BrainSellers.com

Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

「静」の力

2011.03.05

お能の観客を引き寄せる力はすさまじいものがあります。

橋懸(はしがか)リを一定のリズムですり足で進むシテは、油をぶちまけた様な光沢のある檜の床をまるで浮揚している様な軽々しさで方向転換し、方三間の舞台に登場したのち、初めて正面席に座る観客と対じします。
その時、観客はというと、突当りにある揚幕(あげまく)がシュルシュルと上がると同時に、水面から浮き出るように出現するシテに釘付けになり、その浮揚感のあるシテの「静」の動作にじっと目をこらしている訳です。
シンと静まり返った能楽堂でシテと観客が共有する、または融合するもっとも双方が緊張する瞬間です。

観客と向き合ったシテは、四本の柱で支えられ、三方吹き抜けの四方をもつ舞台で、孤立した厳しい空間に身を置くことになります。そしてシテはもっとも重圧な世界に自らの強い意志で臨むことになります。
このちいさな空間に能役者は全知全能を投じて小宇宙を形成する訳です。

「伝統とは惰性ではない。」と断言したのは能楽の研究に造詣が深い増田正造(ますだ しょうぞう )の言葉です。そのあとこう続きます。
「奇形化の部分の多い制度や様式ではもちろんない。あらゆる時代において新鮮であろうとする努力であり、その不断の累積である。あるいは時代を挑発する力なのだ。」魂を揺さぶるような洞察力に富んだ表現と云えます。
700年の間、足しもせず、引きもせず、延々と伝統芸能として生きてきたお能は、増田正造の言葉を借りると、
「時間と空間を共有する観客なしでは成立しない演劇の中で、さまざまな状況があったにせよ、たとえば能や狂言が700年も生き抜いてきたのは、あらゆる時代に訴える美と力を多く持っていたからにほかならない。」と云うことになります。

先週、作曲家・三枝成彰さんが、20代のころ出会ったと云う『人間の声』(編集者ハンス・ワルター・ベア/高橋健二翻訳)」に触発されて思い出した事があります。
それは、十代の終わりの頃に思い出深い本に出会ったことでした。

成長期の子供の教育に関してボクの両親は、相当な放任主義を通していました。ボク自身は男の子四人の中で育ったせいもあり、相当な暴れん坊に育ったことは否めません。ただ、二人の兄がとても優しかったことを今でも濃厚に記憶しています。
なので小学校低学年で、クラス内はもとより学年内でも数名の問題児のひとりに、りっぱに(?)成長していました。そのまま悪童として成長するのかと思いきや、比較的早く転機がやってきます。それは、五年生と六年生の二年間の出来事で、この二年間で心底根性を叩き直して頂いた恩師に出会うことになりました。その悪童の極みからともかく全うな小学生に戻った(?)訳ですが、このことだけでも感謝に堪えない事ですが、それ以上にその後の生き方に重要な役割を担う、「本を読むことの面白さ」を教えて頂いたことです。単純な「本を読む」ということの楽しさは、その後の私自身の進路にも大きく左右していると実感しますが、きっとそれは生涯に渡って失われない行動パターンとして生き続けると思っています。
このことは中学生になると顕著に現れました。
中学一年生の時からすでに年間250冊を読破し、一年を振りかって見るとボクより上位の読者は三年生にひとりという結果でした。それも三冊の僅差でした。
結局その後の年間読書量は、30才まで15年間衰えることなく続くことになりました。

その恩師がボクに与えてくれた本は「謡曲集・上下」と「歌論集」でした。たぶんご自身が読まれた本であったと推察していますが、なぜ「お能」であって、且つなぜ、ボクにくださったのかは覚えていませんし、もはや知るすべはありません。
謡曲集は「お能」で最も重要な構成要素である物語そのものを著しているものです。この本は、本格的な謡いの正当な解説書と云うことになります。内容は、謡曲の解説ですが観阿弥・世阿弥親子とその子元雅が体系化した謡曲集の他に、もっと古い古代の謡いも含まれています。所謂古代の能と「現在能」と「夢幻能」の三分に分かれて体系化された書物ということになります。故に今では演じられることの無い「お能」が数多く収録されています。特に圧巻は、「歌論集」にある世阿弥の能の理論書である『風姿花伝』等々の章です。この巻の多くの紙面を割いて理論体系が収録されています。
この謡曲集の上下と歌論集は、40巻・41巻の連番と65巻の3巻で「日本古典文学大系 」いう体系下に入っているものです。日本古典文学大系は上代から近世(江戸時代後期)までの古典文学を対象に、全100巻にまとめられ、刊行されました。ちなみに、謡曲集(上)は1960年発刊で、(下)は1963年です。50年も前の書籍です。今では当然絶版です。
恩師は、この3巻をボクの高校入学の祝いにくださったようです。

しかし、謡曲に素養の無い高校生のボクには「歌論集」は難解です。
古典が好きであったためか「謡い」そのものの「謡曲集」は、なんとか輪郭を理解できてもお能の理論書である「歌論集」は手に負えません。それでも、ともかく読むことに主眼を置いて努力したことを今でも覚えています。

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最後の手紙 The Last Message

2011.01.28

戦争はなに色?
戦争のにおいは?
あなたは国家のために死ねますか?

この質問は今NHKが取り組んでいる「あなたの戦争を教えてください。」というテーマで、盛んに街角でインタビューをしている設問例です。この映像は多く人が記憶に留めていると思います。
成人男女、ご老人、女子学生、小学生の男の子等々まちまちで、街ち行く人にマイクを向けます。
大人は戸惑いつつも真摯に、小学生は設問自体が意味不明と云う感じに、女学生は若さゆえきっぱりと、それぞれの思いを一言で表現しています。

ここに一編の哀愁を帯びた詩があります。
「空と風と詩」という題名の詩集からの抜粋です。

  『戦争中に
   四季が私の上を過ぎ、空の入り江を秋が溢れる。
   私は、秋空の星を何の苦労もなく数えられる気がする。
   それなのに、なぜ私は私の心に輝いているはずの
     一つか二つの星を数えることが出来ないだろう。
   もしかすると、夜明けが近いから?
   もしかすると、明日になっても、私にはまだ一夜がのこされているから?
   もしかすると、私の青春の日々がまだ数えつくされていないから?

   私は、一つめの星を「記憶」と名づけた。
       二つめの星は「愛情」。
       三つめの星は「孤独」。
       四つ目の星は「憧憬」。
       五つめは「詩」、そして六つめの星は「母」。
   そして私は、星を数えながら美しい名前を付けてゆく。
   席を並べた学友の名前。
   知らない少女 ぺ・キョン=オ。
   貧しい隣人の名前。
   Francis Jammes や Rainer Maria Rilkeのような詩人の名前。
   みんな星のようにあまりに遠い。
   そしてお母さん、あなたも遠い北のカンドにいる。

   言葉に出来ないものに私は憧れ、
   私の名前を星に照らされて丘に書いて、砂で覆い隠す。
   なぜなら、
   夜の番人の蜩(ひぐらし)が私のお墓を見て悲しげに鳴くから・・・』


私の母は86才で健在です。彼女の二十代の前半は太平洋戦争下の期間で、後半は終戦、占領の時代です。太平洋戦争が終結してすでに65年が経過しています。私の母のように無事に終戦を迎えられた人は幸福と言えます。そして当然ながら戦争体験者は高齢化が進み、徐々に生存者が減少しつつあります。今では鬼籍となった父も二十代に志願し南方への従軍を経験しています。が、私は父から戦争の話は一度も聞いた記憶がありません。母も同様です。今では意識的に避けていたと想像しています。それは、きっと奈落の底をのぞき見るような、云われもしない恐怖感がつきまとうからでしょう。
仮に両親に、
  戦争は何色?
  戦争のにおいは?
  あなたは国家のために死ねますか?
の質問はあまりにも空虚さがともない、喉の奥で絡みついて声を発することが出来ないでしょう。
いま、NHKが国営TVという立場から「証言記録 兵士たちの戦争」に加え、去年夏から銃後の体験を「証言記録市民たちの戦争」として放送しています。さらに取材で得られた数々の証言を放映し「NHK戦争証言アーカイブス」として記録しています。取材の根底には、あの時代、戦場で、或いは日々の生活の中で、人々は何を思い、どう行動したのかという人間の云わば尊厳に通じるテーマを追っています。それは戦争を知らない子供たちやこれから来る未来へメッセージとして伝えるための活動ともいえます。

さて、哀愁を帯びた冒頭の詩に戻ります。
この詩の作者は韓国で著名な詩人「尹 東柱(ユン・トン=ジュ)」のものです。
彼は1917年12月30日に中国吉林省の朝鮮族の両親の元に生まれました。一家はキリスト教信者で、彼はソウルの延世大学(当時は延禧専門学校)を卒業し、1942年に立教大学に留学しています。その後すぐに同志社大学に転校したようです。当時は第二次世界大戦下でした。彼は朝鮮人徴兵制度や民族文化の迫害などの抵抗運動に関与しているとの「治安維持法」に触れ、京都で逮捕され、懲役二年の判決を受けています。その後、福岡刑務所に服役中の1945年2月16日に獄死しています。来月16日は彼の命日と云うことになりますね。

享年27歳でした。

彼は学生時代より当時は禁止とされていた"朝鮮語"で詩作を続け、1941年12月に「空と風と詩」という自薦詩集を極秘裏に出版しています。冒頭の詩はその中の一編ということになります。
ユン・トン=ジュは現在の大韓民国においては「国民的な詩人」して著名であり、国外でもその素朴な作風は高く評価されているといわれています。
彼が在学した立教大学では"記念奨学金制度"が発足し、また同志社大学および京都造形芸術大学内に彼を讃える"石碑"があるといいます。

なお、彼の獄死の原因は人類史上、最も残酷な"人体実験"の疑いがあるとされています。

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積み重ね

2011.01.08

突然野球の話で大変恐縮ですが、
30年ほど前のメジャーリーグの1983年のワールドシリーズで、MVPを取得した捕手がいます。
彼の名前は「リック・デンプシー」という聞き慣れない野球選手で、当時から特に才能があったという評価を得ていませんでしたが、選手生活は25年を超えています。メジャーリーグでの四半世紀の在籍は、ボクの様な野球に詳しくなくても、それが並大抵で無いことは想像できます。

彼は、当時アメリカンリーグの西地区の覇者「シカゴ・ホワイトソックス」を破り4年ぶりに出場した「ボルチモア・オリオールズ」に属していました。また、このシリーズの対戦相手は「フィラデルフィア・フィリーズ」で、ナショナルリーグの西地区の覇者「ロサンゼルス・ドジャース」を破り、3年ぶりの出場でした。
この対戦での結果は、五戦のうち4勝1敗でボルチモア・オリオールズが、13年ぶり3回目の優勝しており、捕手リック・デンプシーは、MVPとして打率.385、4二塁打、1本塁打、2打点の好成績を残しました。しかも、リック・デンプシーはワールドシリーズ初選出でした。
彼のシリーズ出場はこの年だけでなく、1979年と1989年に計三回の機会を得ています。これは中々出来ないことして特記すべき成績と云えるでしょう。

彼のメジャーリーグの業績を、滔々と述べてきましたが、興味があるのはその成績を積み上げた「リック・デンプシーの野球哲学」です。彼の哲学がとても魅力的で、これを紹介したくて長々と説明しました。内容は彼が1988年に雑誌ニューヨーカーの誌上で明かしたインタビューの抜粋です。
全文を紹介出来ませんが、心に残るインタビュー内容を書き出してみたいと思います。

  『必要なのは、正しくプレーすることだ。
   必要なのは、正しく考えることだ。
   来る球、来る球すべてをひっぱろうなどと考えてはいけない。
   明日は相手をこてんぱんにやっつけてやろう、などと考えてもいけない。
   結果がどうなるか誰にもわからないからだ。
   何もかも自分ひとりでやろうとしてはいけない。
   一試合、一試合が大事だ。
   バッターは、一打席、一打席討ち取るしかない。
   試合前に話し合ったことや打ち合わせたことは、きちんと実行しなければならない。
   一度にスリーアウトをとることは出来ないし、
   一度に五点を挙げることも出来ない。
   ひとつひとつのプレー、ひとりひとりの打者、ひとつひとつの投球に集中することが必要だ。
   すると、スローモーションの映像のように、ゲームがはっきり見えてくる。
   うんとこまかいところまでが、分解写真のように見えてくるんだ。
      こういうふうにゲームに向き合うと、
        -----つまり、ひとつの投球、ひとりの打者、ひとつのイニング、
           ひとつのゲームに神経を集中させること------
   ふと気がついたときには、試合に勝っているんだ。』

なんとリアルで分かりやすい「野球哲学」でしょう。
野球に限らずスポーツの世界では、小さな出来事の「塵も積もれば山となる」の単純明快な法則が成り立っています。この心構えは、当然ビジネス・シーンでも人生でも、同様な実践哲学といえるでしょう。
マリナーズのイチローの2004年のメジャー新記録262安打も、彼の10年連続200安打の達成も、人生と同様に小さな積み重ねの連続だからです。150を超える試合数とその9倍のイニングスの間に積み上げられた数値は、試合数が嵩むごとに大きな差として圧し掛かります。

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使命

2011.01.01

当社のダイナミックPDF生成技術のコァは、設立後数ヶ月でその原型が出来上がりました。
設立後間もない2000年の夏のことです。

そして、時を同期するかのように、国内外の印刷機メーカーは革新的なオンデマンド印刷機の過渡期を迎えました。どの様な大型印刷機にも、RIP(リップ:Raster Image Processor)と呼ばれる一般的なプリンターのドライバーに相当するソフトウェアが存在します。
このRIPの役割は、DTP等 で作ったデザイン画像である PostScript データを、プリンタやイメージセッタの印刷機で出力のために、その出力解像度にあわせてビットマップデータに変えるプロセスを指します。当社の製品である「biz-Stream」でダイナミックに生成されたPDFは瞬時に大型印刷機のRIPに飲み込まれ、あらかじめ決められた出力解像度で印刷されることになります。

当時、瞬時に生成されるPDFと高機能大型印刷機をインターネットで接続し、人を介さずシームレスにオンデマンド・プリンティングを着目した企業は皆無でした。そのため当時は、多くの障害が存在しましたが、現在ではこの方法が主流になり、当社は早期着手の多くの恩恵を得ることになりました。

少し現代より時間を戻します。

1492年にクリストファー・コロンブスが意図しながら間違って「インド」を発見したことにより、東洋文明やイスラム文明や他の大陸が持つ独自文明等は、徐々に抹殺され、変わって西洋の近代化に突き進むきっかけになったことは周知の事実です。
そして、「1492」を著したジャック・アタリ(Jacques Attali)は、コロンブスの新大陸発見より遡る事60年前に出現した印刷術について、「この時代のいかなる出来事も、印刷術の出現が引き起こした驚くべき知的変動を抜きにしては理解しにくいだろう。」と明言しています。そして、「それはこの時代の自由の目覚めである」と本質を言い当てています。

冶金業を営むヨハネス・ゲンスフライシュが1434年にニュルンベルグで最初の活字印刷機を作り出しますが、彼の発明は注意を引きませんでした。後のヨハネス・グーデンベルクです。
彼はその数年後の1441年に両紙面に印刷できる画期的なインクを開発しますが、殆ど話題にならなかったといいます。
さらに、共同事業者のヨハン・フストと彼の娘婿のペーター・シェッファーを得て1448年にそれまで木製だった活字を金属製に作り変えることに成功しますが、この事にも誰も関心を示さなかったようです。
そして、1455年に最初の聖書の印刷を完成させますが、それでも全く反響は無かったようです。この聖書は、後に「グーテンベルク聖書」(「四十二行聖書」)と呼ばれる著名な最初の印刷聖書です。

しかし、グーデンベルクは、この二人の協力者との間で出資金に関する訴訟に敗れてしまい、自分の発明を彼らに譲り、結局袂を分かつことになります。そして、その二年後の1457年8月15日に彼らの手によって最初の印刷物「マインツ詩編集」が刊行されますが、この時、あらゆることが始まり、且つ広がることになります。それも強烈な速さで。

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切磋琢磨

2010.12.02

創造性はどうしたら手に入れることがでしょうか?

もともと創造性や独創性は、誰にでも生まれつき備わっているものといわれています。
最も肝心なことは、もともと生まれつき備わっているこの能力を自ら知り、
そして伸ばし、育てることができるかと云うことだと感じます。
しかし、自分の能力を知ることはなかなか出来にくいものです。自分の能力を知るには、たぶん強い「感性」が必要ではないでしょうか。
そして、、
発見された自分の能力は、可能性を秘めていますが、とても小さく壊れやすいものです。
さらに、その能力を伸ばすために純粋培養して「開花」するまで守らなければなりません。

ドイツの黒い森といわれる山岳地帯の名も無い村ボイレンで、
小さなガレージで始めた独創的なコンサルティング会社が、
やがて世界的にデザインを提供する有力企業へ成長する過程は驚くべきものがあります。

創業者の名前は著名な「ハルトムット・エスリンガー」で、
彼がガレージで立ち上げたのは「フロッグデザイン」という会社でした。

彼が始めたことは「ビジネスとデザインが手を組むことで、いかに驚くべき力が発揮できる」でした。
このあまり真新しくないデザイン主導のビジネス戦略には、
多大な可能性があるというコンセプトに注力し、それを実施し、
そしてさらに世界的に評価される企業に育った訳ですが、
実際にはこのような成功例はあまり無く、とても難しいものだと思います。

数年前に若く素晴らしい才能と人間性豊かな五人の若手建築家集団と知遇を得ました。
この五人は、全員が同じ大学の建築課を卒業した同期です。
いわば「同じ釜の飯を食った」という程度の関係であれば、世間にはいくらでも例があると思いますが、彼らは一味も二味も違います。
彼らは、大学入学の18才からいわば同志とも云うべき連携を持ったグループで、
その関係は15年経ても変わらず、それどころか発展しています。
もちろん全員が建築関係か、それに近い他の仕事を持ちながら、第一線で第一級のジョブをこなし、それはそれで社会的にも十分に評価される立場です。
しかし、著名な建築デザイン会社に属しながら、別に五人だけの緩やかな共和制とも云うべきバーチャル・カンパニーを持っています。

このバーチャル・カンパニーは彼らにとって、純粋の中にも遊び心を持ち、
それでいて人間くさい欲望のはけ口にも利用するという「とても、まじめなおもちゃ」のような存在です。
三十代で彼らのような経験を積める事自体稀有なことです。
また、そこまで至ったプロセス、バーチャル・カンパニーがプロデュースした作品等々、どれをとってもボクに出来なかった素晴らしい経験で、うらやましい限りです。その素晴らしさを彼ら自身が身にしみて実際に理解できるには、あと20年くらい必要かもしれませんが。

五十代半ばを超えた私の身長は、少なくとも同世代の中にあって、小さいと感じることはありません。しかし、五人の若者は全て175㎝の私より少なくとも10㎝は高く、全員に囲まれたは私はとても分が悪い。
なぜか彼らとは、気が合い、定期的に食事をし、飲み、語っています。
時には話題が嵩じて深夜に及ぶ事が多々あります。三十代半ばの彼らと歩調を合わすことは体力的にも、気力的にも並大抵ではなく、脱落寸前であることは間違いありませんが、なんとかついて行っています。
でも、気のいい彼らは私を帰宅させることはせず、スムーズに抱き込んでいきます。

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肥満とエネルギー

2010.11.20

何時だっか失念してしまいましたが新聞記事のコラムに「睡眠不足は万病のもと」という納得いく記事が紹介されていました。
気になる事があるとメモをとるようにしているので、細かくは書き込んでいませんが、大意はこうです。
健康的なひとが一日で取る睡眠時間は7-8時間で、これは世界的に認められ、且つ一致した見解だそうです。睡眠時間が短いと、"心筋梗塞"などの危険性を高めるそうです。また、同時に肥満、糖尿病などの発生のリスクを高め、恐ろしいことに"老化"や"生活習慣病"を引き寄せるらしい。
その理由は、交感神経を活発化、血圧の上昇を招いたり、代謝異常や動脈硬化の促進などによると言うことです。
よって、睡眠不足は現代でもっとも注意喚起されている「メタボリック症候群」等の病気を引き起こす重要な要因にあげられるとコラムニストの大学教授は云っています。

私は数年前まで深夜二時に寝て、早朝六時に起きるという睡眠時間4時間のパターンを続けていました。
しかし、ここ五年ほど前から徐々に20年続けてきた睡眠時間4時間と云うパターンを5時間から6時間程度に延ばしています。
理由は簡単です。単に加齢によって体力と睡眠時間のバランスが取れなくなったからです。
加齢による体力低下は当たり前のことですが、少々悲しいというか、自分に不甲斐なさを感じます。
このコラムによると、特に女性で、4時間以下の短い睡眠では、心筋梗塞などの疾患による死亡が約2倍と説明されていました。
肥満の場合は男女問わず短時間の睡眠を続けていると"効果的"に太ると言うことでしょうか。心筋梗塞は怖いですが、じっくりと効いてくる肥満は万病の元になるわけで、もっと始末に悪いということになりますね。

しかし、私たちにとって「食べる」と云うことは基本的な関心事です。
私たちは食べなければ生きていけません。
その理由は、この複雑なメカニズムを有する私たちの「体」は、それを維持するために恒久的に多くのエネルギーが必要であり、それは食べることの行為に他ならないからです。

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Dopamine

2010.11.13

先月半年ぶりに韓国に出張しました。
出張の数日前のある日の午後の事でした。
お客様訪問の後、帰社途中でネクタイを買い求めました。
素材はニットでとても細く、色は美しい黄色です。
とても発色のよい黄色で、且つ細かな刺繍がとても綺麗でした。
ネクタイの色や形は自分の中にだけ流行があるようで、一般的な流行と非同期で感ずるようです。なので、自分の好みでしか行動しません。勿論時たま頂く事もありますが、残念なことに一生箱の中か、または勝手に甥っ子が持ち帰ったりもします。

後日、衝動的に鮮やかな黄色のネクタイを購入したことを、子供のころからとても強いスピリチュアルを持っている知人に話したら「とてもいいことです。」と思わぬ反応を示しました。
私と黄色いネクタイの相性は現在のところいい様です。

時折、街の中をお客様訪問の行き帰りで好きなものに出会います。その時、その瞬間に、きっと私の脳はドーパミンが多量に放出しているのでしょう。
なぜって、気持ちいいからです。
人は美しい音楽や美味しい食べ物、好きな異性に出会ったとき、さらに人間自身が本来持つ本能的な喜びを感じた時、またはある行動をとって周囲に認められたり褒められたりした時に、脳内に神経伝達物質が放出されるそうです。
この物質と云うのが「ドーパミン」だと、脳科学者の茂木健一郎は説明しています。
特に人間の脳が一番喜びを感じるのは、他人とのコミュニケーションだと彼は断定しています。
その中でも、特に目と目とが合うことが「」はとても喜ぶらしいです。そう云えば。。。頷けるか。
コミュニケーションでの基本は「話す」という行為ですが、それよりも「アイコンタクト」の方がもっと効果的ともいいます。ダイレクトですものね。
昔から「目は口ほどにものを言う」と云いますから。

さらに、茂木健一郎は語ります。
第一印象は重要なファクターだと。
その為に女性は全体のお化粧もさることながら、アイメークを念入りにするのはこのためだそうです。
アイラインをくっきり強調し、アイシャドウでより鮮明に印象付け、マスカラでまつ毛を強化して人目を引く。メイクのひとつひとつに脳に喜びを与える行為を女性は自然に行い、他者とのコミュニケーションに備える。
他者と目と目とが合えば、「このひとから注意を向けられている」や「関心を持たれている」と感じ、脳にドーパミンが発生し、喜びを得るという図式らしい。そして、より美しなる。この繰り返しだと。それも毎日です。これはすごい事です。

そう云えば、子供が困ったことがあったとき、無意識に母親の方を見る。すると母親もやさしく見つめ返すことで、見つめ、見つめ返す。見つめ返された子供の脳は喜び、より愛情に濃厚さを増し、親子間の絆がより強固になるという連鎖反応が行われているのでしょう。でも、昔の親子関係はそうでしたが、今はなかなか難しそうですね。

ただ、想いを寄せる人に出会えれば脳は喜び、ますますその人に会いたくなるものです。ドーパミンの放出によって脳は快楽を得て、更に、更に、快楽得ようと行動を強化するということになります。
これを「病みつきになる」かまたは、「クセになる」と云い換えましょう。
茂木健一郎さんが云いたいのは、
女性がこの世に存在すること自体が、感動を呼び、共感させ、感謝の気持ちに変わると云うことでしょうか。
だとしたら、私の母の口ぐちのように、女性の存在意義は高く、大切に守るべきものなのでしょうね。

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使命と時間

2010.06.19

NHK大河ドラマ「龍馬伝」の人気にはすごいものがあります。
その人気の秘密の一端は福山雅治かもしれません。
NHKの中でも、予算を潤沢に使えるこの大河ドラマは、日曜日のゴールデンタイムに流されることもあり、相当意気込んだ番組にならざるえません。その意味では、女性に人気絶大の福山雅治の起用は的を得た配役という事でしょうか?

勿論、時代劇ドラマには、必ず売れると言う歴史上の人物がいます。
織田信長や坂本竜馬はそのもっとも売れる部類の魅力的な人物ということになります。
ボクがその魅力的な竜馬に出会ったのは十代の頃でした。もちろん司馬遼太郎の「竜馬が行く」によってです。司馬遼太郎のこの本はベストセラーになりました。誰にも歴史上で魅力的と感じる人物がいると思いますが、ボクの中では彼もそのうちの一人になりました。

そして先週、ドラマの中の龍馬は大きな出来ごとに遭遇します。
それは、同じ郷士の幼友達の望月亀弥太を池田屋で失うという悲劇です。この時代、太平の世と云いながら激動の時代を迎えています。その前には平井収二郎の切腹の知らせを受けます。また、岡田以蔵も捉えられ後に処刑されます。その前には先輩で遠縁の武市半平太(瑞山)が縛に付きます。
特に半平太は数ヶ月間投獄され、この後切腹させられてしまいます。外国の重圧もさることながら竜馬の近辺ではシッョキングなことが数多く起こります。

龍馬の青年期は模索の連続でしたが、このころから彼はゆっくりとですが、自分は何をすべきかを探し当てます。そして、その使命を果たそうとします。
しかし、彼の目的は半ば達成したかに見えましたが、突然不慮の死を遂げます。
時は、1867年12月10日、彼は未だ31歳でした。
竜馬は志を持ち、天から与えられた使命を全うしようと生き抜き、半ばでその生命を閉じました。
まだまだ青年という31歳という若さで。
はたして、竜馬の一生は早すぎた人生だったのでしょうか?
それとも龍馬にはまだまだ使命があり、なすべきことが沢山残っていて、もっと生きてやり遂げなければならなかったのでしょうか?
かれの使命と天命を思うとき、ひとの一生とは、どのように繋がっているのでしょう。

私たちの生活の基本は流れいく時間です。人生は「時間」であるという基本的な概念から逃れることはできません。竜馬のように31歳の若さで世の人に惜しまれて逝っても、またボクが長生きをして100歳で天寿を全うしても、そこには時間と云う概念が流れています。
私たちは、それを「なにげなく」ですが、この時間と云う概念を信じ込んで暮らしています。
しかし、ふと気がつくと、今私たちが何気なく信じ込んでいるこの常識をなんら疑うこともなく、
そして、これをずっとそのまま信じ込んでいいものなのかと思ったりもします。

それは、私たちの身近に存在する動物の時間と云うのを知ったからです。
時間の概念は森羅万象、この世に生を受けたすべてのもが受ける前提でもあり、概念でもあります。
ここで、話しを人を含めた哺乳類の「体の大きさと時間との関係について」を考えみたいと思います。私たちは、一般的に体の大きな動物はゆったりと動き、それを安定感があるとを感じ、それに反して小さな動物はキビキビと活動し、小気味良いと感じます。人も大きな人や小柄な人について同様な感覚を持つことができると思います。

人も含めた哺乳類のこれら動物たちの「体重とその時間の関係」を調べた学者がいます。
哺乳類のそれぞれを体重とある時間のを割ってみると、
    「時間は体重の1/4乗に比例する」になるそうです。
簡単にいえば、体重が増えると時間は長くなるです。ただし、1/4乗という平方根の比例(さらに平方根)なので、方式は単純ではありません。
例えば、こうです。体重が16倍になると、時間は二倍になるという計算式は成り立ちますが、体重が16倍ならば、時間も16倍という比例数ではありません。

この時間ですが、ほぼなんでも当てはまるそうです。
例えば、寿命成体になるまでの時間性的に成熟すまでの時間赤ん坊の胎内期間息をする時間間隔心臓が打つ間隔腸が一回活動する時間血が体内を一巡する時間などです。
体重が大きければこの一回が長く、体重が小さければその回転は素早い。という訳です。

さぁ、問題は、ここです。話す前に先に答えを知りたいと思います。
動物の大きさが異なると機敏さや寿命が違ってきます。
行動範囲や生息密度も実は動物の大きさ関係が深いといいます。
でも、一生に打つ心臓の総数や体重当たりの総エネルギー使用量は、大きさによらず同じなのです。
これを言い換えると、
それぞれの生き物は、一生と云う時間のなかで夫々「時間の流れる速さが異なる」と云うことになります。
回答までの導きを聞くと自然に納得できますが、各々の事象は驚くことばかりです。

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負けざる者たち

2010.06.15

天然石で最も高硬度のダイヤモンドは、その硬さゆえに原石同士で磨かれるといいます。
そして、研磨され輝きさを増した8面体は人々を魅了して止まない。特に女性に。

人もまた、人間同士の関わり合いを通じて切磋琢磨されるものです。
「切磋琢磨」は詩経に出でくる故事です。
角や象牙を刀で切り出し、やすりで研ぐことを"切磋"といい、また玉や石を槌で打ち、砂や石で磨きをかけることを"琢磨"と云うそうです。詩経に綴られたこの意味は、学ぶだけでは表面的であり、徳をおさめるために、努力に努力を重ねるとあります。

先日10年来の知人と食事後の二次会々場へ向かう途中の出来事です。タクシーは、丁度新宿の職安通りをノロノロと走っていましたが、僕を肘で突っつきながらニッコリと笑いながら指を指します。
彼の白く長い人差し指の先に巨大なスクリーンがありました。
「あぁ、あれかと」とボクが頷きました。少し前の話題がワールド・カップでした。職安通りにある「大使館」という焼肉屋さんがありますが、そこの駐車場入口に巨大なスクリーンを設置し、集まってくる韓国人観客に対してW杯の実況放送すると云うのです。設置は2002年のW杯からだそうです。いまや名物になっているとか。
彼の説明によると、
ここ職安通りと新大久保は韓国人の人口密度が極端に多い衣・食・住の街だそうです。そう云えばハングル語の看板が数多く見受けられます。
すでに先週から始まったW杯南アフリカ大会(2010 World Cup)で韓国とギリシャ戦が先週土曜日の夕刻に行われています。結果は2:0で韓国の圧勝に終わっていますが、この巨大スクリーンの前では集まった韓国人群集の狂乱さが十分想像できるスクリーンの大きさです。

深夜の渋滞のタクシーの中で彼の話をぼんやりと聞きながら、ボクは全く別なことに想い耽っていました。それは数ヶ月前に見た映画で、その時に感じた記憶が再び蘇って、ひとり感動の渦にいたわけです。一生懸命説明している知人は少々滑稽でしたが、それでも彷徨っていた時間は5分とは経過していなかったと思います。

それは実話の映画化でした。
俳優は最も好きなモーガン・フリーマンとマット・デイモンの競演で、監督はクリント・イーストウッドという豪華さです。オスカーを四つも取ったクリント・イーストウッドが、監督第30作にこの『インビクタス/負けざる者たち』という映画を選んだそうですが、後日このキャッチコピーは制作会社の作りだしたものだと言うことが、イーストウッドのインタビューで分かりました。天才職人イーストウッドは、自分が何作作っているかなどと、あまり気にしていない事が分かったからです。
この映画はサッカーでなく「ラグビーのワールドカップ」の物語です。

主人公はモーガン・フリーマン扮するネルソン・マンデラ大統領とマット・デイモン扮するラグビー・ナショナルチームのキャプテンであるフランソワ・ピナールの二人です。
南アフリカにとって、「ラグビーやサッカーは単なる娯楽的なスポーツに留まらない!」
それを証明してくれたのがこの映画でした。
この映画の社会背景は、1994年に南アフリカ共和国で初の黒人大統領となったネルソン・マンデラの登場から始まります。マンデラは、白人支配によって約三世紀半の長きに渡った悪習「アパルトヘイト(人種隔離制度)」による人種差別に終止符を打ち、ゆっくりとですが確実に新しい南アフリカ共和国をスタートさせます。

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風を読む

2010.06.13

鳩山さんから管さんに首相交代のリレーがされたのはつい先週のことです。
首相が変わることで政治や組織や行政も大きく変化するのは当然のことですが、メディアには「風が変わる」や「風向きが変わった」のキャッチコピーが騒がしい今日この頃です。

あるブログに『メディア「首相交代効果」考』という興味深いテーマがあります。メディアに対して手厳しい論客といえます。掲載内容は、"メディアが取り扱う世論調査は「メディアとしての使命の放棄」と伺える調査時期の不自然さや一部の政党への偏頗がある"と指摘しています。かなり手厳しいですが、読むとなるほどと納得のいく理論展開でもあります。

風を読む」は示唆にとんだ言葉として広く認識されていますが、他に「船出」や進路を読み取る「コンパス」も政治や経済だけでなく、企業経営者が自社の進路や経営の視点を例える時によく使われます。

帆船が最も輝いた時代を「大航海時代」と歴史を感じさせる表現を使いますが、この時代の生い立ちを表す三つのキーワードがあります。

最初のキーワードは、「黄金と胡椒」です。とても魅力的な言葉として記憶に鮮明です。黄金=マルコ・ポーロ=フビライを連想し、胡椒はオランダ東インド会社=ヨーロッパ人の食生活です。大航海時代は一般に十五世紀から十七世紀を指しますが、実はその胎動は十三世紀ごろから始まったとされています。ご存知のマルコ・ポーロの「東方見聞録」の一説にこんな表現の口語体があります。
ジパングは東海の島で、大陸から千五百海里にある。」といい、
「黄金が非常に多く無尽蔵であるが、王がその輸出を許さないため訪れる商人はわずかしかいない。」そして、わが王であるフビライの日ごろの言動は、
「この島はわが国に風聞するほど富が大きく、この島を征服し領土としたい。」と記しています。
当時、この見聞録を読めば、フビライでなくても誰もが東方への関心が高まったであろうことは、容易に想像できます。
また、フビライの関心事は黄金でしたが、西ヨーロッパ人においては、彼らの食生活に必須の胡椒や肉桂(生薬、ニッキ)を大量に安価に手に入れることを望んでいました。香辛料によってヨーロッパ人の食生活は一変します。それもアラビアの仲介商人を通さず原産地の東インドから直接手に入れるルートを長く切望し、実際に模索もしていました。

歴史上、最も大胆な条約として知られてるトルデシリャス条約を締結したジョアン二世は締結後まもなく壮大な計画の前に死去しますが、彼の甥のマヌエル王が即位すると、第一次インド遠征を実施します。
この司令官がかの有名な「ヴァスコダ・ダ・ガマ」です。1498年7月8日のことでした。リスボアを出港して翌年の5月22日にキャラコの語源になったカリカットに到着しています。ガマは当時のカリカット王国と直接の通商条約を提案しますが、理由は不明ですが決裂します。そして、1499年9月に帰国を果たしますが、彼はきっちりと貿易現状調査報告書と一緒に香料等の価格表を綿密に調べ上げ、これを王に提出しています。その結果、丁字(グローブ)等の西欧価格は現地輸出価格の約9倍程度あることが分かりました。
残念なことに、その後最も重要なキーワードとなる「マルク諸島またはモロッカ諸島(別名香料諸島)」は入っていませんでした。そこまで調査の期間や実行力(資金、情報網など)がなかったかも知れません。
輸入価格が現地価格の9倍の手数料が掛かる「胡椒の直接購入」はヨーロッパの商人の間では、羨望の的であったろうと想像できます。ここに西欧からインドへの「東方航路」が確立しました。
故に「黄金と胡椒」はその必要性から人の目を東に東に向けたことになります。

話を少し寄り道すると、
ジョアン二世の壮大な計画は「コロンブス・シッョク」が作用していると云われています。クリストファー・コロンブスは西回りで「ジパングかカタイの近く」に到達したことを帰航の途中でリスボアへ寄港したことで知ります。王のシッョクは相当なものでしょう。また、1488年にはエンリケ航海王子の意思を継いだバルトロメオ・ディアスが喜望峰を廻り、インド洋を目の前にして引き返した(実は船員の暴動によって)ばかりのときでもありました。ジョアン二世の焦りはよく理解できます。

さらにもうひとつ蛇足を。
ガマによって確立した東方航路により小国ポルトガルは香料、金、象牙などの貿易を独占し、首都リスボアの繁栄を作り出します。それまで繁栄していたジェノバやヴェネチアの衰退と対照的になります。

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しのふ

2009.10.18

私のとても若い知人の女性から、ある問いかけをされて戸惑ったことがあります。
その問いかけとは、
「私は、彼からのプロポーズを望んでいますが、どうしたら彼は私にプロポーズを言ってくれるのでしょうか? 教えてください。」
「う~ん」と、しばし絶句。誰でもこの難問に答えるすべはありません。

そういえば、
NHKの大河ドラマで直江兼続の波乱万丈の生涯をドラマ化して放送していますが、少し前の放送で、兼継と千利休の茶室での問答がありましたね。利休の時代では、特別な場合を除き「茶の湯」はまず男のものでした。
戦国時代は数十年戦(いくさ)に明け暮れていたせいで、平均寿命は18歳と言われています。ですから、戦で命を落とすことは日常茶飯事ということになりますね。なので、あの時代に、「人生50年」は、命を全うした寿命と言う訳です。
だからこそ、その覚悟を「日常とする生活」の中での"茶の湯"というひとつの儀式の中で「一期一会」という感覚が自然と身についたのではと思います。多くの武士(もののふ)が命を落とすことが日常的な中で、過酷な戦国の世を生き抜いてきた武士のみが茶会での一期一会の重さを知っていたともいえます。
現代の私たちはどうでしょう。
私たちは一期一会の意味や理由をよく理解していますが、その実感はありません。いまの世の中で、日常的に命を落とすことが稀だからです。もちろん不治の病気や交通事故や偶然の犯罪事件に遭遇する不慮の事故も無くはありませんが、それとて稀といわざる得ません。

兼継は兜に「愛」をという文字を象った敬愛の精神をシンボルマークにしていますね。この時代には稀有な概念というべきかもしれません。茶室で問答した「利休」も同様に無言の表現を行ずる稀有な存在といえます。
この二人が同時代に生きたこと自体が稀有な事かも知れません。

さて、冒頭の若い女性の「恋愛」の悩みに戻りますが、
私たちの先祖が「愛」を表現するのは、ずっと後年の事と言われています。
万葉の時代を生きた私たちの先祖は、思慕することを「し・の・ふ」という言葉で表現しています。「愛」とはまだまだ距離がある表現だと感じませんか?
この「しのふ」はどうも故郷を思慕または賛美するときに使われていたようです。後年の私たちが使う「愛」の原型であろうという見方が強いですが、まだしっくりこないです。
また、面白いことに「し・の・ぶ」という言葉を耐える事の意として使われています。「しのふ」と「しのぶ」は清濁の違いで意味も異なりますが、しかし同類の言葉として存在しています。日本語の語彙の情緒さと、外国人が戸惑う表現の複雑さです。
古代の人は、思慕することと、忍耐することを同類でありながら区別する感性を持ち合わせていたことに驚きを感じます。
そして、その語彙を深く読んでいくと、
「思慕」とは、じっと思慕することと、もうひとつ、思慕の重みに堪えることと表裏一体の関係であることを想像できます。そして、もう一歩深く突っ込んで「重い抑圧のない思慕」などは、所詮は存在しない思慕というこになります。
この思慕ですが、その重みの中からな自身の心の内を相手に放ってゆける思慕と、重みの中に打ちしがれて沈み行く思慕の二つの展開になると思います。
なので、思慕を寄せる事は、賛美することと言い換えても良いのかも知れません。その方が自然ですね。
「賛美する行為」とは、いかに抑制された「思慕が存在する」ものであるかを一層明確に示しているというわけです。
そこで、兼継の「愛」の兜ですが、ご存知のように「愛」は、漢字として中国から輸入され言葉ですから、元来私たちの先祖である古代人たちが、本来持っていたものでないことは想像できます。
ですから、現代の愛のルーツを探すとしたらやはり私たちの本来の言葉である"やまとことば"からということになるのでしょうか。

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連想と日本人の恥

2009.08.07

夏の開放的な空の色や強い日差しや木陰を通り抜けた新鮮な風に出会うと、子供のころの出来事を思いだすことがあります。それも中学生や高校生でなく決まって小学生のころの事です。
例えば、今日の様な休日の朝をゆったりと迎えたりすると、より感じます。強い日差しを早朝から感じ、テラスの前にある桑の木の葉が、風で強くゆれるだびにリビングの中まで差し込んだ光の影がゆらゆらと揺れて、連想を促進するようです。
連想とは、ひとつ手がかりがあると、それが引き金になって止めどなく広がる様です。

自宅の小さなポーチに、ピンクのツツジが未だに咲いています。
ツツジの季節は春先が、とても鮮やかな色を見せてくれますが、いくつかの鉢植えのツツジは、手入れの甲斐あってか、未だに数輪の花を保っています。
先日のよく晴れた午前中に、そのツヅシの花に「カラスアゲハ」がその大きな羽をゆっくりと羽ばたきながら吸蜜作業をしています。おぉぉぉと、思わずカメラを取りに自室にもどり、調整をしてファインダーを覗いたころには、ゆっくり羽ばたいて次の好みの場所に移動していきました。とても残念な思いをしました。
「カラスアゲハ」自体はそう珍しいものではありませんが、美しく咲いたツツジのピンクとカラスアゲハの燐粉で輝く漆黒の大きな翅(はね)のコントラストは、とってもファンタジックなんです。彼女は開長すれば10cmは有にある大型の蝶なんです。
私は、海も山もある田舎で育ったので、たくさんの野生の昆虫類や魚介類と一緒に育ち、遊んだので、今思うととてもエキサイティングで幸せな環境にあったと改めて感じています。

子供のころは「国蝶」である「オオムラサキ」も意識せず、何度となく見ましたし、ツツジにとまった「カラスアゲハ」は普通の蝶としての認識が強く、珍しい昆虫の部類ではありませんでした。このシーズンの小学校低学年から高学年の男の子の興味はやはり「カブトムシ」や「大クワガタ」でした。それもまだ、誰も捕まえていない時期に持っていることが男の子のステータスでしたので、ふたりの兄から教わった樹液の多く出すカブトムシの秘密の樹木は誰にも教えず、一人で採りにいったものです。もちろん、クラスの女の子には見向きもされない行為ですが。
初夏の早朝のまだ夜が明けきっていない午前四時ごろ、夜遊びして疲れきったカブトムシたちが、お腹をすかしておいしい蜜を吸いにくるのを待ち構えるようにして、一回に20-30匹捕まえることができます。入れ物は深めの金属製のバケツです。なぜかというと、金属なので滑ってあがってこないからです。バケツの中でオスが何十匹も渦巻いいるなんで、いま考えると気持ち悪いですね。もちろん、価値の無い(失礼!)メスはリリースします。

都会でありながら、二つの大きな公園の狭間にある自宅は、野鳥や昆虫が比較的多くやってきます。特に「シジュウカラ」は数年間かけてカップルの餌付けに成功したので、毎日数回は餌のひまわりの種を採りに来ます。シジュウカラはとても警戒心の強い小型の野鳥ですが、数年間の餌付けもあって、しばしポーチのテーブルの餌と水を飲んだりして、帰って行きます。ただし、一度に二羽が餌をとることはしません。やはりそこは野鳥です。しっかりしています。

さて、蝶の話に戻りますが、
カラスアゲハ」は黒地を基調にして、オスは青緑の光沢がとても強く輝いて見えます。メスは紫の麟粉(りんぷん)が角度によりますが、強く見えます。
少し昆虫(蝶)を好きな人だと理解できますが、上翅(えわばね)の裏ににとっても特徴があるんです。人間もそうですが、昆虫も全部同じように見えて、実は全て単体での固体差があります。なので蝶の翅も実は型が全て違いますが、翅の裏に白く帯が浮き出てい特徴があります。色合いとして、カラスアゲハより少し見劣りするクロアゲハという蝶がいます。この二種類の蝶の違いはこの白い帯です。この帯のコントラストがとても美しいですよ。

子供のころは、昆虫採取という夏休みのテーマがありましたが、山や野にいって手当たりしだい「蝶」や「トンボ」を捕まえたことがあります。もちろん、宿題の標本にする訳ですが、蝶に防腐剤等いろいろいな薬品類を注射し、標本箱に羅列しました。いま思うと、とっても残酷なことをしていると慙愧に耐えません。今では、まったく逆のことをしています。たとえば、自宅の観葉植物に遊んでいるクモをそっと捕まえて、ポーチの植木に逃がしてあげたりします。山にも海にも慣れ親しんだ小学生頃に、たぶんそれを教えてくれる大人はいなかったと記憶します。ですので、自分の行動に子供とは言えまったく躊躇しませんでした。

小学生のあのころから現在まで、多くの失敗や恥を積み重ねてきたいようです。強烈に覚えていること。忘却のかなたにあるもの。そのレベルはまちまちです。今振り返ると「ゾッ!」とすることもあります。さて、自覚は、どのように変化し、僕の今にあるのでしょうか?

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紙とデジタル

2009.07.27

最近は本を読む時間があまり取れません。
忙しさを理由にしている向きはありますが、とにかく公私共に趣味や雑用が多く、じっくりと本を読む時間がなかなか取れない状況です。
それでも、最近十冊程度の本を読み終え、さらに二冊の本が執務机に載っています。
読み終わった本でとても感銘をうけた本は、
風の中のマリア」「ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて 」の二冊でした。
そして、これから「lQ84」と「シリコンバーから将棋を観る」の二冊を読みたいと思います。
いずれもアマゾンで購入したものです。
そこで、
最近「スクリブド(Scribd)」というサイトがあることを知りました。
"いたずら書き"または、"走り書き"という意味の英単語のScribbledを略したもので、「誰もが創作を楽しみ、その喜びを皆と分かち合ってほしい」との意味合いがあるそうです。
このサイト、いろいろな面で画期的です。

もう、二十年くらいになりますが、この「スクリブド(Scribd)」の記事を読んで突然思い出した事があります。それは物理的な本とデジタルの違いを鋭く洞察したエッセイでした。
タイトルも誰が書いたものかもすっかり忘れましたが、主旨は鮮明に覚えています。
それは、私たちが今手にしている本という物質的な制約がなくなってしまうという物語です。
コンピュータと文学者の結びつきは、非常に古くワードプロセッサーの登場から密接な結びつきが有ります。いまでは、書籍のデジタル化は一般的なことになっています。それは、あらゆる書物が仮想空間のなかで電子化されつつあるという事実を物語っています。
ネットは、膨大で、かつ巨大です。
物質性を離れると言う事は、今まで私たちが千年以上に渡り血の中にまで色濃く定着し、固定化した書籍の文化を離れると言う事が前提となりそうです。
正確には、ネットがそれを実現可能な方向に導いていると言う事になるでしょうか。
このあたらしい文化は確実に新たなフェーズに進んでいると思います。
言い換えると、我々が慣れ親しんできた、モノとしての本の属性がもしかすると、失われてしまうのかも知れないと言う事です。
これを私たちは、どのように考えたらよいのでしょうか?

デジタル化された本は、物質では有りませんので、いわゆる「パルプ」は不要です。
あるのはネットが繋がったディスプレーかモバイル端末か専用機です。
たぶん、電子の本には私たちが、長い間文化として作り上げてきた慣れ親しんだ「厚み」とか「重さ」とか「匂い」が有りません。
果たして、本が本来持っている「厚み」「重さ」「感触」といった属性を全てすててもいいものなのでしょうか。

一枚一枚めくる指の感触、脇に抱える厚みと重さ。
ページを開いたときのインクの匂い。
どれをとっても独特な雰囲気です。って、少女っぽく考えるのは感傷的で、ITを推進する企業の経営者の言葉ではないのかも知れませんが。
しかしです。本が本来持っているこのような属性と書かれている内容は、全く無関係といえば、その通りなんですが、だからと言って、本当にそう「言い切って」いいものでしょうか。

本の物質性と読書をする行為との間には、もっともっと深遠な関係が存在しているように思えてならないのです。
次世代には、物質としての形を持たない「本」が、前提になりそれを受入れ、それに慣れ親しんで
しまうと言う事なのかもしれません。なんて、SFっぽいンだろう。
しかし、いまの今、考えるには、ちょっと恐ろしいことの様に思えます。
もちろん数十年といった単位だとは思いますが。で無いかも知れないところに摩訶不思議がある訳なんです。
物質と情報は、独立してしまい具体的に本を読むという「心」とか「体」とかの感性に対して、別な次元での知識を習得するという行為になり、両者との関連性をうまく両立しなければ為らないということになりはしませんか。
いろいろ、考えさせられてしまいます。

たとえば、物質的な「本」であれば、表紙を眺め、ページを開き、めくり、閉じる。
「開く」という言葉には「啓く」という意味が附帯します。
この「啓く」は当然のことながら「啓示」に通じ、この言葉の持つ意味を探れば、宗教的な起源にたどり着く事は明白です。

ひとつ印象的なお話が有ります。
それはある「学ぶ」という物理的な光景です。
ヘブライ人(すでに死語に近い)の子供達が、ヘブライ語のアルファベットを習う最初の日に、教師は子供たちにそれぞれ石版に最初の文字を「蜜」で書かせ、それを舐めさせる儀式があるそうです。子供たちは、文字を最初に学ぶ瞬間に、知識は「甘美」なものであることを感得するちがい有りません。素晴らしい儀式と思いますが、もうこの儀式は古典的な儀式しかもしれませんね。

この時の「文字」の持つ力は、当然のことながら活字でも不可能であるし、ましてやデジタルでは有得ません。この儀式は、文字を単なる伝達媒体とする考えからは、絶対に出でこないでしょうね。
文字が電子化される事により、本来の読書や読書をするという行為・行動が培ってきた指先や手の動作が電子化してしまう事により、本来持ち続けた「感触」といった様な属性がほとんど失われてしまったらどうなるでしょう。ヘブライ語を最初に習った子供たちの教育という中に持っていた、文字と味覚の直接的結びつきは、日本の(漢字文化圏)「書道」に合い通ずるかも知れません。
書道を習う子供たちは、決まって手やブラウスの袖やズボンを墨で必ずといっていいほど汚します。文字は「染み」を作るものである事を、手を汚しながら体で理解することの重要性は、文字の電子化の中には絶対に存在せず、それがまた、大きなうねりの波に呑まれて、本が本来持ち続けた属性をすべて淘汰していくのでしょうか。

きっと、そのこと自体、今の時点で重大事であると言う事に、私たちは、たぶんはっきりとは認識できず、何十年という歳月によりその重要度をはっきりと認識し、しかしその時にはきっと、取り返しのできない染みを発見し、その広がりに呆然とするのでしょうね。

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食と芸術

2009.07.24

雨ニモマケズ.....風ニモマケズ.....雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ............」
そして、
「.....一日ニ玄米四合ト、味噌ト少シノ野菜ヲタベ.....」と続く詩は著名な明治の大詩人・宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中の一小節です。誰でもが一度は口ずさんだ有名な詩です。賢治は他にも身近なことをテーマした詩が多く、なかでも「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」は幻想的で、叙情的で、とても美しい詩です。それに夢があります。
彼は、叙情的な詩を詠う詩人としてだけでなく..一日ニ玄米四合ト、味噌ト少シノ野菜ヲタベ..にあるように、農民の日常生活を芸術の域にまで高めようと理想に燃えていた科学者でもあったと言われています。食というあり前のことを、単に食の充足のみとする従来の考えから脱却する発想をもっていたと言われています。
「食」を理論的な視点で語ると、
『人間が社会的・歴史的存在である限りにおいて、食にまつわる儀式や習慣、食品や料理法への知的理解度、さらには食事の作法やその場での演出等々、全てをあわせ持ったものが「食」であり、食そのものが重要な文化的要素である』だそうです。まったくもって妙を得ていると思います。

しかし、過去の日本の文人や学者は、どうしても孔子の「論語」の思想が支配的だった為に、いわゆる「君子は道を謀りて食を謀らず」や孟子の「君子は厨房を遠ざく」といった類の儒教的な発想で長い間推移してきた背景があります。私も大いに孟子の教えを盲目的に守っているひとりであると自認していますが。。。。

私の知人に自分の本業のほかに「ベジタブル&フルーツマイスター」の活動を野菜ソムリエとして、アンチエイジングライフを楽しんでいる方がいます。
コンセプトは、「アンチエイジング医学に基づいたものでありながら、人間の自然治癒力、免疫力、潜在能力を引きだすこと。」だそうです。野菜と果物に含まれる抗酸化物質による酸化防止等によって、驚くほどアンチエイジングになり、生活空間を変えられるそうです。よ。

食とは、全てひとの口に入るもの。
その影響は10年後や20年後に現れてくるものだと思っています。とても重要な生活そのものですね。
ところで、
日本の芸術や芸能のルーツを辿れば、やはり中国から渡来したと誰でも想像し、知っていることですが、日本の芸術や芸能のほとんどは中国のいわゆる唐様の芸術や芸能の輸入です。しかし、一旦輸入されると、国内に定着しはじめ、その後「その風土や習慣にとけ込んでしまう」ところが日本的でとても面白いですね。また、それ以前に渡来して定着したものにも、新たに新規の文化が混入し、重なり、より和洋化された文化が醸成されるという訳です。そして何年も重ねて、混ざって、独自化したのですね。
日本人の受け入れ安さと工夫は素晴らしいものがあります。時間が経つにつれて日本固有の文化に成長するのですから。

芸術や芸能」はそれぞれの発展過程で、修行や鍛錬が厳しく行われ、競演や競技に発展し、理論武装され、その道の極意が発見されるまでに至ります。
日本の文化は多岐にわたりますが、代表的な芸術・芸能は六道と言われいます。
書道、花道、連歌道、能楽道、花道、茶道です。

しかし、前述の「料理」または「料理法」に関する芸術性や長い伝統で育成された文化は、なぜかこの六道に列挙されていないのです。それは、儒教のせいでしょうか。それとも、元々食という文化は理論や極意を必要としない領域なのでしょうか?

現代まで、料理または料理法も当然ながら長い年月を経て熟成し、芸能といわれる域に達していると感じますが、さて「」に数えられないその理由はあるのでしょうか?

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おひとり様一回限り

2009.07.20

おひとり様一回限り」とは、映画館や音楽会の入場券の裏面に、小さく印刷れているその券の使用目的です。
現在では、インターネットやチケット"ぴや"やコンビニで受け取ってしまう味気ない簡易チケットにはありませんが、以前の入場券には必ず印刷されてた言葉です。

この言葉に私たちはあまり意味を感じられず、当然ながら意識もしません。
しかし、人生のあらゆる出来ごとはこれと同じではないでしょうか?
人々は"死の一回限り"にのみ、真実を見て、生における「おひとり様一回限り」を演ずることになります。

あるテレビ局の知人に誘われ京都で集った、友人の会に参加し、食事をしながら業界を隔てた多くの知遇を得ました。交友関係の幅広い知人で、この様な会をしょっちゅう集めて、ありがたくも声を掛けてくれるのです。
その京都ですが、一口で言い表せない特別な魅力を持っています。例えば、金閣寺、銀閣寺、清水寺、龍安寺等の寺院と庭園、その他にはおいしい京料理のお店等々好きな場所や好きなお店を挙げたらきりがあません。私は、この様な場所は他に知りません。

幼名を春王といった足利義満(あしかが・よしみつ)は室町幕府の第3代将軍で、清和源氏の一家系で、あの有名な鎮守府将軍・八幡太郎源義家(はちまんたろうよしいえ)の子を祖とする足利氏の嫡流です。彼は数え10歳で3代将軍に就任しましたが、祖父尊氏(たかうじ)も成し遂げられなかった約60年続いた懸案事項の南朝のM&Aにもその手腕を発揮し、難事案件を難なくまとめ上げます。
また、晩年には西園寺家から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け(または無理に寄進させてた)、金閣(舎利殿・後の金閣寺)を中心とする「北山第」(きたやまてい)を造営したことは周知の事実です。日本人でほぼ金閣寺を訪れていない人はいないくらい、修学旅行等の定番観光コースです。

今から七百年も前に、ここから豪華絢爛の北山文化が生まれいます。
さらに、もうひとつ、義満は重要な古典文化の興隆に深く深く携わっています。
それは「お能」です。能は義満抜きでは語れないほど深く彼自身の内面的な領域まで関わっています。
能の発祥はここでは省きますが、
大衆の支持によって芸術性を高揚した観阿弥の芸は、少年時代の世阿弥の可能性とともに、時の将軍・足利義満の目にとまります。
この出会いは、二者にとって非常に運命的であり、恣意的でもあります。
また、この出会いこそ、両者の目的が合致した、観阿弥・世阿弥親子にとっても将軍義満にとっても非常に重要なことでした。
義満の将軍職在職期間は26年間と比較的長い期間ですが、彼はその後院政を統べるので、その期間をいれるとほぼ40年間担当しました。これは当時もその後にもかなり突出した長期政権となりました。だからこそ、文化の醸成に金も時間も人も、長期に渡って必要な手を打てますし、今に残る芸能の基盤がこの当時うまれ育ったことに納得できます。
ここにひとつの疑問が沸く筈です。
彼は、何故観阿弥・世阿弥親子の田楽から脱皮しようしたこの当時の能に興味をもって、国家的に庇護を考えたのでしょうか?という疑問です。
能の歴史に初心者である私に解るはずなく、なので見識者の言葉を借りることにします。
すると、こうです。
この新しい芸能は、義満にとって既成の貴族文化に一矢を報いる絶好の自己証明の機会であったろう」とし、「それは教えられた貴族文化の中には絶対に存在せず、しかしたいていの貴族芸術よりもさらに貴族的となりうる可能性を秘めた芸能であった」と権力者である義満側からみたこの能という新しい芸能を自己の成長に重ねようとした彼の意図を鋭く抉っています。
この二つの言葉を繰り返せば、繰り返すほどに、しっくりと当時の義満の自信と気合いが充実している権力者としての気迫が伝わるようです。そうは思いませんか?

この事によって、この新しい能は、今日に生きる原点となり、世阿弥は、義満の庇護の下にこの新しい芸術に専念します。そして、世阿弥の血の滲むような努力は、「時に応じ所よりて、愚かなる眼にもげにもと思ふやう」に大衆の支持にを引きつけながら、しかも貴族の高い鑑賞眼にもかなう高度な芸の工夫に費やされることになります。

義満は、応永15年(1408年)3月、北山第に後小松天皇を招いて二十日にあまる歓待にあけくれます。そして、4月27日には、天皇臨席のもとに御所で次男・義嗣(よしつぐ)の元服式を行います。巨大な権力者には良くあることですが、彼も将軍職はすでに長男の義持(よしもち)に譲っていましたが、腹違いの次男義嗣を偏愛したと伝えられています。結局この偏愛が理由で義嗣は兄に殺されることになります。
そして、義満は元服式の二日後に発病します。
発病の原因は、度重なる行事によるストレスや義満が皇位簒奪(こういさんだつ)する意図を持ってとして暗殺ではという憶測もありますが、5月6日に気力精力とも常人を超えた最高権力者はあっけなく亡くなります。

時の最高権力者による観阿弥・世阿弥親子の大パトロンは、能を愛し、能を育成し、自らも芸能に深く関与し、700年後も延々と生き続ける芸能を世に送り出し、50歳の生涯を閉じます。

時の最高権力者という庇護者を失った世阿弥は、この後長い不遇の時代を送りますが、義満よりも35年も長生きし、80歳の天寿を全うします。

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プレステージ(続き)

2009.07.17

前回からの続き

ロンドン博の三年前、1848年にカリフォルニアで金が発見され、これを「ゴールド・ラッシュ」と呼んだことを中学の社会科で習ったと思います。歴史は時には面白い組み合わせをしますね。ゴールド・ラッシュの続く中、ロンドン博もアメリカ号の建造も英国でのレースも、ペリー提督による江戸幕府派遣もなされたという訳です。カリフォルニア、ニューヨーク、英国、日本と場所こそ異なりますが、ほぼ同時進行で歴史は時を刻んでいきます。
ゴールド・ラッシュ以前は、一寒村であったカリフォルニアに、東海岸から数十万人も金を目当てに人々が集まったといわれています。詳しい統計はありませんが、その半数は幌馬車を仕立てて砂漠を横断し、一路西海岸を目指しました。ロッキー山脈を越えるアドベンチャー的な危険を伴った旅であったと思います。しかし、残りの半数は海路を選んだと言われています。その証も確かにあります。もしかしたら、陸路よりもっとリスクが高いのでは?! いや、むしろ安全だったのかも。
金鉱発見前の1848年4月以前は一年間にサンフランシスコ湾に入港した帆船はわずか四隻でした。それがその後一年で、なんと775 隻という途方もない激増ぶりです。航路はもちろんニューヨークを出帆して、南アメリカの最南端のケープ岬回りでカリフォルニアに到達するのですが、当時の帆船のスピードでは早くて150日、遅くて240日でした。需要と供給はまさに現在のエアーラインと同じです。多くの人を運ぶには、多くの機材の確保と効率的なローテーションが必要となり、必然的に足の速い船が欲しくなり「快速帆船の建造」となります。これは時代の要求です。ここに登場したのが、すなわちサンフランシスコへの急行便として建造されたクリッパー・シップである「カリフォルニア・クリッパー」です。
船を作るときにもっとも重要なことは、天候の要素を除くと、斬新な設計の精度とその船をドライブする船員の技術力です。このような時に時代には必ず要求された人が現れるものです。
それが、「ドナルド・マッケイ」という帆船設計者です。
彼がカリフォルニア・クリッパーとして最初に設計した「スタグハウンド」という帆船は、1851年の処女航海で110日間の区間最高記録を出しました。ざっくと50日間の短縮です。そして、この船の実績を踏まえてより斬新な設計をした「フライング・クラウド」は同じ年になんと、89日間21時間という前人未踏な区間記録を作ります。時間当たりの平均速力は18.5ノットになります。これはとんでもない記録です。この当時のホーン岬周りは航路的にかなり精度が高まったとはいえ、まだまだ予断を許さない未知のエリアが多かったと思います。昔のシーマンは素晴らしく強靭な精神の持ち主が多かったんだと、いまさらながら感じるところです。西風の多いホーン岬沖は東に向かうときにはまだ、比較的進めても、反対に西に向かうときは帆船にとって非常に厄介なエリアであることは間違いありません。行きはよいよい、帰りは怖いというやつです。いや、本当に間違いなく恐ろしいエリアなのです。

実は、ニューヨークで建造された「アメリカ号」にはこの様な環境が徐々に整えられていました。
そこで、「パイロット・スクーナー」について話したいと思います。
パイロット・スクーナーは船の形式ではありません。使い方または、用途に名づけられたものなのです。一般に港には港の特性があります。風の吹き方、島、潮流、浅瀬、水路、泊地、錨地等、その港特有の性質があるために、船が港外にやってくると、その港に精通した水先案内人(パイロット)を乗船させ、そのパイロットの誘導によって入港することが常識となっています。エンジンを持たない当時の船ではパイロットは不可欠なものです。この同時のパイロットは自由競争制でしたので、港外に入港船が見えるや否や小型艇に飛び乗って、一番先にお客さんのところにセールスに行かねばなりません。よって、高速艇が必要となりました。これをパイロット・スクーナーと呼び、足の速いスクーナーは当時は花形であり、きっと評判が評判を呼んだのではと思います。

NYCの五人のオーナー達が「アメリカのスクーナーを代表するヨット」として建造するに当たって、新興国のアメリカらしく、ニューヨーク港で俊足のスクーナー設計者であるジョージ・スティアーズという弱冠31歳の青年デザイナーを選んだことも納得がいきます。彼は確かに青年でしたが、すでにそれだけの重責を負託されるにふさわしい実績の持ち主でした。ジョージは造船一家の父親も元で、十代から設計を手掛け、すでに多くのスクーナーを竣工させていました。そして、彼が21歳の時に設計した「ウイリアム・G・ハグスタッフ号」という船が素晴らしい快速船であったと記録にあり、長く歴史に刻まれる事になるのです。この若手の起用は時代や実績だけでなく、たぶんにスティーブンス会長のトップが持つ感性や積極性や賭けがあったのではないでしょうか。

建造についてもいくつかの強い意志が込められています。
その根底には、「米国の建造技術を見せる」に集約されています。
ひとつは、自力で大西洋を小型船スクーナーで横断できる仕様を設計及び造船所に申し入れたこと。想定外のこの事は、設計者にとっても造船技術者にとっても、操船するクルーにとってもとても大きな負担となりました。しかし、その負担は船の高速性能の他に、堅牢な船体構造となって具現化されました。そして、クルーにしても、当時からヨットレースはプロの仕事なっていましたので、熟練者の中でも超一級のスキッパーが選定されました。さらに、建造費は三万ドルと当時としては飛びぬけて高価な船になったこと。これも、英国においても恥ずかしくない艤装を求めた結果となり、最高級のアメリカ・クルミ材を船体にふんだんに用い、さらに船室は彫刻を施したマホガニー材で内装しました。

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クチナシの香りとBaiu

2009.07.10

今年の春に北京と上海を訪れました。

帰国日に土曜日を挟んだのでほんの僅かの時間を博物館の見学に充てました。
見学は二時間と決めていますので、毎回テーマを絞りますが、今回は墨絵の「三清」です。

三清とは、枯木に石と竹を配置して描いた墨絵を指す言葉らしいです。枯木の過ぎ去った哀愁や山石や川石の冷淡な石のヒヤリとする触感に対して、若竹のもつ青く、清々しい生命力を加えることによって、人の世は若竹のように清々しく生きたいとものと、表現する墨絵らしいです。
墨絵を輸入して日本文化に置き換えた日本の墨絵には、この様な思想はないと言われいますが、第一級の芸術家であれば輸入された墨絵を見れば絵に込められた意図は十分汲み取ることができたと理解する方が自然でしょう。

さて、三清ほど非日常的な文化でなくても、私たちの日常の中にも「森羅万象」を感じる、または接する機会はあると思います。その一つが香りだと思います。私たちが身近に感じる三つの香りを日常の中に見つけたいと思います。

初夏の今、早朝、自宅から駅に向う間に「クチナシ」の強い香りを感じます。この白い花弁から噎(む)せかえるような甘い香りに、心惹かれない人はいないでしょう。

次に、早春のころ、愛の香りと称えられる「ジンチョウゲ」が花開きます。紅梅や白梅より、やや遅い時期の二月下旬のころですね。「沈丁花」と漢字では書きますが、本来は漢名の「瑞香」が望ましいそうです。かな変換でも沈丁花と変換されますので、ほぼ一般的といえますが。
花は、内側が白で、外側が紫紅色に染まる二つの色合いを、たくみに配分したいでたちがもっとも多いです。とにかく、ジンチョウゲは情熱的な香りの広さ、深さ、激しさを持っていると思います。まさしく、愛の香りにふさわしい香りの花です。

さらに、秋になると、一日が爽快な気分で始まる事をたくさん経験しますが、反対に寂寥沈静のうちに一日の幕を閉じることもままあります。秋とは、なんとなくものを想い、そしてボーっと過ごしたいというような感覚に陥りやすいと思いませんか?
秋の一段と爽やかさが増す中秋の頃に、つつましく花を飾る「キンモクセイ」は私たちの心を引き付けます。私はこのころ、自宅の裏口の遊歩道に大きなキンモクセイあり、その下を毎朝くぐって通います。その芳しい香りは、一日を爽快な気分にさせてくれます。

これで日本の三香がそろいました。
この三香は庭木や公園や緑道と、どこにでも植えられていますので、目にし、香りを嗅ぐことが多いポピュラーな樹木です。

クチナシの固有種は一重咲きだそうですが、私たちがみるクチナシは八重咲きです。しかも、その葉は一年を通していささかも色が褪せぬばかりか、健康的な明るさが感じられるのも特徴です。光沢の強い濃青色は5月により鮮明になり、やがて花開き香りを放ちます。
池坊の口伝の中に、
"クチナシを瓶に指すときは、紫陽花、竜胆(りんどう)、野菊なとのように高く生けてはならぬ"とあります。きっと、この花の放つ香りを、低く生けて、より深く、より細やかに、生かそうとしたのでしょう。池坊は室町時代にその基本形式を確立したと聞きましたが、可憐な一輪を無造作に瓶に「投げ入れ」から豪華な大立花(だいりっか)の活花まで、その領域は幅広く、奥が深いです。
反対に、茶道においては"クチナシの花"を茶席に生ける事を極度に忌み嫌った。とあります。クチナシの放つ深々とした強い香りが、密室の静けさを基本とする室の空気をあやしくかき乱すことに、茶人たちは、疎ましさを感じたのではないでしょうか。

クチナシの名前の由来ですが、内部に黄色の肉塊と種子をもつ果粒が、秋になっても、頑として口を割らない、そのかたくなな用心深さゆえという説があります。クチナシの匂いにつられて近寄ると、名前の由来を改めて感じます。

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ラ・カンパネラ

2009.06.19

辻井伸行さんという盲目のピアニストが弾く「リストのラ・カンパネラ(ラ・カンパネッラ)」を聴きました。「ラ・カンパネラ」は家でもiPodでも聴いているとても好きな曲です。
演奏者はフジ子・ヘミングです。この大ピアニストと面識のある知人のピアニストからその素晴らしさを聞き、より親近感を得て聴くようになりました。

そして、つい最近辻井伸行さんの「ラ・カンパネラ」聴き、とても感動しました。

中学生からJazzを聴いている(しか聴いていない?!)私でもその技量は群を抜いていることが肌で感じました。勿論、辻井伸行という20歳のピアニストもつい最近TVで知ったくらいです。
私のクラッシック知識は中学生程度で、よぼと著名でないと作曲家も演奏家も曲名も知る由もありません。彼は「第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクール」で日本人初の優勝を果たしそうですね。件の知人ピアニストからそのコンクールでの優勝がいかに前人未踏な快挙であることを詳しく聞く事によってほんの少しこの世界の峻烈さを理解しました。

」とは実に不思議です。
縁によって沢山の人を知り、その縁により多くの知識や経験をします。そしてまた、その事をきっかけに新たに人との縁がつくられる。
では、
「ラ・カンパネラ」を作曲し、初見で弾きこなした「フランツ・リスト」の縁はどの様なものだったでしょう。

フレデリック・ショパンは生来虚弱体質であったといわれいます。彼が25歳の時に喀血しました。特に女流作家ジョルジュ・サンドとの9年におよぶ愛が破局を迎えるころは肺結核は大きく進行したようです。彼はサンドと別れた後は無一文になって病躯をおして各地での演奏会をやらなければならなかったほど困窮していたとのこと。そして、1859年の初めに病状が悪化し再び喀血が酷くなりパリのヴァンドーム広場のみすぼらしいアパートでベットから起き上がることも出来なかったくらいに衰弱します。そしてその年の10月17日39歳で亡くなっています。彼の作曲は、そのほとんどをピアノ独奏曲が占め、「ピアノの詩人」と呼ばれるほど表現力の豊かなピアノ音楽の新しい境地を見出したとも言われています。故に、現代のピアノ演奏会でも最も多く演奏される作曲家の一人となりました。

ロベルト・シューマンは堂々とした体格を持ちながら極度に非社交的で自閉的な一面が彼の持ち味でもあり、反面行き場の無い精神は徐々に蝕ばばれていくことになります。彼は若い頃より傷つきやすい神経を持ち、本人はそのことで精神異常の兆候を自覚していたようです。1853年ごろから精神衰弱が甚だしくなり、仮面のように表情が硬くなり特に他人との接触に嫌悪感を示し、妻も遠ざけ一人自分の世界に傾斜していきました。そのためにデュッセルドルフ市音楽指揮者も解任されることになります。彼との間に8人の子をなしたピアニストでもある愛妻クララ・ヴィークとは困難の末結婚しましたが、精神衰弱が進行すると彼女も遠ざけるようになります。彼は、1958年2月に家を抜け出しライン河に投身したが、運良く救い上げられボン郊外の精神病院に運ばれます。彼の精神及び体力は急激に破壊され、1958年7月29日に最愛の妻クララがほんの少し目を離した間に天国に召されました。シューマンの死因は動脈硬化症による精神分裂病と診断されている。全く同じ月にドイツ詩人のハイネが亡くなっています。享年46歳でした。

冒頭の「ラ・カンパネラ(ラ・カンパネッラ)」の作曲家でありピアニストでもあるフランツ・リストは「ピアノの魔術師」と中学の音楽の時間に学びました。その超絶的な技巧は「いまだに彼を越えるピアニストはいない」といわれるほどです。

この著名な三人の音楽家はほぼ同年に生まれています。そして、三人とも親しく、三人が三人とも影響しあっていたようです。
しかし、ショパンの音楽家として活躍した期間は短く、年齢も39歳で世を去っています。
また、シューマンは彼よりも長く46歳で亡くなっていますが、本来活躍すべき重要な時期には精神を病んでいました。
さて、リストはどうでしょう。
彼の父が早く亡くなり、僅か15歳にしてピアノ教師として家計を支えなければならなかったといえ75歳の人生を全うしています。ピアニストとしてのリストは当時より著名で人気は高かったと記録にあります。また、多くの女性との恋愛も盛んで特に、マリー・ダグー伯爵夫人カロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋は有名です。いずれも同棲のみで結婚に至らなかったらしいですが。

歴史を知るということは時には思わぬ縁を知ることになり、そして、そのほとんどが驚愕の連続となります。ここでもその事が言えそうです。
彼はマリー・ダグー伯爵夫人と約10年間の同棲生活で3人の子供を得ましたが、二番目の子供に後年の「コジマ・ワーグナー」がいます。コジマは二人の血を濃く受け継いだようで、20歳で指揮者ハンス・フォン・ビューローに嫁ぎ、二人の子供をもうけ、25歳リヒャルト・ワーグナーと知りあい同棲し三人の子を生します。その後結婚します。当時の社会通念でも群を抜いた活動的な女性であったようです。彼女は父同様長生きをし、93歳まで人生を全うします。

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仁の政治

2006.10.02

先週の9月26日に安倍晋三さんが統べる安倍内閣が誕生しました。
翌27日の東京株式市場は、2週間ぶり1万5900円台に回復し、
市場は安倍さんの「成長重視」の姿勢に期待を感じつつ、勢いを汲み取ったのでしょうか?
そして、週末の29日には初の所信表明演説がありました。
この演説に特別な感覚を感じています。
「人生二毛作の実現」や「筋肉質の政府」等ブレークダウンしないと理解できない新語(?)もありましたが、総じて彼は「美しい国、日本」と言う言葉で締めくくりました。歴代の総理でこの様な概念的な表現をした人はいたのでしょうか?
印象的です。
でも、小泉さんの所信表明演説に比べられたり、与・野党・老若男女、この演説に対する受け止め方で論議を呼びそうです。いずれにしても戦後歴代3位の高支持率で船出した内閣です。この日本丸の舵取りに是非期待したいと思います。

演説の根幹に流れている「美しい国、日本」とは、どのようなことなのでしょうか?
彼は政治家ファミリーに生まれたサラブレットとしてとても有名です。
そして多分長い時間をかけて政治家としての「薫陶」を受けたことでしょう。

安倍さんのこの言葉を受けて「国家主席の補佐」を長年に亘り摂生した歴史上の人物を思い出します。子供の頃からたくさんの歴史小説を読んでいますが、それは興味深い人物が数多く登場するからです。

この「国家主席の補佐」した人物は「仁・義・礼・智」を併せ持った「保科正之」という人です。勿論学問として歴史を勉強した訳ではなく歴史小説として小説家の「筆」を通して知った事のみがすべてですが。
保科正之は徳川家二代将軍秀忠の庶子です。ですから今やっているNHK大河ドラマの「功名が辻」に少し関係があります。この「功名が辻」という司馬遼太郎の歴史小説はとても読み応えあるものでしたが、既に20年以上も前の事なので、大筋はともかく細かな所は殆ど覚えていません。

このドラマにも出てくる織田信長の妹の「お市さん」は浅井長政と婚姻し三人の娘をもうけます。その長女が「茶々」で後に「淀君」になりますね。今、ちょうどドラマでは彼女が最も権勢を振るう場面ですね。

そして末の子が「お江」〔正室・於江与(おえよ)の方〕で徳川家の二代将軍・秀忠に嫁ぎました。小説では「お江さん」は「淀君」と同じで勝気な人という事になっています。そのせいか「秀忠」は恐妻家で将軍としては異例の正室しか置かない将軍であったといわれてす。そういえばドラマの山内一豊も千代婦人を愛した人でもあります。
将軍御台所於江与(おえよ)の方に「竹千代〔後の三代将軍・家光〕」と「国松〔後の駿河大納言忠長で家光により自刃〕」という二人の男児がありました。今では恐妻家という解釈でなく、本当は戦国時代に稀な「ひとりの女房」を愛するタイプの生真面目さを持つ武士だったとのではと言われています。
保科正之はこの秀忠と大奥に使えていた北条家縁の「お静」との間に生まれたいわば第三男児という事になります。その時竹千代は八歳で異母兄弟と言う事になります。

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さゆりとホノルル

2006.01.14

さゆり」をホノルルで発見!!

ここ20年以上毎年夏になるとHAWAIIの休暇を楽しんでいます。
この島の魅力に取り付かれた一人と言えるでしょう。気候もいいのですがこの南国の島々は「大都会」と「ど田舎」が隣接し、ミョーに解けあった感じする楽園といえます。
朝の6時に散歩し、チャイナタウンで飲茶を楽しみ、午後は人がマバラなビーチの木陰で生ぬるいビールと読書で過ごし、夕刻シャワー後、都会の洗練されたレストランで「イタメシ」を食べ、毎週金曜日恒例のヒルトン・ホテルの大仕掛けの海上花火を楽しむなんて事が可能な旅行者が楽しめる島なのです。
もちろん最初の数年間はやはりビギナー旅行者が辿る観光としてのHAWAIIを肌で感じるために島巡りや観光地を歩きました。
それが一段落した数年前から観光地のHAWAIIでなく、HAWAIIが持つの文化、歴史、芸術、固有植物や動物さらに大自然等に興味が転移し、特にこの国の「王朝時代の生い立ちから衰退・米国への編入」までのHAWAIIにとても興味が沸いています。HAWAII関係の多くの書籍を読みました。そして益々この島国の「ゆったりと醸成した文化」に共感を覚えます。「さゆり」の著者アーサー・ゴールデンが他国の文化である「Geisha」に興味を持ったように。
〔当時なにも知らずに手に取った「さゆり」の原書〕
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HAWAIIと日本の親交は西南戦争がやっとの思いで終結してから四年後の1881年〔明治14年〕にハワイ王国カラカウア王を国賓と迎えた頃と言われています。この訪問を契機に条約締結や大規模移民が開始されたそうです。

この本をワードウェアセンターの端にある一階と二階を内部階段で繋いだ書店「ボーダーズ<BORDERS>」で手に取りました。3-4年前の事だったとうっすら記憶にあります。この場所のボーダーズは既に閉店しVictoria Ward Centreに移転しています。
当時「さゆり」という言葉も情報として持っておりませんでしたし、あくまでこの本のタイトル「Memoirs of a Geisha」の中の「芸者」というタイトルに反応しただけです。たぶんその頃ベストセラーになりつつあったのだと思います。このハードカバーの厚みのある本を立て掛けてあると「とても目に」つき易いです。僕が日本人だからかも知れませんが。
初めてホノルルに「ボーダーズ」を見たときは感激しました。それより二年ほど前にサンフランシスコで見かけ気に入って滞在中数回行きました。それがホノルルに進出し、展開をし始めた時でした。

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スティーブ・ジョブス

2005.12.11

Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」

これはアップルCEOのスティーブ・ジョブス(Steve Jobs)が今年の初夏に米国のスタンフォード大学卒業公演で若い卒業生に対して彼が最後に贈った言葉です。その公演は大学の公式サイトや国内のブログに沢山紹介されていますので、どなたでも全公演内容を読むことが出来でしょう。その中で沢山の心に心に響くフレーズがありますのが、この「Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」もとても深みのある言葉として印象深いものがあります。彼自身の言葉ではなく、70年代半ばに「スチュアート・ブランド」という人が製作した雑誌の一ページでのメッセージだそうです。彼はこの言葉に出逢い「常に自分自身そうありたい」と願って来たそうです。その言葉自体が真実である事を彼のスピーチを通してどなたでも感じることが出来るでしょう。そして彼が使う「Stay hungry, stayfoolish」が彼自身の言葉として実感できます。そして彼が今までに得てきた経験をこの言葉に託して、彼らに贈り、結びの挨拶としています。今年の夏に僕はこの公演内容を知人を通して知る事が出来ました。ことも感謝しています。

旅行者なら一度は購入するサンフランシスコの絵葉書セットの中に必ず霧の中に浮かび上がる「ゴールデンゲートブリッジ」が一枚はあるものです。このゴールデンゲートブリッジ(Golden Gate Bridge)の両端部分ですが、サンフランシスコ湾と太平洋を繋げています。古い吊り橋です。日本語では金門橋(きんもんきょう)が有名ですね。両端の太い柱の間の長さは1,280㍍で全長1970㍍あります。完成は1937年です。

勝海舟が日米修好通商条約の批准のために米艦ポータハン号を咸臨丸で護衛(公式にこうなっている)してこの海峡を抜けたのは1860年3月18日でした。橋はまだ存在していません。咸臨丸は明治政府が始めて発注した外洋機帆船でオランダ製です。木造3本マスト船で出港後3日間蒸気機関を使用しましたが後は帆走で一日平均約200海里を快走しました。
そして12年後、今度は「岩倉使節団」が4,554㌧のパシフィック・メイル社のアメリカ号でこの海峡を抜けたのは72年1月15日のことです。当時最新鋭の蒸気船でした。グ・ブック(航海日誌)には快晴とあります。やはり航海日数は23日間で平均220海里でした。帆走の咸臨丸と殆ど同じですね。ア号は石炭を1500㌧程度積載しいた様ですが、殆ど使い切ったとあります。パ社は名の通り郵便会社ですが、この当時太平洋を横断するような人の交流や物を販売するための物流もビジネスとして成り立っていません。ですから米国の国策として郵便を民間船会社に委託し、多くの資金の援助しました。今の小泉さんの郵政民営化の様な方式です。「高価で軽い郵便物」は船会社にとって魅力的なビジネスだったのでしょう。

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美味しい魚が食べられなくなる?! 萬久満の戸田さん語る。

2005.12.03

『築地の仲買問屋がね激減しているんだよ。
問屋がなくなると「新鮮で美味しい海産物」が手に入らなくなるよ。
ご家庭ではスーパーでお魚を買うよね。街の魚屋さんがなくなっちゃったから。東京の小料理屋や居酒屋も仲買を通さず直接買うよね。どんどん仲買問屋が廃れています。美味しいお刺身食べれなくなるよ。』と、萬久満の戸田さんは憂いを含んだ声で話し出します。
生産地から巨大資本が直接買えば安くて入りますが、市場へは切り身となってサランラップに包まれた味気ない「お刺身」を手に入れることになります。「あれはぁ刺身じゃあないからねぇ」と戸田さんは言う。

徳川家康が秀吉の命を受けて江戸入府と同時に彼は「駿河」から多くの職人を一緒に引き連れてきました。特に「白魚」が好物であったので摂津の国佃村の漁師・森徳右衛門を呼び寄せ白魚の漁場開拓を命じたそうです。白魚は旬を過ぎると群れを成して川に入り、葦や水草などに卵を産み付けると、雌は死んでしまい、雄は卵が稚魚になるのを見けてから死ぬ性質を持っています。誠に健気な子孫継承です。その徳右衛門さんグループが住んだのが現在の「佃島」という訳です。入植にあわせて苗字帯刀を許し、漁業権も与えたそうです。かなりの特権という事になりますね。勿論その周辺にも太田道灌時代の漁師もいた訳ですので、いろいろゴタゴタが長く続いたようです。先住民を蔑ろにするといいことはなりません。徳右衛門さんは同時に摂津の住吉神社の分社もしています。現在もその場所は変わりません。この徳右衛門さん達が取った「白魚を含めたお魚」をお城に献納したそうですが、あわせてその残りを売り捌く特権も得たそうです。そのために「市場」を作ったそうです。その地は現在の日本橋を挟んだ両岸で、これが現在の築地市場の始まりです。日本橋の両岸は長く活用していましたが、関東大震災で現在の築地に移転を余儀なくされたそうです。
よく日本食のお店で「河岸(かし)」という言葉を耳にしますが、この日本橋の両岸が起源だそうです。言葉には常に歴史的背景が潜んでいますね。家康はもともと健康と質素を愛しながら「美食家」で知られていますが、江戸前のお魚を特にお気に入りだったそうです。彼の政策のお陰で「築地市場」も「江戸前寿司」も発展したのでしょう。

戸田さん。歴史を感じますね。そして、ずっと新鮮で「本物」の美味しいお魚を仕入れ続けてください。お願いします。

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かねこ・はじめの六本木ピットイン

2005.08.20

かねこはじめさんの「六本木ピットイン」に誘われて。

もう、三十年以上も前に「新宿のピットン」に初めて行ったときの事をはっきり覚えています。と言いたいところですが、鮮明に覚えている部分と怪しい記憶も多々あります。僕は当時14歳。その頃夕刻に毎日ラジオを聴いていました。TVよりもラジオの生活でした。司会は大橋巨泉です。まだ大橋さんが三十代の後半だったと思います。昔のジャズ・ファンなら彼の元夫人がジャズ・シンガーの「マーサ三宅」だったことは良く知られています。確かお嬢さんがいて、「大橋」を名乗っていたはず。大橋さんは学生時代からのジャズ研で磨いた知識を十分にその番組で発揮していました。相当なジャズ好きでしたね。そのラジオのタイトルはもう思い出せませんがバークレーから帰国したばかりの「渡辺貞夫」を中心に置いた番組でした。中学生の僕が「バークレー帰りのナベサダ」を聴きまくっていた事〔彼は本当に吹きまくっていたのです。キョウレツでした。〕は今思うととても「生意気」な事だったなぁと感じます。あのサワノジャズの澤野由明さんのメッセージを聞くまでは。彼曰く「ジヤズは押し付けるものでも、押し付けられるものでもありません。ジャズは形式でなく、「心で感じるもの」。ジャズを知るためには、ただそっと耳を傾けるだけで良いのです。本当にいいジャズは初心者にも、ずっと何年もジャズを聴いて来た人にも同様に心に響くはず。」なのですから。たった30分の番組でしたが毎日聴いて興奮していました。相当変わっていたと思われます。きっとその延長線がはじめての「ピットイン」だったのでしょう。当時を思い出すと大橋さんの他にもう一人、とても魅力的なジャズ評論家を覚えています。声に魅力があり、その知識の幅にも説明の仕方も生真面目さと真摯さを感じられずにいられない位重厚な解説者でした。口調がやさしく、その響きが今でも頭の芯に残っています。
今は亡き「油井正一」さんです。

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