に長安に到着したしていた「第九次の遣唐使船」で帰国できはずです。
玄宗皇帝から深く信頼されていた「井真成」は開元22年正月、官舎で36歳の若さで亡くなっています。死後玄宗皇帝から「尚衣奉御」という職を贈られます。この職の多くは皇帝の親族、あるいは皇帝が深く寵愛し信頼した人物が勤めてきたことを思うと「井真成」が死後、この封を受けたのは、彼が玄宗皇帝の目がねにかない、深く信任されていたことを示していると解説文にあります。おそらく彼は生前、尚衣局の中で職を与えられていたのであろうとも。

墓誌の中に「形はすでに異土に埋もれ、魂は故郷に帰らんことをこいねがう」とあり「井真成」の望郷の念を思うと偲び難いものがあります。

遣唐使はその後新羅や唐の商船が貿易品や書物等を持ち込むようになり、且つ唐の国内情勢が悪化が重なり派遣の意義が年々低下し、9世紀末以降、自然消滅していく事になります。
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<出展物全てが載っている特別プログラム>
<遣唐使と唐の美術>
期間・2005年7月20日(水)~9月11日(日) 場所・東京国立博物館 平成館 (上野公園)
開館時間・9:30~17:00 (毎週金曜日は20:00まで、土・日曜は18:00まで開館。入館は閉館の30分前まで)金曜日の夕刻が涼しくて穴場です。
料金・一般 1,300円(1,200円/1,100円)、

 

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