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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

使命と時間

2010.06.19

NHK大河ドラマ「龍馬伝」の人気にはすごいものがあります。
その人気の秘密の一端は福山雅治かもしれません。
NHKの中でも、予算を潤沢に使えるこの大河ドラマは、日曜日のゴールデンタイムに流されることもあり、相当意気込んだ番組にならざるえません。その意味では、女性に人気絶大の福山雅治の起用は的を得た配役という事でしょうか?

勿論、時代劇ドラマには、必ず売れると言う歴史上の人物がいます。
織田信長や坂本竜馬はそのもっとも売れる部類の魅力的な人物ということになります。
ボクがその魅力的な竜馬に出会ったのは十代の頃でした。もちろん司馬遼太郎の「竜馬が行く」によってです。司馬遼太郎のこの本はベストセラーになりました。誰にも歴史上で魅力的と感じる人物がいると思いますが、ボクの中では彼もそのうちの一人になりました。

そして先週、ドラマの中の龍馬は大きな出来ごとに遭遇します。
それは、同じ郷士の幼友達の望月亀弥太を池田屋で失うという悲劇です。この時代、太平の世と云いながら激動の時代を迎えています。その前には平井収二郎の切腹の知らせを受けます。また、岡田以蔵も捉えられ後に処刑されます。その前には先輩で遠縁の武市半平太(瑞山)が縛に付きます。
特に半平太は数ヶ月間投獄され、この後切腹させられてしまいます。外国の重圧もさることながら竜馬の近辺ではシッョキングなことが数多く起こります。

龍馬の青年期は模索の連続でしたが、このころから彼はゆっくりとですが、自分は何をすべきかを探し当てます。そして、その使命を果たそうとします。
しかし、彼の目的は半ば達成したかに見えましたが、突然不慮の死を遂げます。
時は、1867年12月10日、彼は未だ31歳でした。
竜馬は志を持ち、天から与えられた使命を全うしようと生き抜き、半ばでその生命を閉じました。
まだまだ青年という31歳という若さで。
はたして、竜馬の一生は早すぎた人生だったのでしょうか?
それとも龍馬にはまだまだ使命があり、なすべきことが沢山残っていて、もっと生きてやり遂げなければならなかったのでしょうか?
かれの使命と天命を思うとき、ひとの一生とは、どのように繋がっているのでしょう。

私たちの生活の基本は流れいく時間です。人生は「時間」であるという基本的な概念から逃れることはできません。竜馬のように31歳の若さで世の人に惜しまれて逝っても、またボクが長生きをして100歳で天寿を全うしても、そこには時間と云う概念が流れています。
私たちは、それを「なにげなく」ですが、この時間と云う概念を信じ込んで暮らしています。
しかし、ふと気がつくと、今私たちが何気なく信じ込んでいるこの常識をなんら疑うこともなく、
そして、これをずっとそのまま信じ込んでいいものなのかと思ったりもします。

それは、私たちの身近に存在する動物の時間と云うのを知ったからです。
時間の概念は森羅万象、この世に生を受けたすべてのもが受ける前提でもあり、概念でもあります。
ここで、話しを人を含めた哺乳類の「体の大きさと時間との関係について」を考えみたいと思います。私たちは、一般的に体の大きな動物はゆったりと動き、それを安定感があるとを感じ、それに反して小さな動物はキビキビと活動し、小気味良いと感じます。人も大きな人や小柄な人について同様な感覚を持つことができると思います。

人も含めた哺乳類のこれら動物たちの「体重とその時間の関係」を調べた学者がいます。
哺乳類のそれぞれを体重とある時間のを割ってみると、
    「時間は体重の1/4乗に比例する」になるそうです。
簡単にいえば、体重が増えると時間は長くなるです。ただし、1/4乗という平方根の比例(さらに平方根)なので、方式は単純ではありません。
例えば、こうです。体重が16倍になると、時間は二倍になるという計算式は成り立ちますが、体重が16倍ならば、時間も16倍という比例数ではありません。

この時間ですが、ほぼなんでも当てはまるそうです。
例えば、寿命成体になるまでの時間性的に成熟すまでの時間赤ん坊の胎内期間息をする時間間隔心臓が打つ間隔腸が一回活動する時間血が体内を一巡する時間などです。
体重が大きければこの一回が長く、体重が小さければその回転は素早い。という訳です。

さぁ、問題は、ここです。話す前に先に答えを知りたいと思います。
動物の大きさが異なると機敏さや寿命が違ってきます。
行動範囲や生息密度も実は動物の大きさ関係が深いといいます。
でも、一生に打つ心臓の総数や体重当たりの総エネルギー使用量は、大きさによらず同じなのです。
これを言い換えると、
それぞれの生き物は、一生と云う時間のなかで夫々「時間の流れる速さが異なる」と云うことになります。
回答までの導きを聞くと自然に納得できますが、各々の事象は驚くことばかりです。

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負けざる者たち

2010.06.15

天然石で最も高硬度のダイヤモンドは、その硬さゆえに原石同士で磨かれるといいます。
そして、研磨され輝きさを増した8面体は人々を魅了して止まない。特に女性に。

人もまた、人間同士の関わり合いを通じて切磋琢磨されるものです。
「切磋琢磨」は詩経に出でくる故事です。
角や象牙を刀で切り出し、やすりで研ぐことを"切磋"といい、また玉や石を槌で打ち、砂や石で磨きをかけることを"琢磨"と云うそうです。詩経に綴られたこの意味は、学ぶだけでは表面的であり、徳をおさめるために、努力に努力を重ねるとあります。

先日10年来の知人と食事後の二次会々場へ向かう途中の出来事です。タクシーは、丁度新宿の職安通りをノロノロと走っていましたが、僕を肘で突っつきながらニッコリと笑いながら指を指します。
彼の白く長い人差し指の先に巨大なスクリーンがありました。
「あぁ、あれかと」とボクが頷きました。少し前の話題がワールド・カップでした。職安通りにある「大使館」という焼肉屋さんがありますが、そこの駐車場入口に巨大なスクリーンを設置し、集まってくる韓国人観客に対してW杯の実況放送すると云うのです。設置は2002年のW杯からだそうです。いまや名物になっているとか。
彼の説明によると、
ここ職安通りと新大久保は韓国人の人口密度が極端に多い衣・食・住の街だそうです。そう云えばハングル語の看板が数多く見受けられます。
すでに先週から始まったW杯南アフリカ大会(2010 World Cup)で韓国とギリシャ戦が先週土曜日の夕刻に行われています。結果は2:0で韓国の圧勝に終わっていますが、この巨大スクリーンの前では集まった韓国人群集の狂乱さが十分想像できるスクリーンの大きさです。

深夜の渋滞のタクシーの中で彼の話をぼんやりと聞きながら、ボクは全く別なことに想い耽っていました。それは数ヶ月前に見た映画で、その時に感じた記憶が再び蘇って、ひとり感動の渦にいたわけです。一生懸命説明している知人は少々滑稽でしたが、それでも彷徨っていた時間は5分とは経過していなかったと思います。

それは実話の映画化でした。
俳優は最も好きなモーガン・フリーマンとマット・デイモンの競演で、監督はクリント・イーストウッドという豪華さです。オスカーを四つも取ったクリント・イーストウッドが、監督第30作にこの『インビクタス/負けざる者たち』という映画を選んだそうですが、後日このキャッチコピーは制作会社の作りだしたものだと言うことが、イーストウッドのインタビューで分かりました。天才職人イーストウッドは、自分が何作作っているかなどと、あまり気にしていない事が分かったからです。
この映画はサッカーでなく「ラグビーのワールドカップ」の物語です。

主人公はモーガン・フリーマン扮するネルソン・マンデラ大統領とマット・デイモン扮するラグビー・ナショナルチームのキャプテンであるフランソワ・ピナールの二人です。
南アフリカにとって、「ラグビーやサッカーは単なる娯楽的なスポーツに留まらない!」
それを証明してくれたのがこの映画でした。
この映画の社会背景は、1994年に南アフリカ共和国で初の黒人大統領となったネルソン・マンデラの登場から始まります。マンデラは、白人支配によって約三世紀半の長きに渡った悪習「アパルトヘイト(人種隔離制度)」による人種差別に終止符を打ち、ゆっくりとですが確実に新しい南アフリカ共和国をスタートさせます。

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仕事の鬼

2009.11.13

トーマス・アルヴァ・エジソンは、「世界の発明王」として生涯におよそ1,300もの発明を行い、取得した特許は1,093個で、これは個人としては前人未到の記録だそうです。
その一方で、メモ魔としても非常に著名ですが、13歳から亡くなる84歳までの間に、なんと60万枚を超える(誰が数えたのでしょうか)実験メモや日記を書き続けたそうです。驚異的な継続力と言えます。そのメモの内容は、後世の私たちが現状を乗り越え、未来を創出していくうえでヒントになる「エジソン名言集」として世に広く知られています。

ですが、そんなエジソンも小学校を三ヶ月で退学せざる得なかったようです。変わった子だったのでしょうか。退学後は、独学で科学を学んだようです。
しかし、どのような天才もたった一人で自分の能力を開花させることはできません。
先生が必要です。もちろんエジソンにもです。
彼の先生は科学者「マイケル・ファラデー」です。ご存知ですか、この人を。
ファラデーの功績は、例えば「電磁誘導の法則」を唱えた人です。
しかし、エジソンはファラデーの直接の弟子になった訳ではありません。ひそかに師として尊敬し、彼の著書から学び取るという所謂「私淑(ししゅく)する」形をとったようです。この辺も人とは違いますね。
一般的には、著名か無名かは別にして、師と仰ぐ先生の弟子になるのが普通と思われますが、天才エジソンはそうしなかったようです。いったい、読書によって「師」を持つくらいに、能力開発ができるものなのでしょうか?
言い換えれば、沢山の読書をすれば、所謂天才と言われる人たちに近づけられることになりますよね。
彼の天才と言われる根源は、あることに興味を持ち、学び続け、そして発明ないし発見を死ぬまでし続ける驚異的な持続力であると思われます。さらに彼は「運を信じない」ルールを実践した人でもありました。
すると、エジソンの基本的なものの考え方や行動は、彼が師と仰ぐファラデーの書き残した書籍によって得たことになります。

人の生涯は、物事を学び続ける果てしない旅であるといえます。
私たちは、母親の胎内にいるときから学び初め、死の床にあっても何かを学びつつ最期を迎えるまでの間、膨大な時間を「学ぶ事」に費やしているといえます。

人の生涯で最も学習能力が高く、かつ奇跡のような力を発揮するのが幼年期であることは、だれてもが知っている事ですね。
赤ちゃんは決して本能で言葉をしゃべるのではなく、「きっちりと学習して覚える」のであり、なので、言い換えれば、置かれた環境次第で何語でも操る事が出来ます。
この学習するということは、生涯を通じて人間の本能であるようです。
また、生涯学び続けなければならないと云う事は、いってみれば、「人には完成や完了」というものがなく、常に「未熟」であることの証なのだと思われなりません。
なので、人は生まれてから死ぬまで、常に未熟な状態にとどまり、しかし、休みなく学び続け、それが死を迎えるまで続くというわけです。それは本能であるけれど、結局は人間そのものは、学ぶ事の楽しさを知っているともいえませんか?
その観点から、
きっとエジソンはものを学ぶ楽しさをもっともよく知っているひとりであったと思われます。
エジソンの名言集から、
「私が業績を上げたのは、私に備わる才覚と人は言うけれど、人間が死に物狂いで頑張り通せば、誰でも私と同じ業績を残せます。」
要は、驚異的ともいえる強い持続力を保てるかということになりますね。

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ブリタニア

2009.07.31

紀元前五五年年八月二十六日は大英帝国の歴史の始まりである。」と言ったのは、ウィンストン・チャーチルです。この日は、歴史上初めてローマ軍の軍船がブリタニア(イングランド)の海岸に達した日です。ちろん、総司令官はかのユリウス・カエサル(後のシーザー)です。
私は塩野七生さんの「ローマ人の物語」がとても好きで手軽な文庫本を読破しています。特に好きな年代は何度か読み返していますが、カエサルがブリタニアをほんの一瞬ですが「斥候遠征」したことがあります。このことを契機に英国がその存在をローマに知らしめたとして、後年チャーチルが「歴史の始まりである」という名言を残します。
カエサルがブリタリアの攻めたのは、彼が45歳でガリア戦役が始まって四年目のことです。七生さんは一般的な「ガリア戦記」(戦記は出来ごとを年代順に書き残した記録書)といわず実際の戦争の行動期間をいい表すために「ガリア戦役」としています。言われてみるとそのほうがすっきりします。この戦役は通算八年間続くことになりますが、最終的にはこの戦役によってカエサルの持つパワーは強大に成長していくことになりますが、、当初はそう大きな軍団ではありませんでした。彼はこの八年間に彼に従う強靭なチームを作り上げていく事になります。もちろんルビコン前の出来事です。彼女のこの本を読めば読むほどユリウス・カエサルが魅力的で、惹かれていきます。且つ彼が「大器晩成」だったことがよく理解できます。

私たち日本人は、この国のことを説明するとき、ごく日常的に「英国」または、「イギリス」と呼んでいますが、たぶん説明足らずの表現ということになるでしょうね。この国の成り立ちは歴史上の経緯からして複雑な構成要素がたぶんにありました。正式には「イングランド(England)」と表記しますが、本来の意味は、"グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国"(イギリス)を構成する4つの「国」(country)の1つである。」と認識した上で、使わなければならないンでしょうね。ですので、少なくとも「イングランド」と表現することが最低条件の様な気がします。

英国は日本同様に島国ですが、日本と異なり近隣に強大な国々が歴史上頻繁に勃発したので、そのつど影響を受けます。日本での占領の危機は二度の元寇と日本が自ら招いた先の大戦の米国の実質占領の三回しか経験がありませんが、英国はカエサルのローマ軍が引き上げた後、ゲルマン系アングロ=サクソン人が侵入して、ケルト系ブリトン人を征服または追放してアングロ=サクソン七王国を興します。その後、アングロ=サクソンの諸王国はデーン人を中心とするヴァイキングの侵入によって壊滅的な打撃を受けますが、最後にウェセックス王アルフレッドがヴァイキングに劇的に打ち勝ってロンドンを奪還します。この当時の指導者であるアルフレッド王(在位871年 - 899年)がロンドンを手に入れたのは、878年の「エディントンの戦い」於いてです。
そして、東部地区を除いて、ほぼイングランド南部を統一します。その後、エドガーの時代に北部も統一され、現在のイングランドとほぼ同じ領域の王国となるわけです。世界史専攻の人には簡素化しすぎた説明かもしれませんが、お許しください。
この様に、英国はカエサルの時代から戦乱が続き、この後も長く長く続きます。日本と違いこの国では、実際にイングランド人以外の統治が長く続くことになる訳ですが、一番長期に政権を維持したのはやはりフランスです。例えば、かの有名なヘンリー三世がいますが、彼はアンジュー王家の血統を厳格に守り、生涯イングランド人になることを拒み続けた王として有名です。
しかし、その彼が1239年に生まれた長男を、イングランド名の「エドワード」と名付けたことから、国民はこの命名を喜び、エドワード一世として王位に就くや、イングランド名の国王としての再来と、強く彼を支持する国民感情が高まったようです。実はそこを狙ってエドワードという名をつけた訳ではなく、全く別な理由で命名されたのですが。

エドワード一世も、血統では父王同様全くのアンジュール人でしたが、ノルマン征服(1066年に所謂ノルマンディー公ギヨームによって征服され、ギョームがウィリアム1世(征服王)として即位し、ノルマン王朝は開かれます。当然、アングロ=サクソン系の支配者層はほぼ一掃されてしまいます)の1066年からすでに200年を過ぎているとあって、貴族階級だけでなく、広く英仏の混血化が進んで、当時はフランス語しか話さなかった貴族階級も英語を使い始める時代に突入していくのです。そして彼は父王とは全く異なる国王として統治に望み、多くの事績を残していくことになります。
彼は歴代イングランド王の中で、きわめて有能な国王の一人としてその名を残しました。
しかし、一方では、対ウェイルズ戦(1276-1295)、エドワード三世まで続く、対スコトランド戦(1296-1341)、その後は1337年から始まる、フランスとの百年戦争、ヘンリー六世の時代の仏からの撤退(1453)、そして1455年から始まるばら戦争に続く訳ですが、この撤退を契機にフランス系のイングランド諸領主も次第にイングランドに定着し、イングランド人としてのアイデンティティを持ちはじめ、最終的には民族としてのイングランド人が誕生するという物語となります。
英国がその国威を世界に示す基盤は、15世紀後半にやっと固まってくるのです。

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プレステージ(続き)

2009.07.17

前回からの続き

ロンドン博の三年前、1848年にカリフォルニアで金が発見され、これを「ゴールド・ラッシュ」と呼んだことを中学の社会科で習ったと思います。歴史は時には面白い組み合わせをしますね。ゴールド・ラッシュの続く中、ロンドン博もアメリカ号の建造も英国でのレースも、ペリー提督による江戸幕府派遣もなされたという訳です。カリフォルニア、ニューヨーク、英国、日本と場所こそ異なりますが、ほぼ同時進行で歴史は時を刻んでいきます。
ゴールド・ラッシュ以前は、一寒村であったカリフォルニアに、東海岸から数十万人も金を目当てに人々が集まったといわれています。詳しい統計はありませんが、その半数は幌馬車を仕立てて砂漠を横断し、一路西海岸を目指しました。ロッキー山脈を越えるアドベンチャー的な危険を伴った旅であったと思います。しかし、残りの半数は海路を選んだと言われています。その証も確かにあります。もしかしたら、陸路よりもっとリスクが高いのでは?! いや、むしろ安全だったのかも。
金鉱発見前の1848年4月以前は一年間にサンフランシスコ湾に入港した帆船はわずか四隻でした。それがその後一年で、なんと775 隻という途方もない激増ぶりです。航路はもちろんニューヨークを出帆して、南アメリカの最南端のケープ岬回りでカリフォルニアに到達するのですが、当時の帆船のスピードでは早くて150日、遅くて240日でした。需要と供給はまさに現在のエアーラインと同じです。多くの人を運ぶには、多くの機材の確保と効率的なローテーションが必要となり、必然的に足の速い船が欲しくなり「快速帆船の建造」となります。これは時代の要求です。ここに登場したのが、すなわちサンフランシスコへの急行便として建造されたクリッパー・シップである「カリフォルニア・クリッパー」です。
船を作るときにもっとも重要なことは、天候の要素を除くと、斬新な設計の精度とその船をドライブする船員の技術力です。このような時に時代には必ず要求された人が現れるものです。
それが、「ドナルド・マッケイ」という帆船設計者です。
彼がカリフォルニア・クリッパーとして最初に設計した「スタグハウンド」という帆船は、1851年の処女航海で110日間の区間最高記録を出しました。ざっくと50日間の短縮です。そして、この船の実績を踏まえてより斬新な設計をした「フライング・クラウド」は同じ年になんと、89日間21時間という前人未踏な区間記録を作ります。時間当たりの平均速力は18.5ノットになります。これはとんでもない記録です。この当時のホーン岬周りは航路的にかなり精度が高まったとはいえ、まだまだ予断を許さない未知のエリアが多かったと思います。昔のシーマンは素晴らしく強靭な精神の持ち主が多かったんだと、いまさらながら感じるところです。西風の多いホーン岬沖は東に向かうときにはまだ、比較的進めても、反対に西に向かうときは帆船にとって非常に厄介なエリアであることは間違いありません。行きはよいよい、帰りは怖いというやつです。いや、本当に間違いなく恐ろしいエリアなのです。

実は、ニューヨークで建造された「アメリカ号」にはこの様な環境が徐々に整えられていました。
そこで、「パイロット・スクーナー」について話したいと思います。
パイロット・スクーナーは船の形式ではありません。使い方または、用途に名づけられたものなのです。一般に港には港の特性があります。風の吹き方、島、潮流、浅瀬、水路、泊地、錨地等、その港特有の性質があるために、船が港外にやってくると、その港に精通した水先案内人(パイロット)を乗船させ、そのパイロットの誘導によって入港することが常識となっています。エンジンを持たない当時の船ではパイロットは不可欠なものです。この同時のパイロットは自由競争制でしたので、港外に入港船が見えるや否や小型艇に飛び乗って、一番先にお客さんのところにセールスに行かねばなりません。よって、高速艇が必要となりました。これをパイロット・スクーナーと呼び、足の速いスクーナーは当時は花形であり、きっと評判が評判を呼んだのではと思います。

NYCの五人のオーナー達が「アメリカのスクーナーを代表するヨット」として建造するに当たって、新興国のアメリカらしく、ニューヨーク港で俊足のスクーナー設計者であるジョージ・スティアーズという弱冠31歳の青年デザイナーを選んだことも納得がいきます。彼は確かに青年でしたが、すでにそれだけの重責を負託されるにふさわしい実績の持ち主でした。ジョージは造船一家の父親も元で、十代から設計を手掛け、すでに多くのスクーナーを竣工させていました。そして、彼が21歳の時に設計した「ウイリアム・G・ハグスタッフ号」という船が素晴らしい快速船であったと記録にあり、長く歴史に刻まれる事になるのです。この若手の起用は時代や実績だけでなく、たぶんにスティーブンス会長のトップが持つ感性や積極性や賭けがあったのではないでしょうか。

建造についてもいくつかの強い意志が込められています。
その根底には、「米国の建造技術を見せる」に集約されています。
ひとつは、自力で大西洋を小型船スクーナーで横断できる仕様を設計及び造船所に申し入れたこと。想定外のこの事は、設計者にとっても造船技術者にとっても、操船するクルーにとってもとても大きな負担となりました。しかし、その負担は船の高速性能の他に、堅牢な船体構造となって具現化されました。そして、クルーにしても、当時からヨットレースはプロの仕事なっていましたので、熟練者の中でも超一級のスキッパーが選定されました。さらに、建造費は三万ドルと当時としては飛びぬけて高価な船になったこと。これも、英国においても恥ずかしくない艤装を求めた結果となり、最高級のアメリカ・クルミ材を船体にふんだんに用い、さらに船室は彫刻を施したマホガニー材で内装しました。

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時代を読む嗅覚

2009.07.02

常々日本の女性は、ルイ・ヴィトンが好きだなぁと思います。

以前聞いたことがあります。「日本の女性の三人にひとりは、ルイ・ヴィトンを持っている。」と。
それと、面白いことに、彼女たちは"ルイ・ヴィトン"と言わずに、ただ「ヴィトン」ということも知りました。なんと彼女たちらしい言い方だ。
総ての"ブランド"に弱い私でも、長い時間をかけて、雑誌やショーウィンドーや、それに女性たち自身が実際に身に着けている、または持っているという事実によって、知らず知らず、自然にそれらの老舗ブランドを記憶に留めるようになりました。興味の無いことは記憶できない性質(たち)ですが、自然の流入は避けれません。
ただ、私が知る老舗ブランドは、冒頭の"ルイ・ヴィトン""カルテイエ"と、それに、"エルメス""シャネル"くらいです。まぁ、誰でもこの四つは知っているでしょうね。
これも、新聞や雑誌で知りましたが、"ルイ・ヴィトンとカルテイエ"はグループ化して多数のブランドを傘下に収めている様ですが、"エルメスとシャネル"は未だに独自路線を貫いているようです。

もうひとつ、興味深い話しを聞いた事があります。
それは、たとえ"ヴィトン"のパックをいくつか持っていても「エルメスは別格よ!!」と、言いきります。
"ヴィトン"は好きでたくさん持つが、それ以上に欲しいブランドは"エルメス"ということでしょうか。
どうも"エルメス"は日本でも本家のフランスでも「ブランドの中のブランド」という認識があるらしいです。老舗ブランドの中にも格があるんですね。

ところで、フランス映画界は今「シャネルブーム」だそうです。老舗ブランドの一つで、比較的若いブランドとなりますね。生涯ファッションデザイナーであった「ココ・シャネル」(1883-1971)の劇的な生涯を取り上げた映画やテレビ放映が、このところ相次いで公開されているようです。
そして、日本でも秋に「シャネルになる前のココ」という映画が公開予定だそうですよ。過去に彼女の生き様に関する著書は多く出版されています。
「シャネルになる前のココ」という映画のストーリーは、Webに紹介されていますが、チョー・サマリーして紹介します。
シャネルが11歳の時に、母親が死に、遊び人だった父親は、田舎の孤児院に彼女を預け、音信不通になる。少女時代は裁縫を習いながら、フランス将校の駐屯地のクラブで歌を歌い、生活費を稼ぐ。その内、エリート将校の愛人になり、徐々にファッションの世界に足を踏み入れていく。というものです。ココという名前は、クラブ歌手時代の芸名です。これもとても有名なエピソードですね。でも、それを名前にしてしまうところに彼女の強かさを感じます。
さて、
彼女の商いに対する洞察力にとんだ言葉を書籍の中に発見しますが、その中で、最も彼女の独特な感性を発揮する「時代に対する嗅覚」を表現する言葉があります。

"モードはたんに衣装の中だけにあるものでなく、空気の中にあって、風が持ってくるものだ。人間はそれを感じ取る。モードは空にも、舗道にも、どこにでもある"

シャネルの成功の秘訣は、時代を読む嗅覚にあったようです。
彼女は晩年、ナチス将校と交際したために、対独協力者の烙印をおされ、長く非難されることになります。今、まさにセンセーショナルに公開されてる「愛を読むひと(The Reader)」もナチス親衛隊の看守になったハンナの人生と重なるものがあります。
原作は、ドイツの小説家ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」で、ベストセラーになりました。読み応えのある小説です。

戦後モード界から忘れられていたシャネルですが、女性の社会進出を機敏に感じて、自分のデザインが力を発揮できるタイミングが到来したことを確信します。そして、15年間のブランクを物ともせず、71歳でファッション界にカンバックし、フランス業界の女王に返り咲くのです。
その少し前に、
後年、経営感覚が歴代最も俊敏であったといわれた"エミール・モーリス・エルメス"がエルメス社の三代目社長に就任します。彼は、過去二代にわたって伝統的な馬具製造業の伝統を生かしつつ、ファッション界に大胆な転進を行い、中興の祖と言われる経営手腕の陣頭指揮を執ります。

欧米では、老舗ブランドの品物を普通の若者が、日常的に使うという意識自体は、現在でも基本的には存在しないそうです。だとすると、本来は上流階級の持ち物であった老舗ブランド品を、なんとも思わない(?!)(ちょっと、言いすぎ?)ような姿で、日常的に持ち歩く、若い日本人女性は、海外では特異な存在として欧米人に映っているのでしょうね。って、いうか、かなり目立って顰蹙(ひんしゅく)ものなんでしょうね。

しかし、って、思います。
生まれた時から物が溢れて育った日本の若者層は、その母親の世代から受け継いだ、世界の消費文化の歴史の中でも鑑定眼は結構高いと考えられています。ただ、持つだけでなく勉強もしている様に、思います。
世界的にも「クール」と呼ばれる文化の担い手として、他のどの国よりも日本(最近はアジア人)の若者が老舗ブランドを牽引していると感じるのは、やはり彼らにそのパワーがあるということの証ではないでしょうか。
その意味では、近年、「丸の内」や「銀座」や「青山」にはブランド村が出来そうな勢いです。この村を見ていれば、誰だって「ブランド自体」が日本の購買力の高い若者に媚びていると思うのは私だけでしょうか?

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第三者割当増資

2005.10.09

戦略と資金調達
明治38年8月10日米国東部のポーツマス市で日本の小村寿太郎全権とロシアのウィッテ全権が約一ヶ月間にわたり歴史的な死闘を演じていました。
日露戦争で使った戦費は当時の金額で15億円で、その殆どを国債約6億円と外貨8億円の発行で賄いましたのでそっくり借金で残りました。日本はその懐の寂しさを考えると賠償金はなんとか12億円はほしいところでした。日露戦争の最大の山場は皆さんもご存知の歴史的な「奉天会戦」です。この戦闘で日本軍は25万人弱投入し、内7万人を失いました。ロシア軍は32万人を投入しましたが9万人が祖国へ帰れませんでした。加えて捕虜として2万人以上を日本に捕捉されています。しかし、死亡率の高さは人口的に見ても日本軍に分が悪い結果となりました。戦争はユリウス・カエサル以前から今日の米国のイラク介入まで、全て「お金」です。兵力に余力のあるロシア軍はシベリア鉄道をフル活動して新たにハルピンに120万人の大軍を集結し始めて日本に無言の圧力をかけて来ます。この大軍の質は極東軍でなく、上質な本国の精鋭部隊がコアと成って居ますので、当然日本軍が再び勝つことは至難のことです。この精鋭部隊で生成される大部隊を前に満州軍参謀長の児玉源太郎は急遽東京に帰り大本営陸軍部会で有名な演説をします。「ロシア軍の精鋭が集結しつつある。既に当方は40歳までの老兵をかき集め、満州に送った。手持ちの予備兵はいない。将校は定員を5割も割っている。ハルピンを奪うなら後9億円と46歳まで動員し急遽13万人を即席で訓練し、六ヶ月の戦闘が必要でる。その上、ウラジオスックまで攻めるにはさらに20億円を調達し、52歳まで30万人投入し、向こう12ヶ月間戦う必要がある。それも計画通りいってだ! さぁ。どうする。」この一言で会議は一気に「和睦」に傾きました。その後日本海海戦の圧倒的勝利により、「講和」のタイミングをやっと手に入れたというのが実情です。それも米国の介入によって。日本は人もお金も尽きかけていますがロシアはというと、こちらもあまり言い状態では有りません。ロシアの戦費は外債7億ルーブル強、内債6億ルーブル強を集めましたが、その資金も底を尽きかけていましたし、肝心の元満州軍司令官のクロパトキン将軍の「同じ過ちを繰り返さなければ勝てる」に信を置けず、かつ国内で「血の日曜日事件」を起きて、革命の匂いがプンプンしている。どっちもどっちの状態です。なので両国には、このポーツマス平和交渉を締結しなければならない事情がありました。

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ベンチャー投資の先駆け

2005.09.04

奇貨居くべし』〔きかおくべし〕

歴史小説を好んで読んでいます。中国の紀元前2-8世紀から紀元後数世紀を多く読んでいます。特に最近読んでいる作家は宮城谷昌光氏の小説です。その中でまだ手を付けていない題名の小説があります。それが冒頭にあるタイトルです。先日著名なベンチャー・キャピタルの若手の投資家にお会いし、当社の事業内容を説明した後『奇貨居くべし』でしょう? と冗談を投げると「ポカン」という反応でした。当方の冗談の投げかけを反省したエピソードです。

『奇貨居くべし』〔奇貨可居〕「史記」

宮城谷昌光氏の小説「奇貨居くべし」は当然ながら主人公が居ます。秦の始皇帝を<見出し><磨き><天下を統一>させた呂不韋(りょふい)です。時は戦国末期。韓の豪商呂不韋は商いで邯鄲(かんたん)によく出かける。そこで偶然「秦の太子安国君の庶子」である「子楚(しそ)」が人質としてこの都に住んでいることを知ります。当然庶子で人質であれば暮らしぶりはラクでしはないでしょう。そこで呂不韋は『奇貨居くべし』と感じ子楚に会うのです。『奇貨居くべし』は「掘り出しもの、取っておけば後々高値になる」といった意味です。呂不韋のすごい所はその財産と雄弁さでついに不遇な一介の庶子を「太子」にさせる事に成功するのです。この太子・子楚こそ始皇帝(秦王政)の父王なのです。この小説はまだ僕は読んでいませんが呂不韋が秦王政を育て、中国統一し、自身は「相国(宰相)」まで上り詰めるという内容です。
「子楚」という「奇貨」は呂不韋の手元に置かれ、ついには大高騰してしまうのです。まさしくベンチャー投資の先駆けです。IPOで大化けした最初の事例かも知れません。

辺土の秦が戦国末期とは言え「大国」を切り取り「中国統一」を成し遂げられたのは呂不韋や秦王政の力ではなく、春秋戦国時代からの非常な努力と長い改革の歴史を乗り越えた準備が合ったからなんです。この長い準備のおかけで僅か10年足らずで統一に驀進するのです。

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グローバリズム「平らから丸いへ」

2005.08.22

『1850年地球はまだ丸くなかった』

地球は球体ですが、その昔大型の帆船〔当時としての〕の出現前は人間の活動に当然制約もありましたので、地球という大地はその当時途方もないスケールで広大な土地でした。本来丸いはずの地球は人間の行動範囲や生活範囲においては「平ら」という概念が一般的でした。当時の学者たちの間では球体の理論があったとは云えまだ見ぬ平らな大地または海洋によって「丸い」を証明する手段を持ち合わせていなかったというのが現実でした。地球が丸い事を身をもって現したのは1519年から22年にかけてのいわゆる「マゼランの地球一周」によって実験的に実証されました。残念な事に「フェルディナンド・マゼラン」自身はフィリピン近海のマクタン島で不慮の事故により亡くなりました。そして、彼の船団は、まる三年を費やして地球を一周し、最初の出港地「サンルカル・デ・バラメダ港」に戻りました。この時から地球は「平ら」の時代から「丸い」時代になったと言えます。「フェルディナンド・マゼラン」に因んで「マゼラン海峡」が名付けられました。クリストファー・コロンブスがインドと間違えて到達した「西インド諸島」の船出より28年後の出来事です。また、フランシス・ドレークが略奪を繰り返しながら地球一周をしたのが55年後のことです。その頃信長は15歳でチョード家督を継いだ頃。エリザベス一世は14歳でまだ姉メアリーの影に隠れていたころ。そんな時代です。地球規模という概念とそれぞれ東西で二人の天才を鳥瞰する事はワクワクする様な歴史の符牒です。

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初めての

2005.08.19

世界の七不思議に新しい不思議が加わる !
以前「スエズ運河とCatty Sark」というブログで世界の七不思議の話をしました。内容は、紀元前279年にエジプトのアレキサンドリア港の入ロ、 ファロス島に建てられた「ファロス灯台」がテーマでした。TV番組で毎週土曜日の9時から日立「世界ふしぎ発見!」という番組をご覧になっている方がいると思います。「世界の七不思議」を意識したこの番組は世界中の不思議を現地取材を中心に毎回楽しく放送しています。時たま見て「なるほど」と思う事があります。残念ですがTVは土日にしか見る事がありません。司会の草野さんやレギュラー解答者の黒柳さんと板東さんの会話も楽しい。この「世界の七不思議」の命名者は文献で確認出来た人という事でフェニキアの詩人で探検家の「アンティパトロス」(マケドニアの同名の軍事家とは別人)と云われています。(最初の命名者は古代ギリシャのビザンティウムの数学者フィロン)この当時の世界観は地中海を中心した沿岸部を主体としています。彼はBC266年にガレー船に乗り込んで地中海からイオニア海に入り、ギリシャのペロポネソス半島の北西部にの大地にそびえる「ゼウス大神殿」を訪れます。この当時ただ単に訪れることを目的とした移動は一般人はしなかったと思われます。その点ではアンティパトロスはとても裕福であったと思われます。この大神殿は64㍍もあり、ご神体は大理石の台座に宝石や象牙をはめ込んだ玉座があり、高さ十数㍍のゼウス神像が安置されていたと言われています。アンティパトロスはこの主神のゼウス神像に圧倒され、「人類の燦然たる文明を歴史に記録するという神から与えられた使命感」を強く感じたといいます。ここが普通の人とそうでない人の違いでしょうか? 彼のその使命感によって後の私たちがこうして世界の七不思議を体験できるのです。その意味ではアンティパトロスに感謝すべきでしょう。ファロス灯台に戻ります。

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