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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

使命と時間

2010.06.19

NHK大河ドラマ「龍馬伝」の人気にはすごいものがあります。
その人気の秘密の一端は福山雅治かもしれません。
NHKの中でも、予算を潤沢に使えるこの大河ドラマは、日曜日のゴールデンタイムに流されることもあり、相当意気込んだ番組にならざるえません。その意味では、女性に人気絶大の福山雅治の起用は的を得た配役という事でしょうか?

勿論、時代劇ドラマには、必ず売れると言う歴史上の人物がいます。
織田信長や坂本竜馬はそのもっとも売れる部類の魅力的な人物ということになります。
ボクがその魅力的な竜馬に出会ったのは十代の頃でした。もちろん司馬遼太郎の「竜馬が行く」によってです。司馬遼太郎のこの本はベストセラーになりました。誰にも歴史上で魅力的と感じる人物がいると思いますが、ボクの中では彼もそのうちの一人になりました。

そして先週、ドラマの中の龍馬は大きな出来ごとに遭遇します。
それは、同じ郷士の幼友達の望月亀弥太を池田屋で失うという悲劇です。この時代、太平の世と云いながら激動の時代を迎えています。その前には平井収二郎の切腹の知らせを受けます。また、岡田以蔵も捉えられ後に処刑されます。その前には先輩で遠縁の武市半平太(瑞山)が縛に付きます。
特に半平太は数ヶ月間投獄され、この後切腹させられてしまいます。外国の重圧もさることながら竜馬の近辺ではシッョキングなことが数多く起こります。

龍馬の青年期は模索の連続でしたが、このころから彼はゆっくりとですが、自分は何をすべきかを探し当てます。そして、その使命を果たそうとします。
しかし、彼の目的は半ば達成したかに見えましたが、突然不慮の死を遂げます。
時は、1867年12月10日、彼は未だ31歳でした。
竜馬は志を持ち、天から与えられた使命を全うしようと生き抜き、半ばでその生命を閉じました。
まだまだ青年という31歳という若さで。
はたして、竜馬の一生は早すぎた人生だったのでしょうか?
それとも龍馬にはまだまだ使命があり、なすべきことが沢山残っていて、もっと生きてやり遂げなければならなかったのでしょうか?
かれの使命と天命を思うとき、ひとの一生とは、どのように繋がっているのでしょう。

私たちの生活の基本は流れいく時間です。人生は「時間」であるという基本的な概念から逃れることはできません。竜馬のように31歳の若さで世の人に惜しまれて逝っても、またボクが長生きをして100歳で天寿を全うしても、そこには時間と云う概念が流れています。
私たちは、それを「なにげなく」ですが、この時間と云う概念を信じ込んで暮らしています。
しかし、ふと気がつくと、今私たちが何気なく信じ込んでいるこの常識をなんら疑うこともなく、
そして、これをずっとそのまま信じ込んでいいものなのかと思ったりもします。

それは、私たちの身近に存在する動物の時間と云うのを知ったからです。
時間の概念は森羅万象、この世に生を受けたすべてのもが受ける前提でもあり、概念でもあります。
ここで、話しを人を含めた哺乳類の「体の大きさと時間との関係について」を考えみたいと思います。私たちは、一般的に体の大きな動物はゆったりと動き、それを安定感があるとを感じ、それに反して小さな動物はキビキビと活動し、小気味良いと感じます。人も大きな人や小柄な人について同様な感覚を持つことができると思います。

人も含めた哺乳類のこれら動物たちの「体重とその時間の関係」を調べた学者がいます。
哺乳類のそれぞれを体重とある時間のを割ってみると、
    「時間は体重の1/4乗に比例する」になるそうです。
簡単にいえば、体重が増えると時間は長くなるです。ただし、1/4乗という平方根の比例(さらに平方根)なので、方式は単純ではありません。
例えば、こうです。体重が16倍になると、時間は二倍になるという計算式は成り立ちますが、体重が16倍ならば、時間も16倍という比例数ではありません。

この時間ですが、ほぼなんでも当てはまるそうです。
例えば、寿命成体になるまでの時間性的に成熟すまでの時間赤ん坊の胎内期間息をする時間間隔心臓が打つ間隔腸が一回活動する時間血が体内を一巡する時間などです。
体重が大きければこの一回が長く、体重が小さければその回転は素早い。という訳です。

さぁ、問題は、ここです。話す前に先に答えを知りたいと思います。
動物の大きさが異なると機敏さや寿命が違ってきます。
行動範囲や生息密度も実は動物の大きさ関係が深いといいます。
でも、一生に打つ心臓の総数や体重当たりの総エネルギー使用量は、大きさによらず同じなのです。
これを言い換えると、
それぞれの生き物は、一生と云う時間のなかで夫々「時間の流れる速さが異なる」と云うことになります。
回答までの導きを聞くと自然に納得できますが、各々の事象は驚くことばかりです。

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負けざる者たち

2010.06.15

天然石で最も高硬度のダイヤモンドは、その硬さゆえに原石同士で磨かれるといいます。
そして、研磨され輝きさを増した8面体は人々を魅了して止まない。特に女性に。

人もまた、人間同士の関わり合いを通じて切磋琢磨されるものです。
「切磋琢磨」は詩経に出でくる故事です。
角や象牙を刀で切り出し、やすりで研ぐことを"切磋"といい、また玉や石を槌で打ち、砂や石で磨きをかけることを"琢磨"と云うそうです。詩経に綴られたこの意味は、学ぶだけでは表面的であり、徳をおさめるために、努力に努力を重ねるとあります。

先日10年来の知人と食事後の二次会々場へ向かう途中の出来事です。タクシーは、丁度新宿の職安通りをノロノロと走っていましたが、僕を肘で突っつきながらニッコリと笑いながら指を指します。
彼の白く長い人差し指の先に巨大なスクリーンがありました。
「あぁ、あれかと」とボクが頷きました。少し前の話題がワールド・カップでした。職安通りにある「大使館」という焼肉屋さんがありますが、そこの駐車場入口に巨大なスクリーンを設置し、集まってくる韓国人観客に対してW杯の実況放送すると云うのです。設置は2002年のW杯からだそうです。いまや名物になっているとか。
彼の説明によると、
ここ職安通りと新大久保は韓国人の人口密度が極端に多い衣・食・住の街だそうです。そう云えばハングル語の看板が数多く見受けられます。
すでに先週から始まったW杯南アフリカ大会(2010 World Cup)で韓国とギリシャ戦が先週土曜日の夕刻に行われています。結果は2:0で韓国の圧勝に終わっていますが、この巨大スクリーンの前では集まった韓国人群集の狂乱さが十分想像できるスクリーンの大きさです。

深夜の渋滞のタクシーの中で彼の話をぼんやりと聞きながら、ボクは全く別なことに想い耽っていました。それは数ヶ月前に見た映画で、その時に感じた記憶が再び蘇って、ひとり感動の渦にいたわけです。一生懸命説明している知人は少々滑稽でしたが、それでも彷徨っていた時間は5分とは経過していなかったと思います。

それは実話の映画化でした。
俳優は最も好きなモーガン・フリーマンとマット・デイモンの競演で、監督はクリント・イーストウッドという豪華さです。オスカーを四つも取ったクリント・イーストウッドが、監督第30作にこの『インビクタス/負けざる者たち』という映画を選んだそうですが、後日このキャッチコピーは制作会社の作りだしたものだと言うことが、イーストウッドのインタビューで分かりました。天才職人イーストウッドは、自分が何作作っているかなどと、あまり気にしていない事が分かったからです。
この映画はサッカーでなく「ラグビーのワールドカップ」の物語です。

主人公はモーガン・フリーマン扮するネルソン・マンデラ大統領とマット・デイモン扮するラグビー・ナショナルチームのキャプテンであるフランソワ・ピナールの二人です。
南アフリカにとって、「ラグビーやサッカーは単なる娯楽的なスポーツに留まらない!」
それを証明してくれたのがこの映画でした。
この映画の社会背景は、1994年に南アフリカ共和国で初の黒人大統領となったネルソン・マンデラの登場から始まります。マンデラは、白人支配によって約三世紀半の長きに渡った悪習「アパルトヘイト(人種隔離制度)」による人種差別に終止符を打ち、ゆっくりとですが確実に新しい南アフリカ共和国をスタートさせます。

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ジャンプする種

2010.06.06

新しいソフトウェア構想を議論することは、楽しい反面アウトプットの成果の可否に不安が残るものです。
テーマを絞るとおのずとシュリンクしてしまうし、拡大すると収拾不能に陥ることが想定できます。
手馴れたセッションリーダーの存在の願望はありますが、ぐっと堪えて育成することを選択することによって結局は長期的にみて大きな成果が期待できるでしょう。
生みの苦しみは当分続きますが、大勢でセッションすることは、距離感が徐々に溶解していくようで気持ちも抑揚します。そして、その時点で当初の目標よりは比較的容易にブレストの効果を感じることが出来ます。
ですが、
限られた時間の中で経営の根幹に影響を与える議論は、着地が手の届く範囲とは限らないところに底無しの落し穴があります。
しかし、その不透明さが大企業の安定的な連続性でなく、ベンチャー企業独特の非連続な社会を作り出していくのでしょう。

英国に著名で代表的な文献学者がいます。19世紀後半から20世紀にかけて「英語語源辞典」等、多くの大著を残しました。
彼の名は、「ウォルター・W・スキート」です。彼の偉業は独力で英国最初の、しかも今もって最大の語源辞典を完成させたことで不滅の栄誉に輝いています。その意味では数少ない古くて新しい文献学者かも知れません。
スキートは独特の「時間軸」と「持続力」を持ち合わせた人でした。
彼の仕事のやり方は、どんなに難しい語源の単語にも、三時間以上の調査をすることはなかったそうです。三時間調べてもわからないときは、彼は「不詳」として先に進みました。このことが偉業を成し遂げたひとつの要因として知られています。これはなかなかできません。文献者であればあるほど、でき難い決断であると感じます。

では、経営はどうでしょう。
毎日多くの問題が発生し、且つ現在抱えている障害と合わせると日々その量は増え続けている訳です。
すぐに処理する障害や捨て去ってしまうテーマやしばらく意図的に忘れるものまで多くの処理を都度判断しなければなりません。
しかし、考えてみるとどんな人間にも1日は24時間です。膨大な量の仕事を前提とする場合、時間の使い方は重要なファクターとなることは明らかです。

数多くの大著の秘訣を問うとスキートは、こんなふうに云ったそうです。

「その答えは簡単に言って、私が余暇のほとんど全てをその仕事に捧げたからです。
 毎日、同じテーマについて何時間も着実に仕事をし、
 しかも一年中、ほとんど毎日それを繰り返すならば、
 いかに多くの仕事をなしうるかは、
 本当に驚くべきものがあります。」と。きっと彼の根本はここなんでしょうね。

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仕事の鬼

2009.11.13

トーマス・アルヴァ・エジソンは、「世界の発明王」として生涯におよそ1,300もの発明を行い、取得した特許は1,093個で、これは個人としては前人未到の記録だそうです。
その一方で、メモ魔としても非常に著名ですが、13歳から亡くなる84歳までの間に、なんと60万枚を超える(誰が数えたのでしょうか)実験メモや日記を書き続けたそうです。驚異的な継続力と言えます。そのメモの内容は、後世の私たちが現状を乗り越え、未来を創出していくうえでヒントになる「エジソン名言集」として世に広く知られています。

ですが、そんなエジソンも小学校を三ヶ月で退学せざる得なかったようです。変わった子だったのでしょうか。退学後は、独学で科学を学んだようです。
しかし、どのような天才もたった一人で自分の能力を開花させることはできません。
先生が必要です。もちろんエジソンにもです。
彼の先生は科学者「マイケル・ファラデー」です。ご存知ですか、この人を。
ファラデーの功績は、例えば「電磁誘導の法則」を唱えた人です。
しかし、エジソンはファラデーの直接の弟子になった訳ではありません。ひそかに師として尊敬し、彼の著書から学び取るという所謂「私淑(ししゅく)する」形をとったようです。この辺も人とは違いますね。
一般的には、著名か無名かは別にして、師と仰ぐ先生の弟子になるのが普通と思われますが、天才エジソンはそうしなかったようです。いったい、読書によって「師」を持つくらいに、能力開発ができるものなのでしょうか?
言い換えれば、沢山の読書をすれば、所謂天才と言われる人たちに近づけられることになりますよね。
彼の天才と言われる根源は、あることに興味を持ち、学び続け、そして発明ないし発見を死ぬまでし続ける驚異的な持続力であると思われます。さらに彼は「運を信じない」ルールを実践した人でもありました。
すると、エジソンの基本的なものの考え方や行動は、彼が師と仰ぐファラデーの書き残した書籍によって得たことになります。

人の生涯は、物事を学び続ける果てしない旅であるといえます。
私たちは、母親の胎内にいるときから学び初め、死の床にあっても何かを学びつつ最期を迎えるまでの間、膨大な時間を「学ぶ事」に費やしているといえます。

人の生涯で最も学習能力が高く、かつ奇跡のような力を発揮するのが幼年期であることは、だれてもが知っている事ですね。
赤ちゃんは決して本能で言葉をしゃべるのではなく、「きっちりと学習して覚える」のであり、なので、言い換えれば、置かれた環境次第で何語でも操る事が出来ます。
この学習するということは、生涯を通じて人間の本能であるようです。
また、生涯学び続けなければならないと云う事は、いってみれば、「人には完成や完了」というものがなく、常に「未熟」であることの証なのだと思われなりません。
なので、人は生まれてから死ぬまで、常に未熟な状態にとどまり、しかし、休みなく学び続け、それが死を迎えるまで続くというわけです。それは本能であるけれど、結局は人間そのものは、学ぶ事の楽しさを知っているともいえませんか?
その観点から、
きっとエジソンはものを学ぶ楽しさをもっともよく知っているひとりであったと思われます。
エジソンの名言集から、
「私が業績を上げたのは、私に備わる才覚と人は言うけれど、人間が死に物狂いで頑張り通せば、誰でも私と同じ業績を残せます。」
要は、驚異的ともいえる強い持続力を保てるかということになりますね。

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新しいシルクロード

2009.08.23

   子供たちが空に向かい 両手をひろげ
   鳥や雲や夢までも つかもうとしている
   その姿は きのうまでの 何もしらない私
   あなたに この指が届くと信じていた
   空と大地が ふれあう彼方 あなたにとって私 
   ただの通りすがり ちっと振り向いてみただけの 異邦人

この美しい詩は「異邦人」という曲で久保田早紀が1979年に作詞・作曲し、そして自ら歌い大ヒットしましたポピュラーソングです。そして、今までに何度もカバーされた名曲といえます。

徳永英明というハスキーで、高域音がキレイな歌手が、過去に大ヒットした女性ボーカルの曲だけを収録した三枚のCDシリーズがあります。彼自身の自曲の歌も美しい旋律ですが、彼の選んだ女性ボーカルの曲も劣らず絶妙です。特にあの歌声は女性に大人気ですが、このCDの中で彼が歌う数曲にとても魅力を感じます。そして、異邦人はこの中にもカバーされています。
私は、カラオケというものを10年ほど前に体験しましたが、それ以前は、人前で歌を披露する度胸を持ちあわせていませんでした。それは、ひとつの拘(こだわ)りといえるかも知れません。
それが、起業をきっかけに、人の付き合いの中でどうしても避けられないと納得した時点で、この拘りを捨てました。以来、カラオケを少なくとも以前よりは楽しく振舞えるようになりました。

たくさんの歌手がカバーする異邦人ですが、私は特に徳永英明の歌声が好きです。たまに誘われてカラオケしますが、映像が決まってイスタンブールなんです。異邦人とは字のごとく外国に定住または長期滞在する外国人を意味しますが、少し前まではコンスタンティノーブルと名づけられていたイスタンブールとの関連性は全く無い様に思えますが、不思議と映像とメロディーが素晴らしくマッチングします。

コンスタンティノーブルはシルクロードの臍(ヘソ)にあたる最も重要な結節ポイントです。
この西に、この道の到着点であるローマがあります。そして東に、出発点の長安(現在の西安・兵馬俑で有名な)があります。中国、モンゴルと中央アジアの地獄のような砂漠を横断する、長い長い乾いた道をローマから長安を結ぶ長距離交易路が、絹の道といわれる「シルクロード」であることは誰ひとり知らぬものはないほど、ひとつの言葉として認識されています。この路はまさに、世界史の背骨というべき道です。
中国製の「シルク」をローマまで運ぶ道であったために、ドイツの地理学者「リヒトホーフェン」が"絹の道"と命名しましたが、もちろんシルクだけでなくあらゆる商品が行き来しました。しかし、これほど名前と現実の世界が大きくかけ離れた印象をもつ言葉はないと思います。

イスタンブールはトルコの首都ですが、西に隣接するブルガリアやその北にあるルーマニアは黒海に面したバルカン諸国です。この地は、古代から様々な民族が入り込む一方、東ローマ帝国やオスマン帝国に長く支配されました。私の仲の良い知人にルーマニア人がいます。ルーマニアは陽気な社会主義国家と言えます。ブルガリアやユーゴスラビアはスラブ民族系と言う感じを強く受けますが、ルーマニアはラテン民族の血を強く引いていると言われています。その意味では知人は底抜けに明るい人です。どう見てもラテンとしか言いようのない気質を感じます。彼女は自国のルーマニア語とスペイン語とイタリア語を自在に操り、日本語も漢字以外はほぼ使いこなします。
ルーマニアを持ち出したのは意味があります。
バルカン地方は、九世紀から十世紀にかけてビザンチン僧侶が熱心に、布教をした地域でもあります。その為に正教協会が、農村の隅々まで建てられていると言われいます。この教会こそビザンチン芸術であり、ビザンチン文化です。
この地方のどこに行ってもビザンチン様式の修道院や宗教絵画をお目にかかることができるそうです。

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右か左か、どちらか。

2009.08.03

エアライン出身の知人を数名存じ上げている。
先日、楽しい話題で盛り上がりました。
私の利用した全ての飛行機は、空港に着陸し、完全に停止すると乗客は我先に前に詰めて一刻も早く機内から外へ出ようとします。日本人も中国人も韓国人も米国人も西欧人も、みんな同じ行動の様な気がします。それを彼に話したら、世界中同じだそうです。
どの国も人も、どのエアラインのどの飛行機も、同じ現象だそうです。ビジネスもエコノミーも同じというわけです。これは、どんな心理状態なのでしょうか?
しかし、どんなに急いでも出口は一箇所か、せいぜい二箇所です。二箇所の場合は、一つはビジネスクラス専用の出口となるで、エコノミーはその恩恵には預からないでしょう。
今度は、彼が質問しました。
実は飛行機の出口は、常に左側です。まれに両サイドから乗客を降ろす特殊な場合がありますが、一般的には左です。その理由を知りたいと。
なぜ僕に聞くのといったら、なぜって、飛行機は船の制度を取り入れているから、答えを知っているでしょうっと、間髪いれず返ってきました。さすかだ。
そうなんです。
交通手段としての「船」は歴史が古いので、その後開発された乗り物は、ほぼ船の制度を基本に取り入れています。現代でもその制度によって、その名残が色濃く残っています。

船の右側を"スターボード"といい、左側を"ポート"といいます。
昔、バイキングの時代に活躍した北欧船では、舵を構造上に右側(右舷側)の船尾に取り付けていました。右側は"スターボード"です。語源は、舵のある側、または舵を取る側と言う意味で「スティア+ボード」で、すなわちスターボードとなりました。なので船を岸に着ける時に、舵を壊さないために、常に左側を陸に接岸する必要があった訳です。また、左側(左舷側)はポートです。これも陸上への門または港という意味を込めて、ポートと呼ぶ様になりました。飛行機には舵に相当する尾翼がありますが、船の様な舵はありません。ても、この名残の為に飛行機の出口は左側のみとなった訳です。船は英語ではシップ(ship)ですが、パイロットの中には飛行機をシップと呼ぶ人もいるそうです。蛇足ですが、飛行船や宇宙船も同様ですね。

そして、ここにも右か左かを海の向こうで論じている人たちがいます。

昨今、自民党にとって見通しはとても暗いと思われます。
社内で立ち話を聞きましたが、都議選は「民主党」に投票したという人が、多いもの納得できる現象です。民主党は、参議院選挙で地滑り的に勝利した機運を、そのまま東京都議選でも維持したようです。そして、初めて第一党の地位を獲得したことで、その勢いを感ずることができます。次は総選挙です。但し、麻生さんが口癖のように言う「選挙はやつてみなければわからない。」ですが、この先、民主党のスキャンダルが出てこないとも限りませんので、それはやって見なければわからないでしょうね。
あくまで、選挙は結果です。
とはいえ、すでにワシントンは次の総選挙で野党が勝利して、民主党政府が出来る事を予想した手を打っているようです。政治アナリストの見方は、民主党政権が樹立しても、オバマ政権は自信に満ちた態度で、米日同盟が確かなものであることをに、変わりないとコメントすると言われています。日本の現政権に対して、米国は日本重視の姿勢を明確に打ち出しています。ヒラリー・クリントン国務長官は、日本をアジア戦略の「コーナー・ストーン(要石)」であることを宣言し、就任後初の公式訪問国を日本としました。なので、日本が日米同盟を堅持する限り、米国の姿勢にそう大きな変化はないと言わています。

ただし、現在海の向こうの彼らの注目しているのは、民主党の実力の様です。その一つが移行計画です。私たちがビジネスするITの世界で、移行ほど厄介で気を使う案件はありません。そこには独特の要素があり、業務経験と移行の十分なノウハウを持った精通者をアサインしないと自ずと埋もれた地雷を、踏むことになります。
この移行という作業は、どのシーンでも同様な基本要素があるように思えます。
米国は大統領就任まで大規模な移行チームが、事前に十分に検討された項目をもとに十一週間かけて、新政権の政策を準備するようです。長く政権を維持した自民党は、トップの交代のみで主義・主張が変わるわけでないので、必要ありませんが、民主党は米国並みと言いませんが、わずか数日で、この試みを実施しなければなりません。閣僚人事も合わせてです。これはとんでもない量を数日でこなす訳です。ワシントンが自分の事のように心配する気持ちが理解できます。
さて、鳩山政権への移行計画は誰が起案し、実施に移すのでしょうか? それとも、そもそも移行計画は無くて、数日間缶詰になって、集中して、ぶっつけ本番でビシバシと決めていくのでしょうか?気になるところです。

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ブリタニア

2009.07.31

紀元前五五年年八月二十六日は大英帝国の歴史の始まりである。」と言ったのは、ウィンストン・チャーチルです。この日は、歴史上初めてローマ軍の軍船がブリタニア(イングランド)の海岸に達した日です。ちろん、総司令官はかのユリウス・カエサル(後のシーザー)です。
私は塩野七生さんの「ローマ人の物語」がとても好きで手軽な文庫本を読破しています。特に好きな年代は何度か読み返していますが、カエサルがブリタニアをほんの一瞬ですが「斥候遠征」したことがあります。このことを契機に英国がその存在をローマに知らしめたとして、後年チャーチルが「歴史の始まりである」という名言を残します。
カエサルがブリタリアの攻めたのは、彼が45歳でガリア戦役が始まって四年目のことです。七生さんは一般的な「ガリア戦記」(戦記は出来ごとを年代順に書き残した記録書)といわず実際の戦争の行動期間をいい表すために「ガリア戦役」としています。言われてみるとそのほうがすっきりします。この戦役は通算八年間続くことになりますが、最終的にはこの戦役によってカエサルの持つパワーは強大に成長していくことになりますが、、当初はそう大きな軍団ではありませんでした。彼はこの八年間に彼に従う強靭なチームを作り上げていく事になります。もちろんルビコン前の出来事です。彼女のこの本を読めば読むほどユリウス・カエサルが魅力的で、惹かれていきます。且つ彼が「大器晩成」だったことがよく理解できます。

私たち日本人は、この国のことを説明するとき、ごく日常的に「英国」または、「イギリス」と呼んでいますが、たぶん説明足らずの表現ということになるでしょうね。この国の成り立ちは歴史上の経緯からして複雑な構成要素がたぶんにありました。正式には「イングランド(England)」と表記しますが、本来の意味は、"グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国"(イギリス)を構成する4つの「国」(country)の1つである。」と認識した上で、使わなければならないンでしょうね。ですので、少なくとも「イングランド」と表現することが最低条件の様な気がします。

英国は日本同様に島国ですが、日本と異なり近隣に強大な国々が歴史上頻繁に勃発したので、そのつど影響を受けます。日本での占領の危機は二度の元寇と日本が自ら招いた先の大戦の米国の実質占領の三回しか経験がありませんが、英国はカエサルのローマ軍が引き上げた後、ゲルマン系アングロ=サクソン人が侵入して、ケルト系ブリトン人を征服または追放してアングロ=サクソン七王国を興します。その後、アングロ=サクソンの諸王国はデーン人を中心とするヴァイキングの侵入によって壊滅的な打撃を受けますが、最後にウェセックス王アルフレッドがヴァイキングに劇的に打ち勝ってロンドンを奪還します。この当時の指導者であるアルフレッド王(在位871年 - 899年)がロンドンを手に入れたのは、878年の「エディントンの戦い」於いてです。
そして、東部地区を除いて、ほぼイングランド南部を統一します。その後、エドガーの時代に北部も統一され、現在のイングランドとほぼ同じ領域の王国となるわけです。世界史専攻の人には簡素化しすぎた説明かもしれませんが、お許しください。
この様に、英国はカエサルの時代から戦乱が続き、この後も長く長く続きます。日本と違いこの国では、実際にイングランド人以外の統治が長く続くことになる訳ですが、一番長期に政権を維持したのはやはりフランスです。例えば、かの有名なヘンリー三世がいますが、彼はアンジュー王家の血統を厳格に守り、生涯イングランド人になることを拒み続けた王として有名です。
しかし、その彼が1239年に生まれた長男を、イングランド名の「エドワード」と名付けたことから、国民はこの命名を喜び、エドワード一世として王位に就くや、イングランド名の国王としての再来と、強く彼を支持する国民感情が高まったようです。実はそこを狙ってエドワードという名をつけた訳ではなく、全く別な理由で命名されたのですが。

エドワード一世も、血統では父王同様全くのアンジュール人でしたが、ノルマン征服(1066年に所謂ノルマンディー公ギヨームによって征服され、ギョームがウィリアム1世(征服王)として即位し、ノルマン王朝は開かれます。当然、アングロ=サクソン系の支配者層はほぼ一掃されてしまいます)の1066年からすでに200年を過ぎているとあって、貴族階級だけでなく、広く英仏の混血化が進んで、当時はフランス語しか話さなかった貴族階級も英語を使い始める時代に突入していくのです。そして彼は父王とは全く異なる国王として統治に望み、多くの事績を残していくことになります。
彼は歴代イングランド王の中で、きわめて有能な国王の一人としてその名を残しました。
しかし、一方では、対ウェイルズ戦(1276-1295)、エドワード三世まで続く、対スコトランド戦(1296-1341)、その後は1337年から始まる、フランスとの百年戦争、ヘンリー六世の時代の仏からの撤退(1453)、そして1455年から始まるばら戦争に続く訳ですが、この撤退を契機にフランス系のイングランド諸領主も次第にイングランドに定着し、イングランド人としてのアイデンティティを持ちはじめ、最終的には民族としてのイングランド人が誕生するという物語となります。
英国がその国威を世界に示す基盤は、15世紀後半にやっと固まってくるのです。

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紙とデジタル

2009.07.27

最近は本を読む時間があまり取れません。
忙しさを理由にしている向きはありますが、とにかく公私共に趣味や雑用が多く、じっくりと本を読む時間がなかなか取れない状況です。
それでも、最近十冊程度の本を読み終え、さらに二冊の本が執務机に載っています。
読み終わった本でとても感銘をうけた本は、
風の中のマリア」「ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて 」の二冊でした。
そして、これから「lQ84」と「シリコンバーから将棋を観る」の二冊を読みたいと思います。
いずれもアマゾンで購入したものです。
そこで、
最近「スクリブド(Scribd)」というサイトがあることを知りました。
"いたずら書き"または、"走り書き"という意味の英単語のScribbledを略したもので、「誰もが創作を楽しみ、その喜びを皆と分かち合ってほしい」との意味合いがあるそうです。
このサイト、いろいろな面で画期的です。

もう、二十年くらいになりますが、この「スクリブド(Scribd)」の記事を読んで突然思い出した事があります。それは物理的な本とデジタルの違いを鋭く洞察したエッセイでした。
タイトルも誰が書いたものかもすっかり忘れましたが、主旨は鮮明に覚えています。
それは、私たちが今手にしている本という物質的な制約がなくなってしまうという物語です。
コンピュータと文学者の結びつきは、非常に古くワードプロセッサーの登場から密接な結びつきが有ります。いまでは、書籍のデジタル化は一般的なことになっています。それは、あらゆる書物が仮想空間のなかで電子化されつつあるという事実を物語っています。
ネットは、膨大で、かつ巨大です。
物質性を離れると言う事は、今まで私たちが千年以上に渡り血の中にまで色濃く定着し、固定化した書籍の文化を離れると言う事が前提となりそうです。
正確には、ネットがそれを実現可能な方向に導いていると言う事になるでしょうか。
このあたらしい文化は確実に新たなフェーズに進んでいると思います。
言い換えると、我々が慣れ親しんできた、モノとしての本の属性がもしかすると、失われてしまうのかも知れないと言う事です。
これを私たちは、どのように考えたらよいのでしょうか?

デジタル化された本は、物質では有りませんので、いわゆる「パルプ」は不要です。
あるのはネットが繋がったディスプレーかモバイル端末か専用機です。
たぶん、電子の本には私たちが、長い間文化として作り上げてきた慣れ親しんだ「厚み」とか「重さ」とか「匂い」が有りません。
果たして、本が本来持っている「厚み」「重さ」「感触」といった属性を全てすててもいいものなのでしょうか。

一枚一枚めくる指の感触、脇に抱える厚みと重さ。
ページを開いたときのインクの匂い。
どれをとっても独特な雰囲気です。って、少女っぽく考えるのは感傷的で、ITを推進する企業の経営者の言葉ではないのかも知れませんが。
しかしです。本が本来持っているこのような属性と書かれている内容は、全く無関係といえば、その通りなんですが、だからと言って、本当にそう「言い切って」いいものでしょうか。

本の物質性と読書をする行為との間には、もっともっと深遠な関係が存在しているように思えてならないのです。
次世代には、物質としての形を持たない「本」が、前提になりそれを受入れ、それに慣れ親しんで
しまうと言う事なのかもしれません。なんて、SFっぽいンだろう。
しかし、いまの今、考えるには、ちょっと恐ろしいことの様に思えます。
もちろん数十年といった単位だとは思いますが。で無いかも知れないところに摩訶不思議がある訳なんです。
物質と情報は、独立してしまい具体的に本を読むという「心」とか「体」とかの感性に対して、別な次元での知識を習得するという行為になり、両者との関連性をうまく両立しなければ為らないということになりはしませんか。
いろいろ、考えさせられてしまいます。

たとえば、物質的な「本」であれば、表紙を眺め、ページを開き、めくり、閉じる。
「開く」という言葉には「啓く」という意味が附帯します。
この「啓く」は当然のことながら「啓示」に通じ、この言葉の持つ意味を探れば、宗教的な起源にたどり着く事は明白です。

ひとつ印象的なお話が有ります。
それはある「学ぶ」という物理的な光景です。
ヘブライ人(すでに死語に近い)の子供達が、ヘブライ語のアルファベットを習う最初の日に、教師は子供たちにそれぞれ石版に最初の文字を「蜜」で書かせ、それを舐めさせる儀式があるそうです。子供たちは、文字を最初に学ぶ瞬間に、知識は「甘美」なものであることを感得するちがい有りません。素晴らしい儀式と思いますが、もうこの儀式は古典的な儀式しかもしれませんね。

この時の「文字」の持つ力は、当然のことながら活字でも不可能であるし、ましてやデジタルでは有得ません。この儀式は、文字を単なる伝達媒体とする考えからは、絶対に出でこないでしょうね。
文字が電子化される事により、本来の読書や読書をするという行為・行動が培ってきた指先や手の動作が電子化してしまう事により、本来持ち続けた「感触」といった様な属性がほとんど失われてしまったらどうなるでしょう。ヘブライ語を最初に習った子供たちの教育という中に持っていた、文字と味覚の直接的結びつきは、日本の(漢字文化圏)「書道」に合い通ずるかも知れません。
書道を習う子供たちは、決まって手やブラウスの袖やズボンを墨で必ずといっていいほど汚します。文字は「染み」を作るものである事を、手を汚しながら体で理解することの重要性は、文字の電子化の中には絶対に存在せず、それがまた、大きなうねりの波に呑まれて、本が本来持ち続けた属性をすべて淘汰していくのでしょうか。

きっと、そのこと自体、今の時点で重大事であると言う事に、私たちは、たぶんはっきりとは認識できず、何十年という歳月によりその重要度をはっきりと認識し、しかしその時にはきっと、取り返しのできない染みを発見し、その広がりに呆然とするのでしょうね。

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プレステージ(続き)

2009.07.17

前回からの続き

ロンドン博の三年前、1848年にカリフォルニアで金が発見され、これを「ゴールド・ラッシュ」と呼んだことを中学の社会科で習ったと思います。歴史は時には面白い組み合わせをしますね。ゴールド・ラッシュの続く中、ロンドン博もアメリカ号の建造も英国でのレースも、ペリー提督による江戸幕府派遣もなされたという訳です。カリフォルニア、ニューヨーク、英国、日本と場所こそ異なりますが、ほぼ同時進行で歴史は時を刻んでいきます。
ゴールド・ラッシュ以前は、一寒村であったカリフォルニアに、東海岸から数十万人も金を目当てに人々が集まったといわれています。詳しい統計はありませんが、その半数は幌馬車を仕立てて砂漠を横断し、一路西海岸を目指しました。ロッキー山脈を越えるアドベンチャー的な危険を伴った旅であったと思います。しかし、残りの半数は海路を選んだと言われています。その証も確かにあります。もしかしたら、陸路よりもっとリスクが高いのでは?! いや、むしろ安全だったのかも。
金鉱発見前の1848年4月以前は一年間にサンフランシスコ湾に入港した帆船はわずか四隻でした。それがその後一年で、なんと775 隻という途方もない激増ぶりです。航路はもちろんニューヨークを出帆して、南アメリカの最南端のケープ岬回りでカリフォルニアに到達するのですが、当時の帆船のスピードでは早くて150日、遅くて240日でした。需要と供給はまさに現在のエアーラインと同じです。多くの人を運ぶには、多くの機材の確保と効率的なローテーションが必要となり、必然的に足の速い船が欲しくなり「快速帆船の建造」となります。これは時代の要求です。ここに登場したのが、すなわちサンフランシスコへの急行便として建造されたクリッパー・シップである「カリフォルニア・クリッパー」です。
船を作るときにもっとも重要なことは、天候の要素を除くと、斬新な設計の精度とその船をドライブする船員の技術力です。このような時に時代には必ず要求された人が現れるものです。
それが、「ドナルド・マッケイ」という帆船設計者です。
彼がカリフォルニア・クリッパーとして最初に設計した「スタグハウンド」という帆船は、1851年の処女航海で110日間の区間最高記録を出しました。ざっくと50日間の短縮です。そして、この船の実績を踏まえてより斬新な設計をした「フライング・クラウド」は同じ年になんと、89日間21時間という前人未踏な区間記録を作ります。時間当たりの平均速力は18.5ノットになります。これはとんでもない記録です。この当時のホーン岬周りは航路的にかなり精度が高まったとはいえ、まだまだ予断を許さない未知のエリアが多かったと思います。昔のシーマンは素晴らしく強靭な精神の持ち主が多かったんだと、いまさらながら感じるところです。西風の多いホーン岬沖は東に向かうときにはまだ、比較的進めても、反対に西に向かうときは帆船にとって非常に厄介なエリアであることは間違いありません。行きはよいよい、帰りは怖いというやつです。いや、本当に間違いなく恐ろしいエリアなのです。

実は、ニューヨークで建造された「アメリカ号」にはこの様な環境が徐々に整えられていました。
そこで、「パイロット・スクーナー」について話したいと思います。
パイロット・スクーナーは船の形式ではありません。使い方または、用途に名づけられたものなのです。一般に港には港の特性があります。風の吹き方、島、潮流、浅瀬、水路、泊地、錨地等、その港特有の性質があるために、船が港外にやってくると、その港に精通した水先案内人(パイロット)を乗船させ、そのパイロットの誘導によって入港することが常識となっています。エンジンを持たない当時の船ではパイロットは不可欠なものです。この同時のパイロットは自由競争制でしたので、港外に入港船が見えるや否や小型艇に飛び乗って、一番先にお客さんのところにセールスに行かねばなりません。よって、高速艇が必要となりました。これをパイロット・スクーナーと呼び、足の速いスクーナーは当時は花形であり、きっと評判が評判を呼んだのではと思います。

NYCの五人のオーナー達が「アメリカのスクーナーを代表するヨット」として建造するに当たって、新興国のアメリカらしく、ニューヨーク港で俊足のスクーナー設計者であるジョージ・スティアーズという弱冠31歳の青年デザイナーを選んだことも納得がいきます。彼は確かに青年でしたが、すでにそれだけの重責を負託されるにふさわしい実績の持ち主でした。ジョージは造船一家の父親も元で、十代から設計を手掛け、すでに多くのスクーナーを竣工させていました。そして、彼が21歳の時に設計した「ウイリアム・G・ハグスタッフ号」という船が素晴らしい快速船であったと記録にあり、長く歴史に刻まれる事になるのです。この若手の起用は時代や実績だけでなく、たぶんにスティーブンス会長のトップが持つ感性や積極性や賭けがあったのではないでしょうか。

建造についてもいくつかの強い意志が込められています。
その根底には、「米国の建造技術を見せる」に集約されています。
ひとつは、自力で大西洋を小型船スクーナーで横断できる仕様を設計及び造船所に申し入れたこと。想定外のこの事は、設計者にとっても造船技術者にとっても、操船するクルーにとってもとても大きな負担となりました。しかし、その負担は船の高速性能の他に、堅牢な船体構造となって具現化されました。そして、クルーにしても、当時からヨットレースはプロの仕事なっていましたので、熟練者の中でも超一級のスキッパーが選定されました。さらに、建造費は三万ドルと当時としては飛びぬけて高価な船になったこと。これも、英国においても恥ずかしくない艤装を求めた結果となり、最高級のアメリカ・クルミ材を船体にふんだんに用い、さらに船室は彫刻を施したマホガニー材で内装しました。

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裁量権

2008.01.11

「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船) たった四はいで夜も眠れず」

この川柳はとても有名ですね。巨大都市江戸からあっと言う間に日本国中に広がりました。当時の江戸は情報発信という点でも巨大な震源地だったようです。
「上喜撰」(じょうきせん)は当時の高級茶の銘柄です。もちろん、この蒸気船(上喜撰)は米国海軍の黒船四隻の事ですが、ある日、不意に浦賀へ進入した蒸気船によって江戸という大都市が上を下への大騒ぎしたことを、カフェインの効いた高級茶によって夜も眠れないに引っ掛けています。情感が目に浮かぶようです。流石いとうほかありません。

この川柳はペリー提督の「黒船艦隊来る」がきっかけによって江戸市民によって詠まれたわけですが、艦隊発見の第一報が「浦賀奉行所」入ったのはこの艦隊がすでに浦賀沖にアンカー(錨)を打った後でした。
この時の伝令の報告書は「およそ三千石積みの船四隻、帆柱三本ているも帆を使わず、前後左右、自在にあいなり(中略)あたかも飛ぶ鳥のごとく、たちまち見失い候」というものでした。
時は、1853年6月3日(嘉永六年六月三日)の事でした。

日本側の見張りは「三千石積み」と目測します。
当時国内にはいわゆる米千石を積載できる和船の「千石船」が大型船の部類にはいる他と比較できる具体的なサイズでした。

幕府の取り決めを無視して長崎でなく直接江戸に来たペリー提督の心理はよく理解できるものですが、いくら国是を取り決めても国際社会がそれは「是」としてくれない以上、いかんともしがたいです。
さて、その四隻の黒船ですが、
旗艦の「サスケハナ号」は2,450トン、乗組員300名、1850年に竣工した米国海軍最新鋭の汽走軍艦です。米国母港を出港したのは二年前で、すでに東インド艦隊に所属していました。もう一隻は「ミシシッピー号」で1,692トン、乗組員300名、1839年竣工で米国海軍最古の汽走軍艦でした。
当時はまだ太平洋航路は当然ながら未開発でしたので、ペリーは米国東部のノーフォークを1852年(嘉永5)11月24日に出発して大西洋を渡り、アフリカ南端の希望峰を回り、インド洋を経て東インド艦隊に合流するまで、この艦でやって着ました。実に長い旅です。

話を戻しますと、日本の千石船は1,000石の米を積める大きさの船を指しますが、これをトン数に換算して「サスケハナ号」と比較してみたいと思います。米1,000石の重さは約150トン程度なので、積載能力換算で「150トン」積みの舟となります。これを一定の喫水(荷物を載せて実際に水の中にどのくらい沈むかというライン)にして排水量換算にすると約200トン前後と推定できます。ですから、千石船の三倍どころか、約20倍近い大きさということになります。見張役はよほど泡を食ったということになりますね。

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先行投資

2007.12.28

先行投資には、仮説思考が必要です。
もちろん、そこには市場の魅力が前提ですね。

仮説思考とは、「何か物事に取り組む際に、その時点で考えられる仮の結論を置いて考える思考法」のことです。一定の事実を積み重ねて、全体像を捉えて思考する方法でなく、先に可能性を示す「仮説」を立てる事を常とします。
その仮説を検証することからスタートする思考法のことですが、やり方は仮説を立証する為に何をすればいいかを外部環境から情報を集めてひとつひとつ検証し、立証する作業を最初に行います。仮に、出来ないようであればさらに「仮説を立て直す」というサイクルを繰り返し、真の、または真に近い「仮説」を実証し、設定を行うことになります。

セウタの攻略後、その収入よりも多くの維持費が王の財政を圧迫しています。
また、北アフリカでの戦いの費用は当然のことながら国家予算で組まれています。
しかし、
エンリケ航海王子が王から独占権を得たボジャードール岬以南の発見の航海費用や交易所の建設等、その他総ての探検開発費用は彼の収入によるものです。

現在の「市場の魅力」は、
目指す市場の絶対的な規模や可能性、その市場内での競争上の構造と市場の成長率です。特に気にするのは、規模、成長率、競合ですね。さらに当然のことながら経済、技術、社会、政治、環境など、広範囲の直接的にも間接的にも外部環境の影響を受けることになります。
彼が生涯に亘って推進した探検航海の費用は王室からは一切支出されることはありません。
エンリケは探検航海の他に、イスラム教徒との戦いや海外の教会建立などの費用は、彼自身の所領とキリスト教団から得たものです。

さて、
エンリケの事業経営に関する仮説はどのようなものだったのでしょう。
探検航海の投資は想像以上に莫大です。
現在の宇宙開発事業の様なものです。国家レベルの事業です。
彼は、
そこに市場の魅力は十分にあったのと仮説を持っていたのでしょうか?
セウタの攻略から探検航海に目を向けて以来、所領等の事業経営収入の利益のほとんどを「発見の航海に投入」しています。

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経営という使命

2007.11.07

150年前の11月5日は吉田松陰の「松下村塾」が発足した日と云われています。
今週の月曜日ですね。

創業者、船井総合研究所の船井幸雄さんは、以前から非常に多くの経営者から相談を受けるそうですが、彼は経営者から事業の相談があると、決まって次の「六つの質問」をするそうです。
(1)心の底から、それをやりたいのですね。
(2)それは、世のため、人のために必要なことですね。
(3)それを実施することによって、世の中を悪くしたり、バランスを崩したりはしないですね。
(4)実際に、それをやる人は喜びますね。
(5)成功して、採算が合う確信がありますね。
(6)もし失敗したときには、全責任がとれますね。
というものです。
このうち一つでも「否」があれば、再度熟慮を促し、逆に、全て「可」であれば、すすんで支援をされるそうです。
考えるに、この「六つの質問」を全て「可」にすることはとても難しい事と思われます。
だからこそ、全て「可」であれば成功の確率は一段と高くなると想像できますね。
仮に今、ボクが新規の事業やその事業の拡大などで悩むとき、船井さんのこの「六つの質問」をすべてクリアーできそうもありません。
船井さん曰く、全て「可」だった場合、過去に失敗した例は無いそうです。
さすがは経営学の大家です。

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続・海のシルクロード「Götheborg」

2006.06.25

スウェーデン製大型帆船「イエーテボリ(Götheborg)」は2004年9月3日に「スウェーデン皇室・シルビア女王」によって命名されました。

スウェーデン・東インド会社所属の「Gotheborg」は1745年9月12日にGoteborg港の川口付近の浅瀬に乗り上げた沈没しました。当時この船はアジアで買い集めた「紅茶, 磁器, 絹およびスパイス」などの商品が満載の状態でした。彼女は既にこのアジア航路を二回経験し、今回で三度目でしたが不慮の結末を迎えた訳です。
Goteborg港を出港し、中国から帰国途中で航海日数は既に30ヶ月になろうとしていました。
そして、次に彼女が姿を現したのは1984年12月のことで「New Elfsborg Fortress」から900㍍沖でダイバーによって左舷部分が発見されました。
その後泥や粘土により見失い、再度発見されたのは1986年のことです。その後1986年から1992年にかけてこの船の考古学的な調査が本格的に始まりました。

この事が次の「再びイエーテボリ(Götheborg)を!!!」への夢となったと思われます。

しかし、この夢は途方も無い事です。
最初は「夢の意義」、そして推進者と資金、次に技術や手に入りにくい木材等々数え上げればキリが無いほど多くの障害があります。

そして、最初に手を付けたのが、
「The East Indiaman “Gotheborg" 財団」です。1986年に発掘のために設立されたました。
次に資金集めの会社として「Svenska Ostindiska Companiet AB(スウェーデンの東インド会社)」を1993年に確立しています。
建造プロジェクトはの1995年6月から始まったという事です。
まず、船台に竜骨(キール:KEEL)がシンボルとしておかれます。全ての始まりは竜骨からです。
これは今の造船工程でも不変です。

〔船台にキール置き、キールを中心にフレームを組み上げ側板を貼り付けていく工程〕

1996年-1998年でフレームに側板が組み立てられて船の形が少しずつ形成されます。
2001年秋にはマストが上がり、補助エンジンが設置されました。
そして、「The launch〔進水式〕」は2003年6月6日に「Presence of His Royal Highness Carl XVI Gustaf」と主要な後援者である「シルビア女王およびカール・フィリップ王子」を迎えて行われました。


〔キールを底辺に美しい理想的な曲線が出来上がります。〕

このへんが日本とは違い大規模で、著名人が相互に協力し合い、一つのことをまとめていく精神が欧米にはあるような気がします。

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海のシルクロード

2006.06.19

過去NHKは「シルクロード〔絹の道〕」を何度か特集を組んでいます。

誰でもが知っているこの呼び名は「シルク」という「響き」によってより神秘的な印象を与えます。
絹を交易の最も効果的な商品と考えた初期の商人はとても賢い人たちでした。その意味では中国の「陶磁器も香料」も中近東やヨーロッパにはありませんでした。
によって発展してきた交易路を「シルクロード」と呼んでいますが、名付け親はドイツの「地理学者リヒトホーフェン」だそうです。
彼はユーラシア大陸の中で古代中国とギリシャ・ローマ文化圏との交易で最も大きな役割を果たしたのは「」であると結論付けそのルートを「絹の道(シルク・ロード)」と命名しました。百年以上前のことです。この後多くの学者がルートを解明し、シルクロードはその距離を我々の想像以上に長く延長させる事になります。

シルクロードには大きく分けて「3つのルート」があるといわれています。三つのうち最後に上げられたのが「紅海またはペルシャ湾からインド洋、東南アジア」を経て華南に至る「南海路」のルートです。
別名の「海のシルクロード」という呼び名の方が定着していますね。

現代の今に「海のシルクロード」に一隻の帆船をその当時の設計で復元し、航海をさせようという試みが進められています。

その帆船の名は「イエーテボリ」です。

建造地は「イエーテボリ」が当時作られた「イエーテボリ市」です。1783年当時に建造された世界最大の木造帆船帆船でした。「イエーテボリ市」はスウェーデン第2の都市で良港で有名です。

スウェーデンはもともと「ヴァイキングの時代」を経た海運国です。清朝時代(1644~1911年)に中国との貿易を開始しまた。
オランダ、イギリスやポルトガル、スペインに遅れながら1731年にスウェーデン東インド会社設立しています。ちなみにオランダの東インド会社設立は1602年3月です。
実際に定期航路を開拓するまでに多くの時間を費やしています。中国航路に最初に投入した船が「イエーテボリ号」でした。
このブログのタイトルでもある「カティ・サークは1869年11月22日の進水」です。

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サウジサウダージ

2006.06.10

家の近所をドライブする日曜日の夕刻はJ-WAVEの「サウジ!! サウダージ!!」を良く耳にする。

J-WAVEの開局は88年10月2日らしいですが「サウジサウダージ」は開局翌日からスタートした老舗(?)の番組。
言葉の響きから想像出来るように「ブラジル・中南米・カリブ」のラテン音楽が中心です。
この「サウジ・サウダージ」はふたつの単語でいずれもポルトガル語です。意味は「サウジ saude」が「健康」あるいは「乾杯!」という挨拶の意味合いがあり、「サウダージ saudade」が「懐かしさ」「郷愁」「もう戻る事の出来ない無邪気で日々の悩みも無く楽しかった幼き頃の日々への想いなどを表すというこどだそうです。いずれもラテン社会ではよく使われる単語とのこと。知人が最近入社した「ノエビア」が昨年からスポンサーシップを取っています。番組も「NOEVIR SAUDE! SAUDADE...」として生まれ変わりました。新しく『林奈穂』さんがナビゲーターになりました。三代目とか。
ノエビアがスポンサーになる前はJALでした。が、一連の不祥事でTV・ラジオ問わずすべて降板したので、タイミングよくノエビアが取ったのでしょう。
いつもは小野リサをナビゲーターとして呼んで彼女の曲を多く流したりしていましたが、先週は「とても気になる」グループの特集をしましたので、楽しい一時間でした。

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スタンフォードとスティーブ・ジョブス

2005.12.11

シリコン・ヴァレーとスタンフォード大学

先ごろ知人から二週間程度の「音信不通宣言」を頂きました。毎年恒例となっている娘さんとのニューヨークで「クリスマス休暇」を楽しむためです。羨ましくもあり、毎年元気で続けられる知人に対してエールを送りたい気持ちで一杯です。冬のニューヨークではロックフェラーセンターの巨大なクリスマス・ツリーとスケート・リンクを思い浮かべます。ブログを検索すると「この11月1日からロックフェラーセンターの展望台「TOP OF THE ROCK」が20年ぶりにオープン。今、一番話題の観光スポット。 70階にある屋上部分の高さは地上約260メートルにもなるんだそう。セントラルパーク、エンパイアステイトビル、クライスラービル、自由の女神、タイムズスクエア…などマンハッタンのランドマークを見渡せる360度の眺望は他にはない魅力。」とありました。
また、『ロックフェラーセンターはニューヨークの冬の風物詩。映画にも登場したりでおなじみのスケートリンクはすでに10月上旬からオープンしているし、11月30日にはクリスマスツリーの点灯式も行われる。スケートリンクとクリスマスツリーに、この展望台が加わって、ますますこの時期のロックフェラーセンターは観光客で賑わいそう。〔New York物語より引用〕』とも記述があり、知人親子がとても楽しく過ごせる雰囲気は万全の様子です。
ジョン・D・ロックフェラーはセブン・シスターズの基礎を作り稀有なロックフェラー財閥を成し遂げました。この人も魅力的なブログのテーマになりますが今日は西海岸にあるスタンフォード大学の話です。一つ前のブログで「スティーブ・ジョブス(Steve Jobs)」が米国のスタンフォード大学の卒業公演で学生たちに「贈った言葉」をテーマにしまた。
気候のよい西海岸のこの地に「スタンフォード大学」が出来た事が結果的に後の「シリコン・ヴァレー」を生む事になります。それはこの地で沢山のアメリカン・ドリームを生み出した事で世界中の人が当たり前に知るようになりました。「シリコン・ヴァレー」という地名は存在しませんが、少し前まではその「実在」を殆どの人が、ごく普通に受け入れていた節があります。今ではITという特定の企業が所在するかなり広いエリアの総称と理解されるようになりました。。「シリコン・ヴァレー」という地名は60年代にドン・ホフラーいうエンジニアが業界紙「マイクロエレクトロニクス・ニューズ」でこの表現を使ったのが最初と言われています。
かってこの地は見渡す限り果樹園で世界のプルーンの生産量の半分はこの地で作られていたといわれています。プルーン、洋梨、アプリコット、チェリーなどの生産地で米国でも有数の農業地帯として知られていました。この地の主要都市は「サン・マテオ」「サンタ・クルズ」「サンタ・クララ」の三都市ですが、最大面積のサンタ・クララが農業から工業に産業基盤をシフトしたことが大きく変化し始めた要因と言われています。
スティーブ・ジョブスが率いるアップル・コンピューターが最大勢力に育った80年代初めには10万㌈在った果樹園は1万㌈を切っていたと言われています。そしてその「アップル・コンピューター」ですが、スティーブ・ジョブスが果樹園のリンゴの採り入れ仕事から戻って直後に創業したことに由来しています。この事も有名な逸話として先輩から聞かされました。リンゴは栄養価が高いし、形も美しいし、腐りにくいというのが命名の理由だそうです。

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投資額14億円

2005.10.23

楽天の対TBS資金は巷の噂では「2000億とも3000億」とも云われています。懐が寂しければこんな博打は打てないでしょう。筆頭株主で経営統合を申し入れた楽天に対し、ネットと放送の融合など、事業面で提携する可能性について、その裏付けを求める文書を週明けにも送付する方針を明らかにしています。首脳陣は週末一睡も出来ないほど多忙でしょう。この両社の交渉は事実上アベッド〔前進〕ですね。

さて、「クリストファー・コロンブス」が第一回で新大陸を発見した時に乗船していた旗艦は「サンタ・マリア号」です。この船を復元し当時のコースで航海したいという「夢」の様な構想を抱いたグループいました。そして復元された「サンタ・マリア号」はなんと総工費14億円でした。

彼の第一回の航海の資金調達計画は二回も却下された後、殆ど奇跡的にカスティーリャ両王のうち、イサベル王女が彼女の側近の示唆により逆転・承認となった事を以前のブログで書きました。コロンブスは殆ど蓄えはなかったようですのでイサベル女王の投資額の他に資金を集めなければなりませんでした。そして彼はそれをパロスで行いました。そのパロスの船主であり船長であり、実業家の「ピンソン兄弟」に依頼をしました。彼らの持ち船と熟練船員と資金をコロンブスが持っている利権の一部渡す事で協力を得ます。そして確保したのは三隻の小型の帆船です。探検隊の船隊としては言い難い陣容でした。旗艦は「サンタ・マリア号」で仕様が残っていませんので正確には不明だそうですが、100-120積載㌧といわれています。船主は「ファン・デ・ラ・コサ」という人で港町サンタ・マリアを活動拠点にしていたようです。コロンブスとコサは旧知の中で多分彼がコサを口説いたのでしょう。資金は「ピンソン兄弟」がら借受る事で凌ぎ、コサは船長として参加し、クルーも全て彼の同郷の熟練水夫を集めたようです。次が「ピンタ号」で80積載㌧で最後が「ニーニャ号」で60積載㌧でした。ピンタ号のオーナーはパロスの住人で「クリストバール・キンテーロ」という人です。船長はピンソン兄弟の兄の「マルティン」が務めました。自分の持ち船がアサインされた事でしぶしぶ提供したと言うのが実情らしいです。「ニーニャ号」はモゲールの住人「ファン・ニーニョ」の持ち船で、彼は自らセールマスター〔航海長〕として参加しました。全体では90人程度と云う事です。勿論投資家のお目付け役の王室役人と公証人、カーペンター〔船大工〕と外国人数名が乗り込みました。通訳のためです。

せっかく新大陸を発見したのにも関わらず気の緩みと「12月24日」のクリスマス・イブも手伝って「見張りに」少年の見習いセーラーを配置した結果、座礁です。座礁時の対応策は喫水をまず揚げる事です。ですから、すぐに積荷を海に投棄させました。悠長なことは出来ません。船体は座礁すると水平に接地していないためひずみができ、自重で亀裂を生じます。コロンブスは積荷を投棄しても喫水が上がらないので、メインマストを切り倒した様です。最も緊急を要する時に行う方法です。それでも浸水し、結局破棄せざる得ませんでした。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ

2005.10.10

レオナルド・ダ・ヴィンチの「レスター手稿」が日本で初公開された。

知人の強いお誘いで閉館前の30分を入館させて頂いた。館内は極度に照明を落とした落ち着いた雰囲気でしたが、とても小さな展示場でした。人類史上最も多彩な能力を残した天才と言われているレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)ですが、その「ダ・ヴィンチ」が晩年書き上げたという「研究の集大成」とした直筆ノートをはじめて見ました。「レスター手稿」です。
この「レスター手稿」ですが、実は世に12冊あって一冊を除いて全て博物館に所蔵されているそうです。博物館に所蔵されていない一冊が今回のものです。所有しているのはあの「ビル・ゲイツ」です。彼の手元に落札されるまでにその変遷は富豪の手を転々としていました。最初はローマの画家G・ゲッツィから英国の貴族レスター卿へ渡り、その後レスター卿から米国石油王アーマンド・ハマーへと渡った後に彼の手に落ちましたということです。

■開催概要
期間: 2005年9月15日(木)~11月13日(日)
会場: 六本木ヒルズ 森アーツセンターギャラリー (六本木ヒルズ森タワー52F)
会期中無休          
時間: 10:00~20:00(最終入館19:30)
料金: 一般¥1500、学生(高大生)¥1000、小人(4歳~中学生)¥500

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クイーン・エリザベス一世

2005.08.27

クイーン・エリザベス一世の苦難

グット・クイーン・ベスの話ではありません。「クイーン・エリザベス一世」という豪華客船の話です。と、云うのは昨日、坂本竜馬の「いろは丸」や世界最大級の豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス」「サファイア・プリンセス」(113,000トン)の話題をしている内に「QE1」の悲しい出来事を思い出しました。
クイーン・エリザベス一世(QueenElizabethⅠ)は、 1940年に就航しました。
〔総トン数=83,673トン〕〔長さ 1,031㍍〕〔幅 118㍍〕で、乗客定員は2,283名収容です。当時は巨大船です。ディカプリオ様とケイト・ウィンスレットが共演して日本で大ブームの「タイタニック」はQE1より30年前に就航しています。(タイタニック号 /1912年就航/ 46,328トン)処女航海のみしたと云う方が正解ですね。船主は英国の老舗の「ホワイトスター社」です。しかし、この事故が原因で1934年にはQE1の船主である「キュナード社」に買収されています。そのキュナード社も先頃カーニバルコーポレーションの傘下に入り新なる活動を始めています。世の変遷は人智では図り知れぬものです。
確か1972年か73年だっと思います。当時僕はアプレンテス(apprentice)でした。最低半年のこの期間は主席先輩の下で見習いの日々を送っていました。場所は香港です。「クイーン・エリザベス一世」は「クイーン・エリザベス二世」と引継ぎ、四半世紀に亘る長い航海を終えて、第二の人生を歩むためにこの香港で洋上大学に変貌するための大儀装中でした。しかし、その儀装途中で不慮の失火にり三日三晩燃え続けました。後は鉄の塊が辛うじて浮いていると言う感じでした。神戸を出航する時に既に海事テレックスで既にその事実を知っていましたが、彼女に会うまでは実感は全く湧きませんでした。勿論現役時代の彼女知りません。「ダイヤモンド・プリンセス」の火災をTVや新聞で読んで「QE1」のことが突然思い出されました。「ダイヤモンド・プリンセス」の儀装には千名の従事者がいたと聞いていますが1人も死亡者を出さず消化出来たことは不幸中の幸いと思います。火災時の担当者の災難に唯々、心が痛みます。「QE1」の火災は多くの関係者が亡くなっています。昔「QE1」に乗船した方が居ないのかと検索すると『クイーンエリザベス一世号(1958(昭和33)年四月、ニューヨーク港からクィーン・エリザベス一世号に乗船)』がありました。

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時差とブログ・その2

2005.08.24

毎日きちんと書く事が大事です。
ブログの原型は帆船時代から続く航海日誌で日本で公式にこのロク゛・ブック(航海日誌)を活用したのは坂本竜馬の「海援隊」が運行した「いろは丸」で在った事を前回お話しました。竜馬は株式会社的な機能を持つ廻船会社を作る構想を持っていたと思われます。海援隊の当初はまだ株式会社ではありませんでしたが機能的には一部を持っていたようです。その「いろは丸(160トン)」(竜馬自身が命名)ですが、伊予大洲藩所有の三本マストを有する蒸気船です。その購入にはいろいろ事情がありましたが、ここでは割愛します。海援隊が傭船として借受、運行していました。
1867年4月23日(慶応三年)午後11時頃、瀬戸内海の六島沖で紀州和歌山藩船・明光丸衝突し、いろは丸が沈没しました。この衝突は日本で最初の蒸気船同士の衝突となりました。現代で言うと海難審判です。海難審判は海難事故の原因究明と事故の再発防止を目的しています。但し、刑事責任は問いません。裁決は、免許取り消しや業務停止などの懲戒処分と勧告です。昨年、三菱重工業長崎造船所(長崎市)で建造中の豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス」(11,3000トン・火災後船名を二番船と船名を入替えてサファイア・プリンセス号とした)の火災で海難審判が開始されました。日本国内で、建造中の船舶火災についての審判は初めてだと思います。僕の知人のお父上がこの造船所の社員であったので、その大変さをお聞きした事があります。とにかく造船所の事故では日本最大(客船の大きさも日本最大です)でしょう。

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時差とブログ

2005.08.23

グローバリズム「平らから丸いへ」の続き

フェルディナンド・マゼラン1519年9月20日5隻の船団と237人の乗組員を率いてスペインのサンルカル・デ・バラメダ港を出帆しました。そして、三年後の1522年9月6日に「マゼランの地球一周」という偉業を成し遂げる形で帰国しました。マゼラン本人はその前年に不慮の事故で41歳で亡くなっています。前回もブログでその辺の話をしました。このプロジェクトの最大の目的てある「地球は平らから丸い」というグローバリズムを実証した事で十分に達成しました。が、その延長線上で新しい航路を開発し「地球は丸い」から「すこし小さく」なった事も証明しました訳です。もちろん、香料諸島から物理的に高価な香料を満載してた訳ですので、領土権や交易権という副産物もありました。(本当は主目的)しかし、その多くの犠牲もありました。出港時のクルーは237名で帰港時のクルーはわずか18名と言われています。生存率7.6%です。この脅威的な数字は恐怖さえあります。この犠牲はとても大きな課題ですが、実はこのプロジェクトの隠れたもう一つの大きなグローバリズムがありました。それは「時差」です。

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アジアのこころ

2005.08.01

ヘロドトス世界地図は興味津々! ヘロドトスによって「アジア」が生まれる。

以前ブログにも出てきたホメロス」の作といわれていれ、世界文学史上最高傑作といわれている叙事詩「イーリアス」によれば、小アジア西岸の豊かな都市トロイは、アガメムノンやアキレスに率いられたギリシャ軍に攻められ、10年にもおよんだ攻防戦もオデュッセスの考案した「トロイの木馬」で完結する。この時点で後のローマ帝国は気配さえない。勿論ユリウス・カエサルも当然この世にいない。
アジアの語源を探ると、そのものとはアッシリア語の「アスー(asu)」にたどりつく。これは「出て行く」を意味する動詞で「日の出てゆくこと」、つまり「日の出」を意味するそうです。なるほど。これに対して「ヨーロッパ」の語源は、同じくアッシリア語の「エレーブ(erebu)」でこちらは「入っていく」を意味します。これらのセム語がギリシャに入って、それぞれ「アシアー(Asia)」及び「エウローペー」(Europe)というギリシャ語の名詞が作り出される。紀元前5世紀にもなるとギリシャ語はほぼその完成の域としています。実際5世紀のアレキサンドリアの文献学者ヘシュキオスは、「エウローパー」を日没の土地という意味を記述しているそうです。このギリシャ語から欧語のAsia及びEuropeが由来しているので、「アジア」の語義はもともと「日の出ずるところ」であり、これに対して「ヨーロッパ」のそれは「日没するところ」になる。その意味では、アジアとヨーロッパとはそもそも対概念と考えるべきでしょう。もちろん、お互いに相補的であつて、両者をもって初めて「世界」が完成する。ということです。なるほどなるほど。
ヨーロッパはもともとアジアを予想する概念であって、それだけでは完結しない。アジアもまたヨーロッパをはじめから前提し、それなしには完結しない。両者が相補って初めて「世界」は一つのものとして成立するということです。(アジアの語源・伊東俊太郎著より)

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ディスカバリー

2005.07.26

日本人宇宙飛行士・野口聡一さん(40歳)が搭乗するスペースシャトル「ディスカバリー号」が米フロリダ州のケネディ宇宙センターの発射台から26日午前10時39分(日本時間同日午後11時39分)の打ち上げを予定している。このブログを書いているうちにも刻々と点火の時刻に迫っている。実は230年前の今月(12日)にシャトルと同名の帆船「ディスカバリー号」が北米太平洋岸からヨーロッパに向かう北西航路の探索のために、1776年にプリマスを出航(僚船はレゾリューション号)している。もちろん船長はジェームス・クックである。探検決定から出航までわずか8か月という異例に短い準備期間で。結局彼はハワイ諸島を経て,ベーリング海峡に入り,苦難の末、北緯70度30分に到達したが航路が無いことを知るのである。彼は既に50代に達し、当時の船長としても老齢の部類に属したが北緯70度をはじめて超えた航海士という名誉を得る。残念なことに、食料等の調達のために寄港したハワイ島で命を落とし、故郷には帰れなかった。(1779年 2月14日、51歳)
スペースシャトル「ディスカバリー号」はクックの偉業にちなんで命名された。ちなみに第一回の1768年の金星の太陽面通過調査のための調査隊の旗艦は「エンデバー号」であることは以前ブログで触れました。同様の理由です。(当時は毛利さんがパイロットでしたね)

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