BrainSellers.com

Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

カティ・サーク

2006.05.06

カティ・サークとお茶

「我々の日常飲む水は冷たく澄んだものを好む。日本人の飲むものは熱くなければならないし、その後竹の刷毛で叩いて茶を入れる事が必要とされている。」
1562年にイエズス会の伝教師として来日したポルトガル人ルイス・フロスは『日欧文化比較』という当時としてはユニークな文明評論を書いています。フロスはここで「お茶」を紹介しています。
また、
1560年にポルトガル人宣教師として始めて中国を訪れたダークルスが「中国では高貴な人の家に訪問客があれば『チャ』と言う一種の飲み物(中略)それは苦味があり、紅色でくすりになる飲料を出す」と述べているそうです。

ヨーロッパに最初にお茶を紹介したのはポルトガル人であると言われています。僕らに馴染み深い「シルクロード」は最も古い古代の通商ルートですが、そこには「お茶」の痕跡は無いそうです。9世紀にはアラビア人商人は茶に注目していた様ですが、取引をした形跡はやはり無いそうです。また、13世紀のマルコ・ポーロの「東方見聞録」にも茶に関する記述は無いそうです。

ヨーロッパ人は「お茶」を中国によって知りましたが、しかし中国のお茶が彼らに与えた文化的な刺激は日本のお茶ほど強烈では無かったと言われています。それはルイス・フロスの『日欧文化比較』の中で彼自身が語っています。
彼が見た日本と欧州の文化の違いで特に「我々は宝石や金、銀を宝物とする。日本人は古い釜や古いひび割れた陶器、土製の器等を宝物とする」いう一節です。
これは彼が既に「茶の湯」を知り、それをヨーロッパに伝えた事が上げられます。


〔カティ・サークの船内〕
当時はここにお茶やウールがぎっちりと詰まってました。
カティ・サークが現役の頃、お茶の積み出しは中国の広東・黄埔(ワンポー)・マカオの三港でしたが、その後上海と福州が加えられました。この「福州」こそがカティ・サーク達が活躍する歴史的な「クリッパー・レース」の開催地です。その理由はこの福州がお茶を摘み取るのに最も適した場所にあったとされています。
お茶の出来る時期は4月と6月でしたが、特に最初に積み出される新茶はロンドンで高額取引の対象でした。


〔カティ・サークの上甲板〕
船主側〔実際には船首楼に登って〕から船尾方向に見たもの。一番手前の白い太い柱が〔フォア・マスト〕で次が〔メイン・マスト〕で、遠くに重なるように見えるのが〔ミズン・マスト〕になります。後方の左舷側〔進行方向左側〕にライフ・ボートが在りますが、本来は両舷にあるのです。写真は一隻しかありません。ボートの後方に船長や航海士の居住区〔船内で一番いいところ〕があります。真ん中に見える居住区は後部甲板室で手前に見える丸みを帯びた居住区が前部甲板室です。


帆船の歴史は一面「海上輸送手段と侵略の歴史」でも在ります。このブログのテーマの「カティ・サーク〔Catty Sark〕」もお茶と羊毛を早く運ぶ事が基本的な役割でした。
お茶がヨーロッパ人に知られる少し前には「香料獲得」の探検として役割がありましたが、やはり「領土や国威」の獲得が主で単に香料の輸送だけでは払った犠牲が大きく投資対効果は得れないと思います。
羊毛輸送に比べるとお茶の輸送は数世紀単位で歴史の深みが違います。
僕らが何気なく飲んでいるお茶が、実はヨーロッパの近代化に深く関与していると多くの学者がその著書で述べています。近代ヨーロッパの形成とグローバル化にお茶が想像以上に大きな役割を果たしていたようです。当然ながら生産国である中国や日本の文化としての影響度も多きく貢献したことでしょう。それはルイス・フロスの『日欧文化比較』によって証明されています。日本人が日常的に飲用している「チャ」という不思議な飲み物は、単なる飲み物としてではなく、その飲み方が一種の儀礼として、宗教的な神秘性と社会的な倫理性をも取り込んだ文化である事に感動したようです。
一服のチャを飲むのに何故「茶室」という特別に作られた狭い窓の無い暗い空間を使うのか。
古い釜や古いひび割れた陶器に万金を投じるのか。
茶の湯」の「侘び・さび」を持つ東洋文化への畏敬の念のシンボルが「お茶」であったようです。

 

Copyright(c) BrainSellers.com Corp. All rights reserved.