BrainSellers.com

Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

最後の手紙 The Last Message

2011.01.28

戦争はなに色?
戦争のにおいは?
あなたは国家のために死ねますか?

この質問は今NHKが取り組んでいる「あなたの戦争を教えてください。」というテーマで、盛んに街角でインタビューをしている設問例です。この映像は多く人が記憶に留めていると思います。
成人男女、ご老人、女子学生、小学生の男の子等々まちまちで、街ち行く人にマイクを向けます。
大人は戸惑いつつも真摯に、小学生は設問自体が意味不明と云う感じに、女学生は若さゆえきっぱりと、それぞれの思いを一言で表現しています。

ここに一編の哀愁を帯びた詩があります。
「空と風と詩」という題名の詩集からの抜粋です。

  『戦争中に
   四季が私の上を過ぎ、空の入り江を秋が溢れる。
   私は、秋空の星を何の苦労もなく数えられる気がする。
   それなのに、なぜ私は私の心に輝いているはずの
     一つか二つの星を数えることが出来ないだろう。
   もしかすると、夜明けが近いから?
   もしかすると、明日になっても、私にはまだ一夜がのこされているから?
   もしかすると、私の青春の日々がまだ数えつくされていないから?

   私は、一つめの星を「記憶」と名づけた。
       二つめの星は「愛情」。
       三つめの星は「孤独」。
       四つ目の星は「憧憬」。
       五つめは「詩」、そして六つめの星は「母」。
   そして私は、星を数えながら美しい名前を付けてゆく。
   席を並べた学友の名前。
   知らない少女 ぺ・キョン=オ。
   貧しい隣人の名前。
   Francis Jammes や Rainer Maria Rilkeのような詩人の名前。
   みんな星のようにあまりに遠い。
   そしてお母さん、あなたも遠い北のカンドにいる。

   言葉に出来ないものに私は憧れ、
   私の名前を星に照らされて丘に書いて、砂で覆い隠す。
   なぜなら、
   夜の番人の蜩(ひぐらし)が私のお墓を見て悲しげに鳴くから・・・』


私の母は86才で健在です。彼女の二十代の前半は太平洋戦争下の期間で、後半は終戦、占領の時代です。太平洋戦争が終結してすでに65年が経過しています。私の母のように無事に終戦を迎えられた人は幸福と言えます。そして当然ながら戦争体験者は高齢化が進み、徐々に生存者が減少しつつあります。今では鬼籍となった父も二十代に志願し南方への従軍を経験しています。が、私は父から戦争の話は一度も聞いた記憶がありません。母も同様です。今では意識的に避けていたと想像しています。それは、きっと奈落の底をのぞき見るような、云われもしない恐怖感がつきまとうからでしょう。
仮に両親に、
  戦争は何色?
  戦争のにおいは?
  あなたは国家のために死ねますか?
の質問はあまりにも空虚さがともない、喉の奥で絡みついて声を発することが出来ないでしょう。
いま、NHKが国営TVという立場から「証言記録 兵士たちの戦争」に加え、去年夏から銃後の体験を「証言記録市民たちの戦争」として放送しています。さらに取材で得られた数々の証言を放映し「NHK戦争証言アーカイブス」として記録しています。取材の根底には、あの時代、戦場で、或いは日々の生活の中で、人々は何を思い、どう行動したのかという人間の云わば尊厳に通じるテーマを追っています。それは戦争を知らない子供たちやこれから来る未来へメッセージとして伝えるための活動ともいえます。

さて、哀愁を帯びた冒頭の詩に戻ります。
この詩の作者は韓国で著名な詩人「尹 東柱(ユン・トン=ジュ)」のものです。
彼は1917年12月30日に中国吉林省の朝鮮族の両親の元に生まれました。一家はキリスト教信者で、彼はソウルの延世大学(当時は延禧専門学校)を卒業し、1942年に立教大学に留学しています。その後すぐに同志社大学に転校したようです。当時は第二次世界大戦下でした。彼は朝鮮人徴兵制度や民族文化の迫害などの抵抗運動に関与しているとの「治安維持法」に触れ、京都で逮捕され、懲役二年の判決を受けています。その後、福岡刑務所に服役中の1945年2月16日に獄死しています。来月16日は彼の命日と云うことになりますね。

享年27歳でした。

彼は学生時代より当時は禁止とされていた"朝鮮語"で詩作を続け、1941年12月に「空と風と詩」という自薦詩集を極秘裏に出版しています。冒頭の詩はその中の一編ということになります。
ユン・トン=ジュは現在の大韓民国においては「国民的な詩人」して著名であり、国外でもその素朴な作風は高く評価されているといわれています。
彼が在学した立教大学では"記念奨学金制度"が発足し、また同志社大学および京都造形芸術大学内に彼を讃える"石碑"があるといいます。

なお、彼の獄死の原因は人類史上、最も残酷な"人体実験"の疑いがあるとされています。

「"トレイシー"を読んで見てよ。」とTVで見るのと同じ親しみやすい笑顔で彼はそういいました。
特にアジア地区に存在する日本将兵戦没者記念碑への慰問についての話題から日本将兵の捕虜生活に話が及んだときのことです。
お話を聞いたのは、作曲家の「三枝 成彰(さえぐさ しげあき)」さんです。
彼は、国民的な人気のある日本を代表する作曲家で、東京音大の教授でもあります。
早速、その "トレイシー(日本兵捕虜秘密尋問所)" 「田中整一著」を読みました。

"トレイシー" とはサンフランシスコの東に存在する実名の小さな街の名前です。
また、太平洋戦争下での米国陸・海軍共同の最も秘匿すべき日本兵捕虜秘密尋問所を指します。故にその性質上、超弩級のトップ・シークレットの暗号名でした。
"TRACY" はそのミッションの為に、ジュネーブ条約抵触問題や尋問で証言した捕虜たちが帰国後、祖国で不利益を被る懸念を危惧し、大戦が終結された後も開示されることなく、ワシントンDCの国立公文書館の【極秘】リストに長く厳重に保管され、戦後65年も経ても秘匿された情報でした。
この本は、膨大な資料から暗号名・トレイシーという「日本兵捕虜秘密尋問所」の秘密の全貌を明らかにした本と云うことになります。一気に読める素晴らしいノンフィクションでした。トレイシーの活動は、大戦中のほぼ二年半の間です。日本兵に関しては、厳しい徳義や戒律を課した「戦陣訓」が軍人を支配していたと考えられています。でも、この本を読んでいくと、所謂 "生きて虜囚の辱を受けず" が、実体とは異なることを知らされます。
さらに、東洋では最も尊敬される孫子の兵法で有名な
 「彼を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず」を日本の軍部の戦略家が基本思想とするのではなく、敵国の米国が国家レベルで膨大なエネルギーと執念を燃やして臨んでいることが、明確に伝わる内容でもあります。日本の諜報体制や意識や不完全さに比べると雲泥の差は歴然でした。そもそもトレイシーを設置すること自体にその差が歴然と現れています。

次回、三枝さんにお会いした時に感想を申し上げたいと思っています。

第2次世界大戦での戦死者は膨大です。
軍人の戦死者数と民間人の犠牲者数については、諸説がありますが、一つの指標からその数を見てみたいと思います。
まず、ソビエトの戦死者数が1,450万人と図抜けて多く、次に大戦の主役であったドイツは280万人です。日本は三位の230万人もの人が亡くなっています。人口比率からは非常に多いと言えます。当時から人口の多い中国が130万人で日本の半分でした。
また、英国、フランス、イタリアは20万台で、米国のみ29万人となっています。
さらに、民間人の死者数では、中国、ソ連、ポーランドで600~1000万人(推測で実態は把握できていない)と犠牲者が多く、ドイツが230万人と続いています。日本はというと、80万人の犠牲者がいます。英国やフランス、イタリアを上回る民間人の犠牲者がいます。


さて、再び"尹 東柱(ユン・トン=ジュ)"の詩集「空と風と詩」に戻ります。
彼も戦争の犠牲者です。
実は、この詩には曲があり男声合唱曲として既に完成しています。
尹 東柱の曲は全14曲の中の第9番目にあり、「作品 第9曲・韓国」となっています。
作曲家は三枝 成彰(さえぐさ しげあき)さんです。
この全14曲は、
「最後の手紙 The Last Message」という題名の器楽曲でいう組曲の様に仕立て上げられています。
「最後の手紙」は、「遺書」をモチーフとした男声合唱曲として作曲されました。尹 東柱を含め12カ国、13人の戦争犠牲者の遺書と云うことになります。
13個の詩は、手紙という形式の遺書そのものですが、その手紙は1961年に編集出版された『人間の声』という詩集が底本となっています。

この『人間の声』の編集者ハンス・ワルター・ベアは、第2次世界大戦で亡くなった人々の生前の声を後世に伝えたいとう思いから世界中の戦争遺族に呼びかけ賛同を得たそうです。
遺書である戦場からの手紙は、彼らの最後の手紙として、世界中から2万通の手紙が寄せられた様です。編集者の彼は、その中から202通の手紙を選び『人間の声』として編集出版したとの事です。実に、その国籍は31ヶ国におよびました。
日本では、「高橋健二翻訳」で同名の出版があるそうです。いずれも絶版で、ネット上では非常に高価な値が付いています。

作曲家の三枝さんは、20代のころ、その翻訳本を読み、感動・感激し、以来ずっとこの作品を音楽にしたいと思い続けてきたと彼自身が語っています。
また、作曲に際してコピーライター真木準氏が高橋健二訳の13通の手紙を構成して歌詞を再編集しています。その詩に三枝さんが男声合唱曲として書きあげたものが「最後の手紙 The Last Message」と云うことになります。

その全曲を聴きました。何度もです。
第一曲目はフランスがテーマです。次に日本、そしてアメリカ、ブルガリア、ポーランド、イタリア、中国、イギリス、尹 東柱の韓国、ソビエト、ドイツ、トルコ、再び日本と続きます。第14曲にDona Nobis Pacem.(~チェロの為のRequiemより~)が付属されています。

最初の印象は、
悔しさ、空しさ、理不尽、望郷等、暗く出口の無い闇の中にひとり取り残されたような恐怖感と悲壮感と絶望感がありました。
しかし、数回目からその感覚が、沸々と何か別なものに形が変わる様な期待が自然と生まれてきました。
それが、容認であったり、静寂であったり、うっすらとした希望であったり、温かな愛であったり、複雑ですが、悲壮感や絶望感が徐々に払拭されていくのが体感出来ました。
それはきっと最後の第14曲目にある "Dona Nobis Pacem." によって救われているのかも知れません。
最後の第14曲にある「Dona Nobis Pacem..(~チェロの為のRequiemより~)」は、ラテン語の古い格言で、"私たちに平和をお与えください。" という意味です。「ドーナー・ノービース・パーケム」と読みます。
「dona」 は "与える" 、「nobis」 は、"私たちに"、「pacem」 は、"平和" を意味するそうです。
第1曲目のフランス語から第13曲の日本語までの各国語で "私たちに平和をお与えください。" を繰り返して歌います。
しかしそれは、戦争体験者でない僕が思うことであり、且つ戦争から65年以上を経た今だから感じられる要素を含んでいるかも知れません。

初めてお会いした作曲家の三枝成彰さんと云う人は、気さくで、とても爽やかな印象を持つ人でした。握手をした手も柔らかでした。
しかし、この曲を聴いて、
彼の感性の幅と奥行きは、計り知れないほどの容量と深みと重さを持っていると感じます。
そして、
この世で三枝さんのやらなければならない使命の大きさも同時に感じました。

今、ボクはささやかな希望が生まれています。
機会あれば、
尹 東柱(ユン・トン=ジュ)」の彼を讃えた石碑を見に、同志社大学と京都造形芸術大学を訪れてみたいです。

 

Copyright(c) BrainSellers.com Corp. All rights reserved.