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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

積み重ね

2011.01.08

突然野球の話で大変恐縮ですが、
30年ほど前のメジャーリーグの1983年のワールドシリーズで、MVPを取得した捕手がいます。
彼の名前は「リック・デンプシー」という聞き慣れない野球選手で、当時から特に才能があったという評価を得ていませんでしたが、選手生活は25年を超えています。メジャーリーグでの四半世紀の在籍は、ボクの様な野球に詳しくなくても、それが並大抵で無いことは想像できます。

彼は、当時アメリカンリーグの西地区の覇者「シカゴ・ホワイトソックス」を破り4年ぶりに出場した「ボルチモア・オリオールズ」に属していました。また、このシリーズの対戦相手は「フィラデルフィア・フィリーズ」で、ナショナルリーグの西地区の覇者「ロサンゼルス・ドジャース」を破り、3年ぶりの出場でした。
この対戦での結果は、五戦のうち4勝1敗でボルチモア・オリオールズが、13年ぶり3回目の優勝しており、捕手リック・デンプシーは、MVPとして打率.385、4二塁打、1本塁打、2打点の好成績を残しました。しかも、リック・デンプシーはワールドシリーズ初選出でした。
彼のシリーズ出場はこの年だけでなく、1979年と1989年に計三回の機会を得ています。これは中々出来ないことして特記すべき成績と云えるでしょう。

彼のメジャーリーグの業績を、滔々と述べてきましたが、興味があるのはその成績を積み上げた「リック・デンプシーの野球哲学」です。彼の哲学がとても魅力的で、これを紹介したくて長々と説明しました。内容は彼が1988年に雑誌ニューヨーカーの誌上で明かしたインタビューの抜粋です。
全文を紹介出来ませんが、心に残るインタビュー内容を書き出してみたいと思います。

  『必要なのは、正しくプレーすることだ。
   必要なのは、正しく考えることだ。
   来る球、来る球すべてをひっぱろうなどと考えてはいけない。
   明日は相手をこてんぱんにやっつけてやろう、などと考えてもいけない。
   結果がどうなるか誰にもわからないからだ。
   何もかも自分ひとりでやろうとしてはいけない。
   一試合、一試合が大事だ。
   バッターは、一打席、一打席討ち取るしかない。
   試合前に話し合ったことや打ち合わせたことは、きちんと実行しなければならない。
   一度にスリーアウトをとることは出来ないし、
   一度に五点を挙げることも出来ない。
   ひとつひとつのプレー、ひとりひとりの打者、ひとつひとつの投球に集中することが必要だ。
   すると、スローモーションの映像のように、ゲームがはっきり見えてくる。
   うんとこまかいところまでが、分解写真のように見えてくるんだ。
      こういうふうにゲームに向き合うと、
        -----つまり、ひとつの投球、ひとりの打者、ひとつのイニング、
           ひとつのゲームに神経を集中させること------
   ふと気がついたときには、試合に勝っているんだ。』

なんとリアルで分かりやすい「野球哲学」でしょう。
野球に限らずスポーツの世界では、小さな出来事の「塵も積もれば山となる」の単純明快な法則が成り立っています。この心構えは、当然ビジネス・シーンでも人生でも、同様な実践哲学といえるでしょう。
マリナーズのイチローの2004年のメジャー新記録262安打も、彼の10年連続200安打の達成も、人生と同様に小さな積み重ねの連続だからです。150を超える試合数とその9倍のイニングスの間に積み上げられた数値は、試合数が嵩むごとに大きな差として圧し掛かります。

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使命

2011.01.01

当社のダイナミックPDF生成技術のコァは、設立後数ヶ月でその原型が出来上がりました。
設立後間もない2000年の夏のことです。

そして、時を同期するかのように、国内外の印刷機メーカーは革新的なオンデマンド印刷機の過渡期を迎えました。どの様な大型印刷機にも、RIP(リップ:Raster Image Processor)と呼ばれる一般的なプリンターのドライバーに相当するソフトウェアが存在します。
このRIPの役割は、DTP等 で作ったデザイン画像である PostScript データを、プリンタやイメージセッタの印刷機で出力のために、その出力解像度にあわせてビットマップデータに変えるプロセスを指します。当社の製品である「biz-Stream」でダイナミックに生成されたPDFは瞬時に大型印刷機のRIPに飲み込まれ、あらかじめ決められた出力解像度で印刷されることになります。

当時、瞬時に生成されるPDFと高機能大型印刷機をインターネットで接続し、人を介さずシームレスにオンデマンド・プリンティングを着目した企業は皆無でした。そのため当時は、多くの障害が存在しましたが、現在ではこの方法が主流になり、当社は早期着手の多くの恩恵を得ることになりました。

少し現代より時間を戻します。

1492年にクリストファー・コロンブスが意図しながら間違って「インド」を発見したことにより、東洋文明やイスラム文明や他の大陸が持つ独自文明等は、徐々に抹殺され、変わって西洋の近代化に突き進むきっかけになったことは周知の事実です。
そして、「1492」を著したジャック・アタリ(Jacques Attali)は、コロンブスの新大陸発見より遡る事60年前に出現した印刷術について、「この時代のいかなる出来事も、印刷術の出現が引き起こした驚くべき知的変動を抜きにしては理解しにくいだろう。」と明言しています。そして、「それはこの時代の自由の目覚めである」と本質を言い当てています。

冶金業を営むヨハネス・ゲンスフライシュが1434年にニュルンベルグで最初の活字印刷機を作り出しますが、彼の発明は注意を引きませんでした。後のヨハネス・グーデンベルクです。
彼はその数年後の1441年に両紙面に印刷できる画期的なインクを開発しますが、殆ど話題にならなかったといいます。
さらに、共同事業者のヨハン・フストと彼の娘婿のペーター・シェッファーを得て1448年にそれまで木製だった活字を金属製に作り変えることに成功しますが、この事にも誰も関心を示さなかったようです。
そして、1455年に最初の聖書の印刷を完成させますが、それでも全く反響は無かったようです。この聖書は、後に「グーテンベルク聖書」(「四十二行聖書」)と呼ばれる著名な最初の印刷聖書です。

しかし、グーデンベルクは、この二人の協力者との間で出資金に関する訴訟に敗れてしまい、自分の発明を彼らに譲り、結局袂を分かつことになります。そして、その二年後の1457年8月15日に彼らの手によって最初の印刷物「マインツ詩編集」が刊行されますが、この時、あらゆることが始まり、且つ広がることになります。それも強烈な速さで。

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風を読む

2010.06.13

鳩山さんから管さんに首相交代のリレーがされたのはつい先週のことです。
首相が変わることで政治や組織や行政も大きく変化するのは当然のことですが、メディアには「風が変わる」や「風向きが変わった」のキャッチコピーが騒がしい今日この頃です。

あるブログに『メディア「首相交代効果」考』という興味深いテーマがあります。メディアに対して手厳しい論客といえます。掲載内容は、"メディアが取り扱う世論調査は「メディアとしての使命の放棄」と伺える調査時期の不自然さや一部の政党への偏頗がある"と指摘しています。かなり手厳しいですが、読むとなるほどと納得のいく理論展開でもあります。

風を読む」は示唆にとんだ言葉として広く認識されていますが、他に「船出」や進路を読み取る「コンパス」も政治や経済だけでなく、企業経営者が自社の進路や経営の視点を例える時によく使われます。

帆船が最も輝いた時代を「大航海時代」と歴史を感じさせる表現を使いますが、この時代の生い立ちを表す三つのキーワードがあります。

最初のキーワードは、「黄金と胡椒」です。とても魅力的な言葉として記憶に鮮明です。黄金=マルコ・ポーロ=フビライを連想し、胡椒はオランダ東インド会社=ヨーロッパ人の食生活です。大航海時代は一般に十五世紀から十七世紀を指しますが、実はその胎動は十三世紀ごろから始まったとされています。ご存知のマルコ・ポーロの「東方見聞録」の一説にこんな表現の口語体があります。
ジパングは東海の島で、大陸から千五百海里にある。」といい、
「黄金が非常に多く無尽蔵であるが、王がその輸出を許さないため訪れる商人はわずかしかいない。」そして、わが王であるフビライの日ごろの言動は、
「この島はわが国に風聞するほど富が大きく、この島を征服し領土としたい。」と記しています。
当時、この見聞録を読めば、フビライでなくても誰もが東方への関心が高まったであろうことは、容易に想像できます。
また、フビライの関心事は黄金でしたが、西ヨーロッパ人においては、彼らの食生活に必須の胡椒や肉桂(生薬、ニッキ)を大量に安価に手に入れることを望んでいました。香辛料によってヨーロッパ人の食生活は一変します。それもアラビアの仲介商人を通さず原産地の東インドから直接手に入れるルートを長く切望し、実際に模索もしていました。

歴史上、最も大胆な条約として知られてるトルデシリャス条約を締結したジョアン二世は締結後まもなく壮大な計画の前に死去しますが、彼の甥のマヌエル王が即位すると、第一次インド遠征を実施します。
この司令官がかの有名な「ヴァスコダ・ダ・ガマ」です。1498年7月8日のことでした。リスボアを出港して翌年の5月22日にキャラコの語源になったカリカットに到着しています。ガマは当時のカリカット王国と直接の通商条約を提案しますが、理由は不明ですが決裂します。そして、1499年9月に帰国を果たしますが、彼はきっちりと貿易現状調査報告書と一緒に香料等の価格表を綿密に調べ上げ、これを王に提出しています。その結果、丁字(グローブ)等の西欧価格は現地輸出価格の約9倍程度あることが分かりました。
残念なことに、その後最も重要なキーワードとなる「マルク諸島またはモロッカ諸島(別名香料諸島)」は入っていませんでした。そこまで調査の期間や実行力(資金、情報網など)がなかったかも知れません。
輸入価格が現地価格の9倍の手数料が掛かる「胡椒の直接購入」はヨーロッパの商人の間では、羨望の的であったろうと想像できます。ここに西欧からインドへの「東方航路」が確立しました。
故に「黄金と胡椒」はその必要性から人の目を東に東に向けたことになります。

話を少し寄り道すると、
ジョアン二世の壮大な計画は「コロンブス・シッョク」が作用していると云われています。クリストファー・コロンブスは西回りで「ジパングかカタイの近く」に到達したことを帰航の途中でリスボアへ寄港したことで知ります。王のシッョクは相当なものでしょう。また、1488年にはエンリケ航海王子の意思を継いだバルトロメオ・ディアスが喜望峰を廻り、インド洋を目の前にして引き返した(実は船員の暴動によって)ばかりのときでもありました。ジョアン二世の焦りはよく理解できます。

さらにもうひとつ蛇足を。
ガマによって確立した東方航路により小国ポルトガルは香料、金、象牙などの貿易を独占し、首都リスボアの繁栄を作り出します。それまで繁栄していたジェノバやヴェネチアの衰退と対照的になります。

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メイク・ア・ウィッシュの大野さんに会う

2009.11.03

先日、知人の記念パーティで
       "メイク・ア・ウィッシュ"の大野寿子さんに会いました。


彼女は、重い病気と闘う子供たちの夢をかなえる世界的なボランティア団体の日本の事務局長です。彼女の話を聞いてとても自分の心が静かになり、体の奥から暖かな気持ちが湧き上がってきました。そして、この団体の活動に感動しました。
国内ではすでに、1500人近くの子供たちが、その夢をかなえています。
この団体によって、多くの子供たちが小さいときから思い続けた夢を「いっとき」実現しています。

そして、彼女はこう云いました。
「最後の夢ではありません。」
「夢をかなえることが、
    明日を、今を生きる力となるのです。」


今年の夏までに、昨年の秋に比べると異常高騰があったといいます。
何かと言うと穀物価格です。それも身近な小麦や大豆です。
異常高騰の主犯は投機・投資ファンドマネーの穀物銘柄の商品市場からの引き上げが、原因と言われています。特に、小麦は瞬間的な異常高騰を除けば、10年間で過去最高値とのことです。状況は大豆に加えてお米も同様だそうです。

この穀物銘柄の異常高騰に対して、被害を蒙ったのは、なぜか途上国だそうです。
なぜでしょう。わけが分かりません。
その途上国の中でも、特に被害が甚大なハイチやバングラデッシュでは、
一日一食に追い込まれ、ハイチにいたっては市民の暴動化まで発展しましたとあります。
益々分かりません。

この途上国と穀物銘柄の異常高騰には構造的な関係があります。
影響の大きい途上国は押し並べて農業国です。
農業国である途上国がなぜ飢えるのか? 益々不可解な。。。

仕組みはこうです。
途上国である農業国は、国が貧しいために、資金を世界銀行から借ります。
すると決まって、世界銀行は弁済の為のいろいろな「助言」をします。この助言が裏目に出ます。この助言は、債務を返済する為に自給農業をやめて早期に換金可能な先進国向け農作物への生産のシフトというものです。
途上国である農業国に弁済方法について、いい代替案は持っていないこともその理由です。
換金可能な農作物は何かというと、「バナナや綿花やコーヒー」がそれです。
この換金可能な農作物を生産する代わりに、先進国から主食である小麦や米を輸入するのです。もちろん、この「助言」は作為的とも取れなくもありません。
結果は目に見えていますね。
主食をお金で買うしかない貧しい国々は、10年来最高値の高値の小麦を買わざる得なくなり、助言が本末転倒になってきます。もちろん、高くて買えません。

この先進国の思惑だけで押しつけられた構造的な仕組みは、簡単には脱却できなであろうと言われています。大きな理由のひとつに、債務の重圧があります。
多くの人が明日の糧を得ることにやっきになっている頃、対局の投機・投資ファンド・マネーの人たちは、天文学的な利益を得ることになります。

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法隆寺と林業

2009.10.25

東海や関西の出張はよくありますが、決まって名古屋と大阪です。
たまに、京都の出張がありますが、しかし、さすがにその先の奈良の出張はありません。そううまくいきません。しかし、仕事とは言え京都の佇まいを身近に感ずることは楽しいことです。
京都も奈良(飛鳥とか)も、情緒豊かで、いずれもとても好きな都市といえます。
特に奈良は。
何故かと言うと、奈良には「法隆寺」があります。
ご存知のように、法隆寺は世界最古の木造建築です。
以前、中国の友人を奈良に誘ったことがあります。スバ抜けて優秀なITの技術者ですが、とても寡黙で落ち着いた雰囲気を持っている若者で、その彼と法隆寺を散策しました。
そして、回廊の中に入り、立ち並ぶ柱に直接手を触れさせ、これが1,300年前の木だと教えると、途端に驚きの表情に変わります。
彼の驚きは、1,300年前の建築物という点ではありませんでした。
それもその筈です。中国四千年の歴史の中では、1,300年はさぼと古いものでなく、もっと古い建築物があることを当然のように自負しています。
が、彼が今まさに触れている柱の表面には、干割れやささくれがなく、柔らかな感触を伝え、とても1,300年間の風雪に耐えたとは全く感じさせない状態であることに驚いたのです。

法隆寺の「あの柱」に触れた方は、同様に感じたと思いますが、回廊のたくさんの柱からは、柔らかな温もりを感じ、また、そのような木が長い間、構造材として重い建物を支えていることに不思議さも同時に感じます。
木材は、一般的に時代とともに、その表情を刻々と変化させます。主な原因は乾燥と捩れによる歪みです。仮に乾燥による割れやねじれが生じなくても、必ずといっていいほど表面は風蝕によって少しずつ痩せていくと云われています。
特に風蝕によって、柔らかな部分から減って、木目が徐々に浮き彫りになり、やがてそれも痩せて「とても硬い節」だけが高く残ることになります。

文献では、風蝕は"百年に一分"が失われると定説がある様です。特に、軒下等で風雨を受けやすいところでは、百年で三㍉程度ずつ痩せるそうです。風蝕とはすごいものですね。なので、古い鑑定方法には、その痩せ方で、建物の年代を判断する方法もあるそうですよ。

そして、日本は古代より木造建築の顕著な国でもあり、そして森林国家でした。
その森林国家である日本が、現在最も可能性のある森林経営の時期を迎えているそうです。
ですが、昨今、その森林資源が危機に瀕していると警鐘がなされています。
過去の経緯から想像すると、林業は第一次産業の中でも最も不活発な産業に衰退してしまったかも知れません。
その理由は、
この産業の主な活動は治山治水の施策と山間部の雇用対策という名目で補助金を確保し、公共事業として長い間放置されてきた事が大きな要因と云われています。特に、戦後の復興特需期に、大げさに言えば日本中の森林を伐採し、その貴重な資源をほとんど伐り尽くした時期がありました。その証拠に、現在の森林の八割が林齢五十年以下と、長期政策せずして伐採した事実を極端に物語っているといわれています。
別な言い方をすれば、その後の長い期間、お金と人的労力を負担し続けた時代があったということです。
そして、日本の森林は忍耐の期間を終えて、いよいよ収穫期という分岐点を迎えているそうですが、このタイミングを逃さず効果的な施策を実施しないと冒頭の危機がやってくると云う訳です。

人工林というのは、木が生えてから五十年くらいまでに手を入れないと再生が難しくなるそうです。日本の人工林は、総森林面積の40%もあるそうです。逆に言えば、適切な間伐を行うとその後の森林整備コストが大幅に減少し、徐々に採算性が向上して、「林業」としてのビジネスが成り立つということになりますね。
間伐という行為で私が以外に思ったのは、森林を健全に保つには成長量の70-80%前後を安定的に伐採しなければならないということです。
全国規模でいえば、間伐材は相当量になるということになります。

私どものコア・ビジネスで、オンデマンド印刷を主軸としたSaaSビジネスをしていますが、最終的には紙への印刷を行います。実は、この間伐材を使用した原紙を使用することで、環境保護と資源の有効活用の両面で、ここ最近推進が活発になっています。このことは、当社からの申し出でお客様に採用を頂きますが、逆にお客様自らの発案によって、間伐材用紙をお使いになることがあります。間伐材等も含めて森林保護と環境保全を目的として有効利用とする世界的な仕組である"FSC"(参考Ⅰ)があります。
私たちの取り組みも、この方針に則って、環境保護に賛同していきたいと思っています。

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新しいシルクロード

2009.08.23

   子供たちが空に向かい 両手をひろげ
   鳥や雲や夢までも つかもうとしている
   その姿は きのうまでの 何もしらない私
   あなたに この指が届くと信じていた
   空と大地が ふれあう彼方 あなたにとって私 
   ただの通りすがり ちっと振り向いてみただけの 異邦人

この美しい詩は「異邦人」という曲で久保田早紀が1979年に作詞・作曲し、そして自ら歌い大ヒットしましたポピュラーソングです。そして、今までに何度もカバーされた名曲といえます。

徳永英明というハスキーで、高域音がキレイな歌手が、過去に大ヒットした女性ボーカルの曲だけを収録した三枚のCDシリーズがあります。彼自身の自曲の歌も美しい旋律ですが、彼の選んだ女性ボーカルの曲も劣らず絶妙です。特にあの歌声は女性に大人気ですが、このCDの中で彼が歌う数曲にとても魅力を感じます。そして、異邦人はこの中にもカバーされています。
私は、カラオケというものを10年ほど前に体験しましたが、それ以前は、人前で歌を披露する度胸を持ちあわせていませんでした。それは、ひとつの拘(こだわ)りといえるかも知れません。
それが、起業をきっかけに、人の付き合いの中でどうしても避けられないと納得した時点で、この拘りを捨てました。以来、カラオケを少なくとも以前よりは楽しく振舞えるようになりました。

たくさんの歌手がカバーする異邦人ですが、私は特に徳永英明の歌声が好きです。たまに誘われてカラオケしますが、映像が決まってイスタンブールなんです。異邦人とは字のごとく外国に定住または長期滞在する外国人を意味しますが、少し前まではコンスタンティノーブルと名づけられていたイスタンブールとの関連性は全く無い様に思えますが、不思議と映像とメロディーが素晴らしくマッチングします。

コンスタンティノーブルはシルクロードの臍(ヘソ)にあたる最も重要な結節ポイントです。
この西に、この道の到着点であるローマがあります。そして東に、出発点の長安(現在の西安・兵馬俑で有名な)があります。中国、モンゴルと中央アジアの地獄のような砂漠を横断する、長い長い乾いた道をローマから長安を結ぶ長距離交易路が、絹の道といわれる「シルクロード」であることは誰ひとり知らぬものはないほど、ひとつの言葉として認識されています。この路はまさに、世界史の背骨というべき道です。
中国製の「シルク」をローマまで運ぶ道であったために、ドイツの地理学者「リヒトホーフェン」が"絹の道"と命名しましたが、もちろんシルクだけでなくあらゆる商品が行き来しました。しかし、これほど名前と現実の世界が大きくかけ離れた印象をもつ言葉はないと思います。

イスタンブールはトルコの首都ですが、西に隣接するブルガリアやその北にあるルーマニアは黒海に面したバルカン諸国です。この地は、古代から様々な民族が入り込む一方、東ローマ帝国やオスマン帝国に長く支配されました。私の仲の良い知人にルーマニア人がいます。ルーマニアは陽気な社会主義国家と言えます。ブルガリアやユーゴスラビアはスラブ民族系と言う感じを強く受けますが、ルーマニアはラテン民族の血を強く引いていると言われています。その意味では知人は底抜けに明るい人です。どう見てもラテンとしか言いようのない気質を感じます。彼女は自国のルーマニア語とスペイン語とイタリア語を自在に操り、日本語も漢字以外はほぼ使いこなします。
ルーマニアを持ち出したのは意味があります。
バルカン地方は、九世紀から十世紀にかけてビザンチン僧侶が熱心に、布教をした地域でもあります。その為に正教協会が、農村の隅々まで建てられていると言われいます。この教会こそビザンチン芸術であり、ビザンチン文化です。
この地方のどこに行ってもビザンチン様式の修道院や宗教絵画をお目にかかることができるそうです。

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紙とデジタル

2009.07.27

最近は本を読む時間があまり取れません。
忙しさを理由にしている向きはありますが、とにかく公私共に趣味や雑用が多く、じっくりと本を読む時間がなかなか取れない状況です。
それでも、最近十冊程度の本を読み終え、さらに二冊の本が執務机に載っています。
読み終わった本でとても感銘をうけた本は、
風の中のマリア」「ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて 」の二冊でした。
そして、これから「lQ84」と「シリコンバーから将棋を観る」の二冊を読みたいと思います。
いずれもアマゾンで購入したものです。
そこで、
最近「スクリブド(Scribd)」というサイトがあることを知りました。
"いたずら書き"または、"走り書き"という意味の英単語のScribbledを略したもので、「誰もが創作を楽しみ、その喜びを皆と分かち合ってほしい」との意味合いがあるそうです。
このサイト、いろいろな面で画期的です。

もう、二十年くらいになりますが、この「スクリブド(Scribd)」の記事を読んで突然思い出した事があります。それは物理的な本とデジタルの違いを鋭く洞察したエッセイでした。
タイトルも誰が書いたものかもすっかり忘れましたが、主旨は鮮明に覚えています。
それは、私たちが今手にしている本という物質的な制約がなくなってしまうという物語です。
コンピュータと文学者の結びつきは、非常に古くワードプロセッサーの登場から密接な結びつきが有ります。いまでは、書籍のデジタル化は一般的なことになっています。それは、あらゆる書物が仮想空間のなかで電子化されつつあるという事実を物語っています。
ネットは、膨大で、かつ巨大です。
物質性を離れると言う事は、今まで私たちが千年以上に渡り血の中にまで色濃く定着し、固定化した書籍の文化を離れると言う事が前提となりそうです。
正確には、ネットがそれを実現可能な方向に導いていると言う事になるでしょうか。
このあたらしい文化は確実に新たなフェーズに進んでいると思います。
言い換えると、我々が慣れ親しんできた、モノとしての本の属性がもしかすると、失われてしまうのかも知れないと言う事です。
これを私たちは、どのように考えたらよいのでしょうか?

デジタル化された本は、物質では有りませんので、いわゆる「パルプ」は不要です。
あるのはネットが繋がったディスプレーかモバイル端末か専用機です。
たぶん、電子の本には私たちが、長い間文化として作り上げてきた慣れ親しんだ「厚み」とか「重さ」とか「匂い」が有りません。
果たして、本が本来持っている「厚み」「重さ」「感触」といった属性を全てすててもいいものなのでしょうか。

一枚一枚めくる指の感触、脇に抱える厚みと重さ。
ページを開いたときのインクの匂い。
どれをとっても独特な雰囲気です。って、少女っぽく考えるのは感傷的で、ITを推進する企業の経営者の言葉ではないのかも知れませんが。
しかしです。本が本来持っているこのような属性と書かれている内容は、全く無関係といえば、その通りなんですが、だからと言って、本当にそう「言い切って」いいものでしょうか。

本の物質性と読書をする行為との間には、もっともっと深遠な関係が存在しているように思えてならないのです。
次世代には、物質としての形を持たない「本」が、前提になりそれを受入れ、それに慣れ親しんで
しまうと言う事なのかもしれません。なんて、SFっぽいンだろう。
しかし、いまの今、考えるには、ちょっと恐ろしいことの様に思えます。
もちろん数十年といった単位だとは思いますが。で無いかも知れないところに摩訶不思議がある訳なんです。
物質と情報は、独立してしまい具体的に本を読むという「心」とか「体」とかの感性に対して、別な次元での知識を習得するという行為になり、両者との関連性をうまく両立しなければ為らないということになりはしませんか。
いろいろ、考えさせられてしまいます。

たとえば、物質的な「本」であれば、表紙を眺め、ページを開き、めくり、閉じる。
「開く」という言葉には「啓く」という意味が附帯します。
この「啓く」は当然のことながら「啓示」に通じ、この言葉の持つ意味を探れば、宗教的な起源にたどり着く事は明白です。

ひとつ印象的なお話が有ります。
それはある「学ぶ」という物理的な光景です。
ヘブライ人(すでに死語に近い)の子供達が、ヘブライ語のアルファベットを習う最初の日に、教師は子供たちにそれぞれ石版に最初の文字を「蜜」で書かせ、それを舐めさせる儀式があるそうです。子供たちは、文字を最初に学ぶ瞬間に、知識は「甘美」なものであることを感得するちがい有りません。素晴らしい儀式と思いますが、もうこの儀式は古典的な儀式しかもしれませんね。

この時の「文字」の持つ力は、当然のことながら活字でも不可能であるし、ましてやデジタルでは有得ません。この儀式は、文字を単なる伝達媒体とする考えからは、絶対に出でこないでしょうね。
文字が電子化される事により、本来の読書や読書をするという行為・行動が培ってきた指先や手の動作が電子化してしまう事により、本来持ち続けた「感触」といった様な属性がほとんど失われてしまったらどうなるでしょう。ヘブライ語を最初に習った子供たちの教育という中に持っていた、文字と味覚の直接的結びつきは、日本の(漢字文化圏)「書道」に合い通ずるかも知れません。
書道を習う子供たちは、決まって手やブラウスの袖やズボンを墨で必ずといっていいほど汚します。文字は「染み」を作るものである事を、手を汚しながら体で理解することの重要性は、文字の電子化の中には絶対に存在せず、それがまた、大きなうねりの波に呑まれて、本が本来持ち続けた属性をすべて淘汰していくのでしょうか。

きっと、そのこと自体、今の時点で重大事であると言う事に、私たちは、たぶんはっきりとは認識できず、何十年という歳月によりその重要度をはっきりと認識し、しかしその時にはきっと、取り返しのできない染みを発見し、その広がりに呆然とするのでしょうね。

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時代を読む嗅覚

2009.07.02

常々日本の女性は、ルイ・ヴィトンが好きだなぁと思います。

以前聞いたことがあります。「日本の女性の三人にひとりは、ルイ・ヴィトンを持っている。」と。
それと、面白いことに、彼女たちは"ルイ・ヴィトン"と言わずに、ただ「ヴィトン」ということも知りました。なんと彼女たちらしい言い方だ。
総ての"ブランド"に弱い私でも、長い時間をかけて、雑誌やショーウィンドーや、それに女性たち自身が実際に身に着けている、または持っているという事実によって、知らず知らず、自然にそれらの老舗ブランドを記憶に留めるようになりました。興味の無いことは記憶できない性質(たち)ですが、自然の流入は避けれません。
ただ、私が知る老舗ブランドは、冒頭の"ルイ・ヴィトン""カルテイエ"と、それに、"エルメス""シャネル"くらいです。まぁ、誰でもこの四つは知っているでしょうね。
これも、新聞や雑誌で知りましたが、"ルイ・ヴィトンとカルテイエ"はグループ化して多数のブランドを傘下に収めている様ですが、"エルメスとシャネル"は未だに独自路線を貫いているようです。

もうひとつ、興味深い話しを聞いた事があります。
それは、たとえ"ヴィトン"のパックをいくつか持っていても「エルメスは別格よ!!」と、言いきります。
"ヴィトン"は好きでたくさん持つが、それ以上に欲しいブランドは"エルメス"ということでしょうか。
どうも"エルメス"は日本でも本家のフランスでも「ブランドの中のブランド」という認識があるらしいです。老舗ブランドの中にも格があるんですね。

ところで、フランス映画界は今「シャネルブーム」だそうです。老舗ブランドの一つで、比較的若いブランドとなりますね。生涯ファッションデザイナーであった「ココ・シャネル」(1883-1971)の劇的な生涯を取り上げた映画やテレビ放映が、このところ相次いで公開されているようです。
そして、日本でも秋に「シャネルになる前のココ」という映画が公開予定だそうですよ。過去に彼女の生き様に関する著書は多く出版されています。
「シャネルになる前のココ」という映画のストーリーは、Webに紹介されていますが、チョー・サマリーして紹介します。
シャネルが11歳の時に、母親が死に、遊び人だった父親は、田舎の孤児院に彼女を預け、音信不通になる。少女時代は裁縫を習いながら、フランス将校の駐屯地のクラブで歌を歌い、生活費を稼ぐ。その内、エリート将校の愛人になり、徐々にファッションの世界に足を踏み入れていく。というものです。ココという名前は、クラブ歌手時代の芸名です。これもとても有名なエピソードですね。でも、それを名前にしてしまうところに彼女の強かさを感じます。
さて、
彼女の商いに対する洞察力にとんだ言葉を書籍の中に発見しますが、その中で、最も彼女の独特な感性を発揮する「時代に対する嗅覚」を表現する言葉があります。

"モードはたんに衣装の中だけにあるものでなく、空気の中にあって、風が持ってくるものだ。人間はそれを感じ取る。モードは空にも、舗道にも、どこにでもある"

シャネルの成功の秘訣は、時代を読む嗅覚にあったようです。
彼女は晩年、ナチス将校と交際したために、対独協力者の烙印をおされ、長く非難されることになります。今、まさにセンセーショナルに公開されてる「愛を読むひと(The Reader)」もナチス親衛隊の看守になったハンナの人生と重なるものがあります。
原作は、ドイツの小説家ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」で、ベストセラーになりました。読み応えのある小説です。

戦後モード界から忘れられていたシャネルですが、女性の社会進出を機敏に感じて、自分のデザインが力を発揮できるタイミングが到来したことを確信します。そして、15年間のブランクを物ともせず、71歳でファッション界にカンバックし、フランス業界の女王に返り咲くのです。
その少し前に、
後年、経営感覚が歴代最も俊敏であったといわれた"エミール・モーリス・エルメス"がエルメス社の三代目社長に就任します。彼は、過去二代にわたって伝統的な馬具製造業の伝統を生かしつつ、ファッション界に大胆な転進を行い、中興の祖と言われる経営手腕の陣頭指揮を執ります。

欧米では、老舗ブランドの品物を普通の若者が、日常的に使うという意識自体は、現在でも基本的には存在しないそうです。だとすると、本来は上流階級の持ち物であった老舗ブランド品を、なんとも思わない(?!)(ちょっと、言いすぎ?)ような姿で、日常的に持ち歩く、若い日本人女性は、海外では特異な存在として欧米人に映っているのでしょうね。って、いうか、かなり目立って顰蹙(ひんしゅく)ものなんでしょうね。

しかし、って、思います。
生まれた時から物が溢れて育った日本の若者層は、その母親の世代から受け継いだ、世界の消費文化の歴史の中でも鑑定眼は結構高いと考えられています。ただ、持つだけでなく勉強もしている様に、思います。
世界的にも「クール」と呼ばれる文化の担い手として、他のどの国よりも日本(最近はアジア人)の若者が老舗ブランドを牽引していると感じるのは、やはり彼らにそのパワーがあるということの証ではないでしょうか。
その意味では、近年、「丸の内」や「銀座」や「青山」にはブランド村が出来そうな勢いです。この村を見ていれば、誰だって「ブランド自体」が日本の購買力の高い若者に媚びていると思うのは私だけでしょうか?

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百姓は国の宝である。

2009.06.26

麻生さん、毎日お疲れ様です。

麻生内閣の最新(06/22)支持率17.5%(5月より9.9ポイント急減)だそうです。その中で、彼の「指導力」への評価も同時に急落(15.8%→10.9%)したようですね。これは、きっと、日本郵政の社長問題で、鳩山前総務相を事実上更迭した首相の判断が大きく影響していますね。また、政党支持率でも、自民党は20.1%で前回より7.4ポイント急落していました。政党支持率はとても重要です。一国の首相が交代する時に、毎回感じる末期症状の感がします。消費税の増率問題も尾を引いているでしょうね。しかし、東京都議選など地方選の結果を責任問題に「結びつくべきと思う」人は、5割を上回ったているにも関わらず、麻生首相のもと衆院選を「行うべき」とする人は、依然7割を超えているという面白い結果もあります。
一国の首相はなにをやっても大変です。
首相の一挙一動、挙措進退、その全てが、数時間後にはニュースとなり、国民総てが知るところとなります。
しかし、「支持率」等は些事であり、本質は「官僚と政治」のあるべき姿を問われてるのではないでしょうか?

百姓は国の宝である。」という言葉があります。
一般的な意味においてあらゆる時代に通ずる真理です。
しかし、これからお話しする徳川時代においては特別な意味合いをもった言葉となります。
現代に置き換えて言うのであれば、お百姓さんのみならず、全国民をさし、"民は国の宝である"ということでしょうか。

さて、徳川幕府時代に戻って。
"百姓は国の宝である。"なので、百姓の人格を尊重しなければならない。という理論の発展に向かう思想ではありませんでした。その所以は、この国を支配していく上で、仕組み上支配階級の経済的な勢力が彼らの納める年貢という基礎の上に築かれていた社会であったからです。その階級はもちろん武士軍団の階級です。
「士農工商」の最下位の町人から一定の租税を取り立てることを思いつかなかったほど、いや、思いついてもそんなことをしたら恥辱とするほど、「商」を軽んじてたこれらの武家軍団は、「年貢」のみを重大視していたのです。そのためには、百姓は勤勉ありで、質素従順で無知でいなくてはなりません。そして、せっせとお米を作って、自分たちは粟を食べて、お米はお上に納める。
これが徳川三百年の一貫した方針といえます。
中学の社会科で習う「士農工商」の最下位に位置させた「町人の商い」は幕府設立時点から制度の構造基盤に危険を孕んだ発想であるにも関わらず、ほぼ300年間手を打っていないところに、綻びの糸が見え隠れしていたんだと感じます。

最近とても興味深い本に出会いました。
江戸の情報屋」の本です。この情報は公開前提の日記形式ですが、公式情報ですので作者の主観を出来る限り排除し、毎日ブログの様に事実を克明に書き続けました。このブログを「藤岡屋日記」と呼んでいます。幕末に今の群馬県藤岡市から江戸に上京した須藤由蔵という人が外神田の御成道(将軍の上野東照宮への参詣路)で古本屋を営みながら、65年間にわたり幕府の政策、人事、から新聞の三面記事まで幅広く記録しました。単にブログとしただけでなく、その情報にアドバンテージがあったので流通販売されていたようです。付加価値のある情報は昔も今も欲しいものです。今と全く同じです。
日本人で初めてブログを認識し、そして日本人で初めて書き始め、且つ爆発的に立ち上がると確信していたのは、たぶんジョーイ伊藤譲一氏)だと思います。彼の先見性は圧倒的です。その彼のブログは、書き始めてすでに5-6年と思いますが、ジョーイがあと60年間もブログを書けるでしょうか。そう思うと、由蔵さんはすごいと思う。

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投機性

2007.12.17

米農務省が今月7日に、「2007~08年度のコーヒー需給見通し」を発表しました。

注目のブラジル産生産高は、6月見通しの3,620万袋から3,760万袋まで140万袋上方修正されている様です。そう言えば、今年の秋に旱魃の影響で生産が大きく計画を下回るという発表を記憶しています。
ですが、この発表聞く限りではその懸念はなさそうですね。旱魃があったものの生育期の気象環境が良好だったことで、全体としては6月報告の内容を大きく修正る必要はないと判断された模様です。
業界予想として今後も大きな変化は無いようです。

さて、
CuttySarkの活躍の時代を語るとき「緑茶」や「紅茶」や「ウーロン茶」と並んで必ず「コーヒー」から話さなければなりません。なぜかというとヨーロッパや特に英国ではアルコール以外で流行したのは、紅茶よりもコーヒーだったからです。
コーヒーの起源を調べると、たどり着くところ総てイスラム圏の伝説です。イスラムの神秘主義の僧侶達(スーフィーと呼ばれた人たち)が好んで常用して飲み物ということになります。この「覚醒剤的作用」を持つ「健康的な」飲み物がイスラム世界に出現したのは、遠く15世紀後半で場所は南アラビアのアデンとのこと。
イスラムの中でも神秘主義のスーフィー達は「飲むと眠れない」コーヒーの力によって、コーランを読み、祈り続けたと言われています。一日中眠らずにコーランを読むことを好んだ、あるいは強いたことから、コーヒーは彼らの欠かせない要素となった様です。
南アラビアのアデンから、イエメンのスーフィー達によって16世紀初頭にはエジプトのカイロでコーヒーが飲まれる様になりました。
その後、ローマ帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ帝国の首都イスタンブールにコーヒーが現れるのは1554年です。これはかなり明確に知られた史実です。なぜかというとお店の開店の宣伝を打ったからです。店主は「ハクムとシャムス」という二人のシリア人によって二軒の「コーヒー・ハウス(コーヒーの家)」が生まれました。
それがオスマン・トルコ帝国スレイマン二世の治世下(1566-74)では600店舗あまりに増えたそうです。
イスラムの神秘主義のスーフィー達(非社交的)の間で飲まれたコーヒーはいつの間か飲む特別空間を作り上げ、「社交の場」を醸成することになります。
コーヒーの特殊性といわざる得ません。
この社交性を生むという特殊性は「英国」によって極端に花開きます。

古いコーヒーの呼び名に「アラビア・モカ」という呼び名があります。
アラビアで採れるコーヒーが、その積み出し港の「モカ」をとって名乗ったことは当然の成り行きでしょう。現在のイエメン共和国の港町でアラビア半島南西端に位置します。目の前は、「紅海」です。現在見る影もなく寂れています。

モカは17世紀中頃にはすでに年間八万袋(一袋60㌔)を出荷していたとあります。ただ、積み出し港はモカだけでなく、モカよりも多くの出荷を行っていた港もありながら、イエメンのコーヒーを代表することになったのは、やはりヨーロッパを中心とする世界観によるものでしょう。
特にモカは英国、オランダ、フランス、等のヨーロッパの主要国の船舶が直接寄港することを許され、買い付けを許可されていたからだという説があります。
船はモカ(イエメン)を出港し「ルージュ色の海」すなわち紅海を抜けてカイロの倉庫に入ります。紅海は「ルージュ色の海」と呼ばれ神秘的でヨーロッパ的には異国情緒がフンダンなイメージですが、この紅海の航海は甘くはありません。シャレではありません。
当時の造船技術と航海用具と技術を想像すれば、危険を伴う航海といえます。「ルージュ色の海」は、その艶やかな名称とは裏腹に、逆風、低流、浅瀬など多くの困難があります。紅海は難海域です。

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パラダイムシフトと先見性

2007.11.26

「プリンス・オブ・ウェールズ」は不沈戦艦と言われた英国の旗艦でした。
太平洋戦争(第二次世界大戦)の頃の話です。1941年(昭16)頃のロイヤル・ネービー(英国海軍)が世界に誇る最新鋭の三万五千トンもある戦艦です。
当時このプリンス・オブ・ウェールズに互角にわたり合える日本海軍では「長門」「陸奥」の二隻といわれていました。
良く知られている「大和」「武蔵」の姉妹船はこれより少し後になります。

1941年12月10日の昼下がり、英国東洋艦隊の主力部隊が壊滅しました。
場所はマレー半島のクヮンタンの東方55海里の海域です。彼らは日本軍の輸送船団がマレー半島のシンゴラに向かうところを攻撃する予定でした。
しかし、日本海軍はこの英国東洋艦隊を発見すると第二二航空部隊を中心とする機動部隊の全力をあげて攻撃します。
その主力編成チームは爆撃機三四機、電撃機二五機、陸攻二六機の合計八五機の航空機です。日本軍は直接的には航空機しか使っていません。

大量の航空機に攻撃された英国東洋艦隊の副艦「レパルス」は1時間八分、旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」二時間五分で優雅に静かに最後の安息の場所に消えたと言われています。
史実では公式(英国公式資料)に不沈艦「プリンス・オブ・ウェールズ」は五〇〇キロ爆弾一発、魚雷六本を受けています。

同日、一万五千キロ離れた英国では両艦沈没の悲報をパウンド軍令部総長が電話でウィントン・チャーチルに報告します。
チャーチルのこの時の心境を回想録に次の様に述べています。
「私は一人なのがありがたかった。全ての戦争を通じて、私はこれ以上直接的な衝撃を受けたことはなかった。 (中略) 寝台で寝返りを繰り返していると、この知らせの十分な恐ろしさが私に浸透してきた。」と。
不沈艦「プリンス・オブ・ウェールズ」の沈没がいかにチャーチルの心を塞ぎ込み、彼の多くの努力と希望と計画を打ち砕いたかを想像できる苦悩の嘆きです。

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ジョルジオ・アルマーニ

2007.11.12

先頃「ジョルジオ・アルマーニ」が来日し、多くのTV報道がされていましたね。沢山の人が初めて生のジョルジオ・アルマーニを見たのではないでしょうか?
ボクも初めて見ました。

報道では、銀座に旗艦店を出店し日本法人「ジョルジオ・アルマーニ・ジャパン」の本社とするようです。
会見での彼は1934年生まれの73歳らしいですが、顔のしわは別にしてもとても若々しい印象を受けました。
体型も会見で感じた通りの意思の強さで節制しているらしく、とてもスマートでした。
70代でもあんなにすばらしく年をとれるという見本ですね。
彼はもともと医療の世界に進みたくて医学を志していた様ですが、解剖が苦手で断念した様です。分かるような気がします。
感性豊かでないと洋服のデザイン等は難しいと思います。
まして、多くの著名人が彼の服を好んで着ていると言う事実を考えると、その進路は間違ってなかったようです。
彼はその後、大手百貨店の洋服売り場の仕事で商品の陳列ノウハウや、展示の方法や生地や素材にふれ、生涯の目標を得たようです。
結果的には、現在も進行中ですが、
ワールドワイドで5,000億円以上の売れ上げを得るファッション界屈指の企業にまで成長しています。

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一期一会

2007.11.06

「能の上演は一日限りが原則です。」
晴天の日を選び三日間の祭礼に奉納する神事能や十五日間通して興行する形は、時の権力者の許可を得て能の各派が一世一代で行う勧進能という能で、とても異例なことです。

日本の古い時代に「文中(ぶんちゅう)」という元号がありました。
当時、南北朝時代でしたので、正確には南朝方で使われいたと言うべきでしょうか。
歴史は必然ですが、偶然に思えることが多々ありますね。
この文中という元号ですが、1372年から1374年までのわずか三年しかありません。
この文久の最後の年(三年)に芸能の世界に画期的な「一期一会」がありました。
この年の初夏に当時の最高権力者であった室町幕府将軍足利義満と今日まで脈々と生き続ける能の理論を完成させた世阿弥が出会います。

このとき義満公は18歳、世阿弥10歳の洟垂れ小僧でした。

実際には、
「大和結城座・結城三郎清次(後の観阿弥)」が世に出れるか否かの一世一代の能を足利将軍家に披露した日でした。場所は、洛中、今熊野権現社の神事能で祭礼は三日間行われました。初日は「翁(おきな)」の祝い能から始まり、脇能は「淡路」で、「松風・村雨」、「自然居士」と続き、切能は「融(とおる)」で終えたようです。
このとき世阿弥は、橋がかりから露払い役として一役買いました。

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一杯のコーヒー

2007.10.30

最近、
スターバックスの成功の秘訣や創業者の思いを綴った書籍を手に取ることがありました。
一つは同店で8年間マーケティングプログラムの作成と実施を担当していた[John Moore]の「スターバックスに学べ!」です。
もう一冊は、同店の会長兼CEOの[Howard Schultz]の共著した「スターバックス成功物語」です。
前著は同店の独自の経営理念やブランド戦略、サービス哲学などの学ぶための項目を挙げているのに対して、
後著は起業家としての自らの人生を振り返って、その歩を語るといった成功の基盤になっている価値観やエピソードを披露している書籍です。1982年にHoward Schultzは一流会社を退職し、自らその将来性に引かれて、シアトルの小さなコーヒー小売会社に転職しました。20年以上の時間を彼の生身で語る訳ですので、とても魅力的なものに仕上がっています。

朝起きて自宅で飲む数杯のコーヒー。
一時間後、事務所でのモーニング・コーヒー。
出勤直前に毎日寄るスターバックスにこの様な秘密が隠されていた事にいまさら気づいたという訳です。年間何十億ドルを費やしてグローバルブランドになったコカ・コーラやマイクロソフトに比べ、広告に多額の費用を費やすことなく、世界的なエクセレント・カンパニーの一つに数えられるようになったスターバックス・コーヒー。これも言われてみれば驚きです。
質の高い材料と音楽とゆったりしたイスとバリスタとの交流等々、
ここに書かれているそのものを日々認識できます。

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接客と魅力

2007.10.26

お能の「謡曲」や舞台衣装である「装束」等に興味を持ち、ここ数年古本屋で古書を買い漁る事が楽しい時間となりました。
そんなとき時々洋画家の世界もちょっと覗いたりします。
中には魅力的な芸術家にも出会いますが、ここに紹介するひとは芸術家ではありませんが型破りに魅力的な人物です。
彼の名は「ジョゼフ・デュヴィーン」という英国の画商です。
画商は大体二つに分けることができると思いますが、ひとつは、無名の画家の才能を見出し、これを世に出すというタイプと、
もう一つは、評価の定まった著名な画家の作品だけを扱うタイプです。
ジョゼフ・デュヴィーン」はこの後者で著名になった画商です。

彼は1939年に69歳で世を去る前には、「ミルバンク男爵デュヴィーン卿」の称号得ているほど後年著名になりました。
後で知りましたが、美術を目指す人でジョゼフ・デュヴィーンを知らない人はいないそうです。それにボクが読んだこの本は、米国の美術大学の授業の副読本としていることがよくあるそうです。

デュヴィーンの母国であるイギリスの美術専門家よる彼の評価は、「デュヴィーンの美術にかける情熱がはるかに知識を上回っている」ということであるらしい。画商である彼にとってうれしい評価ではありませんが、しかし彼にとってはそんなことはどうでも良いことかも知れません。
ともかくデュヴィーンは人一倍の美術かける「情熱」を維持し、画商としての手腕を発揮したわけですが、その当時のやり方としては型破りだったようです。

大切な顧客のためとなれば、デュヴィーンはおよそ何でもやりました。
莫大な富を築き上げた米国人たちは一応にひっこみ思案で、且つ、その富ゆえに予期せぬ出会いに疑いの眼を向けがちです。ヨーロッパ等へ訪問しても何処に行き、何をしたらいいのか分からないという人々に、デュヴィーンは例えば貴族の館に招待するようなアイデアを提案します。そのアテンドは目立たない所にもきめ細かな配慮がされており、訪問そのものを引立てます。その金持ちはそれだけで、十分満足し、当然彼に好意を持ち、少しずつ気を緩めていくとうものです。

例えば、彼のやり方をあげると、
裏から手を回して満員の高級ホテルの部屋の予約、
満席の客船に空部屋を用意する、
顧客に代わって好みの家の購入交渉と手続き、
新築の家を作るために優秀な設計者の手配、
花嫁の引き合わせや花婿の紹介、
等々、画商の範疇を超えた私利を押し込めた真摯な「接客術」を行います。
もちろん、花嫁や花婿の結婚式等も肉親顔負けの愛情のこもった結婚式も演出しますし、内装を任せられたデュヴィーンは設計者には沢山の絵画を掛ける広い壁を組み入れる依頼も施主に代わって(?)したりしました。

反面、他人の都合なとお構いなしに癇癪玉を爆発させもします。
この手の順当な性質かも知れませんが、自分の望みのものを手に入れるまでは、発作的に熱中し、激しく限りない情熱を燃やし続けます。
似ている人は沢山いますね。
しかし、デュヴィーンを知れば知るほどその「接客術に魅力」感じます。
彼の接客術は、
まさに「One To One」ビジネスの真髄です。

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「装うことは教養です。」

2007.10.23

装うことは教養です。
とは、その著書「スーツの法則」で中島渉が何度も繰り返し使った言葉です。

先週の土曜日に封切りされた「グッド・シェパード 」という映画あります。
とても好きな俳優である「マット・デイモン 」の主役映画です。
是非機会があれば見てください。
内容は映画のサイトに数多く紹介されていますが、物語はCIAの誕生をめぐり、ある将軍からリクルートされたマット・デイモンが扮する主役の1人の男が、運命に翻弄されながらも自身の立ち位置を作り上げていくシリアスな構成です。
CIAの誕生の時代ですから、まさに「冷戦」のさなかです。
物語は「キューバ問題」から展開します。

詳細はさておき、この映像の中に当時の実写を多数使用しています。
JFKで著名な「第35代米国大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ」と
フルシチョフの名が一般的な「ソ連の最高指導者のニキータ・セルゲーイェヴィチ・フルシチョフ」と、
この映画の中心となるキーバのカストロの呼び名で知られる「国家元首フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス」などです。

冷戦時代に凌ぎを削った二人の国家元首ですが、
JFKもフルシチョフもスーツはイタリア仕立てだったようです。
どうも、JFKの方が先にイタリアの仕立て屋(といっても「ス・ミズーラ(SU MISURA)」という高級仕立てですが)「アンジェロ・リートリコの工房」で数着のスーツを誂えたようです。
JFKの先祖はイタリアでしたから、当然イタリア人の「アンジェロ・リートリコ」をそのネットワークで以前から認識していたのでしょう。

一方、フルシチョフはJFKのスーツを見たのか偶然なのか、
その後やはり「アンジェロ・リートリコの工房」でスーツを作ったようです。

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「早く」決めた者

2007.10.19

ヨーロッパの港の中で、思い出と情緒さにおいて「リスボン」は格別です。
当時から石畳みの坂の多い港町でした。現在は大規模な港湾都市に成長しています。

アプローチは大西洋からテージョ川へ進みますが、大海と境が無いほど川幅は広く壮大です。当時は橋は一つしかありませんでした。
昔は「サラザール橋」と呼ばれていましたが、現在は「4月25日橋(1966年完成)」とか。ずっと後の1998年に斜張橋の「ヴァスコ・ダ・ガマ橋」が三角江の上を通っています。名前の由来についての説明は不要でしょう。彼が苦難の末インドに到達してから500周年の記念だそうです。

テージョ川を少し上り、客船バースの手前に来ると「ベレンの塔」と「発見のモニュメント」が視界に入ります。青い空に白い二つの塔が良く映えます。
「ベレンの塔」はマヌエル様式というのだそうです。かなり以前に世界遺産に登録されています。
「発見のモニュメント」の下に「方位盤」が刻んでありますが、本来はモニュメントの上部から下を望むことでその意味が理解できます。

テージョ川の河口に建てられたこの二つの記念碑をご覧になった方は古きよき時代のリスボンの国力を感じるでしょう。


  〔発見のモニュメント〕

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選択肢の拡張

2007.10.17

エンリケ航海王子が「発見の航海」を目前にいくつかの準備を開始します。

その一つはポルトガル南端のサクレス(現在のイベリア半島西南端のセント・ヴィンセント岬の先端)の宮廷に天文台を設けたことです。彼はこの天文台で太陽の赤緯の正確な表の作成をしました。
二つ目は、その宮殿を航海学、地図学の研究機関としたことでしょう。この研究機関に人種、学派を問わず学者と船員を集め、教皇と国王から特許を受けて、自己の事業として航海と発見の研究を開始しました。
それは、1419年のことでした。

エンリケ王子は、その生涯において、国家プロジェクト的な事業を個人の立場で「発見の航海」を主宰しています。
まさに、大航海の幕を開いたといえるでしょう。
ただ、近年の文献ではちょっと単純ではなさそうです。
エンリケ王子の人物像としては、そのたどった足跡が果たしてどこまで本当か?
もしかしたら、後世の創作によるものであるのか、という謎が指摘されています。さらに、現在エンリケ王子の肖像画でさえ、その真偽を疑われているほどです。

最近読んだ「エンリケ航海王子」(大航海時代の先駆者とその時代 (刀水歴史全書)金七紀男)でも、興味深いものでした。
以前からの王子のイメージは、宮廷での権力争いを避けてただひたすら新しい世界を切り拓くことに専念したというエンリケ像でしたが、そうではなくて、中世末という危機の時代に西アフリカへの進出を企てる一方で、モロッコ侵略を試みて人質の弟を見殺しにし、さらに、兄と国王の対立では兄を見捨てて甥の国王に恭順してしまうという感じです。そのなかで、抜け目無く、国王からさまざまな特権を得るという生身の人間としてエンリケを描いています。真偽は別として。
ですから、彼の探検事業の動機や目的についても、けっこういろいろな説が存在するということです。

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選択肢への助走

2007.10.16

数日前に「高祖劉邦」とその宰相蕭何(しょうか)の話をブログしました。

面白いことに、秦を滅ぼした漢の宰相蕭何が最初に行ったのは秦の始皇帝が作成した膨大な「地図」を接収する事から始まりました。政策を打つ上でも、軍事的にも民事的にも必要だったのでしょう。

ところで、海図は、船が航行するときには無くてはならない物ですが、現代においては海図といえば「海上保安庁刊行」の航海用海図をさします。そして、{Map}も{Chart}も地図のことをいいますが特に海図や航空図の場合にはChartが一般的です。毎年ハワイで長躯のトレッキングをしますが、やはり手に持つのはMapでした。
海と陸では時折面白い違いがありますね。

人間が船を作り出し海に出るようになったのは、はるか紀元前の時代と言われていますが、現代の人から「海図」として認められる内容のものは、羅針盤の出現以降となります。羅針盤が発明された13世紀のころから、ヨーロッパでは、航海者のために港や港から港の航海のためのマニュアルを作成しました。
このマニュアルを「港湾誌(ポルトラノ)」といいます。この説明書の付図として航海用の地図が添付されるようになりました。
この海図を「ポルトラノ型海図」といます。
この海図には現在のような緯度経度も水深もありません。
あるのは、「海岸線」と「沿岸の地名」と「32方位の線」が記入されています。
この「32方位の線」が重要なんです。
ポルトラノの特色は、海図上にいくつかの中心があり、
その中心に方位盤を置き、その中心から放射状に32本の方位線を伸ばします。羅針盤の東西南北を32に分割した結果と同じ方位が得られるわけです。
これによって、
「この方位を基準にしてラダー(舵)の角度を切れば自身の港から目的の港に到達できる」と言う訳です。
が、そんな簡単ではありません。
地上を進むわけでなく、風と海流と夜間という前提が崩れる要素の中を舵角のみでは到底目的地に進む事は至難の業です。
きっと当時の船乗りは、長い間の経験とノウハウでこのポルトラノを活用したのでしょう。

下の海図は現存するポルトラノ型海図の「ピサ図」です。名前の由来は分かりません。


現在のChartの基礎になった「メルカトル図法」による近代的な海図の出現は1600年頃です。
約300年くらいはこのポルトラノで船乗りは荒波を乗り切ったのです。

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選択肢

2007.10.15

子供のころ田舎町で育った私は遊びは海岸と港と山(海と山が隣接しているので)でした。そのころ漁師のオジサンたちは「やま=山」の話をさかんにしていました。
子供心にもそれか生死を分かつテーマだということをなんとなく理解していました。

やまを合わせる」という方法は古代の航海者たちが自然に作り上げた沿岸航法のひとつです。陸上の山やその他の立標(樹木等)や島など、二つの物標で出来る見通し線を二つ以上作って、その交点で自船の位置を決定する方法です。
しかし、この方法は視界のクリアーなときだけです。
そうい言えば田舎に住んでいた子供のころは誰でもそうでしたが、海流の激しい海岸だったので、泳ぐときは常に陸上の「目標」を確認しながら遊びました。今思えばそのように育てられたのでしょう。激しい海流を知らない夏休みだけの海水浴客たちは、数年毎にその犠牲になっていた様です。

海上の天候は気まぐれですし、天気予報は当然時間単位で拾いますが今のように局地化されていません。当時の小型漁船は相当の装備をしていました。当然ですが小型のレーダーも積んでいます。
しかし濃い霧が発生するとリスクは飛躍的に上がります。

孫子の兵法に
「凡そ戦いは、を以て合い、を以て勝つ。故に善く奇を出だす者は、窮まり無きこと天地の如く、竭きざること江河の如し。」
という定石の戦術論があります。

全体の意味は「およそ戦闘というものは、定石どおりの正法で不敗の地に立って敵と会戦し、状況の変化に適応した奇法で打ち勝つのである。したがって、うまく奇法をつかう軍隊では、その変化は天地の動きのように窮まりなく、長江や黄河のように尽きることがない。」とあります。
ビジネスの世界でもその進め方は「奇法と正法の二つ」に過ぎませんが、その都度、、その都度変化する社内外の状況は「混じりあった変化」となり、窮(きわ)め尽くせるものではないということでしょう。
なんと奥深い言葉でしょう。

だからこそ、「早く意思決定」することが勝算の確立を高めるひとつの要因なのでしょう。

言葉としては至極簡単な「スピード経営」も実際のビジネス・シーンでは「度胸」だけでは決められない「迷い」が生じるのです。

前述の戦術論に下記の言葉が続きます。
「終わりて復た始まるは、四時是れこれなり。死して更(こもごも)生ずるは日月これなり。」です。
大意は、
「終わっては繰り返して始まる四季のように、暗くなってまた繰り返して明るくなる日月のようである。」と。
入り混じった変化を窮めることの難しさは、「丸い輪をぐるぐる回って終点のないようなものである。」と投げ捨てるように著しています。

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直感

2007.10.11

直感という感性

当社の主力ソフトウェア製品に「biz-Stream」というミドルウェア製品があります。
当然のことながら、この製品の戦略会議を月に数度は行います。
それは、製品や戦略の賞味期限が非常に短縮化しつつある現在の状況では、特にこのエリアのビジネス・シーンほど「スピードアップ」が製品の可否を有する死活問題になっているからです。
ですが、
経営者の意思決定は、全てといっていいほど単純なものは無く、一般的に複雑で前例の無いことのほうが多いはずです。と、思っています。
その多くの経営判断の要素の中で「直感」という「感性」はとても重要と思っています。

さて、
新世界の発見者であるコロンブスはどの様に「直感」という「感性」を活用して、歴史始まって以来の快挙を成し遂げたのでしょう。
その偉業の価値は地球規模的にも、もっとも遠い地域の発見であったからです。
彼は極めて信仰心が篤く、「直感」を重んじ、科学を尊重し、情熱もひと一倍で且つ、
「美しい」ものを求め、「新しいもの」を求める知識欲も旺盛だったようです。
それにジェノヴァ人です。
この「ジェノヴァ人」というのがキーワードかも知れません。
そういえば、キャップテン・クックも「直感を重んじ、科学を尊重し、情熱もひと一倍で且つ、知識欲も旺盛」といわれています。信仰心はちょっと分かりません。
話を戻して「ジェノヴァ人」についてですが、
ベニスの商人に代表される「ベェネツィア人」でもく、ピサの斜塔で有名な「ピサ人」でもなく、ナポリ湾を有する「アマルフィ人」でもなく、「ジェノヴァ人」というところに意味があるようです。
「ジェノヴァ」「ピサ」「ベェネツィア」に「アマルフィ」を加えた四都市が、「四つの海の共和国」いう名で、歴史上9世紀から15世紀末まで呼ばれていました。
近代にイタリアと言う名で呼ばれる「四つの海の共和国」はその地域的環境や文化の醸成の仕方でまったく気質の異なる民族になってしまいました。結果的には「異能の人種」を作り出したともいえます。

ベェネツィアは「ベェネツィア共和国」でご存知の通り、この中世の時代で国家に対する忠誠心、言ってしまえば「共同体意識」が存在したという点で例外に属すると言われていますが、それに反してコロンブス〔伊では(クリストフォロ・コロンポ)と呼ばれています〕を作り出した「ジェノヴァ人」はまさに個人主義の塊でした。現代のビジネスマンそのものとう感じがします。
彼らは各自その才能を自分勝手に思う存分発揮する文化を持つ人種だったようです。

現代人の評価でも当時の「ジェノヴァ人」はビジネスにしても船乗りにしても、天才的というのが共通概念です。

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シンドラー・エレベータ

2006.06.20

エレベーターやシッャター」に関する事故が相次いでいますね。

港区の高層マンションで高校生がエレベーターに挟まれて死亡した事故が伝えられた数日後に今度は小学校の1階講堂入り口に設置してある防火シャッターが突然降下し、講堂から廊下に出ようとした小学生の男の子が首を挟まれ意識不明の重体との事でした。
記憶に新しい事故として「六本木ヒルズ」の自動回転ドア事故がありましたね。

シンドラー社製エレベーターのみが事故を起こしている訳では無いと思いますが、確かに他の例よりは頻繁に事故が起きているようです。たまたま特集のようにまとめた記事があったので載せてみます。
■6日午前、広島県呉市坪ノ内町の市営アパートで、シンドラー社製のエレベーターに市内の女性が約45分間にわたって閉じこめられた。 呉市住宅課によると、女性が1階で降りようとしたところ、ドアが開かなかったという。非常ボタンの警報音を聞いた市施設の相談員が同社広島支社に連絡。到着した技術者が扉を開けた。同社は「何らかの衝撃でドア駆動用のベルトが外れた」と説明しているという。

■茨城県日立市の4階建ての県営住宅では昨年7月、母親と子ども2人がシンドラー社製エレベーター内に約1時間閉じ込められた。子どもの一人が「エレベーターに乗りたくない」と恐怖心を抱いたため、家族は12月、市内の別の県営住宅に引っ越したという。

■仙台市の宮城県図書館ではシンドラー社製エレベーター5基がシンドラー製。うち4基が過去3年間で、押しボタンが作動しなくなる、フロアより上で停止するなど10件の問題が発生した。いずれも部品交換や調整作業で解消されたという。

■福岡県久留米市の県青少年科学館では03年5月、親子や高校生ら4人が乗ったシンドラー社製エレベーターが、扉が閉まったまま1階から3階の往復を繰り返すトラブルがあった。 20分後駆けつけたメンテナンス業者が、1階でとまったところで扉を非常解除して救助。19歳の女性が気分が悪くなり、病院で治療を受けた。

■兵庫県西宮市住宅保全グループによると、市営団地で98年6月ごろ、小学生の女児が乗ったシンドラー社製エレベーターが、7階付近から3階付近まで急降下したと自治会から市に届け出があった。女児にけがはなかったが、当時、シンドラー社が点検したという。

朝日新聞が調べたところ、シンドラー社製エレベーターでは、都道府県や市などが把握しているだけで、過去3年間に、閉じこめや誤作動など人が乗っている時の「トラブルが100件以上」報告されている。

三年間に100件はシロウトの目にも異常と理解できます・

一般利用者はエレベーター等の機械を自分の思い通りに動くと信じて操作をします。それは長い歴史の中で「無意識」に信じ込んできました。「信じ込ませてきた」と言った方が正解でしょうか?
機械が安全に活動するには「保守点検」が必須です。特に人命に関わる機械に対する保守点検はその「危険度」により保守点検の密度もインターバルもコストも大きく異なります。
例えば飛行機の保守点検等は非常に厳しいであろうと想像できます。
また、
乗客・乗組員合わせて5000人も乗る豪華客船の保守点検も厳しいであろうと思います。

人間と機械の信頼関係を築いてきたのは保守点検によるものです。機械は必ず故障します。
ですから「安全管理」という概念がとても大事になります。

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ポセイドン

2006.06.11

「海の神」ポセイドン


ギリシャ神話の地下の神々や水域の神々を[ウィキペディア(百科事典)]で調べると「オリュンポス十二神」の中に「ポセイドンとハデスとその眷属」として知る事が出来ますが、僕が昔読んだギリシャ神話(著者:呉茂一)では、ポセイドンもハデスもゼウス三兄弟として扱われています。
その方が読み物として楽しかったので良く覚えています。そして古伝ではポセイドンもハデスもゼウスより先に生まれた事になっています。でもゼウスの権威が高まるにつれ、二人ともゼウスの弟分になってしまうところなんか俗っぽくて、それも可笑しくてよく覚えています。ただ、ギリシャ文学の表現ではハデスまたはハーデースと呼ばれることが多い様ですが、本来は「プルートーン」が古伝だそうです。
因みにプルートーンの対応する天体は「冥王星」です。米化学者シーボーグによって発見されたプルトニウム (Plutonium)はプルートーンが原型です。
現代では古伝のプルートーンよりはハデスが常用語なのでしょうか?

そして、
ゼウス三兄弟で彼と世界を三分し、海とあらゆる水域を主宰する「ポセイドン」ですが、こちらは古典ギリシャ語が既に一般的になっています。
しかし今でも古典的な豪華外洋客船では「赤道祭」を行うようですが、船長扮する海の神は「ネプチューン」が一般的です。ポセンドンとネプチューン。ギリシャ古典と英語での定着やギリシャ神話とローマ神話の組み合わせもややこしいです。「ネプチューン」という呼び名はローマ神話で使われているそうで、勿論ギリシャ神話からの転用です。でもローマ神話での権威はそれほど高くないようです。

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熱帯魚と地球環境

2006.01.08

熱帯魚を家の中で飼育してみたい。
海鮮レストランでは泳いでいるあの魚を食べたい。

子供の頃田舎の海は綺麗で神秘的でした。水中メガネと足ヒレと手製のモリで泳いでいる「魚」や「伊勢海老」や「ワタリガニ」を捕ったものです。その日初めて海の中にもぐると体力と肺は最大限に発揮できるので2分程度水中で活動できます。そして、二回目、三回目と回数を追う毎に潜水時間は短くなります。
そして、捕まえた海老やカニはその場で焼いて食べてしまうほど野性的(野蛮的!?)でした。でも子供ながら危険を予知するのでしょうか、10回程度水中に潜ると負担が大きく本能的に岸に引き返したものでした。
僕の知人に水族館や熱帯魚店は苦手という人がいます。いずれもガラスを通して巨大な水に囲まれている事が恐怖になり、その後きまって気分が悪くなるそうです。分かるような分からないような。

僕の週末の散歩の途中にいわゆる「熱帯魚店」があります。
色とりどりの熱帯魚は見ていて飽きもせず、お店に立ち寄ると20-30分はすぐに過ごしてしまいます。時折、指差しながら熱帯魚を店員に言いつけてタマで掬ってもらい、ビニール袋に入れて持ち帰るお客に出くわします。あんなに買っても十分に入る水槽がなるんだなぁとちょぴり羨ましくもあります。そういえば以前弊社のメンバーに自分の机の上に熱帯魚を飼っていた人もいました。よく面倒を見ていましたが1-2ヶ月で死んで、また新しい魚を買ってきているようでした。
一つのお店で泳いでいる「熱帯魚」は相当な数で、それが日本全国、世界規模と考えるとトテツモナイその数に「震え」がきそうです。
一体どこから「熱帯魚」はやってくるのか?

熱帯魚は日本の近海では限定された魚以外は生息しません。殆どが南海の海に生息しています。
熱帯魚は巨大ビジネスでもあり、この人間の嗜好による「観賞魚の捕獲は地球環境破壊」を前提としています。

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うんこは黄金を生む !?

2005.11.22

人間様のウンコは高額取引される。

し尿1万トンを室戸沖に不法投棄(2005年11月11日)

大量のし尿を適正な処理をしないで室戸岬沖に不法投棄した企業が検挙されました。これは勿論「海洋汚染防止法」違反です。ニュースによると平成16年6月末から17年5月末にかけ14回にわたり、大阪、滋賀、奈良3府県の自治体や広域行政組合から集めた「し尿約1万1000トン」を化学処理も粉砕処理もしないで室戸岬100キロ―200キロ沖の海上に捨てていたそうです。原因は「処理をする社員が減らされ、手が足らずに仕方なくそのまま捨てた」そうです。なんたることでしょう。
海洋へのし尿投棄は、14年に「廃棄物処理法施行令」が改正され禁止です。但し、「海洋汚染防止法」は経過措置を設けて19年1月末までは「一定の基準で処理したし尿」を、定められた海域に投棄することを認めています。それが、「化学処理または粉砕処理」です。これって法律違反ですから実名でニュースに出ます。

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三木谷さんは蜃気楼を見せられるか!?

2005.11.05

「蜃気楼」で巨大権力者に賭けに出た男がいました。名前は「徐福」といい紀元前200年以前の大博打の立案者です。巨大権力者とは「秦の始皇帝」です。

ヤフー井上社長が楽天とTBSの問題について発言している!
「特定放送局しか見られないのは利用者にとって不便だと思う」
インターネット検索大手ヤフーの井上社長は民間放送全国大会のシンポジウムで、楽天がTBSに経営統合を申し入れている問題に関連し、「利用者の立場からは、特定の(放送局の)もの(コンテンツ=情報内容)しか見られないのは不便だと思う」と述べたという。(4日読売新聞から)

蜃気楼は、海水の表面温度が低くなると接している空気は密度の濃い冷えた空気の層ができます。その層と暖かな密度の低い層との間に「密度の違い」による光の屈折率の違いが生じます。ひの現象により「地上の物体が空中に見えたりする」のです。同じような現象は10年近くも海上生活をすれば数回は経験できます。特にイタリアの靴の先っぽとシチリア島の間のメッシーナ海峡が有名です。また日本海沿海では富山湾も昔から有名です。しかし経験上この二つ以外でも確認されています。古代中国では海上に浮かび上がる幻の街を「海市(かいし)」または「海市蜃楼(かいししんろう)」と呼んだそうです。そしてこの蜃気楼は不老不死の霊山「蓬莱山(ほうらいさん)」の伝説へと生まれ変わります。そこにビジネスを持ち込んだ男が「徐福」なのです。

古代中国において始皇帝は39歳で初めて中華統一を成し遂げました。皇(おお)いなる帝(最高神の天帝)と称することを自ら決定し、「」となり、それにふさわしい不老不死を望みました。そして権力の誇示のために各地を巡幸しましたが、不老不死の霊山「蓬莱山(ほうらいさん)」の伝説に引かれ、その発祥の地の「琅耶(ろうや)」に台を築かせ数年間滞在します。そこにあの「徐福(じょふく)」が現れます。もともと蓬莱というのは、中国の神仙思想で説かれる想像上の仙境です。蜃気楼の生じる東方海上にあって、仙人が住み、不老不死の地と信じられていました。この地がその後蓬莱と呼ばれるのは、古来、この地がその「蓬莱」であると信じられていたからです。

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楽天の提案に斬新なアイデアない!?

2005.11.04

漂流

(1)船などが海上をただよい流されること。「嵐の海を漂流する」「漂流物」
(2)あてもなくさすらうこと。「余の考えがここ迄漂流して来た時に/草枕(漱石)」

■楽天の提案「斬新なアイデアない」…TBS社長
『TBSの井上弘社長は2日、大阪市内で記者団に対し、楽天が経営統合の提案書で示した「放送と通信の融合」事業について、「我々が今までやってきたことに近いというイメージだ。斬新なアイデアは残念ながらあまりない」と述べ、統合効果はあまり上がらないとの認識を示した。』

うぅぅぅぅぅん。なかなか状況打開の糸口は見つけにくくなりつつありますね。
漂流」しつつあるような。。

東京都内を中心に活動している「ニライカナイ」と一風変ったアマチュア考古学研究グループがあります。彼らが「黒潮の流れ」を解明しようと「与那国島」で実施しているコマ投流実験で、8月1日に投流したブイがこのほど、与那国島から東京都の新島に漂着していることが分かったそうです。その距離ざっくり2000キロの旅 !!

彼らの実験の目的は、
黒潮の海流調査を行うことで、近年増加している漂着ごみなど海洋汚染の実態を解明することらしい。なんと崇高な調査チームでしょう。
投流は隔月ごとに実施して、今年6月にも与那国からコマ1000個とブイを流し、慶良間島や久米島などで18個の漂着が確認されたそうです。
但し、海流は大枠では今までの長い歴史の中で予想が出来ますが、要因がたくさんありすぎで決め手にかけます。なので何度実験をやってもいつも同じ結果を得られないもどかしさが海流漂着実験にはあります。

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方位と位置

2005.07.15

大企業であれベンチャー企業であれ、羅針盤と六分儀は必要だ。
特にベンチャー企業は貧弱な羅針盤で大海原に船出しているようなものだ。ちっょとの要素で「軸」が狂いだす。暫く走って現在地を確認しようとするが、持っている六分儀もおもちゃの様に不正確である。でも取りあえずこっちの方角だろうと走り出す。心もとない方式だが、いいジャイロやGPSを買えるまでの辛抱だ。ベンチャー企業の経営もコロンブスやヴァスコ・ダ・ガマやマゼランやクックと同じようなものだ。全て手探りだ。

羅針盤と六分儀によって、自船の「方位」と「位置」が確認できます。
羅針盤は「方位」を指します。六分儀は「位置」を掴む事が出来ます。これは経営にとっても船にとっても必須条件となります。勿論その精度と熟練度は別にして。羅針盤と六分儀によって船は全く陸地が見えなくとも進む方向と位置を知る事により、大海の真っ只中にあっても安心して眠ることができ、無事に目的地に着けます。

羅針盤は「磁石の針が南北を指す」という原理を古代の人が経験で知っていたようです。
六分儀はすこし難しいです。
太陽も含めてすべての星たちは、見かけ上では北極星を中心にした回転運動をしています。夜、カメラのシャッター・スピードを開放にして、「北極星を中心にした夜空の写真」を見た事ありませんか。北極星を中心に星たちが軌道線を描いて波状の円を描きます。これは北極星が「地軸の北の延長線上」にあるためにそのように見えちゃうのです。北極星の高さは実際には高い位置にありますが、(言いかえると地平線からの高さ(角度)は)現在見ている位置(場所)の緯度とおんなじになるのです。 星空の中で、北極星さえ捜しだせれば正確な方位(東西南北)と自分のいる場所の緯度がわかるということになります。これが簡単に言うと「六分儀」という計測器の原理です。船乗りたちにとってはとてもありがたい事でした。大海原のまん中にいて自分の位置がわかるのですからね。六分儀が登場するまでは、船乗りには非効率な航海と遭難が当たり前でした。ですから常に陸地を見ながら沿岸航法をしていた当時の人には画期的な機械でした。当時の船乗りは北極星を航海の目印にします。この技術は古くはフェネキア人が利用していたといいます。「大航海時代」のオランダ、スペイン、イギリスの帆船も同じです。

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Joiの先見の明はすごい!!

2005.07.11

今日公式ブログを船出しましまた。「ボン・ボヤージュ!」

自分のブログのトップ・ページを見て、「なかなかいい。」と感じる。
もちろん自分で作ったわけでなく、ミツエーリンクスのプロにお任せした。
最初のイメージ図はブログ、ブログしていて、ボツ!
仕方ないので、制作担当者に無理やり時間を頂き、方針を説明し、
今のトップ・ページに数回のリ・デザインで決定した。気に入っています。
大変お世話かけました。

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コア・メンバー

2005.07.10

コア・メンバー構築はとっても重要だ!!


家督を継いだ十九歳の時より本能寺の変で没するまで織田信長は四方の敵と戦い続けました。
相続時から尾張半国程度の支配者になるまでが大きな試練でも有りましたが、それから三十年後には
日本の約半分の地域の統一を成し遂げます。
誰でも思うことは一緒ですが、彼が後4-5年活動していたら、戦国時代の終焉を迎え全国統一の偉業は達成されことでしょう。
いや、もっと怖いことに成っていたかも知れませんねぇ。
ところが世の中、予定通りに行かないことは古今東西誰でも事実として知っていること。

今日のテーマは信長のコア・メンバーとは、どの様に選ばれ、どの様に構成されたかを知りたいと思います。紀元前に活躍したユリウス・カエサルも、第九軍団というガリア戦役の初年度から、戦い続けた親衛隊とも言うべきコア・グループ(五千から一万)を持っていました。
特に信長の場合は、ご存知の通り「桶狭間の戦い」に少数精鋭部隊を自ら率いて指揮を執っています。
現代でもコア・メンバーの存在は同様に非常に重要なテーマです。
信長のコア・メンバーの選定の仕方、育成方法、日々のOperationは?
天才のコア・メンバーの考え方をいろいろ知りたいと思っています。

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