マゼラン
2005.08.25
1519年9月20日5隻の船隊(ヴィクトリア号他)と237人の乗組員を率いてサンルカル・デ・バラメダ港を出帆しました。1520年9月20日マゼラン海峡を発見、ヴィクトリア号他2隻が通過し、南太平洋の横断という偉業を成し遂げましたが太平洋に入ってからは不毛の無人島等は発見したものの補給が出来ず極度の飢餓と壊血病に苦しめられました。99日目に小島を発見し食料を補給することが出来ましたが住民の盗癖にあい上陸して焼き討ちをかけて住民7人を殺害し、ラドロネス(泥棒)諸島と名付けました。グアム島だと言われています。この航海の間は嵐に遭わなかったために、この海を太平洋(マール・パチフィコ、平和の海)と名づけたという説も有ります。その7日後の1521年3月17日フィリッピンのレイテ湾内のサマール島南のオモンオン島に上陸しました。
その後一行はセブ島に向かい住民の服従策に失敗し、1521年4月27日マゼランはマクタン島で「ラプ・ラプ」と浅瀬の白兵戦で交戦中に41才で戦死しました。マゼランは東回りでマライまで来ていたので世界周航は目前だったのです。残りの一行はそのまま、目的地のマルク(香料)諸島に向かい、そこで香料を積荷したのち、スペインに直行、1522年9月6日生存者18名が出発したサンルカル港に帰着しました。この世界一周航海によって地球が丸い事や日付に一日のずれがある事が実証されました。
・参考HP~太平洋航海の航路図 フィリピンの地図。
なお、マゼランの5隻の船隊は、サンティァゴ号(75t)マゼラン海峡で難破、サン・アントニオ号(120t)マゼラン海峡で逃亡し帰国、トリニダート号(110t)香料諸島で香料を積み過ぎて沈没、コンセプシオン号(90t)セブ島で乗員不足で焼き捨て、ヴィクトリア号(90t)世界周航を達成という経過を辿りました。
1521年マゼランが発見した群島(フィリピン)は、その後スペイン領となり、当時の皇太子フェリペにちなんで「フィリピン」と名付けられたと言われています。
フアン・セバスチャン・エルカノ Juan Sebastian Elcano
エルカノはスペイン人で、マゼランが1519年9月20日5隻の船隊と237人の乗組員を率いてサンルカル・デ・バラメダ港を出帆した時に、マゼランが外国人(ポルトガル人)だったので、信頼できず反抗的であったと言われていますが、下級士官の一人として参加、乗り組んでいました。1520年9月20日マゼラン海峡を発見、ヴィクトリア号他2隻が通過し、南太平洋の横断という偉業を成し遂げ、1521年3月17日フィリッピンのレイテ湾内のサマール島南のオモンオン島に上陸しました。その後一行はセブ島に向かい住民の服従策に失敗し、1521年4月27日マゼランはマクタン島で「ラプ・ラプ」と交戦中に41才で戦死しました。エルカノは主だった指揮官を失った中で、マゼランの後継者として、苦労に苦労を重ねながら生き残った仲間を励まし、残ったただ一隻の「おんぼろ帆船ヴィクトリア号」の船長となりました。その後、香料諸島に向かい、そこで香料を積荷したのち、スペインに直行、1522年9月6日エルカノと生存者17名だけが出発したサンルカル港に帰港しました。エルカノこそ、人類最初の世界周航を成し遂げた人物なのです。この世界一周航海によって地球が丸い事や日付に一日のずれがある事が実証されましたね。
なお、ヴィクトリア号は85tだったという説もあります。.
別説では、カーノ Juan Sebastian del Cano(?~1526) となっており、
1519年にコンセプシオン号の船長としてマゼランの船隊に加わってスペインを出発。1521年マゼランの死後、探検隊の指揮官となり、船隊唯一の生き残りの”ビクトリア号”で西に進みインド洋を抜け、喜望峰を回って、アフリカ西海岸沿いに北上。そして1522年世界最初の世界周航後スペインに帰着。
1525年にロアイテと共にフィリピン諸島探検に出発、1526年海上で没・・と有り。
香料諸島~西の香辛料と東の薬味
西の香辛料とはインドのシナモン・カシアで、東の薬味とはクローブ・ナツメグですね。インド肉桂(シナモン・カシア)は紀元頃以降に西洋に出回ったそうで、それまではアラビア南部産・ソマリア産のものだったようです。アラビア商人の手を経て西洋へもたらされましたが、ポルトガル人によるインド航路の発見以降は西洋人により直接輸入されました。モルッカの丁子(チョウシ)とパンダ島の肉荳蒄(ニクズク)は18世紀まで他では産出していなかったそうです。ヨーロッパの鳥獣魚肉とオリーブ油を主対とする調理に、防腐・刺激・種々の味と臭い、すなわち香味を与えて日常の食卓の飲食品を快適なものにするため欠くことのできないものです。特に丁香が無ければ塩乾の鳥獣魚肉は臭くて口に入りません。防腐上の効能と共に焼け付くような特異な焦臭と辛さがあって食生活を充実させ、甘辛どちらにも合います。また、一種の精力剤であり、同時に消化剤と信じられていました。丁子は香料の代表と見られていたから、原産地のモルッカ諸島は別名「スパイス・アイランド」と呼ばれました。16~17世紀のヨーロッパ人による東洋航海の最大目的はモルッカの丁子とパンダの肉荳蒄でした。この二つの香辛料の独占支配で莫大な利潤を得るため、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダは原住民と度重なる戦いを繰り返してきた訳です。一説によると、マゼランの船団の生存者がスペインに持ち帰った香辛料は原産地価格の2500倍の値段で取引されたそうです。
なお、一般には、三大香料として、胡椒(コショウ)、丁子(チョウシ)、肉荳蒄(ニクズク、ナツメグ・メイス、ニッキ・シナモン)と言われ、特に「スパイス」と呼ばれるのはこの3大香辛料だけで、そのほとんどがかつてはマルク(モルッカ)諸島のみに集中していました。このためマルク諸島は「香料諸島」と呼ばれました。また14世紀まではアラビア・イタリ-商人を経由してもたらされていた東洋の香料は、肉の腐敗を防ぎ、臭みを消すために肉食文化のヨーロッパ人に大きな需要を引き起こしていました。これが大航海の一つの原動力となりました。コショウの産地はインド南部マラバール海岸に育つ、蔓生の 種子です。これにはブラックペッパーとホワイトペッパーと品質の落ちる赤コショウがあります。1770年にはフランスがモルッカから丁字をアフリカのブルボン島(レユニオン島)やケニヤに移植することに成功しました。アラビア人はザンジバル島などでの栽培に成功しており、現在では丁字の世界生産量の95%を東アフリカのペンバ島、ザンジバル島、マダガスカルで占めています。
・参考HP~モルッカ諸島付近の地図
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