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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

カティ・サーク

2006.05.07

カティ・サークと新鋭海運国

日本とのポルトガルの関係はとても古く長い歴史があります。
日本とヨーロッパの関係が黎明期の1584年に実は「天正遺欧少年使節団」がリスボン港に着いていました。 特に日本との関係が活発になるのは、やはり「1543年」にポルトガル人三人を乗せた明国船が種子島に漂着したことでしょう。以前ブログに「ねじとグローバリゼーション」というテーマで話しました。そして、「ポルトガル船」が平戸に初入港したのは1550年のことです。
鉄砲のグローバリゼーションがその後の国内の「戦さ」の仕方に影響与えた事も「哀愁の若狭」でブログしました。

僕らは地球を含めて「九つの惑星」が太陽を中心に廻っている事を知っています。
しかし、古代人は「五惑星とか七惑星」としか知らぬままに「占星術」や「陰陽五行説」を考え出しました。今では辻褄が合いませんが。
五惑星を発見したカルデア人たちの知識はご存知のギリシャの天文学者プトレマイオスによって15世紀後半までヨーロッパ全域に「天動説」として君臨する事になります。
そして、16世紀になってやっとポーランドの天文学者コペルニクスによって地動説が発表され、宇宙の中心と考えられていた地球は実は太陽の一惑星に過ぎないことを提唱します。それまでの天文学や神学を支えてきた基盤が根本から崩れる大事件でした。特に聖書の解釈を天動説とした教会とガリレオの長期にわたる確執のあった有名なテーマでもありました。

当時のバビロニア人たちは「地球が宇宙の中心」に静止していると考えました。太陽など七つの惑星が地球をの周りを廻り、
そして、それらの惑星が一日の時間を管理する支配惑星という概念から、
一日一つずつ順次惑星が交代すると考え、その一周が七日かかるとしました。バビロニアで生まれた一週間・七日と言うのはこのことを指すようです。なんと紀元前10世紀以上の前の話です。


〔カティ・サークの船首付近〕


〔カティ・サークのメインマストとヤード〕
この船の中心にあるこのマストは「メイン・マスト」と呼ばれています。すぐ後ろに見えるのがミズン・マストと言って船尾部にあります。この角度からは見えませんが手前にフォア・マストがあります。
写真をご覧になれば一目瞭然ですが、大型帆船のマストは製造上、材質及び強度上、保守性を考慮していくつかに分割されています。少し判り難いですが、このメインマストは大小5つの柱を組み上げて一つのマストとしています。また、横に張り出している棒はヤードと言います。このヤードも黒い太い部分と両脇にある茶色の部分の三分割になっています。このメイン・マストに10枚のセールを張る事になります。マストの途中に人が乗れるような台がありますが「トップ」と言います。これは見張台や攻撃台を兼ね備えたもので、帆船の全盛期に作られました。その上部にあるトップマストに見える足場が「トップ・マスト・クロスツリー」と言われる物でマストを支えるためのワイヤー等を止めるのです。
一番上の細い柱をメイン・スカイスルマストと呼びますが、上部に風見鶏が着いています。そして現役の頃、このマストに船主旗がはためいていました。


新大陸の発見や新航路の開発を行ったのは16世紀のスペインとポルトガルでした。しかし17世紀にに入るとオランダの東南アジアへの進出は目覚しく17世紀の中ごろまでにマレー半島、ジャワ島、スマトラ島を手中に収めその後台湾、日本との独占的貿易権を獲得し、この地域の支配権を握ることとなりました。世界史を見れば一目瞭然です。
ポルトガルやスペインや英国に比べオランダが特に彼らより秀でた技術や国内情勢を持っていた訳では無いのに何故かとても不思議でなりません。
このことは追々調べてみたいと思います。
さて、東アジア航路を最初に開拓したのはポルトガル人です。
彼らが特産物として持ち帰ったのは絹、香料〔特に胡椒〕などでリスボンに陸揚げされました。
実はこれらは特産物をリスボンからフランス、バルチック海方面に運んだのはオランダ船と言われています。しかし、ポルトガルは1595年にオランダ船をリスボンから排除したためにオランダは直接的にアジアへの進出をせざる得なかったと言われています。翌年の1596年にオランダ商船隊はジャワのバンダムに到着し、そこに東洋貿易の拠点を築きました。
オランダは1602年に「オランダ東インド会社」を設立しています。スペインとポルトガルに出遅れた割にはアクションが早い。

では、女王陛下の東インド経営はというと、
1599年7月に「東インド諸島に交易するロンドン商人たちの総裁と会社」という認可申請が出されており、エリザベス女王はサイン署名を行いました。そして、実際に発動されたのは1601年2月の事で、イギリス東インド会社所有5隻がウールウィック港を出港しました。この時のキャプテンは熟練のジェームス・ランカスターで旗艦は「レッド・ドラゴン号」〔600トンで乗組員202名の第一級の軍艦〕です。しかし壊血病で喜望峰にたどり着いた時には480名の乗組員が105名も死亡していました。
英国は完全にスペイン・ポルトガルに東洋経営において出遅れました。

たまたま今日、オランダ船籍の大型クルーズ客船「スタテンダム」(55,451㌧)が早朝、青森港新中央埠頭に入港したそうです。

 

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