BrainSellers.com

Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

最後の手紙 The Last Message

2011.01.28

戦争はなに色?
戦争のにおいは?
あなたは国家のために死ねますか?

この質問は今NHKが取り組んでいる「あなたの戦争を教えてください。」というテーマで、盛んに街角でインタビューをしている設問例です。この映像は多く人が記憶に留めていると思います。
成人男女、ご老人、女子学生、小学生の男の子等々まちまちで、街ち行く人にマイクを向けます。
大人は戸惑いつつも真摯に、小学生は設問自体が意味不明と云う感じに、女学生は若さゆえきっぱりと、それぞれの思いを一言で表現しています。

ここに一編の哀愁を帯びた詩があります。
「空と風と詩」という題名の詩集からの抜粋です。

  『戦争中に
   四季が私の上を過ぎ、空の入り江を秋が溢れる。
   私は、秋空の星を何の苦労もなく数えられる気がする。
   それなのに、なぜ私は私の心に輝いているはずの
     一つか二つの星を数えることが出来ないだろう。
   もしかすると、夜明けが近いから?
   もしかすると、明日になっても、私にはまだ一夜がのこされているから?
   もしかすると、私の青春の日々がまだ数えつくされていないから?

   私は、一つめの星を「記憶」と名づけた。
       二つめの星は「愛情」。
       三つめの星は「孤独」。
       四つ目の星は「憧憬」。
       五つめは「詩」、そして六つめの星は「母」。
   そして私は、星を数えながら美しい名前を付けてゆく。
   席を並べた学友の名前。
   知らない少女 ぺ・キョン=オ。
   貧しい隣人の名前。
   Francis Jammes や Rainer Maria Rilkeのような詩人の名前。
   みんな星のようにあまりに遠い。
   そしてお母さん、あなたも遠い北のカンドにいる。

   言葉に出来ないものに私は憧れ、
   私の名前を星に照らされて丘に書いて、砂で覆い隠す。
   なぜなら、
   夜の番人の蜩(ひぐらし)が私のお墓を見て悲しげに鳴くから・・・』


私の母は86才で健在です。彼女の二十代の前半は太平洋戦争下の期間で、後半は終戦、占領の時代です。太平洋戦争が終結してすでに65年が経過しています。私の母のように無事に終戦を迎えられた人は幸福と言えます。そして当然ながら戦争体験者は高齢化が進み、徐々に生存者が減少しつつあります。今では鬼籍となった父も二十代に志願し南方への従軍を経験しています。が、私は父から戦争の話は一度も聞いた記憶がありません。母も同様です。今では意識的に避けていたと想像しています。それは、きっと奈落の底をのぞき見るような、云われもしない恐怖感がつきまとうからでしょう。
仮に両親に、
  戦争は何色?
  戦争のにおいは?
  あなたは国家のために死ねますか?
の質問はあまりにも空虚さがともない、喉の奥で絡みついて声を発することが出来ないでしょう。
いま、NHKが国営TVという立場から「証言記録 兵士たちの戦争」に加え、去年夏から銃後の体験を「証言記録市民たちの戦争」として放送しています。さらに取材で得られた数々の証言を放映し「NHK戦争証言アーカイブス」として記録しています。取材の根底には、あの時代、戦場で、或いは日々の生活の中で、人々は何を思い、どう行動したのかという人間の云わば尊厳に通じるテーマを追っています。それは戦争を知らない子供たちやこれから来る未来へメッセージとして伝えるための活動ともいえます。

さて、哀愁を帯びた冒頭の詩に戻ります。
この詩の作者は韓国で著名な詩人「尹 東柱(ユン・トン=ジュ)」のものです。
彼は1917年12月30日に中国吉林省の朝鮮族の両親の元に生まれました。一家はキリスト教信者で、彼はソウルの延世大学(当時は延禧専門学校)を卒業し、1942年に立教大学に留学しています。その後すぐに同志社大学に転校したようです。当時は第二次世界大戦下でした。彼は朝鮮人徴兵制度や民族文化の迫害などの抵抗運動に関与しているとの「治安維持法」に触れ、京都で逮捕され、懲役二年の判決を受けています。その後、福岡刑務所に服役中の1945年2月16日に獄死しています。来月16日は彼の命日と云うことになりますね。

享年27歳でした。

彼は学生時代より当時は禁止とされていた"朝鮮語"で詩作を続け、1941年12月に「空と風と詩」という自薦詩集を極秘裏に出版しています。冒頭の詩はその中の一編ということになります。
ユン・トン=ジュは現在の大韓民国においては「国民的な詩人」して著名であり、国外でもその素朴な作風は高く評価されているといわれています。
彼が在学した立教大学では"記念奨学金制度"が発足し、また同志社大学および京都造形芸術大学内に彼を讃える"石碑"があるといいます。

なお、彼の獄死の原因は人類史上、最も残酷な"人体実験"の疑いがあるとされています。

>>続きを読む

積み重ね

2011.01.08

突然野球の話で大変恐縮ですが、
30年ほど前のメジャーリーグの1983年のワールドシリーズで、MVPを取得した捕手がいます。
彼の名前は「リック・デンプシー」という聞き慣れない野球選手で、当時から特に才能があったという評価を得ていませんでしたが、選手生活は25年を超えています。メジャーリーグでの四半世紀の在籍は、ボクの様な野球に詳しくなくても、それが並大抵で無いことは想像できます。

彼は、当時アメリカンリーグの西地区の覇者「シカゴ・ホワイトソックス」を破り4年ぶりに出場した「ボルチモア・オリオールズ」に属していました。また、このシリーズの対戦相手は「フィラデルフィア・フィリーズ」で、ナショナルリーグの西地区の覇者「ロサンゼルス・ドジャース」を破り、3年ぶりの出場でした。
この対戦での結果は、五戦のうち4勝1敗でボルチモア・オリオールズが、13年ぶり3回目の優勝しており、捕手リック・デンプシーは、MVPとして打率.385、4二塁打、1本塁打、2打点の好成績を残しました。しかも、リック・デンプシーはワールドシリーズ初選出でした。
彼のシリーズ出場はこの年だけでなく、1979年と1989年に計三回の機会を得ています。これは中々出来ないことして特記すべき成績と云えるでしょう。

彼のメジャーリーグの業績を、滔々と述べてきましたが、興味があるのはその成績を積み上げた「リック・デンプシーの野球哲学」です。彼の哲学がとても魅力的で、これを紹介したくて長々と説明しました。内容は彼が1988年に雑誌ニューヨーカーの誌上で明かしたインタビューの抜粋です。
全文を紹介出来ませんが、心に残るインタビュー内容を書き出してみたいと思います。

  『必要なのは、正しくプレーすることだ。
   必要なのは、正しく考えることだ。
   来る球、来る球すべてをひっぱろうなどと考えてはいけない。
   明日は相手をこてんぱんにやっつけてやろう、などと考えてもいけない。
   結果がどうなるか誰にもわからないからだ。
   何もかも自分ひとりでやろうとしてはいけない。
   一試合、一試合が大事だ。
   バッターは、一打席、一打席討ち取るしかない。
   試合前に話し合ったことや打ち合わせたことは、きちんと実行しなければならない。
   一度にスリーアウトをとることは出来ないし、
   一度に五点を挙げることも出来ない。
   ひとつひとつのプレー、ひとりひとりの打者、ひとつひとつの投球に集中することが必要だ。
   すると、スローモーションの映像のように、ゲームがはっきり見えてくる。
   うんとこまかいところまでが、分解写真のように見えてくるんだ。
      こういうふうにゲームに向き合うと、
        -----つまり、ひとつの投球、ひとりの打者、ひとつのイニング、
           ひとつのゲームに神経を集中させること------
   ふと気がついたときには、試合に勝っているんだ。』

なんとリアルで分かりやすい「野球哲学」でしょう。
野球に限らずスポーツの世界では、小さな出来事の「塵も積もれば山となる」の単純明快な法則が成り立っています。この心構えは、当然ビジネス・シーンでも人生でも、同様な実践哲学といえるでしょう。
マリナーズのイチローの2004年のメジャー新記録262安打も、彼の10年連続200安打の達成も、人生と同様に小さな積み重ねの連続だからです。150を超える試合数とその9倍のイニングスの間に積み上げられた数値は、試合数が嵩むごとに大きな差として圧し掛かります。

>>続きを読む

肥満とエネルギー

2010.11.20

何時だっか失念してしまいましたが新聞記事のコラムに「睡眠不足は万病のもと」という納得いく記事が紹介されていました。
気になる事があるとメモをとるようにしているので、細かくは書き込んでいませんが、大意はこうです。
健康的なひとが一日で取る睡眠時間は7-8時間で、これは世界的に認められ、且つ一致した見解だそうです。睡眠時間が短いと、"心筋梗塞"などの危険性を高めるそうです。また、同時に肥満、糖尿病などの発生のリスクを高め、恐ろしいことに"老化"や"生活習慣病"を引き寄せるらしい。
その理由は、交感神経を活発化、血圧の上昇を招いたり、代謝異常や動脈硬化の促進などによると言うことです。
よって、睡眠不足は現代でもっとも注意喚起されている「メタボリック症候群」等の病気を引き起こす重要な要因にあげられるとコラムニストの大学教授は云っています。

私は数年前まで深夜二時に寝て、早朝六時に起きるという睡眠時間4時間のパターンを続けていました。
しかし、ここ五年ほど前から徐々に20年続けてきた睡眠時間4時間と云うパターンを5時間から6時間程度に延ばしています。
理由は簡単です。単に加齢によって体力と睡眠時間のバランスが取れなくなったからです。
加齢による体力低下は当たり前のことですが、少々悲しいというか、自分に不甲斐なさを感じます。
このコラムによると、特に女性で、4時間以下の短い睡眠では、心筋梗塞などの疾患による死亡が約2倍と説明されていました。
肥満の場合は男女問わず短時間の睡眠を続けていると"効果的"に太ると言うことでしょうか。心筋梗塞は怖いですが、じっくりと効いてくる肥満は万病の元になるわけで、もっと始末に悪いということになりますね。

しかし、私たちにとって「食べる」と云うことは基本的な関心事です。
私たちは食べなければ生きていけません。
その理由は、この複雑なメカニズムを有する私たちの「体」は、それを維持するために恒久的に多くのエネルギーが必要であり、それは食べることの行為に他ならないからです。

>>続きを読む

使命と時間

2010.06.19

NHK大河ドラマ「龍馬伝」の人気にはすごいものがあります。
その人気の秘密の一端は福山雅治かもしれません。
NHKの中でも、予算を潤沢に使えるこの大河ドラマは、日曜日のゴールデンタイムに流されることもあり、相当意気込んだ番組にならざるえません。その意味では、女性に人気絶大の福山雅治の起用は的を得た配役という事でしょうか?

勿論、時代劇ドラマには、必ず売れると言う歴史上の人物がいます。
織田信長や坂本竜馬はそのもっとも売れる部類の魅力的な人物ということになります。
ボクがその魅力的な竜馬に出会ったのは十代の頃でした。もちろん司馬遼太郎の「竜馬が行く」によってです。司馬遼太郎のこの本はベストセラーになりました。誰にも歴史上で魅力的と感じる人物がいると思いますが、ボクの中では彼もそのうちの一人になりました。

そして先週、ドラマの中の龍馬は大きな出来ごとに遭遇します。
それは、同じ郷士の幼友達の望月亀弥太を池田屋で失うという悲劇です。この時代、太平の世と云いながら激動の時代を迎えています。その前には平井収二郎の切腹の知らせを受けます。また、岡田以蔵も捉えられ後に処刑されます。その前には先輩で遠縁の武市半平太(瑞山)が縛に付きます。
特に半平太は数ヶ月間投獄され、この後切腹させられてしまいます。外国の重圧もさることながら竜馬の近辺ではシッョキングなことが数多く起こります。

龍馬の青年期は模索の連続でしたが、このころから彼はゆっくりとですが、自分は何をすべきかを探し当てます。そして、その使命を果たそうとします。
しかし、彼の目的は半ば達成したかに見えましたが、突然不慮の死を遂げます。
時は、1867年12月10日、彼は未だ31歳でした。
竜馬は志を持ち、天から与えられた使命を全うしようと生き抜き、半ばでその生命を閉じました。
まだまだ青年という31歳という若さで。
はたして、竜馬の一生は早すぎた人生だったのでしょうか?
それとも龍馬にはまだまだ使命があり、なすべきことが沢山残っていて、もっと生きてやり遂げなければならなかったのでしょうか?
かれの使命と天命を思うとき、ひとの一生とは、どのように繋がっているのでしょう。

私たちの生活の基本は流れいく時間です。人生は「時間」であるという基本的な概念から逃れることはできません。竜馬のように31歳の若さで世の人に惜しまれて逝っても、またボクが長生きをして100歳で天寿を全うしても、そこには時間と云う概念が流れています。
私たちは、それを「なにげなく」ですが、この時間と云う概念を信じ込んで暮らしています。
しかし、ふと気がつくと、今私たちが何気なく信じ込んでいるこの常識をなんら疑うこともなく、
そして、これをずっとそのまま信じ込んでいいものなのかと思ったりもします。

それは、私たちの身近に存在する動物の時間と云うのを知ったからです。
時間の概念は森羅万象、この世に生を受けたすべてのもが受ける前提でもあり、概念でもあります。
ここで、話しを人を含めた哺乳類の「体の大きさと時間との関係について」を考えみたいと思います。私たちは、一般的に体の大きな動物はゆったりと動き、それを安定感があるとを感じ、それに反して小さな動物はキビキビと活動し、小気味良いと感じます。人も大きな人や小柄な人について同様な感覚を持つことができると思います。

人も含めた哺乳類のこれら動物たちの「体重とその時間の関係」を調べた学者がいます。
哺乳類のそれぞれを体重とある時間のを割ってみると、
    「時間は体重の1/4乗に比例する」になるそうです。
簡単にいえば、体重が増えると時間は長くなるです。ただし、1/4乗という平方根の比例(さらに平方根)なので、方式は単純ではありません。
例えば、こうです。体重が16倍になると、時間は二倍になるという計算式は成り立ちますが、体重が16倍ならば、時間も16倍という比例数ではありません。

この時間ですが、ほぼなんでも当てはまるそうです。
例えば、寿命成体になるまでの時間性的に成熟すまでの時間赤ん坊の胎内期間息をする時間間隔心臓が打つ間隔腸が一回活動する時間血が体内を一巡する時間などです。
体重が大きければこの一回が長く、体重が小さければその回転は素早い。という訳です。

さぁ、問題は、ここです。話す前に先に答えを知りたいと思います。
動物の大きさが異なると機敏さや寿命が違ってきます。
行動範囲や生息密度も実は動物の大きさ関係が深いといいます。
でも、一生に打つ心臓の総数や体重当たりの総エネルギー使用量は、大きさによらず同じなのです。
これを言い換えると、
それぞれの生き物は、一生と云う時間のなかで夫々「時間の流れる速さが異なる」と云うことになります。
回答までの導きを聞くと自然に納得できますが、各々の事象は驚くことばかりです。

>>続きを読む

風を読む

2010.06.13

鳩山さんから管さんに首相交代のリレーがされたのはつい先週のことです。
首相が変わることで政治や組織や行政も大きく変化するのは当然のことですが、メディアには「風が変わる」や「風向きが変わった」のキャッチコピーが騒がしい今日この頃です。

あるブログに『メディア「首相交代効果」考』という興味深いテーマがあります。メディアに対して手厳しい論客といえます。掲載内容は、"メディアが取り扱う世論調査は「メディアとしての使命の放棄」と伺える調査時期の不自然さや一部の政党への偏頗がある"と指摘しています。かなり手厳しいですが、読むとなるほどと納得のいく理論展開でもあります。

風を読む」は示唆にとんだ言葉として広く認識されていますが、他に「船出」や進路を読み取る「コンパス」も政治や経済だけでなく、企業経営者が自社の進路や経営の視点を例える時によく使われます。

帆船が最も輝いた時代を「大航海時代」と歴史を感じさせる表現を使いますが、この時代の生い立ちを表す三つのキーワードがあります。

最初のキーワードは、「黄金と胡椒」です。とても魅力的な言葉として記憶に鮮明です。黄金=マルコ・ポーロ=フビライを連想し、胡椒はオランダ東インド会社=ヨーロッパ人の食生活です。大航海時代は一般に十五世紀から十七世紀を指しますが、実はその胎動は十三世紀ごろから始まったとされています。ご存知のマルコ・ポーロの「東方見聞録」の一説にこんな表現の口語体があります。
ジパングは東海の島で、大陸から千五百海里にある。」といい、
「黄金が非常に多く無尽蔵であるが、王がその輸出を許さないため訪れる商人はわずかしかいない。」そして、わが王であるフビライの日ごろの言動は、
「この島はわが国に風聞するほど富が大きく、この島を征服し領土としたい。」と記しています。
当時、この見聞録を読めば、フビライでなくても誰もが東方への関心が高まったであろうことは、容易に想像できます。
また、フビライの関心事は黄金でしたが、西ヨーロッパ人においては、彼らの食生活に必須の胡椒や肉桂(生薬、ニッキ)を大量に安価に手に入れることを望んでいました。香辛料によってヨーロッパ人の食生活は一変します。それもアラビアの仲介商人を通さず原産地の東インドから直接手に入れるルートを長く切望し、実際に模索もしていました。

歴史上、最も大胆な条約として知られてるトルデシリャス条約を締結したジョアン二世は締結後まもなく壮大な計画の前に死去しますが、彼の甥のマヌエル王が即位すると、第一次インド遠征を実施します。
この司令官がかの有名な「ヴァスコダ・ダ・ガマ」です。1498年7月8日のことでした。リスボアを出港して翌年の5月22日にキャラコの語源になったカリカットに到着しています。ガマは当時のカリカット王国と直接の通商条約を提案しますが、理由は不明ですが決裂します。そして、1499年9月に帰国を果たしますが、彼はきっちりと貿易現状調査報告書と一緒に香料等の価格表を綿密に調べ上げ、これを王に提出しています。その結果、丁字(グローブ)等の西欧価格は現地輸出価格の約9倍程度あることが分かりました。
残念なことに、その後最も重要なキーワードとなる「マルク諸島またはモロッカ諸島(別名香料諸島)」は入っていませんでした。そこまで調査の期間や実行力(資金、情報網など)がなかったかも知れません。
輸入価格が現地価格の9倍の手数料が掛かる「胡椒の直接購入」はヨーロッパの商人の間では、羨望の的であったろうと想像できます。ここに西欧からインドへの「東方航路」が確立しました。
故に「黄金と胡椒」はその必要性から人の目を東に東に向けたことになります。

話を少し寄り道すると、
ジョアン二世の壮大な計画は「コロンブス・シッョク」が作用していると云われています。クリストファー・コロンブスは西回りで「ジパングかカタイの近く」に到達したことを帰航の途中でリスボアへ寄港したことで知ります。王のシッョクは相当なものでしょう。また、1488年にはエンリケ航海王子の意思を継いだバルトロメオ・ディアスが喜望峰を廻り、インド洋を目の前にして引き返した(実は船員の暴動によって)ばかりのときでもありました。ジョアン二世の焦りはよく理解できます。

さらにもうひとつ蛇足を。
ガマによって確立した東方航路により小国ポルトガルは香料、金、象牙などの貿易を独占し、首都リスボアの繁栄を作り出します。それまで繁栄していたジェノバやヴェネチアの衰退と対照的になります。

>>続きを読む

しのふ

2009.10.18

私のとても若い知人の女性から、ある問いかけをされて戸惑ったことがあります。
その問いかけとは、
「私は、彼からのプロポーズを望んでいますが、どうしたら彼は私にプロポーズを言ってくれるのでしょうか? 教えてください。」
「う~ん」と、しばし絶句。誰でもこの難問に答えるすべはありません。

そういえば、
NHKの大河ドラマで直江兼続の波乱万丈の生涯をドラマ化して放送していますが、少し前の放送で、兼継と千利休の茶室での問答がありましたね。利休の時代では、特別な場合を除き「茶の湯」はまず男のものでした。
戦国時代は数十年戦(いくさ)に明け暮れていたせいで、平均寿命は18歳と言われています。ですから、戦で命を落とすことは日常茶飯事ということになりますね。なので、あの時代に、「人生50年」は、命を全うした寿命と言う訳です。
だからこそ、その覚悟を「日常とする生活」の中での"茶の湯"というひとつの儀式の中で「一期一会」という感覚が自然と身についたのではと思います。多くの武士(もののふ)が命を落とすことが日常的な中で、過酷な戦国の世を生き抜いてきた武士のみが茶会での一期一会の重さを知っていたともいえます。
現代の私たちはどうでしょう。
私たちは一期一会の意味や理由をよく理解していますが、その実感はありません。いまの世の中で、日常的に命を落とすことが稀だからです。もちろん不治の病気や交通事故や偶然の犯罪事件に遭遇する不慮の事故も無くはありませんが、それとて稀といわざる得ません。

兼継は兜に「愛」をという文字を象った敬愛の精神をシンボルマークにしていますね。この時代には稀有な概念というべきかもしれません。茶室で問答した「利休」も同様に無言の表現を行ずる稀有な存在といえます。
この二人が同時代に生きたこと自体が稀有な事かも知れません。

さて、冒頭の若い女性の「恋愛」の悩みに戻りますが、
私たちの先祖が「愛」を表現するのは、ずっと後年の事と言われています。
万葉の時代を生きた私たちの先祖は、思慕することを「し・の・ふ」という言葉で表現しています。「愛」とはまだまだ距離がある表現だと感じませんか?
この「しのふ」はどうも故郷を思慕または賛美するときに使われていたようです。後年の私たちが使う「愛」の原型であろうという見方が強いですが、まだしっくりこないです。
また、面白いことに「し・の・ぶ」という言葉を耐える事の意として使われています。「しのふ」と「しのぶ」は清濁の違いで意味も異なりますが、しかし同類の言葉として存在しています。日本語の語彙の情緒さと、外国人が戸惑う表現の複雑さです。
古代の人は、思慕することと、忍耐することを同類でありながら区別する感性を持ち合わせていたことに驚きを感じます。
そして、その語彙を深く読んでいくと、
「思慕」とは、じっと思慕することと、もうひとつ、思慕の重みに堪えることと表裏一体の関係であることを想像できます。そして、もう一歩深く突っ込んで「重い抑圧のない思慕」などは、所詮は存在しない思慕というこになります。
この思慕ですが、その重みの中からな自身の心の内を相手に放ってゆける思慕と、重みの中に打ちしがれて沈み行く思慕の二つの展開になると思います。
なので、思慕を寄せる事は、賛美することと言い換えても良いのかも知れません。その方が自然ですね。
「賛美する行為」とは、いかに抑制された「思慕が存在する」ものであるかを一層明確に示しているというわけです。
そこで、兼継の「愛」の兜ですが、ご存知のように「愛」は、漢字として中国から輸入され言葉ですから、元来私たちの先祖である古代人たちが、本来持っていたものでないことは想像できます。
ですから、現代の愛のルーツを探すとしたらやはり私たちの本来の言葉である"やまとことば"からということになるのでしょうか。

>>続きを読む

秋の星たちとオバマ大統領

2009.10.11

毎週散策に出かける自由が丘で三十年以上続いている"女神まつり"がこの三連休に開催されます。
10月は"秋祭(あきまつり)"のシーズンです。
ちなみに近所の三軒茶屋の"三茶de大道芸"は来週の週末です。
そういえば、親しい知人が今週末"横浜ジャズ・フェステバル"も開催していると教えてくれました。
"秋祭"は収穫を神様に感謝することと五穀豊穣の祈願から古来より行われているものですが、「能」の起源もここにあるといわれています。稲作を守護する神様は、春に田に迎えいれて、収穫が終わった秋に再び山へ送りるという意味合いがあるそうです。そして、能はその発祥のころ「猿楽(さるがく)」あるいは「猿楽の能」と呼ばれていました。
日本語には美しい季節を表現する言葉が多いですが、"秋祭"の他によく使われる「秋」に因んだ言葉として"秋晴れ"、"寒露(かんろ)"、"秋渇き"や"霜降(そうこう)"などがありますね。
古来、日本人の情緒には洗練された感性を感じますが、特に"行く秋"や"紅葉"は語彙の品格もさることながら、その情景を実感として感じるほど言葉に力があると思います。
とは言え、秋は気候的には過ごし易い季節にも関わらず人恋しくなるのはなぜでしょうか?

"人恋しさ"は、秋の星座をみても同じように感じます。
とてもにぎやかな夏の星座や豪華な冬の星座に比べ秋の星座はスター的存在の星も少なく、数ヶ月間はとても寂しい夜空が続き人恋しさを促進させるようです。

昔々、
ペルシャ湾にそそぐチグリス川とユーフラテス川の狭隘部にあったバビロニアに住む"カルデア人"たちは、世界観や人生観の方針を決めるために星の動きで運命を占うことができると信じていました。五千年前の出来事です。
彼らは現代のように光の技術を持っていませんでしたから、晴れた日の夜は漆黒の夜空に満天の星を仰ぎ見ることができました。
彼らは夜空を仰いで何を感じたのでしょうか?

「夜空を見上げるとそこには美しく輝く星たちが存在し、心をひかれ、想像は果てしなく続き、そして物語りや星たちを称える歌を作る。」
そして、
「神々はきっとひとつひとつの星に存在し、それぞれの役割を持ち、この世界を作り上げた。」
などと想像してしまいます。
五千年前のカルデア人の人生観や世界観はあまりに遠くて想像の域を超えていますが、彼らが名づけた星の名前から彼らの"想い"や"願い"を感ずることができそうです。
その想いとは、
特に明るく星たちや印象的な星たちを繋いで、"羊や牛や蟹やサソリ"など自分たちの身近な動物や生活用品のシルエットを夜空に描きました。彼らのその行為は生活や人生そのものであったかも知れませんが、現代のぼくらは、その事自体がとても新鮮で情感溢れてると感じます。
そして、数世紀後、ギリシャ人たちは"ヘラクレス"や"アンドロメダ"など、神話の英雄や美女や怪獣たちをやはり夜空に配置し、より洗練された物語に発展させ、より複雑にしました。

夏の星たちの中でも存在感のある"さそり座"が西へ回り込んでしまうと、秋の代表的な星である"ペガサス座"の四角形が現れます。二等星がひとつと三等星がみっつの東西方向にやや長いめの大きな四角形ですから、誰でも発見することができます。この四角形の左(東)の一辺は、実は春分点北極星を結ぶとてもドラマチックな線となっています。見方は、この一辺を当分だけ南に下がると春分点となり、春分(三月21日ごろです)のときに太陽がくる方向ということになりますね。
そして、その一辺を北へ四倍伸ばすと北極星がキラキラと輝いています。
この星は、王子ベレロポンの乗馬になって怪獣キマイラを退治する美しい翼をもった天馬ペガサスに生まれ変わる雄大なギリシャ神話に登場します。

カルデア人もギリシャ人も現代の我々も、何千年も変わること無い星たちを見上げていますが、文明の発達と人間の本来持っている本能を徐々に失いつつある私たちは、悲しいことですが夜空を見ても美しく輝く星たちを確認し、「おひつじ」や「てんびん」や「かに」を繋ぐことができません。そして、いつの間にかギリシャ人たちやローマ人たちが作り上げた美しく情緒溢れる物語もいつしか"本の世界"だけになる事でしょう。

>>続きを読む

新しいシルクロード

2009.08.23

   子供たちが空に向かい 両手をひろげ
   鳥や雲や夢までも つかもうとしている
   その姿は きのうまでの 何もしらない私
   あなたに この指が届くと信じていた
   空と大地が ふれあう彼方 あなたにとって私 
   ただの通りすがり ちっと振り向いてみただけの 異邦人

この美しい詩は「異邦人」という曲で久保田早紀が1979年に作詞・作曲し、そして自ら歌い大ヒットしましたポピュラーソングです。そして、今までに何度もカバーされた名曲といえます。

徳永英明というハスキーで、高域音がキレイな歌手が、過去に大ヒットした女性ボーカルの曲だけを収録した三枚のCDシリーズがあります。彼自身の自曲の歌も美しい旋律ですが、彼の選んだ女性ボーカルの曲も劣らず絶妙です。特にあの歌声は女性に大人気ですが、このCDの中で彼が歌う数曲にとても魅力を感じます。そして、異邦人はこの中にもカバーされています。
私は、カラオケというものを10年ほど前に体験しましたが、それ以前は、人前で歌を披露する度胸を持ちあわせていませんでした。それは、ひとつの拘(こだわ)りといえるかも知れません。
それが、起業をきっかけに、人の付き合いの中でどうしても避けられないと納得した時点で、この拘りを捨てました。以来、カラオケを少なくとも以前よりは楽しく振舞えるようになりました。

たくさんの歌手がカバーする異邦人ですが、私は特に徳永英明の歌声が好きです。たまに誘われてカラオケしますが、映像が決まってイスタンブールなんです。異邦人とは字のごとく外国に定住または長期滞在する外国人を意味しますが、少し前まではコンスタンティノーブルと名づけられていたイスタンブールとの関連性は全く無い様に思えますが、不思議と映像とメロディーが素晴らしくマッチングします。

コンスタンティノーブルはシルクロードの臍(ヘソ)にあたる最も重要な結節ポイントです。
この西に、この道の到着点であるローマがあります。そして東に、出発点の長安(現在の西安・兵馬俑で有名な)があります。中国、モンゴルと中央アジアの地獄のような砂漠を横断する、長い長い乾いた道をローマから長安を結ぶ長距離交易路が、絹の道といわれる「シルクロード」であることは誰ひとり知らぬものはないほど、ひとつの言葉として認識されています。この路はまさに、世界史の背骨というべき道です。
中国製の「シルク」をローマまで運ぶ道であったために、ドイツの地理学者「リヒトホーフェン」が"絹の道"と命名しましたが、もちろんシルクだけでなくあらゆる商品が行き来しました。しかし、これほど名前と現実の世界が大きくかけ離れた印象をもつ言葉はないと思います。

イスタンブールはトルコの首都ですが、西に隣接するブルガリアやその北にあるルーマニアは黒海に面したバルカン諸国です。この地は、古代から様々な民族が入り込む一方、東ローマ帝国やオスマン帝国に長く支配されました。私の仲の良い知人にルーマニア人がいます。ルーマニアは陽気な社会主義国家と言えます。ブルガリアやユーゴスラビアはスラブ民族系と言う感じを強く受けますが、ルーマニアはラテン民族の血を強く引いていると言われています。その意味では知人は底抜けに明るい人です。どう見てもラテンとしか言いようのない気質を感じます。彼女は自国のルーマニア語とスペイン語とイタリア語を自在に操り、日本語も漢字以外はほぼ使いこなします。
ルーマニアを持ち出したのは意味があります。
バルカン地方は、九世紀から十世紀にかけてビザンチン僧侶が熱心に、布教をした地域でもあります。その為に正教協会が、農村の隅々まで建てられていると言われいます。この教会こそビザンチン芸術であり、ビザンチン文化です。
この地方のどこに行ってもビザンチン様式の修道院や宗教絵画をお目にかかることができるそうです。

>>続きを読む

連想と日本人の恥

2009.08.07

夏の開放的な空の色や強い日差しや木陰を通り抜けた新鮮な風に出会うと、子供のころの出来事を思いだすことがあります。それも中学生や高校生でなく決まって小学生のころの事です。
例えば、今日の様な休日の朝をゆったりと迎えたりすると、より感じます。強い日差しを早朝から感じ、テラスの前にある桑の木の葉が、風で強くゆれるだびにリビングの中まで差し込んだ光の影がゆらゆらと揺れて、連想を促進するようです。
連想とは、ひとつ手がかりがあると、それが引き金になって止めどなく広がる様です。

自宅の小さなポーチに、ピンクのツツジが未だに咲いています。
ツツジの季節は春先が、とても鮮やかな色を見せてくれますが、いくつかの鉢植えのツツジは、手入れの甲斐あってか、未だに数輪の花を保っています。
先日のよく晴れた午前中に、そのツヅシの花に「カラスアゲハ」がその大きな羽をゆっくりと羽ばたきながら吸蜜作業をしています。おぉぉぉと、思わずカメラを取りに自室にもどり、調整をしてファインダーを覗いたころには、ゆっくり羽ばたいて次の好みの場所に移動していきました。とても残念な思いをしました。
「カラスアゲハ」自体はそう珍しいものではありませんが、美しく咲いたツツジのピンクとカラスアゲハの燐粉で輝く漆黒の大きな翅(はね)のコントラストは、とってもファンタジックなんです。彼女は開長すれば10cmは有にある大型の蝶なんです。
私は、海も山もある田舎で育ったので、たくさんの野生の昆虫類や魚介類と一緒に育ち、遊んだので、今思うととてもエキサイティングで幸せな環境にあったと改めて感じています。

子供のころは「国蝶」である「オオムラサキ」も意識せず、何度となく見ましたし、ツツジにとまった「カラスアゲハ」は普通の蝶としての認識が強く、珍しい昆虫の部類ではありませんでした。このシーズンの小学校低学年から高学年の男の子の興味はやはり「カブトムシ」や「大クワガタ」でした。それもまだ、誰も捕まえていない時期に持っていることが男の子のステータスでしたので、ふたりの兄から教わった樹液の多く出すカブトムシの秘密の樹木は誰にも教えず、一人で採りにいったものです。もちろん、クラスの女の子には見向きもされない行為ですが。
初夏の早朝のまだ夜が明けきっていない午前四時ごろ、夜遊びして疲れきったカブトムシたちが、お腹をすかしておいしい蜜を吸いにくるのを待ち構えるようにして、一回に20-30匹捕まえることができます。入れ物は深めの金属製のバケツです。なぜかというと、金属なので滑ってあがってこないからです。バケツの中でオスが何十匹も渦巻いいるなんで、いま考えると気持ち悪いですね。もちろん、価値の無い(失礼!)メスはリリースします。

都会でありながら、二つの大きな公園の狭間にある自宅は、野鳥や昆虫が比較的多くやってきます。特に「シジュウカラ」は数年間かけてカップルの餌付けに成功したので、毎日数回は餌のひまわりの種を採りに来ます。シジュウカラはとても警戒心の強い小型の野鳥ですが、数年間の餌付けもあって、しばしポーチのテーブルの餌と水を飲んだりして、帰って行きます。ただし、一度に二羽が餌をとることはしません。やはりそこは野鳥です。しっかりしています。

さて、蝶の話に戻りますが、
カラスアゲハ」は黒地を基調にして、オスは青緑の光沢がとても強く輝いて見えます。メスは紫の麟粉(りんぷん)が角度によりますが、強く見えます。
少し昆虫(蝶)を好きな人だと理解できますが、上翅(えわばね)の裏ににとっても特徴があるんです。人間もそうですが、昆虫も全部同じように見えて、実は全て単体での固体差があります。なので蝶の翅も実は型が全て違いますが、翅の裏に白く帯が浮き出てい特徴があります。色合いとして、カラスアゲハより少し見劣りするクロアゲハという蝶がいます。この二種類の蝶の違いはこの白い帯です。この帯のコントラストがとても美しいですよ。

子供のころは、昆虫採取という夏休みのテーマがありましたが、山や野にいって手当たりしだい「蝶」や「トンボ」を捕まえたことがあります。もちろん、宿題の標本にする訳ですが、蝶に防腐剤等いろいろいな薬品類を注射し、標本箱に羅列しました。いま思うと、とっても残酷なことをしていると慙愧に耐えません。今では、まったく逆のことをしています。たとえば、自宅の観葉植物に遊んでいるクモをそっと捕まえて、ポーチの植木に逃がしてあげたりします。山にも海にも慣れ親しんだ小学生頃に、たぶんそれを教えてくれる大人はいなかったと記憶します。ですので、自分の行動に子供とは言えまったく躊躇しませんでした。

小学生のあのころから現在まで、多くの失敗や恥を積み重ねてきたいようです。強烈に覚えていること。忘却のかなたにあるもの。そのレベルはまちまちです。今振り返ると「ゾッ!」とすることもあります。さて、自覚は、どのように変化し、僕の今にあるのでしょうか?

>>続きを読む

右か左か、どちらか。

2009.08.03

エアライン出身の知人を数名存じ上げている。
先日、楽しい話題で盛り上がりました。
私の利用した全ての飛行機は、空港に着陸し、完全に停止すると乗客は我先に前に詰めて一刻も早く機内から外へ出ようとします。日本人も中国人も韓国人も米国人も西欧人も、みんな同じ行動の様な気がします。それを彼に話したら、世界中同じだそうです。
どの国も人も、どのエアラインのどの飛行機も、同じ現象だそうです。ビジネスもエコノミーも同じというわけです。これは、どんな心理状態なのでしょうか?
しかし、どんなに急いでも出口は一箇所か、せいぜい二箇所です。二箇所の場合は、一つはビジネスクラス専用の出口となるで、エコノミーはその恩恵には預からないでしょう。
今度は、彼が質問しました。
実は飛行機の出口は、常に左側です。まれに両サイドから乗客を降ろす特殊な場合がありますが、一般的には左です。その理由を知りたいと。
なぜ僕に聞くのといったら、なぜって、飛行機は船の制度を取り入れているから、答えを知っているでしょうっと、間髪いれず返ってきました。さすかだ。
そうなんです。
交通手段としての「船」は歴史が古いので、その後開発された乗り物は、ほぼ船の制度を基本に取り入れています。現代でもその制度によって、その名残が色濃く残っています。

船の右側を"スターボード"といい、左側を"ポート"といいます。
昔、バイキングの時代に活躍した北欧船では、舵を構造上に右側(右舷側)の船尾に取り付けていました。右側は"スターボード"です。語源は、舵のある側、または舵を取る側と言う意味で「スティア+ボード」で、すなわちスターボードとなりました。なので船を岸に着ける時に、舵を壊さないために、常に左側を陸に接岸する必要があった訳です。また、左側(左舷側)はポートです。これも陸上への門または港という意味を込めて、ポートと呼ぶ様になりました。飛行機には舵に相当する尾翼がありますが、船の様な舵はありません。ても、この名残の為に飛行機の出口は左側のみとなった訳です。船は英語ではシップ(ship)ですが、パイロットの中には飛行機をシップと呼ぶ人もいるそうです。蛇足ですが、飛行船や宇宙船も同様ですね。

そして、ここにも右か左かを海の向こうで論じている人たちがいます。

昨今、自民党にとって見通しはとても暗いと思われます。
社内で立ち話を聞きましたが、都議選は「民主党」に投票したという人が、多いもの納得できる現象です。民主党は、参議院選挙で地滑り的に勝利した機運を、そのまま東京都議選でも維持したようです。そして、初めて第一党の地位を獲得したことで、その勢いを感ずることができます。次は総選挙です。但し、麻生さんが口癖のように言う「選挙はやつてみなければわからない。」ですが、この先、民主党のスキャンダルが出てこないとも限りませんので、それはやって見なければわからないでしょうね。
あくまで、選挙は結果です。
とはいえ、すでにワシントンは次の総選挙で野党が勝利して、民主党政府が出来る事を予想した手を打っているようです。政治アナリストの見方は、民主党政権が樹立しても、オバマ政権は自信に満ちた態度で、米日同盟が確かなものであることをに、変わりないとコメントすると言われています。日本の現政権に対して、米国は日本重視の姿勢を明確に打ち出しています。ヒラリー・クリントン国務長官は、日本をアジア戦略の「コーナー・ストーン(要石)」であることを宣言し、就任後初の公式訪問国を日本としました。なので、日本が日米同盟を堅持する限り、米国の姿勢にそう大きな変化はないと言わています。

ただし、現在海の向こうの彼らの注目しているのは、民主党の実力の様です。その一つが移行計画です。私たちがビジネスするITの世界で、移行ほど厄介で気を使う案件はありません。そこには独特の要素があり、業務経験と移行の十分なノウハウを持った精通者をアサインしないと自ずと埋もれた地雷を、踏むことになります。
この移行という作業は、どのシーンでも同様な基本要素があるように思えます。
米国は大統領就任まで大規模な移行チームが、事前に十分に検討された項目をもとに十一週間かけて、新政権の政策を準備するようです。長く政権を維持した自民党は、トップの交代のみで主義・主張が変わるわけでないので、必要ありませんが、民主党は米国並みと言いませんが、わずか数日で、この試みを実施しなければなりません。閣僚人事も合わせてです。これはとんでもない量を数日でこなす訳です。ワシントンが自分の事のように心配する気持ちが理解できます。
さて、鳩山政権への移行計画は誰が起案し、実施に移すのでしょうか? それとも、そもそも移行計画は無くて、数日間缶詰になって、集中して、ぶっつけ本番でビシバシと決めていくのでしょうか?気になるところです。

>>続きを読む

紙とデジタル

2009.07.27

最近は本を読む時間があまり取れません。
忙しさを理由にしている向きはありますが、とにかく公私共に趣味や雑用が多く、じっくりと本を読む時間がなかなか取れない状況です。
それでも、最近十冊程度の本を読み終え、さらに二冊の本が執務机に載っています。
読み終わった本でとても感銘をうけた本は、
風の中のマリア」「ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて 」の二冊でした。
そして、これから「lQ84」と「シリコンバーから将棋を観る」の二冊を読みたいと思います。
いずれもアマゾンで購入したものです。
そこで、
最近「スクリブド(Scribd)」というサイトがあることを知りました。
"いたずら書き"または、"走り書き"という意味の英単語のScribbledを略したもので、「誰もが創作を楽しみ、その喜びを皆と分かち合ってほしい」との意味合いがあるそうです。
このサイト、いろいろな面で画期的です。

もう、二十年くらいになりますが、この「スクリブド(Scribd)」の記事を読んで突然思い出した事があります。それは物理的な本とデジタルの違いを鋭く洞察したエッセイでした。
タイトルも誰が書いたものかもすっかり忘れましたが、主旨は鮮明に覚えています。
それは、私たちが今手にしている本という物質的な制約がなくなってしまうという物語です。
コンピュータと文学者の結びつきは、非常に古くワードプロセッサーの登場から密接な結びつきが有ります。いまでは、書籍のデジタル化は一般的なことになっています。それは、あらゆる書物が仮想空間のなかで電子化されつつあるという事実を物語っています。
ネットは、膨大で、かつ巨大です。
物質性を離れると言う事は、今まで私たちが千年以上に渡り血の中にまで色濃く定着し、固定化した書籍の文化を離れると言う事が前提となりそうです。
正確には、ネットがそれを実現可能な方向に導いていると言う事になるでしょうか。
このあたらしい文化は確実に新たなフェーズに進んでいると思います。
言い換えると、我々が慣れ親しんできた、モノとしての本の属性がもしかすると、失われてしまうのかも知れないと言う事です。
これを私たちは、どのように考えたらよいのでしょうか?

デジタル化された本は、物質では有りませんので、いわゆる「パルプ」は不要です。
あるのはネットが繋がったディスプレーかモバイル端末か専用機です。
たぶん、電子の本には私たちが、長い間文化として作り上げてきた慣れ親しんだ「厚み」とか「重さ」とか「匂い」が有りません。
果たして、本が本来持っている「厚み」「重さ」「感触」といった属性を全てすててもいいものなのでしょうか。

一枚一枚めくる指の感触、脇に抱える厚みと重さ。
ページを開いたときのインクの匂い。
どれをとっても独特な雰囲気です。って、少女っぽく考えるのは感傷的で、ITを推進する企業の経営者の言葉ではないのかも知れませんが。
しかしです。本が本来持っているこのような属性と書かれている内容は、全く無関係といえば、その通りなんですが、だからと言って、本当にそう「言い切って」いいものでしょうか。

本の物質性と読書をする行為との間には、もっともっと深遠な関係が存在しているように思えてならないのです。
次世代には、物質としての形を持たない「本」が、前提になりそれを受入れ、それに慣れ親しんで
しまうと言う事なのかもしれません。なんて、SFっぽいンだろう。
しかし、いまの今、考えるには、ちょっと恐ろしいことの様に思えます。
もちろん数十年といった単位だとは思いますが。で無いかも知れないところに摩訶不思議がある訳なんです。
物質と情報は、独立してしまい具体的に本を読むという「心」とか「体」とかの感性に対して、別な次元での知識を習得するという行為になり、両者との関連性をうまく両立しなければ為らないということになりはしませんか。
いろいろ、考えさせられてしまいます。

たとえば、物質的な「本」であれば、表紙を眺め、ページを開き、めくり、閉じる。
「開く」という言葉には「啓く」という意味が附帯します。
この「啓く」は当然のことながら「啓示」に通じ、この言葉の持つ意味を探れば、宗教的な起源にたどり着く事は明白です。

ひとつ印象的なお話が有ります。
それはある「学ぶ」という物理的な光景です。
ヘブライ人(すでに死語に近い)の子供達が、ヘブライ語のアルファベットを習う最初の日に、教師は子供たちにそれぞれ石版に最初の文字を「蜜」で書かせ、それを舐めさせる儀式があるそうです。子供たちは、文字を最初に学ぶ瞬間に、知識は「甘美」なものであることを感得するちがい有りません。素晴らしい儀式と思いますが、もうこの儀式は古典的な儀式しかもしれませんね。

この時の「文字」の持つ力は、当然のことながら活字でも不可能であるし、ましてやデジタルでは有得ません。この儀式は、文字を単なる伝達媒体とする考えからは、絶対に出でこないでしょうね。
文字が電子化される事により、本来の読書や読書をするという行為・行動が培ってきた指先や手の動作が電子化してしまう事により、本来持ち続けた「感触」といった様な属性がほとんど失われてしまったらどうなるでしょう。ヘブライ語を最初に習った子供たちの教育という中に持っていた、文字と味覚の直接的結びつきは、日本の(漢字文化圏)「書道」に合い通ずるかも知れません。
書道を習う子供たちは、決まって手やブラウスの袖やズボンを墨で必ずといっていいほど汚します。文字は「染み」を作るものである事を、手を汚しながら体で理解することの重要性は、文字の電子化の中には絶対に存在せず、それがまた、大きなうねりの波に呑まれて、本が本来持ち続けた属性をすべて淘汰していくのでしょうか。

きっと、そのこと自体、今の時点で重大事であると言う事に、私たちは、たぶんはっきりとは認識できず、何十年という歳月によりその重要度をはっきりと認識し、しかしその時にはきっと、取り返しのできない染みを発見し、その広がりに呆然とするのでしょうね。

>>続きを読む

食と芸術

2009.07.24

雨ニモマケズ.....風ニモマケズ.....雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ............」
そして、
「.....一日ニ玄米四合ト、味噌ト少シノ野菜ヲタベ.....」と続く詩は著名な明治の大詩人・宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中の一小節です。誰でもが一度は口ずさんだ有名な詩です。賢治は他にも身近なことをテーマした詩が多く、なかでも「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」は幻想的で、叙情的で、とても美しい詩です。それに夢があります。
彼は、叙情的な詩を詠う詩人としてだけでなく..一日ニ玄米四合ト、味噌ト少シノ野菜ヲタベ..にあるように、農民の日常生活を芸術の域にまで高めようと理想に燃えていた科学者でもあったと言われています。食というあり前のことを、単に食の充足のみとする従来の考えから脱却する発想をもっていたと言われています。
「食」を理論的な視点で語ると、
『人間が社会的・歴史的存在である限りにおいて、食にまつわる儀式や習慣、食品や料理法への知的理解度、さらには食事の作法やその場での演出等々、全てをあわせ持ったものが「食」であり、食そのものが重要な文化的要素である』だそうです。まったくもって妙を得ていると思います。

しかし、過去の日本の文人や学者は、どうしても孔子の「論語」の思想が支配的だった為に、いわゆる「君子は道を謀りて食を謀らず」や孟子の「君子は厨房を遠ざく」といった類の儒教的な発想で長い間推移してきた背景があります。私も大いに孟子の教えを盲目的に守っているひとりであると自認していますが。。。。

私の知人に自分の本業のほかに「ベジタブル&フルーツマイスター」の活動を野菜ソムリエとして、アンチエイジングライフを楽しんでいる方がいます。
コンセプトは、「アンチエイジング医学に基づいたものでありながら、人間の自然治癒力、免疫力、潜在能力を引きだすこと。」だそうです。野菜と果物に含まれる抗酸化物質による酸化防止等によって、驚くほどアンチエイジングになり、生活空間を変えられるそうです。よ。

食とは、全てひとの口に入るもの。
その影響は10年後や20年後に現れてくるものだと思っています。とても重要な生活そのものですね。
ところで、
日本の芸術や芸能のルーツを辿れば、やはり中国から渡来したと誰でも想像し、知っていることですが、日本の芸術や芸能のほとんどは中国のいわゆる唐様の芸術や芸能の輸入です。しかし、一旦輸入されると、国内に定着しはじめ、その後「その風土や習慣にとけ込んでしまう」ところが日本的でとても面白いですね。また、それ以前に渡来して定着したものにも、新たに新規の文化が混入し、重なり、より和洋化された文化が醸成されるという訳です。そして何年も重ねて、混ざって、独自化したのですね。
日本人の受け入れ安さと工夫は素晴らしいものがあります。時間が経つにつれて日本固有の文化に成長するのですから。

芸術や芸能」はそれぞれの発展過程で、修行や鍛錬が厳しく行われ、競演や競技に発展し、理論武装され、その道の極意が発見されるまでに至ります。
日本の文化は多岐にわたりますが、代表的な芸術・芸能は六道と言われいます。
書道、花道、連歌道、能楽道、花道、茶道です。

しかし、前述の「料理」または「料理法」に関する芸術性や長い伝統で育成された文化は、なぜかこの六道に列挙されていないのです。それは、儒教のせいでしょうか。それとも、元々食という文化は理論や極意を必要としない領域なのでしょうか?

現代まで、料理または料理法も当然ながら長い年月を経て熟成し、芸能といわれる域に達していると感じますが、さて「」に数えられないその理由はあるのでしょうか?

>>続きを読む

おひとり様一回限り

2009.07.20

おひとり様一回限り」とは、映画館や音楽会の入場券の裏面に、小さく印刷れているその券の使用目的です。
現在では、インターネットやチケット"ぴや"やコンビニで受け取ってしまう味気ない簡易チケットにはありませんが、以前の入場券には必ず印刷されてた言葉です。

この言葉に私たちはあまり意味を感じられず、当然ながら意識もしません。
しかし、人生のあらゆる出来ごとはこれと同じではないでしょうか?
人々は"死の一回限り"にのみ、真実を見て、生における「おひとり様一回限り」を演ずることになります。

あるテレビ局の知人に誘われ京都で集った、友人の会に参加し、食事をしながら業界を隔てた多くの知遇を得ました。交友関係の幅広い知人で、この様な会をしょっちゅう集めて、ありがたくも声を掛けてくれるのです。
その京都ですが、一口で言い表せない特別な魅力を持っています。例えば、金閣寺、銀閣寺、清水寺、龍安寺等の寺院と庭園、その他にはおいしい京料理のお店等々好きな場所や好きなお店を挙げたらきりがあません。私は、この様な場所は他に知りません。

幼名を春王といった足利義満(あしかが・よしみつ)は室町幕府の第3代将軍で、清和源氏の一家系で、あの有名な鎮守府将軍・八幡太郎源義家(はちまんたろうよしいえ)の子を祖とする足利氏の嫡流です。彼は数え10歳で3代将軍に就任しましたが、祖父尊氏(たかうじ)も成し遂げられなかった約60年続いた懸案事項の南朝のM&Aにもその手腕を発揮し、難事案件を難なくまとめ上げます。
また、晩年には西園寺家から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け(または無理に寄進させてた)、金閣(舎利殿・後の金閣寺)を中心とする「北山第」(きたやまてい)を造営したことは周知の事実です。日本人でほぼ金閣寺を訪れていない人はいないくらい、修学旅行等の定番観光コースです。

今から七百年も前に、ここから豪華絢爛の北山文化が生まれいます。
さらに、もうひとつ、義満は重要な古典文化の興隆に深く深く携わっています。
それは「お能」です。能は義満抜きでは語れないほど深く彼自身の内面的な領域まで関わっています。
能の発祥はここでは省きますが、
大衆の支持によって芸術性を高揚した観阿弥の芸は、少年時代の世阿弥の可能性とともに、時の将軍・足利義満の目にとまります。
この出会いは、二者にとって非常に運命的であり、恣意的でもあります。
また、この出会いこそ、両者の目的が合致した、観阿弥・世阿弥親子にとっても将軍義満にとっても非常に重要なことでした。
義満の将軍職在職期間は26年間と比較的長い期間ですが、彼はその後院政を統べるので、その期間をいれるとほぼ40年間担当しました。これは当時もその後にもかなり突出した長期政権となりました。だからこそ、文化の醸成に金も時間も人も、長期に渡って必要な手を打てますし、今に残る芸能の基盤がこの当時うまれ育ったことに納得できます。
ここにひとつの疑問が沸く筈です。
彼は、何故観阿弥・世阿弥親子の田楽から脱皮しようしたこの当時の能に興味をもって、国家的に庇護を考えたのでしょうか?という疑問です。
能の歴史に初心者である私に解るはずなく、なので見識者の言葉を借りることにします。
すると、こうです。
この新しい芸能は、義満にとって既成の貴族文化に一矢を報いる絶好の自己証明の機会であったろう」とし、「それは教えられた貴族文化の中には絶対に存在せず、しかしたいていの貴族芸術よりもさらに貴族的となりうる可能性を秘めた芸能であった」と権力者である義満側からみたこの能という新しい芸能を自己の成長に重ねようとした彼の意図を鋭く抉っています。
この二つの言葉を繰り返せば、繰り返すほどに、しっくりと当時の義満の自信と気合いが充実している権力者としての気迫が伝わるようです。そうは思いませんか?

この事によって、この新しい能は、今日に生きる原点となり、世阿弥は、義満の庇護の下にこの新しい芸術に専念します。そして、世阿弥の血の滲むような努力は、「時に応じ所よりて、愚かなる眼にもげにもと思ふやう」に大衆の支持にを引きつけながら、しかも貴族の高い鑑賞眼にもかなう高度な芸の工夫に費やされることになります。

義満は、応永15年(1408年)3月、北山第に後小松天皇を招いて二十日にあまる歓待にあけくれます。そして、4月27日には、天皇臨席のもとに御所で次男・義嗣(よしつぐ)の元服式を行います。巨大な権力者には良くあることですが、彼も将軍職はすでに長男の義持(よしもち)に譲っていましたが、腹違いの次男義嗣を偏愛したと伝えられています。結局この偏愛が理由で義嗣は兄に殺されることになります。
そして、義満は元服式の二日後に発病します。
発病の原因は、度重なる行事によるストレスや義満が皇位簒奪(こういさんだつ)する意図を持ってとして暗殺ではという憶測もありますが、5月6日に気力精力とも常人を超えた最高権力者はあっけなく亡くなります。

時の最高権力者による観阿弥・世阿弥親子の大パトロンは、能を愛し、能を育成し、自らも芸能に深く関与し、700年後も延々と生き続ける芸能を世に送り出し、50歳の生涯を閉じます。

時の最高権力者という庇護者を失った世阿弥は、この後長い不遇の時代を送りますが、義満よりも35年も長生きし、80歳の天寿を全うします。

>>続きを読む

プレステージ(続き)

2009.07.17

前回からの続き

ロンドン博の三年前、1848年にカリフォルニアで金が発見され、これを「ゴールド・ラッシュ」と呼んだことを中学の社会科で習ったと思います。歴史は時には面白い組み合わせをしますね。ゴールド・ラッシュの続く中、ロンドン博もアメリカ号の建造も英国でのレースも、ペリー提督による江戸幕府派遣もなされたという訳です。カリフォルニア、ニューヨーク、英国、日本と場所こそ異なりますが、ほぼ同時進行で歴史は時を刻んでいきます。
ゴールド・ラッシュ以前は、一寒村であったカリフォルニアに、東海岸から数十万人も金を目当てに人々が集まったといわれています。詳しい統計はありませんが、その半数は幌馬車を仕立てて砂漠を横断し、一路西海岸を目指しました。ロッキー山脈を越えるアドベンチャー的な危険を伴った旅であったと思います。しかし、残りの半数は海路を選んだと言われています。その証も確かにあります。もしかしたら、陸路よりもっとリスクが高いのでは?! いや、むしろ安全だったのかも。
金鉱発見前の1848年4月以前は一年間にサンフランシスコ湾に入港した帆船はわずか四隻でした。それがその後一年で、なんと775 隻という途方もない激増ぶりです。航路はもちろんニューヨークを出帆して、南アメリカの最南端のケープ岬回りでカリフォルニアに到達するのですが、当時の帆船のスピードでは早くて150日、遅くて240日でした。需要と供給はまさに現在のエアーラインと同じです。多くの人を運ぶには、多くの機材の確保と効率的なローテーションが必要となり、必然的に足の速い船が欲しくなり「快速帆船の建造」となります。これは時代の要求です。ここに登場したのが、すなわちサンフランシスコへの急行便として建造されたクリッパー・シップである「カリフォルニア・クリッパー」です。
船を作るときにもっとも重要なことは、天候の要素を除くと、斬新な設計の精度とその船をドライブする船員の技術力です。このような時に時代には必ず要求された人が現れるものです。
それが、「ドナルド・マッケイ」という帆船設計者です。
彼がカリフォルニア・クリッパーとして最初に設計した「スタグハウンド」という帆船は、1851年の処女航海で110日間の区間最高記録を出しました。ざっくと50日間の短縮です。そして、この船の実績を踏まえてより斬新な設計をした「フライング・クラウド」は同じ年になんと、89日間21時間という前人未踏な区間記録を作ります。時間当たりの平均速力は18.5ノットになります。これはとんでもない記録です。この当時のホーン岬周りは航路的にかなり精度が高まったとはいえ、まだまだ予断を許さない未知のエリアが多かったと思います。昔のシーマンは素晴らしく強靭な精神の持ち主が多かったんだと、いまさらながら感じるところです。西風の多いホーン岬沖は東に向かうときにはまだ、比較的進めても、反対に西に向かうときは帆船にとって非常に厄介なエリアであることは間違いありません。行きはよいよい、帰りは怖いというやつです。いや、本当に間違いなく恐ろしいエリアなのです。

実は、ニューヨークで建造された「アメリカ号」にはこの様な環境が徐々に整えられていました。
そこで、「パイロット・スクーナー」について話したいと思います。
パイロット・スクーナーは船の形式ではありません。使い方または、用途に名づけられたものなのです。一般に港には港の特性があります。風の吹き方、島、潮流、浅瀬、水路、泊地、錨地等、その港特有の性質があるために、船が港外にやってくると、その港に精通した水先案内人(パイロット)を乗船させ、そのパイロットの誘導によって入港することが常識となっています。エンジンを持たない当時の船ではパイロットは不可欠なものです。この同時のパイロットは自由競争制でしたので、港外に入港船が見えるや否や小型艇に飛び乗って、一番先にお客さんのところにセールスに行かねばなりません。よって、高速艇が必要となりました。これをパイロット・スクーナーと呼び、足の速いスクーナーは当時は花形であり、きっと評判が評判を呼んだのではと思います。

NYCの五人のオーナー達が「アメリカのスクーナーを代表するヨット」として建造するに当たって、新興国のアメリカらしく、ニューヨーク港で俊足のスクーナー設計者であるジョージ・スティアーズという弱冠31歳の青年デザイナーを選んだことも納得がいきます。彼は確かに青年でしたが、すでにそれだけの重責を負託されるにふさわしい実績の持ち主でした。ジョージは造船一家の父親も元で、十代から設計を手掛け、すでに多くのスクーナーを竣工させていました。そして、彼が21歳の時に設計した「ウイリアム・G・ハグスタッフ号」という船が素晴らしい快速船であったと記録にあり、長く歴史に刻まれる事になるのです。この若手の起用は時代や実績だけでなく、たぶんにスティーブンス会長のトップが持つ感性や積極性や賭けがあったのではないでしょうか。

建造についてもいくつかの強い意志が込められています。
その根底には、「米国の建造技術を見せる」に集約されています。
ひとつは、自力で大西洋を小型船スクーナーで横断できる仕様を設計及び造船所に申し入れたこと。想定外のこの事は、設計者にとっても造船技術者にとっても、操船するクルーにとってもとても大きな負担となりました。しかし、その負担は船の高速性能の他に、堅牢な船体構造となって具現化されました。そして、クルーにしても、当時からヨットレースはプロの仕事なっていましたので、熟練者の中でも超一級のスキッパーが選定されました。さらに、建造費は三万ドルと当時としては飛びぬけて高価な船になったこと。これも、英国においても恥ずかしくない艤装を求めた結果となり、最高級のアメリカ・クルミ材を船体にふんだんに用い、さらに船室は彫刻を施したマホガニー材で内装しました。

>>続きを読む

クチナシの香りとBaiu

2009.07.10

今年の春に北京と上海を訪れました。

帰国日に土曜日を挟んだのでほんの僅かの時間を博物館の見学に充てました。
見学は二時間と決めていますので、毎回テーマを絞りますが、今回は墨絵の「三清」です。

三清とは、枯木に石と竹を配置して描いた墨絵を指す言葉らしいです。枯木の過ぎ去った哀愁や山石や川石の冷淡な石のヒヤリとする触感に対して、若竹のもつ青く、清々しい生命力を加えることによって、人の世は若竹のように清々しく生きたいとものと、表現する墨絵らしいです。
墨絵を輸入して日本文化に置き換えた日本の墨絵には、この様な思想はないと言われいますが、第一級の芸術家であれば輸入された墨絵を見れば絵に込められた意図は十分汲み取ることができたと理解する方が自然でしょう。

さて、三清ほど非日常的な文化でなくても、私たちの日常の中にも「森羅万象」を感じる、または接する機会はあると思います。その一つが香りだと思います。私たちが身近に感じる三つの香りを日常の中に見つけたいと思います。

初夏の今、早朝、自宅から駅に向う間に「クチナシ」の強い香りを感じます。この白い花弁から噎(む)せかえるような甘い香りに、心惹かれない人はいないでしょう。

次に、早春のころ、愛の香りと称えられる「ジンチョウゲ」が花開きます。紅梅や白梅より、やや遅い時期の二月下旬のころですね。「沈丁花」と漢字では書きますが、本来は漢名の「瑞香」が望ましいそうです。かな変換でも沈丁花と変換されますので、ほぼ一般的といえますが。
花は、内側が白で、外側が紫紅色に染まる二つの色合いを、たくみに配分したいでたちがもっとも多いです。とにかく、ジンチョウゲは情熱的な香りの広さ、深さ、激しさを持っていると思います。まさしく、愛の香りにふさわしい香りの花です。

さらに、秋になると、一日が爽快な気分で始まる事をたくさん経験しますが、反対に寂寥沈静のうちに一日の幕を閉じることもままあります。秋とは、なんとなくものを想い、そしてボーっと過ごしたいというような感覚に陥りやすいと思いませんか?
秋の一段と爽やかさが増す中秋の頃に、つつましく花を飾る「キンモクセイ」は私たちの心を引き付けます。私はこのころ、自宅の裏口の遊歩道に大きなキンモクセイあり、その下を毎朝くぐって通います。その芳しい香りは、一日を爽快な気分にさせてくれます。

これで日本の三香がそろいました。
この三香は庭木や公園や緑道と、どこにでも植えられていますので、目にし、香りを嗅ぐことが多いポピュラーな樹木です。

クチナシの固有種は一重咲きだそうですが、私たちがみるクチナシは八重咲きです。しかも、その葉は一年を通していささかも色が褪せぬばかりか、健康的な明るさが感じられるのも特徴です。光沢の強い濃青色は5月により鮮明になり、やがて花開き香りを放ちます。
池坊の口伝の中に、
"クチナシを瓶に指すときは、紫陽花、竜胆(りんどう)、野菊なとのように高く生けてはならぬ"とあります。きっと、この花の放つ香りを、低く生けて、より深く、より細やかに、生かそうとしたのでしょう。池坊は室町時代にその基本形式を確立したと聞きましたが、可憐な一輪を無造作に瓶に「投げ入れ」から豪華な大立花(だいりっか)の活花まで、その領域は幅広く、奥が深いです。
反対に、茶道においては"クチナシの花"を茶席に生ける事を極度に忌み嫌った。とあります。クチナシの放つ深々とした強い香りが、密室の静けさを基本とする室の空気をあやしくかき乱すことに、茶人たちは、疎ましさを感じたのではないでしょうか。

クチナシの名前の由来ですが、内部に黄色の肉塊と種子をもつ果粒が、秋になっても、頑として口を割らない、そのかたくなな用心深さゆえという説があります。クチナシの匂いにつられて近寄ると、名前の由来を改めて感じます。

>>続きを読む

再び早間美紀に出会う

2009.06.21

高校生のころ、当時FM局二局しか存在しなかった。
その一つ、NHK-FM局で朝のひと時を音楽番組として「バロック音楽」を流していました。
バロック音楽は1600年からバロック音楽の最大の巨匠であるヨハン・ゼバスティアン・バッハの他界によって締めくくられるわずか100年少々の音楽のスタイルです。
当時のラジオの音質は今と全く異なり、単に音が出ている程度でしたが、FM局はその方式から全く異なりました。ノイズが少なく、透明度が高く、ステレオで高音質の今でいう「無料音楽放送局」でした。なので、当時一年分くらいの小遣いをためてFM専用チューナーを購入し「バロック音楽」を楽しみました。
この番組の解説員が「皆川達夫」でした。
当時私は、この解説員のことは全く知らず、単にバロック音楽のエスコート役くらいにしか意識がありませんでした。しかし、バロック音楽を聞いたのは高校の三年間のみで、その後は全く聞く機会にありませんでした。

その後長い年月を経て「皆川達夫」に再び出会うことになります。
それは「バロック音楽」でなくきっかけは「お能」でした。

私にはJazzの師匠がいます。
彼とは10年以上前に一緒に仕事をしていました。知りあってから四半世紀になります。知りあったころは二人の年齢の違いよりも、数倍もかけ離れていた様な気がします。実際に役職的にもかけ離れていました。それほど私自身が、世間知らずで経験値の少ない子供であったからでしょう。それが年々、差が縮まり実際の年齢差になったのは10年も経てからだと記憶しています。長い10年でもあり、あっという間の10年でもありました。後半は比較的好みなJazzアーティストが演奏しているとライブハウスに出かけるようになりました。そして彼が健康上の理由から現役を離れると、いつの間にか私の師匠になっていました。
師匠は美しい高原の山の見える場所に、自分好みのログハウスを建てて、愛妻とその次に愛しているワンちゃんと優雅に楽しく過ごしています。そして、止めどなく仕事をしている私に遠くから、「早間美紀のライブ」の情報を送ってきます。
なんとありがたい。とは思いながら実は深い意味があります。
彼のFYIは一年半米国でライブ活動して成長したであろう彼女の近況を自分の代わりに見て、聴いて来いというわけなんです。

そして、「早間美紀」に一年半ぶりにあった。

場所は彼女が都内のライブハウスで最も好きな「BODY & SOUL」です。
あの京子ママのジャズ・ライブハウスです。
もちろん、美紀ちゃんは僕の事をよく覚えていました。
きっと前回は師匠と一緒にいたので、師匠の印象が強かったので、必然的に私の印象も記憶にあったのではと思います。

早間美紀は前々日NYを飛び立って5月13日の吉祥寺・SOMETIMEから始まり、15日の青山・B&Sを経て24日名古屋・STAR EYESを最後に翌日にはNYに帰るというまさに風のように駆け抜けたプライベート・ツアーでした。
演奏は日本でセットされた早間美紀(pf) 井上陽介(b) 小山太郎(ds)のトリオです。

一年半ぶりに会った「早間美紀」は以前より逞しく(いゃ、失礼!)、大人びた雰囲気でピアノの前に立ちました。そういえば、挨拶代わりに新型インフレエンザの影響もあって入管から携帯に発熱や咳の問い合わせがあって、たいへんですぅ。とこぼしていました。
今回のツアーは「早間美紀 NewCD《ワイド アングル》発売記念」ともうひとつ重要な意味を含んでいました。
それは、スイングジャーナル第8期"ゴールドディスク"受賞記念という快挙付きです。

彼女はこの受賞でNY在住ながら、人気も実力も兼ね備えた超一流となった訳です。
もともと実力は他を圧倒していたので、結果としては実績が後追いでついてきたということでしょう。

10曲のうち彼女が特に好きだというGeorge GershwinTommy FlanaganとメンバーのDrums Mr.ビクター・ルイスの曲をフィーチャーした3曲を除いて、あとはすべて彼女のオリジナルです。何とすごいことだ。
Gershwinは私も大好きです。参考にニューリリースの全曲を加えます。


アルバム・タイトル「WIDE ANGLE

1.What's Next?           6:58 (Miki  Hayama)
2.Flying Horses         8:27 (Miki Hayama)
3.Another Angel         6:37 (Victor Lewis)
4.Horizon                       7:56 (Miki Hayama)
5.Who Cares?                  6:43 (George Gershwin/ Ira Gershwin)
6.Sound of Migration         5:05 (Miki Hayama)
7.Freight Trane                 4:21 (Tommy Flanagan)
8.Dismissed                    7:15 (Miki Hayama)
9.Up & Down                    5:40 (Miki Hayama)
10.A Time For Peace        8:07 (Miki Hayama)
         Produced by Miki Hayama
      早間 美紀  (p,vocal on track 8) 
      北川 潔   (acoustic bass)
      ビクター・ルイス  (drums) 

早間美紀の最大の魅力は、音の厚みとスピードとビート感だと思う。
とにかく音の厚みが重厚で、それを全くブレないビート感がぐんぐんと引っ張っていくようだ。
加えて気さくな可愛いお嬢さんという気質も魅力的だ。その人なつっこい性格は作曲にも表れている。

そして、彼女のサイン入りのこのアルバムを30回ほど聴き込んでみました。印象に残った数曲を。
What's Next? 」はテーマが4分の9拍子の変拍子という変則的なリズムですが、とても速いテンポでクラッシックの曲のように進行しますが、でも単に軽やかで早いだけというのではなく、やはり彼女が弾くと、ジャズ・ピアニストだと納得できるほど、すべての音がスィングしている感じがします。そして、どんどん引き込まれて行きます。深くふかくどこまでも。アルバム出だしの選曲としては、とてもいい選曲です。仕上がりも最高です。
「Flying Horses」は回転木馬と意味らしいですがとてもつなくいいです。前半は幻想的なリズムですが、中盤から彼女のハイタッチでしかも力強いクリアーの演奏が延々と続きます。Mr.北川のベースは絶品と言えますが、彼女の8分以上予断を許さない展開がどんどん続きます。なんていいんだぁ。って感じです。個人的にはこの曲が最高でした。
Horizon」は彼女の超絶的な技巧の感性を、このホライゾンで実感します。それは聴けば理解できるという類の納得感でした。とても、エキサイティングでエネルギッシュです。
Who Cares?」はガーシュインです。ガーシュインはいい。彼女曰く「私はなにもしないの。快いリズムにただ泳いでいたいだけなのぅ」と。おぉぉ、そうかそうか。泳ぎなさい。絶品のひとひと。
Dismissed」はサバンナを疾走するジープのシーンがバックに映像として流れているような錯覚に陥る様な曲です。広大な草原です。遠くに土煙りが舞い上がる。そんなイメージがします。それと、美紀ちゃんのハスキーな声を初めて聴きました。結構いけてるよ。彼女の声と流れるようなピアノがサバンナの夜明けを思わせる。
Up & Down」は十代に死ぬほど聴いたハード・バップなJazzだ。耳にとても快い。
A Time For Peace」はとても美しい曲です。

>>続きを読む

本多厚美リサイタル2007

2007.11.16

一年ぶりにメゾソプラノの歌姫を見た。

あれから一年を経て本多厚美のリサイタル」で再び彼女と会いました。
昨年の彼女はすっきりと痩せて白い肌が輝かしい歌姫でした。昨年、数年ぶりに見た厚美ちゃんは、驚きと感激のあっという間の二時間のリサイタルでした。
そして、今回は最初の曲目から緊張もなく、いつも練習している彼女の自然な歌声でした。
一年を経てより自信に満ちた「しっとりとした本多厚美」に逢ったわけです。
自然体で楽器のように正確な「メゾソプラノ」で歌う彼女はに、オーラと共に輝き、とても感動的でした。
サントリー小ホールはほぼ満員の観客に迎えられてた彼女は舞台の定位置につきました。
アップヘアーな髪型に、大き目のイアリング、一際目立つV字型のパールのネックレス、そして、コスチュームは淡い黄色のロングトレスという出で立ちでした。

この夜の本多厚美はプログラム通り22曲の「LOVE SONGS」を途中休憩を挟んで歌い続けました。



『本多厚美メゾソプラノリサイタル LOVE SONGS』
□2007年11月15日(木)  □サントリーホール(小ホール)
□ピアノ:ダルトン・ボールドウィン

最初の曲はステファノ・ドナウディの代表作に含まれいる曲でバロック風の曲目
「O del mio amato ben (おお 私の愛する人よ)」が披露されました。
最初の曲らしくリズミカルな洗練された曲調でした。
その歌声は美しく最初から観客を魅了した、聴かせるラブソングでした。


松風(まつかぜ)」という演目の能の三番目物があります。
能の正規の上演形式は、儀式的要素の強い「(おきな)」を最初に、脇能物(わきのうもの)、修羅物(しゅらもの)、鬘物(かつらもの)、雑能物切能物(きりのうもの)のいわゆる五番立で上演されることになっています。能の大成者の世阿弥の伝書「三道」に意味深な言葉があります。
それは、「序破急(じょはきゅう)に五段あり」という言葉です。
もとは雅楽の用語であったとか。
緩急の変化を律する基礎原理にのっとり、連歌や能でもこの原理原則が重んじられるようになり、世阿弥はこの「序破急(じょ・は・きゅう)に五段あり」をより具体的に能の中で理論化したようです。

>>続きを読む

ラルチザン パフューム

2007.11.02

眉を落とし、酸化鉄で歯を黒く染める鉄漿(おはぐろ)という風習は、遠く平安時代の上流のそれも公家の婦人たちに発し、長い時間をかけた後に、一般の庶民の一定レベルの婦人に広まりました。
後年、この鉄漿を人妻のしるしとした江戸時代は、上手に年をとっていく技法として長く活用しました。
それはきっと、若さという「外面の美」を、心による「内面の美」に昇華させる事を自ら「自覚」した時に、鉄漿を常用し、
その行為により「精神的な進化」を熟成したようです。
現代はどうでしょう。
ヘアースタイルやエクササイズやお化粧から、さらには最終手段として整形外科まで踏み込んだ、肉体の美しさによって「若さ」を強調し、老いを食い止める方向が多いように見受けられます。

七百年も前に能の理論と方向を決定付けた世阿弥は、
     「いづれの花か散らで残るべき
という絶対の認識を踏まえて、
さらに一歩深みに到達し、
     「散るゆえによりて、咲く頃あれば珍しきなり」と、
前向きの逆説的な発想をしたと、言われています。

花を散らさず残すという工夫の方向でなく、
散るからこそ美しいのだという視点に立ち、
あるいは、さらに積極性を醸成し、「散らす」ことで、よりその花の新鮮さや美しさを、いっそう際立たせ、花の新たな生命を待とうと考える。
世阿弥の立脚した「根本思想」はここにあると思います。
世界のどこにも存在しない、思想と感じます。
とても難しい概念ですが、日本人の心を持てば、なんとなく理解できるような気がします。

>>続きを読む

本卦(ほんけ)還り

2007.10.12

中国は多くの英雄を輩出していますが、その英雄には必ず輔弼(ほひつ)の役を演じる脇役が存在します。その中でも最も好きな人物は「蕭可(しょうか)」という兵站と行政を担当した参謀です。

漢の司馬遷が著した「史記」には多彩な人物がたくさん出てきます。
その中で蕭可はひときわ異彩を放っています。彼が仕えた英雄はあの「高祖劉邦」です。
ご存知の様に劉邦は始皇帝が崩御した後、次の時代を作った人ですが「項羽と劉邦」の戦いはあまりにも有名です。
貴族出の項羽と違い劉邦は農民上がりで小さな勢力でした。
その劉邦を自立させ、援助し、決起にまで持ち込み、最後には「項羽」の打倒までずっと輔弼します。この死闘は五年間にもおよびました。

蕭可は兵站等の一番苦労する黒子に徹し、華やかな戦場での働きは「張良」という名族の軍師に委ね、全体像を鳥瞰する立場を一生とり続けました。
孫子の兵法の「~戦いは兵站にあり」です。
現在国会で問題になっている「インド洋での海上自衛隊の給油活動を行うテロ対策特別措置法」も日本が支援するいわば兵站戦略ですね。

先日、お世話になった大先輩二人の「還暦のお祝い」のお誘いがありました。
すでに私は重要なお客様と会食の予定がありましたが、当然のことながらその会食を変更し、このお二人の大先輩の「還暦」のお祝いに駆けつける事にしました。私はこの二人に「商いのいろは」を叩き込まれましたので時代や環境や立場が変わってもこの関係は不変です。
満60歳を迎えるお二人との交誼には多くの思い出があります。

時に、
長寿の祝いに「古希(こき)がありますね。
「人生七十古希稀なり」と詠ったのは唐の詩人・杜甫です。古代ではそれほど稀だったのでしょう。
喜びの「喜」は草書で七を三つ書きますね。ですから77歳を「喜寿」というんだということを祖母の祝いのとき知りました。祖母は「米寿(べいじゅ)」の88歳を全うせず、87歳で生涯を終えましたが、とても孫思いの祖母でした。

さて、
秦の始皇帝が周辺の六国(りっこく)を打ち滅ばして中国全土を支配下に治めたのは紀元前221年です。
そして、蕭可がその多彩な能力を発揮して高祖劉邦をして、漢帝国を樹立したのは紀元前202年です。
実は還暦の元となる十干と十二支はすでに使われていたようです。

中学の歴史で習った日本での暦の導入ですが、漢帝国の樹立よりずっと後の604年で、推古天皇の即位とあわせて発令されました。
これと同期して日本の建国は神武天皇の即位の日を二月十一日と定め、「紀元節(きげんせつ)」といって建国記念日としていることは周知の事実です。子供のころ祖母が家の前に「日の丸」を掲げたことを記憶しています。

>>続きを読む

本多厚美 リサイタル

2006.12.13

数年ぶりに見た「本多厚美(ほんだ あつみ)」は見違えるような洗練された気品を備えていた。

七百年前にお能の天才「世阿弥」が著したかの有名な「風姿花傳(通称・花傳)」があります。そして、その別紙に「第一年来稽古條々」がありますが、これは能稽古の極意が年代別に著されたものです。
その中に「五十有余」という節があります。
本多厚美リサイタル」を聴いて「花傳」を思い出しました。
世阿弥は能の極意を父「観世弥」から受け継いだと言われていますが、その観世弥が亡くなったのは世阿弥が22歳のときです。もちろん現代と七百年前では「成人」の概念は異なりますが、この年代で父の偉業をすべて受け継ぐのは難しいかと思われます。しかし後世の我々は「世阿弥」の天才的な能力を知っています。
するとやはり、父を亡くした世阿弥は本来その天才の能力を遺伝子の中に秘めていたという事でしょう。
きっとそれは、彼自身の潜在能力がその後を左右したのでしょう。
それも世界的な天才芸能者として。
父が四十代で亡くなっていますので、世阿弥がこの花傳で述べる「五十有余」は彼自身が歩んできた彼の理なのだと思います。
さて、その理ですが、抜粋すると、
物数をば、はや初心に譲りて、安き所を、少々と色へてせしかども、花はいやましに見えしなり。これ、まことに得たりし花なるが故に、能は、枝葉も少なく、老木になるまで、花は散らいで残りしなり。
  物数=「ものかず」数々の曲を演ずること
  初心=初心者の意味で世阿弥は謙って自身のことをさす様です。
  まこと=本当に幽玄(花)を会得したこと
  枝葉=技が少なく、芸が枯淡になること。
この節を読むと、世阿弥は自身の能楽の大成を五十代と考えていたようです。
七歳から始まる稽古條々ですが、この「五十有余」で完了します。実際の世阿弥は四十代から不遇の老年時代を過ごす事になりますが、しかしその事が彼に多くの時間を与え能楽理論の大成を成し遂げたとも言えるのではないでしょうか。

さて、気品に満ち溢れた「厚美ちゃん」はというと。
ここ4-5年見違えるほどチャーミングになりました。
年を重ねる毎に若々しく感じます。
著名な老ピアニストを従えて現れた彼女は16世紀のヨーロッパ風のピンクのロングドレスを裾捌きも美しくステージに立ちました。ドレスの裾は黒が基調で輝いて見えました。胸には大ぶりのネックレスとロングのイヤリングです。
そして、ピンクのドレスに合わせて淡い色合いのショールと靴はシルバーの高めの踵という出で立ちでした。

最初の歌曲は歌劇「ウェルテル」でしたが、少々硬めな表情でしたが、それも数曲重ねると彼女本来の声質になったようです。
素人の僕にはたくさんの人が出てくるストーリー性のあるオペラと違い、リサイタルでの歌曲は難解です。入り口で配られた歌詞カードを追って行くのがやっとです。


〔これは今回のサントリー・ホールで開催された時のポスターです〕

Mozart モーツァルト
Abendempfindung K523 ラウラに寄せる夕べの思い
Le Nozze di Figaro K492 Voi che sapete
オペラ 『フィガロの結婚』~恋とはどんなものかしら
Cosi fan tutte K588 Ah scostai, Smanie implacabli , che m'agitate
オペラ『コジ・ファン・トゥッテ』
~ああ、あっちへ行っておいで!
~胸をかきむしる狂おしいばかりの苦しみよ

Massenet マスネ
Werther Air des letters
 オペラ『ウェルテル』~手紙の歌
Mascagni マスカーニ 
  Ave Maria  アヴェ・マリア
  Cavalleria Rusticana Voi lo sapete o mamma
  オペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』~ママも知るとおり
Chabrier シャブリエ
  L‘Etole Romance de l'etoile
  喜歌劇  『星』~星のロマンス
Alfanoアルファーノ  
  Risurrezione Dio il bel sogno
  歌劇『復活』~お慈悲深い神様
Bizet ビゼー 
  Carmen Seguidilla ~ Habanera  
  オペラ『カルメン』~ハバネラ
Saint-saens サン=サーンス
  Samson et Dalila Samson・・Amour ! Viends aider ma faiblesse
  オペラ『サムソンとデリラ』~愛よ、わたしに力を与えてくれ

>>続きを読む

秋刀魚解禁

2006.10.15

秋の魚は美味しいものが多いです。

イワシ〔鰮〕、サンマ〔秋刀魚〕、サバ〔鯖〕、カツオ〔鰹〕等々キリが無いほどたくさんあります。
この中でカツオ以外は大衆魚です。といっても昨今の漁獲高を考えるとだったと言うほうが正確ないい方でしょうか?
さて、美味しさが伝わる言い方として季節感を出した呼び名で呼ぶ様になったのはいつごろからでしょうか?
◇秋イワシ
◇秋サンマ
◇秋サバ

昔からイワシの産地は千葉県の銚子や宮城県の石巻が有名でした。ここ数年のイワシ漁獲高の激減は市場価格へ跳ね返っていますが、もとは大衆魚です。捕獲されているイワシも年々「小型化」しているとの見方もあり明らかに先行きの不漁を暗示するものとなっています。

イワシの種類は多くあるようですが「マイワシ〔真鰮〕」「片口イワシ」「潤目(うるめ)イワシ」の三種類が一般的です。このうち、マイワシは中々食べる事はできなくなりました。お目にかかるのはこだわりを持つおやじが経営するおすし屋さんや小料理屋くらいです。
子供の頃は良く母が父の為に「真鰮の刺身」や「真鰮の焼きたてに大根おろしを添えて」出していました。父はそれを美味しそうに晩酌をしながら食べていましたが、自分のお皿の半分くらいは祖母へ上げているのを目にしたことがあります。
祖母は僕に豆コーヒーを淹れるようにせがむほど「ハイカラ」でしたが、イワシが大好きな人でもありました。そのことを知っている父はいつも祖母に多くを分けていたのだと思います。
最近は僕の田舎でもイワシの「お刺身」は食べれなくなりました。
残念でなりません。

片口イワシはやはり「煮干」の代表格で、刺身や焼き魚では頂けない味です。それでもこの時期には脂が乗っていますので、なんとか「丸干し」程度にはできるでしょうか。
でも味噌汁やお吸い物には無くてはならないものでした。最近は科学調味料ですよね。
それから、
丸干しとなるとやはり「潤目イワシ」が最高です。四国では一般的でも関東には多くは回遊しないようです。しかしこの時期の「潤目イワシ」は最高です。脂ののった一夜干しのウルメは本当に最高に美味しいイワシです。
これも中々お目にかかれなくなりました。
これからイワシはどうなるのでしょう。

>>続きを読む

豆腐と旬のもの

2006.07.09

昨夜京都から帰宅しました。

京都では「豆腐」を堪能しました。
豆腐はその昔「漢の淮南王劉安」が造ったといわれています。劉安はかの高祖・劉邦の孫にあたるので年代は紀元前二世紀ごろになります。とっても古い食材という訳です。
日本で豆腐が文献に現れるのは「平安末期」だそうです。平安といえば勿論場所は「奈良」という事になりますね。
奈良はこの豆腐のほかに「茶の湯の開祖」が村田珠光が生まれたり、「饅頭」も奈良がら全国伝わったといわれています。奈良は平安遷都以後文化の主流から外れているにも関わらず意外と不思議な「古都」の輝きを放つ文化圏といえますね。
それはきっと泉州堺という文化を受けやすい港に近かったせいでしょうか?

豆腐の造りかたは原始から現代まで基本的には変わっていないそうです。既に日本人の食卓に一般的になってしまった「絹漉し」は近年ものです。
豆腐の造り方は「時代がさかのぼる」ほど、
都市から「遠ざかる」ほど、
硬く引き締まった豆腐」になるそうです。
そういえば子供の頃田舎で食べた「綿漉し豆腐」は本当に硬く引き締まってました。
柔らかい」絹漉しを初めて食べたときその食感に驚いたものです。

そういえば中国でもよく豆腐を頂きますが、
少し感覚が違う事に気づきます。
私たちは豆腐を食べるとき「冷奴」や「湯豆腐」を好んで頂きます。このシンプルな豆腐の食材を十分に味わえる食べ方を日本人は好んでいます。
が、中国ではそのまま使われずに加工する事が多かった事を思い出しました。
「醤豆腐」とか「臭豆腐」などの加工豆腐が一般的と聞いたことがあります。
日本で豆腐の加工は「乾豆腐」くらいです。
奈良も京都も大陸にかなり気候が似ていますが、より湿度の多い土地柄で加工豆腐が少ないのは生物が好きな国民性でしょうか?

>>続きを読む

禁煙と大気汚染と

2006.06.16

6月始めの日経NETに「JR東日本の新幹線、全面禁煙に・来春から」と云うニュースが流れました。

愛煙家にはまたしても肩身の狭い思いとなりますね。2007年春から東北・上越新幹線と在来線の特急車内を全面禁煙だそうです。すでに新幹線では、長野新幹線と九州新幹線が全面禁煙を実施中とのこと。在来線ではJR北海道の全線とJR東日本の成田エクスプレスなど一部の特急が既に禁煙になっているらしい。そういえばNEXはいつも禁煙でしたね。

世界中でどのくらい愛煙家がいるか考えたことありますか?
そんな事判る訳ないと思いますよね。
ところが、「世界の喫煙者」は推定で「約11億人」いるそうですよ。
現在、世界の人口は約65億2000万人強ということです。計算上、1分で150人、1日で20万人となり、1年で8千万人も増えるそうです。
当然亡くなる方も多く、1年間に約6千万人が亡くなるそうです。

そこで少々ショッキングな数字を。

2002年中国の喫煙者はなんと推定約3億5000万人いたそうです。現在増え続けているそうです。日本の人口より多い〔笑!!〕
ですから世界の喫煙人口の約3分の1を占めると事になります。
そして、
肺がん」など喫煙による疾病で亡くなる人は「年間約100万人」で、2020年にはなんと200万人に倍増すると推定しているそうです。
その上年々中国の愛煙家は増え、且つ若年化が急速に拡がっているそうです。
この数字は三年も前の数字ですが、「タバコによる因果関係」で100万人ですよ。

タバコの吸い過ぎで年間100万人の死亡
どう考えて理解できない数字だと思いませんか?

この報告書は「中国衛生省」が発表していますが、その中でこの様な強烈な警鐘をしています。
  喫煙の抑制が「民族の隆盛にもかかわる」と。

ちょっと大げさかも知れませんが、
この数値が本当ならば頷ける警鐘と思いませんか?
特に欧米でも日本でも問題になっているタパコを吸わない人の保護として「副流煙」の影響が出やすい公共の場での禁煙を早急に法制化するなどの対策の必要性を報告書に纏めているようです。オリンピックも開催する事ですし、相当頑張らないと。

>>続きを読む

健康と食品と食育

2006.06.12

平成の企業戦士の健康は?

ベンチャー企業にとっては戦国時代同様「弱肉強食」の世界が当たり前ですが、何事にも大事なのは自身の「健康」です。よく「体が資本」といいますが、まさに平成の企業戦士として戦い抜くには「健全な肉体」が必須条件です。
人間の三大欲望は「食欲・性欲・睡眠欲」と古来より言い表されています。この三大欲望が人の全てを支配している訳ではありませんが、衣食住と隣接したところにこの三大欲望が存在しているのは確実の様です。このことを基本として我々は各自それぞれの生き方で「今を生きている」と言えます。

ですが、現代社会の状況ではこの基本生活に齟齬が少しずつですが現れている様に感じます。
先日の「NHKスペシャル」で『“好きなものだけ食べたい”~小さな食卓の大きな変化~』(6月4日(日) 午後9時~9時49分・総合テレビ)というのもその一つと思います。この番組だけでなく最近こうしたテーマで取り組んだ番組は多いようです。
【要約すると】
「今、子どもの間に、「好きなモノだけ食べたい症候群」が広がっている。「写真記録調査」手法で、子どもを持つ首都圏の家庭を対象に行った6000食の調査では、家族が食卓を囲んでいても子どもは全く別々のモノを食べる「バラバラ食」、子どもが好きな時間に食事をとる「だらだら食」、子どもが好きなモノだけよりどりみどり食べる「単品羅列型食」など、「好きなモノだけ食べる」傾向が顕著になっている。一方で、子どもの運動能力が低下したり、糖尿病・高脂血症など子どもの生活習慣病が増加しているという報告もある。」というものです。見ていて恐ろしい将来が想像できそうです。

アンバランスな食事、行き過ぎたダイエット、結婚しない男女、少子化、不眠現象等々「健康」を基本生活として軸におくと、「食育」「性育」「眠育」の基礎教育が見直されるべきと感じます。

>>続きを読む

ちゃんこ鍋・佐賀昇

2006.06.09

宮沢りえちゃんが妖艶に「な。ええもんでしょ?」 
本木君がぐっとシックに「ああ、ええなあ
そして、りえちゃんが「たまにはこうして仕事のことぜーんぶ忘れて… 伊右衛門はん?
本木君「ほんま、ええ水や」 

このサントリーのテレビCMの本木雅弘1991年に主役制作した「シコふんじっゃた。」という青春ド根性映画がありました。
ストーリーの厚みはありませんがとても「楽しめる青春相撲映画です。監督は「Shall We ダンス?」でヒットの栄誉と奥さんを一度に手に入れた周防正行氏です。
相撲は「国技」として非常に保護されているスポーツですが、多くの人の娯楽になったのは神社仏閣が興行主となって「勧進相撲」を行なったのが始まりと言われています。この時入場料を取りますが、いわゆる「木戸銭」は社寺の建築費の資金集めが目的でした。
江戸での最初の「勧進相撲」は1684年〔天和4年〕の正月のことであったということです。この「勧進相撲興行」はとても有名でいろいろな歴史書にで出来ます。この年の二年前に有名な「お七火事」で日本橋はほぼ半焼し、3500人以上の死者を出しました。この勧進相撲興行は火事で焼けた「富岡八幡宮」の再建の資金集めが目的でした。
8日間も開催されたようです。それだけ力士の数が存在していたと言うことでしょう。


〔国技館の入り口付近には力士の上りが所狭しとはためいています。朝青龍の幟〕

すでになじみのある「ちゃんこ鍋」はお相撲さんの食事のことです。
先日、数名の知人と一緒に「ちゃんこ鍋」を頂きました。とてもおいしいちゃんこでした。幹事の方に感謝!
この会合はともてユニークで洗練された方々が多く集まります。数回前より無理を申し上げて参加させて頂きました。今はとても楽しんでいます。
お相撲さんが引退すると「ちゃんこ料理屋」として再デビューすると言う訳です。でも、これは力士の時と違い「経営」ですので、いろいろ大変なこともあると思われます。「ちゃんこ鍋」はもちろん部屋ごとに「秘伝」があったようですが、一般の人が食べやすくアレンジされていると思われます。
お相撲さんが食べるのですから「太る」ことを目的とした食べ物と考えがちですが、実際は意外と「野菜たっぷりでのヘルシー料理」なんです。
スープの味は「味噌」「しょうゆ」「塩」があるそうです。
始まりはやはり江戸時代だそうで、名の由来は、長崎に巡業した力士が中華鍋の「チャンクォ(ちなみにクォは鍋の意)」の料理法を取り入れたことから、という説が有力だそうです。


〔ちゃんこ鍋・佐賀昇の入り口〕


〔佐賀昇は二階ですがシックなBARが一階にあります〕

>>続きを読む

イサム・ノグチと遊び

2006.05.21

子供達と遊び道具

今の子供達と自分が子供だった頃の違いを思い起こすと、その多くが「兄や弟」の事であったり、「近所の沢山の遊び仲間」であったりします。
そしてそこには必ず存在する延々と受け継がれた「遊びの方法と遊び道具」がありました。
子供時代は「海」も「川」も「山」も、その範囲にありました。

子供と子供の遊び道具は「生まれた風土より培われた一つの文化である」と言った人がいます。まさにそう感じています。子供たちの中で自然を利用した遊びは次から次へと伝承されて来ました。
多分、子供はその「直感によって道具の本質と機能」を取捨選択してきたのだろうと思います。
勿論現代に生きてる都会の子供達にも自然を求める本能はあると思いますが、昨今の密室化された人工的環境の中にあっての「自然」は中々手に取ることが出来ないのが実態です。時たまサラリーマンが都会から回帰現象のように田舎に暮らすと言い出す人がいます。そのサラリーマンにお子さんがいれば、その子達こそ「幸運な自然児」になれる可能性が無い訳ではありません。
しかし、殆どの都会の子供達は「カブトムシ」や「クワガタ」はデパートやお祭りの屋台の駕籠の中にいる「虫」で「お金」と引き換えに手に入れるものと半ば諦めています。虫が自然に生息している事はある程度理解しても「実態」が無く、「その自然環境」に入り込む事は殆どの子供達からは遠く離れすぎています。動く本物の「」は、本物と意識はあってもお金で買ったものであくまで「標本」に近いものです。虫が生息する自然環境やその生態を全く知らないのですから。
特に昨今では「虫」をビジネスの一つの商材にしています。

イサム・ノグチ1933年ニューヨークが主催したコンペに参加しまた。
その模型の名前が有名な「遊び山」〔 ブロンズ模型〕ですが、現在「横浜美術館」で『イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展』〔2006年4月15日(土曜)~6月25日(日曜)〕の展示物のリストに載っています。

このニューヨークのコンペに参加したイサムは市のワンブロックを全て取り壊し起伏に富んだ人工的な「遊び山」を作ろうと考えていた様です。この構想が実現すれば前代未聞の壮大な彫刻となるはずでしたが、ニューヨークはこの提案を拒否します。と言うよりははっきりとした「嘲笑」でした。その後もハワイ・アラモアナの遊園地やニューヨークの国連本部の遊び場などの模型を作り、働きかけますが、それらも含めて全て却下されました。


〔イサム・ノグチのつくばい〕
知人から送られたイムサ美術館に展示されている「つくばい」

>>続きを読む

充電と放電

2006.03.26

充電と放電

三週間ほど前に知人からeMailを受け取りました。
ニューヨークからでした。
外資系IT企業を退職し長い「充電と放電」の期間に入るそうで、その第一の行動がここ「ニューヨーク」だそうです。単身で全てを自分で計画し行動する。僕にはとても真似出来ない大胆な発想と行動力には脱帽します。NYの滞在目的は「イサム・ノグチとミュージカルと美術館」だそうです。仕事も観光も知人との再会もせず、ひたすら「美術品」を漁る。それはきっと「美しくクリエイティブな造作物からエネルギーを吸収する」事なんだと、その文面から理解〔?〕しましたがなんと優雅で行動的でしょう。
羨ましくも在ります。
その知人へのメールのお返しに、国立スミソニアン協会の「アーサー・M. サックラー美術館」で開催される「葛飾北斎・扇持つ立美人図」の【案内】を送りました。
この展示会は日本経済新聞社が主催で昨秋、東京・上野の東京国立博物館で開催した「北斎展」を同社創刊130周年記念事業として計画されたものです。もし知人がNYからワシントンに移動するのであれば、是非フリーア美術館も含めて見学したらとお誘いしました。
知人はNY滞在を満喫したらしく、西海岸に移動したときに当初の予定を全て消化した事を伝えてきました。「ノグチ・イサム美術館」「MoMA」「数本のブロードウェイ・ミュージカル」「イサムのNY市内の展示作品」等々だそうです。素晴らしいと思います。手持ちのデジカメは既に300ショット以上で帰国後Fickrに上げるそうです。今からとても楽しみにしています。

スミソニアンの「葛飾北斎」の見学を提案したのは訳がありました。
勿論、彼の70年におよぶ芸術家としての作品を見学することなんですが、実は寄贈者の遺言により門外不出とされているフリーア美術館の屈指の肉筆画コレクション約40点の展示が予定されているからです。日本の北斎が描いた「肉筆画」は日本で見られる可能性はほぼゼロに近いのです。

>>続きを読む

赤坂由香利

2006.01.14

今までに聴いた事のない音質を持つ「赤坂由香利」を聴く!!


以前、知人から自分の姪の話しを聞いたことがあります。その姪はジャズ・ボーカルを目指しているそうです。場所は大阪でジャズ・クラブで前座を務めているとの事。最初はそのクラブで時給800円のウェイトレスからのスタートだったようです。今は、前座のボーカリストで時給が3500円だそうですが、まだまだ食えないと知人は「嘆いて」いました。そういえば、小社に20代の始めにジャズ・ボーカルを目指した女性メンバーがいます。今はキャリアを積んで中核になって欲しいと成長を期待しているところです。彼女曰く、「お金を頂いて一曲でも歌うとことは、とっても大変な事です。」と経験を踏まえて話していました。

赤坂由香利」は多くのジャズ・ボーカルが食うや食わずで凌ぎを削っているこの業界で、著名なあの「レイ・ブライアント〔P〕」の耳にとまり、その才能を賛美されたといわれる「ボーカリストでジャズ・ピアニスト」です。彼女の音質は一度聞けば忘れる事のない「低音でかすれ気味の独特の声」です。それが彼女の風貌や選曲にマッチして「赤坂由香利ワールド」を作り上げているのでしょう。

P1010851.JPG
〔観客は売り物の高級家具に座り飲み物とスナックを振舞われる〕

ジャズ専門誌の「スイングジャーナル」で彼女が昨年の5月に発表したアルバム「Rainy Afternoon」が、人気アルバム部門で13位にランクされています。彼女曰く「初回プレス2万枚でしたが、一年で綺麗に片づき後、手持ちで100枚は切っています。お早めにお求めください。」と苦笑しながら「一枚でも多く買ってください!!」とエンディング・ソングにハスキー・ボイスを出していました。

赤坂由香利トリオのベーシストは熟年「古野光昭」がジョインしています。彼も「スイングジャーナル」のベース部門で2年連続ランキング2位の人気度だそうです。音響がいまいちのこの会場で苦労しながらいい音を聴かせていました。
P1010845.JPG
〔かって聞いた事のない洗練されたハスキー・ボイスを持つ赤坂由香利〕

yukari_01.jpg
〔2ndアルバム/Rainy Afternoon /13位にランクインした〕
Yukari Akasaka/ Vocal,Piano
Mitsuaki Furuno /Bass
Hideo Sekine / Drums
Manabu Ohishi/ Piano,Keyboard

>>続きを読む

早間美紀

2006.01.08

待ちに待った「早間美紀カルテット」が来る!
P1010646.JPG
〔7:30pmやっと入り口のネオンが点いた〕
【入り口のボードには「早間美紀率いるカルテット 」示すメンバー構成が書き込まれている】

一昨年の秋のその夜は師匠の誘いでしばらくぶりのB&Sだったのでした。その時の彼女の印象は「小柄なピアニストだなぁ」という感じでした。ツゥー・ステージの演奏を十分に堪能し師匠とB&Sからコットー通りに出ました。表参道の帰り道に「あのパワフルでハイタッチで小柄なピアニストは誰!!??」の話題で持ちきりでした。二人にとっては「大発見!!」だったその夜は相当興奮状態でした。彼女は今夜のために米国から一次帰国した「早間美紀」というピアニストでした。その夜のクルーは「大野俊三(tp)山口真文(ts)早間美紀(pf)杉本智知(b)奥平真吾(ds)」のクインテットでした。

当時、師匠から誘われたときには「じゃぁ久しぶりに奥平真吾のドラミングでも聴きにいきますかぁ」と言ったノリでB&Sに集合したのです。勿論、奥平真吾は良かったのですが「彼女のピアノ」にすっかり度肝を抜かれた感じでした。
でも、その後ぷっつり「早間美紀」の国内での演奏活動はありませんでした。

そして突然の師匠からのメールです。早間美紀の来日スケジュールに関してでした。さすが師匠良くぞ見つけましたものです。
その間僕は、B&Sに一歩も近づくことが出来ないくらい多忙でした。師匠はというとどうも僕抜きで数回は足を運んでいた様子です。最も僕にメールを出しても返事を期待しない師匠特有の優しさと僕は拡大解釈をしていますが。どうでしょうかねぇ。
いずれにしても師匠の指示通りに二人の予約を確定しました。
が、なんと前日から季節外れの台風が関東地区に接近し、このままのコースを取ると、その晩は都内直撃の予想です。
こりゃあ、行けないゃ。とメールのやり取りが飛び交う当日でした。豪雨に弱い都内の交通事情を考えると、天気予報を信ずるしかなさそうです。ここが思案のシドコロ。
結局、帰りを心配して予約はキャンセルとなりました。
ところがです。
後日、師匠とB&Sに行った時、その話題をすると、京子ママ曰く「もぅ。大変だったのよぅ。台風ですごい雨でしょう。それに風もすごかったのょ。でもねぇ。大盛況だったのょ!!」の一言。しばし師匠と僕は京子ママの顔を呆然と見た後、互いにがっくりと「残念」に思ったものです。
そしてまたもやその後の彼女の消息はなし。
NYに帰ってしまったのです。

P1010631.JPG
〔B&Sのお店のロゴと井上陽介のベース〕

そして今夜の早間美紀(pf) は「N.Y.カルテット」というタイトルで登場したのです。
今夜のクルーは「ビタリ-・ゴロブニョブ(tp) 井上陽介(b) 倉田大輔(ds)」のカルテットでした。テーブルチャージも一昨年から500円UPの\4,500です。ロシア出身でNYで活躍するトランペッター、ビタリ-・ゴロブニョブをフィーチャーしての来日ツアーとなりました。
アンコール曲とまだ題名の無い三曲を含めて11曲を披露した。その内ビタリ-・ゴロブニョブのオリジナル曲を一曲吹きましたが数日前まで「名前の無い曲」でしたが、彼は日本は初めてでしたが「焼肉」に感激し、その曲を「ヤキニク」と命名しました。

P1010624.JPG
〔今夜もボディ&ソウルはジャズ愛好家を待っている〕

>>続きを読む

WOON SUN

2006.01.08

益々パワフルなハスキー ヴォイスが響くWOONG SUNのステージ!!

今夜はお客様と韓流歌姫にぞっこんな師匠と三人でB&Sに集合しました。外は木枯らしの寒さですがB&Sの室内は程よい暖房で韓流歌姫を迎える紳士としてはジャケットを着用すべきですが、気分をすっかりリラックスした頃には脱ぎ捨てて「スィング」出来る暖かさでした。
そして、快い弾んだ気持ちで帰路に着く頃、冬の澄んだ寒さと強風の為か夜空を見上げると珍しく東京でも星が輝いています。
オリオン座が南中する頃夜空は華やかな「冬の星座」に代わります。冬の星座は「明るい星」が多いといわれています。空のクリアーさも手伝ってコットー通りの頭上にもキラキラ輝くオリオン座を捉えることが出来ます。
「明日も天気だけど寒そぅ。。。。」

P1010629.JPG
〔開演前に腹拵えをせねば〕

B&Sの食事はジャズを聴きながらお酒を飲み、簡単な「おツマミ」で済ますというものでなく、一般的なレストランでも十分な通用する食事メニューがあります。勿論専門店でありませんのでメニューの品数は限定されますが京子ママ曰く「うちの食事はとってもおいしいわょ」と。

2003年の年末に韓流歌姫はB&Sで国内初めてその美しくハスキーな歌声を披露しました。そしてあの厳しい京子ママを唸らせた。その時のクルーは鈴木央紹(ts),嶋津健一(pf),加藤真一(b),小島勉(ds)のカルテットにWOONG SUNのボーカルでした。今はカタカナで「ウンサン」と表記していますが、当時は「ウオンサン」といっていました。

P1010651.JPG
〔B&Sマッチ〕

WOONG SUN.jpg
〔定番となった彼女のスチール〕

>>続きを読む

熟年デヴィッド・サンボーンがパワフルに!!

2005.12.18

60歳を迎えた「ディヴィッド・サンボーン」は益々パワフルで優雅でした。

david01.jpg
〔ニューアルバム/クローサー〕
NYの名門ジャズ・クラブ“ブルーノート”が「ブルーノート・東京」として青山に誕生したのは1988年11月との事です。以来、何度かの経営危機がありましたが今年で設立17年を迎え数々のビックイベントを開催しています。主に内外のジャズメンやフュージョン系の海外アーチストが出演しますが時には「井上陽水」など異色のアーティストも出演します。この陽水の2日間限りのスペシャルに聴いたと思っていましたが当然ながらチケットを手にすることは出来ませんでした。老舗NYの「BuleNote」に初めて恐る恐る入ったのは25年前で小さな店内に驚いた記憶があります。近くの「ボトムライン」や「ビレッジバンガード」も盛況でついつい寄ってしまいます。当時は飲み物と1ステージで15ドル程度だったと記憶しています。25年経った日本のブルーノートは10倍の料金という事ですね。年収は数倍なのに。
david_02.gif
サワノ・ジャズ沢野さんも言っていますが「JAZZは感じるもの」で知識は興味があればでいいと思います。ジャズのスタイル論や歴史は本気に調べないと難して理解しにくいと思いますが、美しいとかスィングするとかは誰でも出来る能力です。そしてやはりジャスは生演奏がいいと思います。時間と資金があればライブをお勧めします。

そしてこの夜、満席の客席を縫って大御所「デヴィッド・サンボーン」が登場しました。今年の夏で満60歳です。約1時間半にアンコールの二曲を入れて10曲吹きまくりました。
メンバーはデヴィッド・サンボーン(サックス)、ジェフリー・キーザー(キーボード)、マイク・ポープ(ベース)、テリオン・ガリー(ドラムス)、ドン・アライアス(パーカッション)のクインテットでした。彼のフル・ネームはデヴィッド・ウィリアム・サンボーン。
観客の年代層はやはり50代から60代が圧倒的で僕の前後左右も同年代でした。中には20代の若者もいましたが、僕らより少しの上の70代の往年のジャズファンも沢山聴いていらっしゃいました。そして、アーティストと観客が一体となって会場が沸きました。
collage1.jpg

>>続きを読む

和食と塩分

2005.12.11

先ごろのニュースで「和食はこんなにすごかった」〔読売新聞・YOMOURI ONLINE 12月7日〕という記事に共感しまた。


その冒頭で「食べ物はに食べるのが一番おいしいのはもちろんですが、夏の野菜火照った体を冷やして脱水症状にならないよう十分水分を補給できるもの、冬の野菜は体をおだやかに温めて血行をよくするもの、というように育つ季節に必要な機能が備わっている」という古来日本人が食生活に取り込んできた理(ことわり)があります。以前のブログで健康管理をするには特に「魚」が良く、「お刺身」も一つの健康食材です。「魚の油は心臓病予防に効果」があると実証されているようです。それは「イワシやサバ」などの青魚(いわゆる光物)に多く含まれる油の成分をとると「心臓病になるのを減らす効果」があるということでした。横山光宏・神戸大教授(循環器病学)らが日本人約2万人を対象にした大規模臨床試験で確かめられたそうです。

次に、
「秋から冬にかけての魚は、寒ブリにしても戻りガツオにしてもたっぷりと脂が乗っています。冬にこれを食べると、体にちょうどよい脂肪やカロリーがちゃんととれるしくみになっている」そうですよ。なんて日本人の食生活リズムはすごいんだろう。鰹は昔から日本近海の南から近づき北へ上りまた南に下るという南北移動を回遊しながら成長します。鰹は一定の緯度まで上るとUターンして南下を始めます。「下り鰹(稀に戻り鰹という人もいます)」です。黒潮と親潮が交錯する混合水域に「餌の倉庫」があります。ここで丸々と脂肪の乗った「下り鰹」に生まれ変わります。この時鰹が身につけた「脂肪やカロリー」が冬の日本人にはちょうどよいとことなんですね。なんてすばらしい。

>>続きを読む

今が「旬」の三陸の鰹

2005.12.04

鰹の「旬」は今!!

気仙沼港の今シーズンの一本釣り漁船による「鰹(カツオ)」の水揚げが11月30日に終わりました。
僕の子供の頃を思い出すと「鰹と鰹節」は一般家庭の食生活に深く関わり合いを持っていたと思います。その昔、武士が出陣する時「御神酒とスルメ・勝栗・鰹節・昆布」を三宝に飾り酒宴を張った事は小説や時代劇TVでよく知られています。少し前までは「朝の味噌汁」に代表される様に「鰹節」は調味料として万能でした。現代のように科学調味料が主流の食卓でも味にうるさいご家庭はきっと「鰹節や昆布」を上手に活用していると思います。最近の若い婦人は「ダシ」を取らずに味噌汁を作ってしまう豪傑がいるようですが。気仙沼の今シーズンの水揚げ累計は4,600百トン程度。国内ダントツです。二位の千葉県勝浦港が1,400百トンで大きく差があります。やはり鰹のメッカは金華山沖三陸沖の東北水域という事になります。ここには宮古釜石大船渡気仙沼と昔からの漁港が存在します。想像するに「鰹の一本釣り漁船」も年々廃業に追い込まれ、激減しているのでは。「萬久満」のオーナーの戸田さんが「築地市場の仲買問屋」が廃れて行くのを嘆くのと一緒で「鰹の一本釣り漁船」の後継者は殆どいないと言っていいでしょう。先日もTV番組で地中海沿岸のイタリアのシチリア島周辺の漁師の後継者はいないと現地の老漁師が嘆いていました。

鰹は昔から日本近海の南から近づき北へ上りまた南に下るという南北移動を回遊しながら成長します。北限は北から南下してくる親潮(鰹が乗っている海流は黒潮)の「(ふち)」が限界の様です。ここまで北上してきた鰹はUターンして南下を始めます。「下り鰹(稀に戻り鰹という人もいます)」です。黒潮と親潮が交錯する混合水域に「餌の倉庫」があります。ここで丸々と脂肪の乗った「下り鰹」に生まれ変わります。子供の頃よく食卓に鰹が出ましたが美味しいとは思いませんでした。理由は簡単です。南から北上して房総沖に現れた鰹はまだ痩せていて脂肪が少なく「うまみ」から程遠いのです。僕がよく食べた鰹は7月から8月にかけての夏鰹でした。30㌢程度のスマートな鰹でしたね。

稚魚は低緯度付近で生まれ螺旋状の回遊しながら3月ごろ先島諸島(石垣島)の南に現れ、4月から5月にかけて沖縄諸島から鹿児島周辺に近づきます。別なチームは5月に伊豆諸島周辺に現れ、6月になると房総沖まで上ってきます。一般には関東人はこの夏鰹を「」として食べていた訳です。

>>続きを読む

体温

2005.11.30

昨夜親しい友人から「体温と宿命」の話を聞き頷けるものがありました。

友人が説明するには「人の体温以下も食物を出来る限り摂る事を心がける事」だそうです。例えば野菜やお魚です。これらは人の体温より低いため、温かな人体では溶ける事が出来るそうです。反対に人より高い温度の肉類は、溶けずに凝固するらしいのです。特に牛肉の体温は人より相当高く40度を超えるそうです。温度の高いものは温度の低い物の中に入れられると必然的に凝固するのは当然の事です。欧米人より日本人のほうが成人病や長生きはそのせいでしょうか?

また、「気づき」により思考から行動に移し、そこで意識改革が行われ、意識が改善されると必然的に人格形成がより高度に導かれ、最終的には「運命・宿命」までも変えていく事が出来るという理論でした。ですので、友人は5時半に起床し、出勤前の約1時間を自分の研鑽のための時間を毎朝設け、睡眠の二時間前は食べ物を食さない事をリズム化しているとの事でした。とてもすばらしい。

友人と僕との話に途中から参加した二人の知人はとても控えめな若者でしたが、我々の話題に多くの反応を示す柔軟性を感じました。特に一人は英語と独語をマスターし、更にスペイン語に興味を示すという多彩ぶりでした。

友人の健康志向の話の中で特に「」の効能を「お刺身」を食べながら語っていました。ここに、「魚の油は心臓病予防に効果」というニュースがあります。それによると、「イワシやサバ」などの青魚に多く含まれる油の成分をとると「心臓病になるのを減らす効果」があるということでした。日本人約2万人を対象にした大規模臨床試験で確かめられたそうです。〔横山光宏・神戸大教授(循環器病学)らが、米テキサス州ダラスで開催中の米国心臓協会学術集会で発表〕
実験の内容は、
『総コレステロール値が250ミリグラム(血清1デシリットル当たり)以上の男女1万8645人を対象にした。全員にコレステロールを下げる薬を処方した上で、半数の人には魚の油成分、イコサペンタエン酸(EPA、エイコサペンタエン酸ともいう)を抽出した高純度のカプセル薬も毎日飲んでもらった。約5年間の追跡期間中に心臓突然死や心筋梗塞(こうそく)などの心臓病が起きた人の割合は、EPA薬を飲まなかった人では3.5%、飲んだ人では2.8%。EPA薬の服用には、こうした心臓病のリスクを19%減らす効果があったという。』だそうです。
この大規模な臨床結果を見る限り、お魚(お魚の油)を食べると心臓病のリスクを大雑把に二割減らせるという事になります。
そして、ここから先の「友人のリズム化」の話ではありませんが、
日本では欧米に比べて心筋梗塞などの死亡率が低い。魚を多く食べる食生活が一因と指摘されていたが、大規模な臨床試験で確かめられたのは初めて。今回の臨床試験に使われた薬はすでに、高脂血症などの治療薬として医療現場で医師が処方している。』
とあります。すごい彼の言うとおりだ。科学的な根拠が彼の生き方を立証しています。

>>続きを読む

来年のカレンダー

2005.11.27

今週の週末から師走です。師走になると「先生」も走りますが、ビジネスも佳境を迎える事になります。それと来年の「カレンダー」を頂く季節でもあります。

以前ブログに「マゼラン隊の航海日誌の日付と帰国したスペインの日付が一日ずれていた。この矛盾が「時差」であることは現代の我々はごく自然に認識できます。しかし、当時は大変でした。」という話をしました。そして「当時この問題はローマ教皇を巻き込んだ大論争」に発展した事もブログしました。
暦(こよみ/れき/カレンダー)は、日や月や季節の移り変わりを知るため、古くから暮らしに欠かせないものでした。お客様や取引先、友人、知人から頂く趣向の凝らしたカレンダーを頂く事は大変楽しみでもあります。
私たちは月の初めを「朔日(ついたち)」または一日といいます。この「」には〔第一日〕〔始め〕〔遡る(さかのぼ)〕といった意味があって「朔日」というのは「月立ち(つきたち)」を指す言葉で、籠もっていた月が出で来るという現象を表しています。そう考えると月の出から遡った新月を暦の第一日とする太陰暦の名残というのが頷けます。実は、「晦日〔みそか〕」も同じで「暗い」「」「つごもり」と言う意味があるそうです。月末、三十日を〔つごもり〕と言うらしく「月隠り〔つごもり〕」と書くそうです。
要は月を中心とした旧暦時代の数え方で、真っ暗(新月)な月末ということらしい。「月」の数え方は既にブログしました。
当たり前の事ですが、いま私たちが呼んでいる「朔日(ついたち)」はもう月の新月の一日目でないので、常に朔日が新月になりません。同じように「晦日(みそか)」は月末を指す言葉に変わってしまい「29日」でも「30日」でも「31日」でも「晦日」ですよね。本来は「三十日」なのに。

>>続きを読む

上弦の月

2005.11.20

P1010259.JPG

上弦の月には今しばらく時が必要ですが何れは欠けていこくとになります。それが自然の摂理です。宇宙のリズムです。
月は細い三日月から夜ごと大きくなり、この写真の様に右側が「光り」左側が「欠け」ていきますが、七日目にして「半月」となります。これが「上弦の月」ですね。
当然のごとく、さらに七日たつと、まんまるの満月となる訳です。
満月になった夜は、とても神秘的な出来事に会います。
日没後の東の地平線にまず満月が現われ、そして天上に移り、それから西の空に沈みますが、時を同じくして東から太陽が出始めます。日の出と月の入りの荘厳な森羅万象を同時に味わえることになります。皆さんも普通の出来事として何度も遭遇していると思います。

>>続きを読む

野菜とかっけの続き

2005.11.20

以前「キャベツと肺がん」というテーマで「野菜の効能を知らなかった中世の船乗りたち」のことをブログしましたが、その後続きを思い出しので書き加えることにしました。

キャプテン・クックが1768年にエンディヴァー号で彼としてははじめての公式な探検に出かけた事になりますが、ここで最新の医学的な学説の実証や実験的な技術の実証を試みています。それは長い間海軍が悩み続けた「かっけと懐血病」です。人間の身体がビタミンCを蓄えられる期間は六週間だそうです。その供給が切れると「懐血病」の症状が現れます。激しい倦怠感。歯が抜け、歯肉が腐る。関節が痛み、皮膚に腫瘍ができ、口や鼻や肺から出血し、最終的には死にいたる。というのが18世紀のこの時代の避けられない壁でした。その病気は周期的に発生しますので、一度に大量にクルーが発病し、船内が病人だらけになります。なので、この時代では「地図がない」と同じくらいに重大な問題でした。
彼はこの「かっけと懐血病」対策をやったのです。当時の海運省の「傷病委員会」がまとめた対策案と彼自身が必要と思われた方法の折衷案がどうやら功を奏したらしいです。彼がやった方法の一つが乗組員の「清潔さ」を保つ事です。体の洗浄と洗濯と船内の掃除です。1796年まで海軍の支給品に「石鹸」はありませんでしたので、多分この時は海水で水洗いした後、溜めた雨水で濯ぎをやったのでしょう。体も服も。
しかし、海軍が実験用に持ち込んだ「抗懐血病食品」は全く効果なかったようです。そして、クックが独自の判断で寄港地毎に必ず買い付けた「新鮮な野菜と果物」をクルーに食べさせる事を根気よく習慣付けましたが、皮肉にもこれがクルーの命を守りました。一日10㍉㌘のビタミンCを摂取すれば何万もの船乗りを救う事が出来ました。科学的にそのことを実証できたのは20世紀に入ってからです。

最近、飽食の時代においても「かっけ」が発生していますが、それはどうも食生活の偏頗によるものと云われています。特にインスタント食品に偏りがちな学生に、かっけの症状が表れるているそうです。ビタミンB1を摂取すると、その食べ物が消化され時「糖質代謝」が行われますが、その時に必要となる栄養素となっています。「ビタミンB1は、血液中の糖の消費に必要な補酵素です。インスタント食品やスナック菓子には脂質とともに糖質も多く含まれているのですが、この糖質の消費に必要なビタミンB1の摂取が足りていないのです。ビタミンB1の需要が多いのに供給が少ないために、かっけが起こります」と云う事だそうです。初期症状は、疲れやすい、体が重い、むくみがある、どうきや息切れがする、朝起きるのがつらい、食欲がない-など、いわゆる不定愁訴や心身症の症状が出るそうです。「心不全を起こす」危険性もあるらしい。
かっけは過去の病気ではなく、現代の食生活に隠された落とし穴です」という怖い話です。

>>続きを読む

キャベツと肺がん

2005.11.07

野菜の効能を知らなかった中世の船乗りたち

かっけ」はビタミンB1が欠乏して起こる病気です。飽食のこの時代には「かっけ」は殆ど死語に準ずると思いますが、最近心身症や不定愁訴などの「現代病」の陰に「かっけ」が潜んでいることがあるそうです。相当ぴっくりです。僕が今から話そうとしているのは帆船の行き交う「大航海時代」で16世紀から18世紀の話です。勿論「野菜とかっけ」の話ですが、それと同様に当時危険であった「懐血病」もあわせて話したいと思います。懐血病は体内のビタミンCの欠乏によって生じます。症状は脱力や体重減少、鈍痛があるそうです。

長い間船乗りたちはこの因果関係が中々解りませんでした。その為に多くの船員が「かっけまたは懐血病」により命を落としています。何万人のレベルです。この時代航海術が飛躍的に発達しました。スペイン、ポルトガル、英国はこぞって、海外に領土や金や香料を求め船出します。このことは長期化する船内生活をともないます。この時代のどの書籍にも登場する「かっけと懐血病」ですが、今回はウィリアム・アダムスの航海でそのことを話したいと思います。
マゼランは自身で命名したマゼラン海峡を一ヶ月の苦難末廻頭しています。英国ドレーク船長はマゼラン通過より58年目にここを廻頭しました。その間誰も通過していません。〔今式には〕
そして、20年後の1599年オランダ船籍の最新のガリオン船5隻が大西洋を南下し、マゼラン海峡に向かっていきます。その旗艦デ・ホープ号に英国人でありながら航海長の「ウィリアム・アダムス」が乗ってたいました。5隻の総勢500名は当時大船団の部類です。この船団の大きな間違いは航海士以上の役職者に大洋横断の経験者が独りもいなかったことです。結局マゼラン海峡に到達した時には真冬にあたり越冬を余儀なくされます。その間一人の船長と150名のクルーを失っています。
原因は大きくは二つです。「かっけと懐血病」です。この単純極まりない食材を手に入れにくい事と殆どの船員が「肉・肉・肉」で野菜や果物に興味を示さなかった起因していると言われています。その中でアダムス兄弟〔彼は知人と弟を同伴しました〕は全くの健康体で過ごしていました。それは海藻類や少しの陸地での合間に食せる野菜類を船内に持ち帰った事が幸運を彼に与えたいのです。彼は「かっけと懐血病」の原因が野菜不足から来る事を知っていた訳ではありませんでしたが、その様に信じた様です。その後更に二年を掛けて日本に漂流します。その後ご存知の家康の軍事顧問となり「三浦安針」となる訳ですが、機会があればブログに書いてみようと思います。500名いたクルーは150名に減っていました。三年間の生存率30%です。

>>続きを読む

便秘と野菜さらさら

2005.11.02

便秘

昨夜知人と「籠や」で「秋刀魚」と「メジマグロ」を頂きました。秋刀魚はたっぷりと塩で味付けした本格的な塩焼きで、ご主人がその場で焼いてくれました。とっても美味しく一瞬で頭と骨だけになりました。食事は当然の如く毎日する事なので、秋刀魚の「塩分」の摂取量を気にしていると、食事もあまり楽しくありません。かといって所詮、塩分を気にしないでいることは出来ません。要はバランスなんですが。
「日本人は1日に11~12グラムの食塩を取っているそうなんですが、
体にとって本当に必要なのは1~1.5グラム」だそうです。
取り過ぎということですよね。
塩分で思うのはやはり年なのか「血圧」を考えます。
僕自身は比較的血圧は平均値をずっと過ごしています。

食事の基本的は
肉を減らし魚、大豆、野菜、海藻を今より多く取る」事が大事だそうです。肉に含まれる飽和脂肪酸の摂取を減らし、魚や野菜などに含まれるカリウム、カルシウム、マグネシウムなどを多く取ることが、血圧を下げる効果につながるからです。
今より減らす」=お肉!!
今より増やす」=魚や野菜
と心がけるとけっこう実践しやすと思いませんか?
是非、皆さんも試してください。

秋刀魚を食べながら知人との食事の共通点を発見しました。
①食べあわせの知識を十分に理解し、実践する。「たんぱく質と炭水化物の関連性
②ご飯を死ぬ思いで「食べないように」頑張る。
そして彼は数キロやせて学生時代の体型に戻ったそうです。素晴らしい。

>>続きを読む

越前そば

2005.10.22

越前そばがおいしい。

久々に有楽町線「護国寺駅」に降りる。弊社のお客様を訪問するためです。チョードお昼時なのでランチを摂るためにお店を探すと思いがけずお蕎麦屋さんがあったので入りました。お店の名前は「越前そば・森信」といいます。「越前そば」を食べさせるお店でした。一杯目は500円で二杯目は300円となっています。初めてでしたので勿論一杯のみ。とても上品でコシのあるいい「おろし蕎麦」でした。また、濃い目の蕎麦湯がお茶と一緒に出できます。僕は濃いそば粉が入った蕎麦湯が大好きで二杯お替りをしてしまいました。実においしい部類に入るお蕎麦屋さんでした。
P1010017.JPG
〔お店の入り口はほのぼのとしたデザイン〕

P1010015.JPG
〔ピカピカに磨いたカゥンターは気持ちがいい〕
応対する女性もカゥンター内の蕎麦職人(ご夫婦?)もキビキビと動作が美しい

>>続きを読む

ダイエットと美容と「さば」

2005.10.20

ダイエットとさば

黒潮は一名を日本海流といいます。日本近海の最大の海流です。その存在はおそらく南海の漁民の間では太古から経験的に知られていたといわれています。古事記、万葉集にもその名が出てきます。前史時代の各地の遺物から見ても沖縄の宮古、八重山列島を経て一方が太平洋に、一方が黒潮分派となって対馬暖流となります。その事が、日本人の言語、歌謡、民具、漁具、衣服、建築、風習、伝説、民謡等々あらゆるものの伝播をこの黒潮によって辿ることも海洋研究者や文化研究者の間ではほぼ定説となっているようです。

魚群には殆ど彼らの過ごし易い海流と水温があります。「さば」は14-15度が中心で、海水の帯域では11-18度まで楽しく過ごせるようです。サバと同列の青身魚の「いわし」もほぼ同じ水温です。因みに秋の戻りカツオは18-30度で回遊する比較的温水の高めの海域を好むようです。

「さば」には、DHA(ドコサヘキサエン酸)や EPA(エイコサペンタエン酸などの不飽和脂肪酸が多く含まれている点が女性のダイエットや美容に優れており、最近では「秋刀魚」「さば」「いわし」を食する女性が多くなりました。愚生も40代までは全くおいしいと思いませんでしたが、ここ10年ほど「こんなにおいして魚はいない」と思うようになりました。年をとると体質改善されるのでしょうか? 日本人にとって、「サバやイワシ」は古くから蛋白源としての重要な食材です。平安時代には中男作物として貢納されていたり、鯖売りの行商が行われていたという記録があるそうです。また、年を誤魔化す時などに使われる「サバを読む」という言葉ですが、昔、鯖が大量に捕れ、かつ鮮度低下が激しいため、魚屋が数もろくに数えず大急ぎで売りさばいたのが起源という事です。なぜか頷ける起源ですね。食べ方は「しめ鯖」「塩焼き」「味噌煮」「干物」などあります。が、一番おいしいのがやはり「お刺身」です。ただし、どんな「サバ」でもお刺身で食べられるわけではありません。寄生虫のアニサキスがサバの体内に潜んでいるからです。俗に「鯖の生き腐れ」と呼ばれるように、一般の魚より幾分鮮度低下が激しく、人によっては蕁麻疹を発生させる事もままあります。何度も見ています。なので刺身として食べることには注意が必要です。

>>続きを読む

豆乳

2005.09.28

枝豆の後は豆乳だ!

枝豆の美味しい季節はとっくに過ぎて来年まで「旬」を待たなければなりません。
そこで枝豆のパワーを豆乳で得たいと常々考えていますが、美味しい豆乳に出会えません。
自宅の冷蔵庫には「既製品の豆乳パック」が常備されています。不味くはありませんが、やはり精製した感じがします。本物の「豆乳」を飲みたいと思っていました。
その本物の豆乳がここにあります。赤坂の繁華街のド真ん中に未だに昔の方式で豆腐を作っている「豆腐屋さん」の「本物志向の豆乳」というわけです。

P1000818.JPG
〔栄養満点濃縮豆乳250ml入り〕

富士経済が発刊する「特定保健用食品&有望食品市場2005」の中に「コレステロール改善市場」の調査結果が出ていますが、例の「血液さらさら」系の食品の市場環境が整ったとなっています。やはりメインは「油脂関連商品と豆乳商品」となります。特に豆乳製品市場は前年比30%増70億円の市場だそうですが、健康志向を反映しているのでしょうか。僕もその一人という事になりますが。

マルサン有機豆乳.gif
コレステロール低下作用が確認された特定保健用食品の調整豆乳だそうです。
『国産大豆のみを使用し、乳化剤糊料、香料などは使用しておりません。大豆固形分9%以上の濃厚なタイプの調整豆乳ながら、さらっと美味しく仕上げました。原材料:大豆(国産・遺伝子組み換えでない)、水飴、トレハロース、食塩、乳酸カルシウム、ビタミンE』それなりに素朴ないい味です。

>>続きを読む

月餅の思い出

2005.09.21

中秋の名月と月餅の思い出

Dr.XU Peng(徐 鵬・ジョホウ/シユ・ポン)さんから中秋の名月の晩にコメントを頂きました。
彼は清華大学計算機科学技術学部の大学院を昨年卒業した職員で且つ博士です。とても優秀な博士です。国家的なと言い換えるほど優秀な人材です。

Hi, WATANABE-san
Today is one of important traditional festivals in China, Mid-Autumn Festival (or Moon Festival). This festival means Reunion. So, every one always try to stay with his family as much as possible.
One greeting to you: Happy Moon Festival to you and your family. Enjoy the perfect moon tonight!

Best Wishes,
XU Peng

彼らしいとても優しげなコメントです。彼は30歳の独身の男性でとてもシャイな方です。ITに関する知識も開発力もずば抜けた能力を持っています。もう8年以上のお付き合いで、年に二度程度東京か北京で会っています。

>>続きを読む

リズムを会得

2005.09.18

昨夜は「オルフェウスの竪琴」をお話しました。
そして今夜は「中秋の名月」ですね。実は地球の軌道と月の軌道〔満月から三日月になりまた満月に戻る期間〕が微妙にずれる為に旧暦の8月15日が完全に満月にならない事もあるそうです。でも2002年から今年の2005年の間はほぼ欠けることなく満月を迎えているとか。宇宙には自然のリズムがあって、我々人間はこちらの尺度で時間を決めているだけです。なので「宇宙のリズム」が本来全てなのです。そこに合わせると自ずと「自然の摂理道理」に事が運ぶものです。
P1000805.JPG
〔中秋の名月は今夜から少しずつ欠けて行く事になる〕
太陽も含めてすべての星々は、見かけ上では北極星を中心にした回転運動をしています。よくこれに似た夜空の北極星を中心にした美しい夜空の写真を何度も見ました。北極星を中心にすべての星が軌道線を描いて波状のいくつもの円を描いているのです。日周運動のことです。これも宇宙のリズムです。
これは北極星がたまたま地軸の北の延長線上にあるためにそのように見えます。星空の中で、北極星さえ捜しだせれば正確な方位(東西南北)と自分のいる場所の緯度がわかる…ということは、船乗りたちにとってはとてもありがたい事でした。大海原のまん中にいて自分の位置がわかるのですからね。
今では、六分儀という計測器で測定します。
六分儀が登場するまでは、船乗りには非効率な航海と遭難とが付き物でした。
コンパスも六分儀が出来る前の革新的計測器でした。これは常に陸地を見ながら沿岸航法をしていた当時の人には画期的なものでした。紀元前当時の船乗りは「北極星を航海の目印」にしていたそうな。この技術をいち早く活用していたフェネキア人は地中海の王者でした。その後長い年月を経て、西洋史でいうところの「大航海時代」になってもオランダやスペインやイギリスの帆船もこの星を見ながら七つの海を股にかけていたのです。

>>続きを読む

オルフェウスの竪琴

2005.09.18

リラ呼ばれる携帯用のハーブに似た楽器を模した竪琴の星座である「こと座」は夏から秋にかけて代表的な星座です。
こと座自体はとても小さな星座ですが天頂で輝くゼロ等星の「主星ベガ」のお陰でとても目立ちます。ベガは東洋では七夕の「織り姫星」、西洋では「真夏の女王」とか「真夏のダイヤモンド」と呼ばれています。ベガというこの星は洋の東西を問わず「女性」に見立てているようです。それは青白く清潔感のある輝きから優しい乙女のイメージを印象させるからでしょうか?

P1000407.JPG
〔今夜も月が美しく、秋の澄んだ夜空に星たちがその輝きを放つ〕

>>続きを読む

血液サラサラ

2005.09.17

以前ブログで「ネバネバ野菜と徒歩5,000歩」を事を話しました。
昔からとても野菜が好きでボール一杯のサラダなら一人で十分に食します。知人の中にも野菜が好きな人がいてその様な知人と会食すときはサラダだけで数種類オーダーになる事はよくあります。そして最近はよく歩く事です。運動不足解消とダイエットの二面からここ半年近く意識して行動しています。お陰手ジーンズは三ランク下がりなお下降線を示しています。以前も言いましたが「野菜と歩く」ことはとてもリズム作りに適しています。なんといっても体調がとってもいいのです。
さて、最近の食材では「タマネギ」が注目です。
ピリッとした辛味のある生玉ネギは食欲を促進し、玉ネギに含まれる含硫化合物はビタミンB1の多い豚肉やレバーなどのたんぱく質食品と一緒に食すとビタミンB1の吸収がアップするそうです。このことが「血液サラサラ」となり、心筋梗塞や脳梗塞の予防に適するという可能性を持っているとの事です。残念な事に僕は肉類にてビタミンB1を取るようにしていないのでこの形での玉ネギの効能の恩恵は得ておりません。
この玉ネギの食し方ですが、オニオンスライスが最も効果的だそうです。玉ネギそのものは無臭ですが切ったり、すりおろしたりすると、当然の事ながら催涙性の辛味の強い刺激臭を出ます。これは玉ネギの細胞の中に含まれている硫黄を含むアミノ酸が同じ組織の中に含まれる酵素によって生成される含硫化合物だそうです。
オニオンスライスは薄く半月形に切り、一定の時間「」に浸し、鰹節としょうゆをかけて食べるのが最も多い料理法であると思います。が、「含硫化合物」を十分に維持して「血液サラサラ」にするには「」に浸してはいけないそうです。初めて知りました。でも、水に浸さなければ苦くて、臭くて食べれません。
また、炒めても「酵素」の組織を破壊し、やはり効果は激減になるそうです。炒めて且つ効果を得たい場合は切った玉ネギを15分以上放置する必要があるようです。こうすれば酵素は壊れず放置している間に働くそうです。
さて、あくまでオニオンスライスで且つ「血液サラサラ」効果と辛味も匂いもない両方を得たいときはどの様にすればいいのでしょうか?

>>続きを読む

Copyright(c) BrainSellers.com Corp. All rights reserved.