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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

翼よ!あれが巴里の灯だ。

2005.07.18

『翼よ!あれが巴里の灯だ。』チャールズ・リンドバーグはニューヨークのルーズベルト空港からパリのル・プールジェ空港まで、途中ドライブ・インにも寄らず、5,810kmを長期距離トラックの運ちゃんの様に「睡魔と闘い」ながら33時間30分飛び続け、単発飛行機で大西洋横断を成功させます。1927年の事でした。彼は、強靭な意志と肉体と「志」を持って航空機時代を現実のものとし、飛行機によって未来を変えるキッカケを与えて呉れました。
歴史は時々この様な飛躍的な行動を起こす人を生み出します。

それが飛行機でなく船であれば「君よ!あれが犬吠崎灯台の灯だ。(船は女性名詞です)」と言う事になります。前回羅針盤」と「六分儀の話題を出しました。羅針盤は紀元前の中国で開発されましたが、「北」という方向を指せてもやはり眼で見る「岬とか島と浅瀬」とかの「目印」が必要です。日本の江戸時代に盛んに行われた近海航路の夜間の目印が「北極星」であった様に。近代は北極星から灯台に変わりました。日本の灯台の近代化は明治元年から飛躍的に改善され、その後の海運国日本の成長のために、非常に重要な役割を果たしました。灯台の機能は、「光」と「音」と最近では「電波」によってその位置を知らせています。灯台「専門的には航路標識」は海上保安庁が所管していますが、光によって位置を確認できる灯台とそれ以外で目印になる陸票や浮票をあわせ、ざっくり日本全国に5200基程度あり、管理・保守されています。

数ヶ月間の航海を終え太平洋から横浜にアプローチする時は最初に犬吠崎灯台を捕らえることができます。「帰ってきた」という実感を得られるふるさとの温かみを感じる光源です。
その後、勝浦灯台鴨川灯台を経て、東京湾へ。野島埼灯台洲埼灯台第2海堡灯台を過ぎると難所の「浦賀水道」に入っていきます。(専用サイト「日本の灯台」は各地の灯台を走破しつつその数には圧巻です。写真がとても美しい)


海運国日本になる以前の明治元年のころ、明治新政府は洋式灯台建設を開始し、灯台位置の測量、資材の運搬、保守管理に使用する浚渫船が必要でした。いわゆる灯台船です。当初は海外から中古船を購入してこれを当てていました。その後灯台の数が増加するに従い、新鋭船が必要となり英国に発注することになりました。それが「明治丸」です。

明治丸(重要文化財)は明治6年(1873)、英国グラスゴーのネピア造船所に発注。明治7年(1874)竣工。明治8年(1875)2月に横浜に回航。回航は英国人を中心に乗組員総勢は53人という記録がある。回航後、横浜港で正式に受け取り式があり日本に引き渡されたが、水夫、火夫等の部員はすべて日本人に交代したが、仕官は船長以下残留となった。まだ、日本人の仕官では操船は難しかったのでしょう。とにかく高価な汽船でしたから。船長以下乗組員全員が日本人となったのは、明治26年(1893)からという事です。ざっくり18年間です。ここで日本人の仕官候補生がたくさん育ったことでしょう。その後、明治丸はその任務を終え、明治29年(1896)9月に現在の東京商船学校へ譲渡されます。この時に「三本マストのシップ型帆船」に改装され、以後係留練習帆船として、若い航海士の養成船に変貌します。
今、その面影を残しつつ、国の重要文化財として復元され、記念館として現在も見学可能です。

 

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