橋懸(はしがか)リを一定のリズムですり足で進むシテは、油をぶちまけた様な光沢のある檜の床をまるで浮揚している様な軽々しさで方向転換し、方三間の舞台に登場したのち、初めて正面席に座る観客と対じします。
その時、観客はというと、突当りにある揚幕(あげまく)がシュルシュルと上がると同時に、水面から浮き出るように出現するシテに釘付けになり、その浮揚感のあるシテの「静」の動作にじっと目をこらしている訳です。
シンと静まり返った能楽堂でシテと観客が共有する、または融合するもっとも双方が緊張する瞬間です。
観客と向き合ったシテは、四本の柱で支えられ、三方吹き抜けの四方をもつ舞台で、孤立した厳しい空間に身を置くことになります。そしてシテはもっとも重圧な世界に自らの強い意志で臨むことになります。
このちいさな空間に能役者は全知全能を投じて小宇宙を形成する訳です。
「伝統とは惰性ではない。」と断言したのは能楽の研究に造詣が深い増田正造(ますだ しょうぞう )の言葉です。そのあとこう続きます。
「奇形化の部分の多い制度や様式ではもちろんない。あらゆる時代において新鮮であろうとする努力であり、その不断の累積である。あるいは時代を挑発する力なのだ。」魂を揺さぶるような洞察力に富んだ表現と云えます。
700年の間、足しもせず、引きもせず、延々と伝統芸能として生きてきたお能は、増田正造の言葉を借りると、
「時間と空間を共有する観客なしでは成立しない演劇の中で、さまざまな状況があったにせよ、たとえば能や狂言が700年も生き抜いてきたのは、あらゆる時代に訴える美と力を多く持っていたからにほかならない。」と云うことになります。
先週、作曲家・三枝成彰さんが、20代のころ出会ったと云う『人間の声』(編集者ハンス・ワルター・ベア/高橋健二翻訳)」に触発されて思い出した事があります。
それは、十代の終わりの頃に思い出深い本に出会ったことでした。
成長期の子供の教育に関してボクの両親は、相当な放任主義を通していました。ボク自身は男の子四人の中で育ったせいもあり、相当な暴れん坊に育ったことは否めません。ただ、二人の兄がとても優しかったことを今でも濃厚に記憶しています。
なので小学校低学年で、クラス内はもとより学年内でも数名の問題児のひとりに、りっぱに(?)成長していました。そのまま悪童として成長するのかと思いきや、比較的早く転機がやってきます。それは、五年生と六年生の二年間の出来事で、この二年間で心底根性を叩き直して頂いた恩師に出会うことになりました。その悪童の極みからともかく全うな小学生に戻った(?)訳ですが、このことだけでも感謝に堪えない事ですが、それ以上にその後の生き方に重要な役割を担う、「本を読むことの面白さ」を教えて頂いたことです。単純な「本を読む」ということの楽しさは、その後の私自身の進路にも大きく左右していると実感しますが、きっとそれは生涯に渡って失われない行動パターンとして生き続けると思っています。
このことは中学生になると顕著に現れました。
中学一年生の時からすでに年間250冊を読破し、一年を振りかって見るとボクより上位の読者は三年生にひとりという結果でした。それも三冊の僅差でした。
結局その後の年間読書量は、30才まで15年間衰えることなく続くことになりました。
その恩師がボクに与えてくれた本は「謡曲集・上下」と「歌論集」でした。たぶんご自身が読まれた本であったと推察していますが、なぜ「お能」であって、且つなぜ、ボクにくださったのかは覚えていませんし、もはや知るすべはありません。
謡曲集は「お能」で最も重要な構成要素である物語そのものを著しているものです。この本は、本格的な謡いの正当な解説書と云うことになります。内容は、謡曲の解説ですが観阿弥・世阿弥親子とその子元雅が体系化した謡曲集の他に、もっと古い古代の謡いも含まれています。所謂古代の能と「現在能」と「夢幻能」の三分に分かれて体系化された書物ということになります。故に今では演じられることの無い「お能」が数多く収録されています。特に圧巻は、「歌論集」にある世阿弥の能の理論書である『風姿花伝』等々の章です。この巻の多くの紙面を割いて理論体系が収録されています。
この謡曲集の上下と歌論集は、40巻・41巻の連番と65巻の3巻で「日本古典文学大系 」いう体系下に入っているものです。日本古典文学大系は上代から近世(江戸時代後期)までの古典文学を対象に、全100巻にまとめられ、刊行されました。ちなみに、謡曲集(上)は1960年発刊で、(下)は1963年です。50年も前の書籍です。今では当然絶版です。
恩師は、この3巻をボクの高校入学の祝いにくださったようです。
しかし、謡曲に素養の無い高校生のボクには「歌論集」は難解です。
古典が好きであったためか「謡い」そのものの「謡曲集」は、なんとか輪郭を理解できてもお能の理論書である「歌論集」は手に負えません。それでも、ともかく読むことに主眼を置いて努力したことを今でも覚えています。
この質問は今NHKが取り組んでいる「あなたの戦争を教えてください。」というテーマで、盛んに街角でインタビューをしている設問例です。この映像は多く人が記憶に留めていると思います。
成人男女、ご老人、女子学生、小学生の男の子等々まちまちで、街ち行く人にマイクを向けます。
大人は戸惑いつつも真摯に、小学生は設問自体が意味不明と云う感じに、女学生は若さゆえきっぱりと、それぞれの思いを一言で表現しています。
ここに一編の哀愁を帯びた詩があります。
「空と風と詩」という題名の詩集からの抜粋です。
『戦争中に
四季が私の上を過ぎ、空の入り江を秋が溢れる。
私は、秋空の星を何の苦労もなく数えられる気がする。
それなのに、なぜ私は私の心に輝いているはずの
一つか二つの星を数えることが出来ないだろう。
もしかすると、夜明けが近いから?
もしかすると、明日になっても、私にはまだ一夜がのこされているから?
もしかすると、私の青春の日々がまだ数えつくされていないから?
私は、一つめの星を「記憶」と名づけた。
二つめの星は「愛情」。
三つめの星は「孤独」。
四つ目の星は「憧憬」。
五つめは「詩」、そして六つめの星は「母」。
そして私は、星を数えながら美しい名前を付けてゆく。
席を並べた学友の名前。
知らない少女 ぺ・キョン=オ。
貧しい隣人の名前。
Francis Jammes や Rainer Maria Rilkeのような詩人の名前。
みんな星のようにあまりに遠い。
そしてお母さん、あなたも遠い北のカンドにいる。
言葉に出来ないものに私は憧れ、
私の名前を星に照らされて丘に書いて、砂で覆い隠す。
なぜなら、
夜の番人の蜩(ひぐらし)が私のお墓を見て悲しげに鳴くから・・・』
私の母は86才で健在です。彼女の二十代の前半は太平洋戦争下の期間で、後半は終戦、占領の時代です。太平洋戦争が終結してすでに65年が経過しています。私の母のように無事に終戦を迎えられた人は幸福と言えます。そして当然ながら戦争体験者は高齢化が進み、徐々に生存者が減少しつつあります。今では鬼籍となった父も二十代に志願し南方への従軍を経験しています。が、私は父から戦争の話は一度も聞いた記憶がありません。母も同様です。今では意識的に避けていたと想像しています。それは、きっと奈落の底をのぞき見るような、云われもしない恐怖感がつきまとうからでしょう。
仮に両親に、
戦争は何色?
戦争のにおいは?
あなたは国家のために死ねますか?
の質問はあまりにも空虚さがともない、喉の奥で絡みついて声を発することが出来ないでしょう。
いま、NHKが国営TVという立場から「証言記録 兵士たちの戦争」に加え、去年夏から銃後の体験を「証言記録市民たちの戦争」として放送しています。さらに取材で得られた数々の証言を放映し「NHK戦争証言アーカイブス」として記録しています。取材の根底には、あの時代、戦場で、或いは日々の生活の中で、人々は何を思い、どう行動したのかという人間の云わば尊厳に通じるテーマを追っています。それは戦争を知らない子供たちやこれから来る未来へメッセージとして伝えるための活動ともいえます。
さて、哀愁を帯びた冒頭の詩に戻ります。
この詩の作者は韓国で著名な詩人「尹 東柱(ユン・トン=ジュ)」のものです。
彼は1917年12月30日に中国吉林省の朝鮮族の両親の元に生まれました。一家はキリスト教信者で、彼はソウルの延世大学(当時は延禧専門学校)を卒業し、1942年に立教大学に留学しています。その後すぐに同志社大学に転校したようです。当時は第二次世界大戦下でした。彼は朝鮮人徴兵制度や民族文化の迫害などの抵抗運動に関与しているとの「治安維持法」に触れ、京都で逮捕され、懲役二年の判決を受けています。その後、福岡刑務所に服役中の1945年2月16日に獄死しています。来月16日は彼の命日と云うことになりますね。
享年27歳でした。
彼は学生時代より当時は禁止とされていた"朝鮮語"で詩作を続け、1941年12月に「空と風と詩」という自薦詩集を極秘裏に出版しています。冒頭の詩はその中の一編ということになります。
ユン・トン=ジュは現在の大韓民国においては「国民的な詩人」して著名であり、国外でもその素朴な作風は高く評価されているといわれています。
彼が在学した立教大学では"記念奨学金制度"が発足し、また同志社大学および京都造形芸術大学内に彼を讃える"石碑"があるといいます。
なお、彼の獄死の原因は人類史上、最も残酷な"人体実験"の疑いがあるとされています。
]]>彼は、当時アメリカンリーグの西地区の覇者「シカゴ・ホワイトソックス」を破り4年ぶりに出場した「ボルチモア・オリオールズ」に属していました。また、このシリーズの対戦相手は「フィラデルフィア・フィリーズ」で、ナショナルリーグの西地区の覇者「ロサンゼルス・ドジャース」を破り、3年ぶりの出場でした。
この対戦での結果は、五戦のうち4勝1敗でボルチモア・オリオールズが、13年ぶり3回目の優勝しており、捕手リック・デンプシーは、MVPとして打率.385、4二塁打、1本塁打、2打点の好成績を残しました。しかも、リック・デンプシーはワールドシリーズ初選出でした。
彼のシリーズ出場はこの年だけでなく、1979年と1989年に計三回の機会を得ています。これは中々出来ないことして特記すべき成績と云えるでしょう。
彼のメジャーリーグの業績を、滔々と述べてきましたが、興味があるのはその成績を積み上げた「リック・デンプシーの野球哲学」です。彼の哲学がとても魅力的で、これを紹介したくて長々と説明しました。内容は彼が1988年に雑誌ニューヨーカーの誌上で明かしたインタビューの抜粋です。
全文を紹介出来ませんが、心に残るインタビュー内容を書き出してみたいと思います。
『必要なのは、正しくプレーすることだ。
必要なのは、正しく考えることだ。
来る球、来る球すべてをひっぱろうなどと考えてはいけない。
明日は相手をこてんぱんにやっつけてやろう、などと考えてもいけない。
結果がどうなるか誰にもわからないからだ。
何もかも自分ひとりでやろうとしてはいけない。
一試合、一試合が大事だ。
バッターは、一打席、一打席討ち取るしかない。
試合前に話し合ったことや打ち合わせたことは、きちんと実行しなければならない。
一度にスリーアウトをとることは出来ないし、
一度に五点を挙げることも出来ない。
ひとつひとつのプレー、ひとりひとりの打者、ひとつひとつの投球に集中することが必要だ。
すると、スローモーションの映像のように、ゲームがはっきり見えてくる。
うんとこまかいところまでが、分解写真のように見えてくるんだ。
こういうふうにゲームに向き合うと、
-----つまり、ひとつの投球、ひとりの打者、ひとつのイニング、
ひとつのゲームに神経を集中させること------
ふと気がついたときには、試合に勝っているんだ。』
なんとリアルで分かりやすい「野球哲学」でしょう。
野球に限らずスポーツの世界では、小さな出来事の「塵も積もれば山となる」の単純明快な法則が成り立っています。この心構えは、当然ビジネス・シーンでも人生でも、同様な実践哲学といえるでしょう。
マリナーズのイチローの2004年のメジャー新記録262安打も、彼の10年連続200安打の達成も、人生と同様に小さな積み重ねの連続だからです。150を超える試合数とその9倍のイニングスの間に積み上げられた数値は、試合数が嵩むごとに大きな差として圧し掛かります。
そして、時を同期するかのように、国内外の印刷機メーカーは革新的なオンデマンド印刷機の過渡期を迎えました。どの様な大型印刷機にも、RIP(リップ:Raster Image Processor)と呼ばれる一般的なプリンターのドライバーに相当するソフトウェアが存在します。
このRIPの役割は、DTP等 で作ったデザイン画像である PostScript データを、プリンタやイメージセッタの印刷機で出力のために、その出力解像度にあわせてビットマップデータに変えるプロセスを指します。当社の製品である「biz-Stream」でダイナミックに生成されたPDFは瞬時に大型印刷機のRIPに飲み込まれ、あらかじめ決められた出力解像度で印刷されることになります。
当時、瞬時に生成されるPDFと高機能大型印刷機をインターネットで接続し、人を介さずシームレスにオンデマンド・プリンティングを着目した企業は皆無でした。そのため当時は、多くの障害が存在しましたが、現在ではこの方法が主流になり、当社は早期着手の多くの恩恵を得ることになりました。
少し現代より時間を戻します。
1492年にクリストファー・コロンブスが意図しながら間違って「インド」を発見したことにより、東洋文明やイスラム文明や他の大陸が持つ独自文明等は、徐々に抹殺され、変わって西洋の近代化に突き進むきっかけになったことは周知の事実です。
そして、「1492」を著したジャック・アタリ(Jacques Attali)は、コロンブスの新大陸発見より遡る事60年前に出現した印刷術について、「この時代のいかなる出来事も、印刷術の出現が引き起こした驚くべき知的変動を抜きにしては理解しにくいだろう。」と明言しています。そして、「それはこの時代の自由の目覚めである」と本質を言い当てています。
冶金業を営むヨハネス・ゲンスフライシュが1434年にニュルンベルグで最初の活字印刷機を作り出しますが、彼の発明は注意を引きませんでした。後のヨハネス・グーデンベルクです。
彼はその数年後の1441年に両紙面に印刷できる画期的なインクを開発しますが、殆ど話題にならなかったといいます。
さらに、共同事業者のヨハン・フストと彼の娘婿のペーター・シェッファーを得て1448年にそれまで木製だった活字を金属製に作り変えることに成功しますが、この事にも誰も関心を示さなかったようです。
そして、1455年に最初の聖書の印刷を完成させますが、それでも全く反響は無かったようです。この聖書は、後に「グーテンベルク聖書」(「四十二行聖書」)と呼ばれる著名な最初の印刷聖書です。
しかし、グーデンベルクは、この二人の協力者との間で出資金に関する訴訟に敗れてしまい、自分の発明を彼らに譲り、結局袂を分かつことになります。そして、その二年後の1457年8月15日に彼らの手によって最初の印刷物「マインツ詩編集」が刊行されますが、この時、あらゆることが始まり、且つ広がることになります。それも強烈な速さで。
]]>もともと創造性や独創性は、誰にでも生まれつき備わっているものといわれています。
最も肝心なことは、もともと生まれつき備わっているこの能力を自ら知り、
そして伸ばし、育てることができるかと云うことだと感じます。
しかし、自分の能力を知ることはなかなか出来にくいものです。自分の能力を知るには、たぶん強い「感性」が必要ではないでしょうか。
そして、、
発見された自分の能力は、可能性を秘めていますが、とても小さく壊れやすいものです。
さらに、その能力を伸ばすために純粋培養して「開花」するまで守らなければなりません。
ドイツの黒い森といわれる山岳地帯の名も無い村ボイレンで、
小さなガレージで始めた独創的なコンサルティング会社が、
やがて世界的にデザインを提供する有力企業へ成長する過程は驚くべきものがあります。
創業者の名前は著名な「ハルトムット・エスリンガー」で、
彼がガレージで立ち上げたのは「フロッグデザイン」という会社でした。
彼が始めたことは「ビジネスとデザインが手を組むことで、いかに驚くべき力が発揮できる」でした。
このあまり真新しくないデザイン主導のビジネス戦略には、
多大な可能性があるというコンセプトに注力し、それを実施し、
そしてさらに世界的に評価される企業に育った訳ですが、
実際にはこのような成功例はあまり無く、とても難しいものだと思います。
数年前に若く素晴らしい才能と人間性豊かな五人の若手建築家集団と知遇を得ました。
この五人は、全員が同じ大学の建築課を卒業した同期です。
いわば「同じ釜の飯を食った」という程度の関係であれば、世間にはいくらでも例があると思いますが、彼らは一味も二味も違います。
彼らは、大学入学の18才からいわば同志とも云うべき連携を持ったグループで、
その関係は15年経ても変わらず、それどころか発展しています。
もちろん全員が建築関係か、それに近い他の仕事を持ちながら、第一線で第一級のジョブをこなし、それはそれで社会的にも十分に評価される立場です。
しかし、著名な建築デザイン会社に属しながら、別に五人だけの緩やかな共和制とも云うべきバーチャル・カンパニーを持っています。
このバーチャル・カンパニーは彼らにとって、純粋の中にも遊び心を持ち、
それでいて人間くさい欲望のはけ口にも利用するという「とても、まじめなおもちゃ」のような存在です。
三十代で彼らのような経験を積める事自体稀有なことです。
また、そこまで至ったプロセス、バーチャル・カンパニーがプロデュースした作品等々、どれをとってもボクに出来なかった素晴らしい経験で、うらやましい限りです。その素晴らしさを彼ら自身が身にしみて実際に理解できるには、あと20年くらい必要かもしれませんが。
五十代半ばを超えた私の身長は、少なくとも同世代の中にあって、小さいと感じることはありません。しかし、五人の若者は全て175㎝の私より少なくとも10㎝は高く、全員に囲まれたは私はとても分が悪い。
なぜか彼らとは、気が合い、定期的に食事をし、飲み、語っています。
時には話題が嵩じて深夜に及ぶ事が多々あります。三十代半ばの彼らと歩調を合わすことは体力的にも、気力的にも並大抵ではなく、脱落寸前であることは間違いありませんが、なんとかついて行っています。
でも、気のいい彼らは私を帰宅させることはせず、スムーズに抱き込んでいきます。
私は数年前まで深夜二時に寝て、早朝六時に起きるという睡眠時間4時間のパターンを続けていました。
しかし、ここ五年ほど前から徐々に20年続けてきた睡眠時間4時間と云うパターンを5時間から6時間程度に延ばしています。
理由は簡単です。単に加齢によって体力と睡眠時間のバランスが取れなくなったからです。
加齢による体力低下は当たり前のことですが、少々悲しいというか、自分に不甲斐なさを感じます。
このコラムによると、特に女性で、4時間以下の短い睡眠では、心筋梗塞などの疾患による死亡が約2倍と説明されていました。
肥満の場合は男女問わず短時間の睡眠を続けていると"効果的"に太ると言うことでしょうか。心筋梗塞は怖いですが、じっくりと効いてくる肥満は万病の元になるわけで、もっと始末に悪いということになりますね。
しかし、私たちにとって「食べる」と云うことは基本的な関心事です。
私たちは食べなければ生きていけません。
その理由は、この複雑なメカニズムを有する私たちの「体」は、それを維持するために恒久的に多くのエネルギーが必要であり、それは食べることの行為に他ならないからです。
後日、衝動的に鮮やかな黄色のネクタイを購入したことを、子供のころからとても強いスピリチュアルを持っている知人に話したら「とてもいいことです。」と思わぬ反応を示しました。
私と黄色いネクタイの相性は現在のところいい様です。
時折、街の中をお客様訪問の行き帰りで好きなものに出会います。その時、その瞬間に、きっと私の脳はドーパミンが多量に放出しているのでしょう。
なぜって、気持ちいいからです。
人は美しい音楽や美味しい食べ物、好きな異性に出会ったとき、さらに人間自身が本来持つ本能的な喜びを感じた時、またはある行動をとって周囲に認められたり褒められたりした時に、脳内に神経伝達物質が放出されるそうです。
この物質と云うのが「ドーパミン」だと、脳科学者の茂木健一郎は説明しています。
特に人間の脳が一番喜びを感じるのは、他人とのコミュニケーションだと彼は断定しています。
その中でも、特に目と目とが合うことが「脳」はとても喜ぶらしいです。そう云えば。。。頷けるか。
コミュニケーションでの基本は「話す」という行為ですが、それよりも「アイコンタクト」の方がもっと効果的ともいいます。ダイレクトですものね。
昔から「目は口ほどにものを言う」と云いますから。
さらに、茂木健一郎は語ります。
第一印象は重要なファクターだと。
その為に女性は全体のお化粧もさることながら、アイメークを念入りにするのはこのためだそうです。
アイラインをくっきり強調し、アイシャドウでより鮮明に印象付け、マスカラでまつ毛を強化して人目を引く。メイクのひとつひとつに脳に喜びを与える行為を女性は自然に行い、他者とのコミュニケーションに備える。
他者と目と目とが合えば、「このひとから注意を向けられている」や「関心を持たれている」と感じ、脳にドーパミンが発生し、喜びを得るという図式らしい。そして、より美しなる。この繰り返しだと。それも毎日です。これはすごい事です。
そう云えば、子供が困ったことがあったとき、無意識に母親の方を見る。すると母親もやさしく見つめ返すことで、見つめ、見つめ返す。見つめ返された子供の脳は喜び、より愛情に濃厚さを増し、親子間の絆がより強固になるという連鎖反応が行われているのでしょう。でも、昔の親子関係はそうでしたが、今はなかなか難しそうですね。
ただ、想いを寄せる人に出会えれば脳は喜び、ますますその人に会いたくなるものです。ドーパミンの放出によって脳は快楽を得て、更に、更に、快楽得ようと行動を強化するということになります。
これを「病みつきになる」かまたは、「クセになる」と云い換えましょう。
茂木健一郎さんが云いたいのは、
女性がこの世に存在すること自体が、感動を呼び、共感させ、感謝の気持ちに変わると云うことでしょうか。
だとしたら、私の母の口ぐちのように、女性の存在意義は高く、大切に守るべきものなのでしょうね。
勿論、時代劇ドラマには、必ず売れると言う歴史上の人物がいます。
織田信長や坂本竜馬はそのもっとも売れる部類の魅力的な人物ということになります。
ボクがその魅力的な竜馬に出会ったのは十代の頃でした。もちろん司馬遼太郎の「竜馬が行く」によってです。司馬遼太郎のこの本はベストセラーになりました。誰にも歴史上で魅力的と感じる人物がいると思いますが、ボクの中では彼もそのうちの一人になりました。
そして先週、ドラマの中の龍馬は大きな出来ごとに遭遇します。
それは、同じ郷士の幼友達の望月亀弥太を池田屋で失うという悲劇です。この時代、太平の世と云いながら激動の時代を迎えています。その前には平井収二郎の切腹の知らせを受けます。また、岡田以蔵も捉えられ後に処刑されます。その前には先輩で遠縁の武市半平太(瑞山)が縛に付きます。
特に半平太は数ヶ月間投獄され、この後切腹させられてしまいます。外国の重圧もさることながら竜馬の近辺ではシッョキングなことが数多く起こります。
龍馬の青年期は模索の連続でしたが、このころから彼はゆっくりとですが、自分は何をすべきかを探し当てます。そして、その使命を果たそうとします。
しかし、彼の目的は半ば達成したかに見えましたが、突然不慮の死を遂げます。
時は、1867年12月10日、彼は未だ31歳でした。
竜馬は志を持ち、天から与えられた使命を全うしようと生き抜き、半ばでその生命を閉じました。
まだまだ青年という31歳という若さで。
はたして、竜馬の一生は早すぎた人生だったのでしょうか?
それとも龍馬にはまだまだ使命があり、なすべきことが沢山残っていて、もっと生きてやり遂げなければならなかったのでしょうか?
かれの使命と天命を思うとき、ひとの一生とは、どのように繋がっているのでしょう。
私たちの生活の基本は流れいく時間です。人生は「時間」であるという基本的な概念から逃れることはできません。竜馬のように31歳の若さで世の人に惜しまれて逝っても、またボクが長生きをして100歳で天寿を全うしても、そこには時間と云う概念が流れています。
私たちは、それを「なにげなく」ですが、この時間と云う概念を信じ込んで暮らしています。
しかし、ふと気がつくと、今私たちが何気なく信じ込んでいるこの常識をなんら疑うこともなく、
そして、これをずっとそのまま信じ込んでいいものなのかと思ったりもします。
それは、私たちの身近に存在する動物の時間と云うのを知ったからです。
時間の概念は森羅万象、この世に生を受けたすべてのもが受ける前提でもあり、概念でもあります。
ここで、話しを人を含めた哺乳類の「体の大きさと時間との関係について」を考えみたいと思います。私たちは、一般的に体の大きな動物はゆったりと動き、それを安定感があるとを感じ、それに反して小さな動物はキビキビと活動し、小気味良いと感じます。人も大きな人や小柄な人について同様な感覚を持つことができると思います。
人も含めた哺乳類のこれら動物たちの「体重とその時間の関係」を調べた学者がいます。
哺乳類のそれぞれを体重とある時間のを割ってみると、
「時間は体重の1/4乗に比例する」になるそうです。
簡単にいえば、体重が増えると時間は長くなるです。ただし、1/4乗という平方根の比例(さらに平方根)なので、方式は単純ではありません。
例えば、こうです。体重が16倍になると、時間は二倍になるという計算式は成り立ちますが、体重が16倍ならば、時間も16倍という比例数ではありません。
この時間ですが、ほぼなんでも当てはまるそうです。
例えば、寿命、成体になるまでの時間、性的に成熟すまでの時間、赤ん坊の胎内期間、息をする時間間隔、心臓が打つ間隔、腸が一回活動する時間、血が体内を一巡する時間などです。
体重が大きければこの一回が長く、体重が小さければその回転は素早い。という訳です。
さぁ、問題は、ここです。話す前に先に答えを知りたいと思います。
動物の大きさが異なると機敏さや寿命が違ってきます。
行動範囲や生息密度も実は動物の大きさ関係が深いといいます。
でも、一生に打つ心臓の総数や体重当たりの総エネルギー使用量は、大きさによらず同じなのです。
これを言い換えると、
それぞれの生き物は、一生と云う時間のなかで夫々「時間の流れる速さが異なる」と云うことになります。
回答までの導きを聞くと自然に納得できますが、各々の事象は驚くことばかりです。
人もまた、人間同士の関わり合いを通じて切磋琢磨されるものです。
「切磋琢磨」は詩経に出でくる故事です。
角や象牙を刀で切り出し、やすりで研ぐことを"切磋"といい、また玉や石を槌で打ち、砂や石で磨きをかけることを"琢磨"と云うそうです。詩経に綴られたこの意味は、学ぶだけでは表面的であり、徳をおさめるために、努力に努力を重ねるとあります。
先日10年来の知人と食事後の二次会々場へ向かう途中の出来事です。タクシーは、丁度新宿の職安通りをノロノロと走っていましたが、僕を肘で突っつきながらニッコリと笑いながら指を指します。
彼の白く長い人差し指の先に巨大なスクリーンがありました。
「あぁ、あれかと」とボクが頷きました。少し前の話題がワールド・カップでした。職安通りにある「大使館」という焼肉屋さんがありますが、そこの駐車場入口に巨大なスクリーンを設置し、集まってくる韓国人観客に対してW杯の実況放送すると云うのです。設置は2002年のW杯からだそうです。いまや名物になっているとか。
彼の説明によると、
ここ職安通りと新大久保は韓国人の人口密度が極端に多い衣・食・住の街だそうです。そう云えばハングル語の看板が数多く見受けられます。
すでに先週から始まったW杯南アフリカ大会(2010 World Cup)で韓国とギリシャ戦が先週土曜日の夕刻に行われています。結果は2:0で韓国の圧勝に終わっていますが、この巨大スクリーンの前では集まった韓国人群集の狂乱さが十分想像できるスクリーンの大きさです。
深夜の渋滞のタクシーの中で彼の話をぼんやりと聞きながら、ボクは全く別なことに想い耽っていました。それは数ヶ月前に見た映画で、その時に感じた記憶が再び蘇って、ひとり感動の渦にいたわけです。一生懸命説明している知人は少々滑稽でしたが、それでも彷徨っていた時間は5分とは経過していなかったと思います。
それは実話の映画化でした。
俳優は最も好きなモーガン・フリーマンとマット・デイモンの競演で、監督はクリント・イーストウッドという豪華さです。オスカーを四つも取ったクリント・イーストウッドが、監督第30作にこの『インビクタス/負けざる者たち』という映画を選んだそうですが、後日このキャッチコピーは制作会社の作りだしたものだと言うことが、イーストウッドのインタビューで分かりました。天才職人イーストウッドは、自分が何作作っているかなどと、あまり気にしていない事が分かったからです。
この映画はサッカーでなく「ラグビーのワールドカップ」の物語です。
主人公はモーガン・フリーマン扮するネルソン・マンデラ大統領とマット・デイモン扮するラグビー・ナショナルチームのキャプテンであるフランソワ・ピナールの二人です。
南アフリカにとって、「ラグビーやサッカーは単なる娯楽的なスポーツに留まらない!」
それを証明してくれたのがこの映画でした。
この映画の社会背景は、1994年に南アフリカ共和国で初の黒人大統領となったネルソン・マンデラの登場から始まります。マンデラは、白人支配によって約三世紀半の長きに渡った悪習「アパルトヘイト(人種隔離制度)」による人種差別に終止符を打ち、ゆっくりとですが確実に新しい南アフリカ共和国をスタートさせます。
あるブログに『メディア「首相交代効果」考』という興味深いテーマがあります。メディアに対して手厳しい論客といえます。掲載内容は、"メディアが取り扱う世論調査は「メディアとしての使命の放棄」と伺える調査時期の不自然さや一部の政党への偏頗がある"と指摘しています。かなり手厳しいですが、読むとなるほどと納得のいく理論展開でもあります。
「風を読む」は示唆にとんだ言葉として広く認識されていますが、他に「船出」や進路を読み取る「コンパス」も政治や経済だけでなく、企業経営者が自社の進路や経営の視点を例える時によく使われます。
帆船が最も輝いた時代を「大航海時代」と歴史を感じさせる表現を使いますが、この時代の生い立ちを表す三つのキーワードがあります。
最初のキーワードは、「黄金と胡椒」です。とても魅力的な言葉として記憶に鮮明です。黄金=マルコ・ポーロ=フビライを連想し、胡椒はオランダ東インド会社=ヨーロッパ人の食生活です。大航海時代は一般に十五世紀から十七世紀を指しますが、実はその胎動は十三世紀ごろから始まったとされています。ご存知のマルコ・ポーロの「東方見聞録」の一説にこんな表現の口語体があります。
「ジパングは東海の島で、大陸から千五百海里にある。」といい、
「黄金が非常に多く無尽蔵であるが、王がその輸出を許さないため訪れる商人はわずかしかいない。」そして、わが王であるフビライの日ごろの言動は、
「この島はわが国に風聞するほど富が大きく、この島を征服し領土としたい。」と記しています。
当時、この見聞録を読めば、フビライでなくても誰もが東方への関心が高まったであろうことは、容易に想像できます。
また、フビライの関心事は黄金でしたが、西ヨーロッパ人においては、彼らの食生活に必須の胡椒や肉桂(生薬、ニッキ)を大量に安価に手に入れることを望んでいました。香辛料によってヨーロッパ人の食生活は一変します。それもアラビアの仲介商人を通さず原産地の東インドから直接手に入れるルートを長く切望し、実際に模索もしていました。
歴史上、最も大胆な条約として知られてるトルデシリャス条約を締結したジョアン二世は締結後まもなく壮大な計画の前に死去しますが、彼の甥のマヌエル王が即位すると、第一次インド遠征を実施します。
この司令官がかの有名な「ヴァスコダ・ダ・ガマ」です。1498年7月8日のことでした。リスボアを出港して翌年の5月22日にキャラコの語源になったカリカットに到着しています。ガマは当時のカリカット王国と直接の通商条約を提案しますが、理由は不明ですが決裂します。そして、1499年9月に帰国を果たしますが、彼はきっちりと貿易現状調査報告書と一緒に香料等の価格表を綿密に調べ上げ、これを王に提出しています。その結果、丁字(グローブ)等の西欧価格は現地輸出価格の約9倍程度あることが分かりました。
残念なことに、その後最も重要なキーワードとなる「マルク諸島またはモロッカ諸島(別名香料諸島)」は入っていませんでした。そこまで調査の期間や実行力(資金、情報網など)がなかったかも知れません。
輸入価格が現地価格の9倍の手数料が掛かる「胡椒の直接購入」はヨーロッパの商人の間では、羨望の的であったろうと想像できます。ここに西欧からインドへの「東方航路」が確立しました。
故に「黄金と胡椒」はその必要性から人の目を東に東に向けたことになります。
話を少し寄り道すると、
ジョアン二世の壮大な計画は「コロンブス・シッョク」が作用していると云われています。クリストファー・コロンブスは西回りで「ジパングかカタイの近く」に到達したことを帰航の途中でリスボアへ寄港したことで知ります。王のシッョクは相当なものでしょう。また、1488年にはエンリケ航海王子の意思を継いだバルトロメオ・ディアスが喜望峰を廻り、インド洋を目の前にして引き返した(実は船員の暴動によって)ばかりのときでもありました。ジョアン二世の焦りはよく理解できます。
さらにもうひとつ蛇足を。
ガマによって確立した東方航路により小国ポルトガルは香料、金、象牙などの貿易を独占し、首都リスボアの繁栄を作り出します。それまで繁栄していたジェノバやヴェネチアの衰退と対照的になります。
英国に著名で代表的な文献学者がいます。19世紀後半から20世紀にかけて「英語語源辞典」等、多くの大著を残しました。
彼の名は、「ウォルター・W・スキート」です。彼の偉業は独力で英国最初の、しかも今もって最大の語源辞典を完成させたことで不滅の栄誉に輝いています。その意味では数少ない古くて新しい文献学者かも知れません。
スキートは独特の「時間軸」と「持続力」を持ち合わせた人でした。
彼の仕事のやり方は、どんなに難しい語源の単語にも、三時間以上の調査をすることはなかったそうです。三時間調べてもわからないときは、彼は「不詳」として先に進みました。このことが偉業を成し遂げたひとつの要因として知られています。これはなかなかできません。文献者であればあるほど、でき難い決断であると感じます。
では、経営はどうでしょう。
毎日多くの問題が発生し、且つ現在抱えている障害と合わせると日々その量は増え続けている訳です。
すぐに処理する障害や捨て去ってしまうテーマやしばらく意図的に忘れるものまで多くの処理を都度判断しなければなりません。
しかし、考えてみるとどんな人間にも1日は24時間です。膨大な量の仕事を前提とする場合、時間の使い方は重要なファクターとなることは明らかです。
数多くの大著の秘訣を問うとスキートは、こんなふうに云ったそうです。
「その答えは簡単に言って、私が余暇のほとんど全てをその仕事に捧げたからです。
毎日、同じテーマについて何時間も着実に仕事をし、
しかも一年中、ほとんど毎日それを繰り返すならば、
いかに多くの仕事をなしうるかは、
本当に驚くべきものがあります。」と。きっと彼の根本はここなんでしょうね。
ですが、そんなエジソンも小学校を三ヶ月で退学せざる得なかったようです。変わった子だったのでしょうか。退学後は、独学で科学を学んだようです。
しかし、どのような天才もたった一人で自分の能力を開花させることはできません。
先生が必要です。もちろんエジソンにもです。
彼の先生は科学者「マイケル・ファラデー」です。ご存知ですか、この人を。
ファラデーの功績は、例えば「電磁誘導の法則」を唱えた人です。
しかし、エジソンはファラデーの直接の弟子になった訳ではありません。ひそかに師として尊敬し、彼の著書から学び取るという所謂「私淑(ししゅく)する」形をとったようです。この辺も人とは違いますね。
一般的には、著名か無名かは別にして、師と仰ぐ先生の弟子になるのが普通と思われますが、天才エジソンはそうしなかったようです。いったい、読書によって「師」を持つくらいに、能力開発ができるものなのでしょうか?
言い換えれば、沢山の読書をすれば、所謂天才と言われる人たちに近づけられることになりますよね。
彼の天才と言われる根源は、あることに興味を持ち、学び続け、そして発明ないし発見を死ぬまでし続ける驚異的な持続力であると思われます。さらに彼は「運を信じない」ルールを実践した人でもありました。
すると、エジソンの基本的なものの考え方や行動は、彼が師と仰ぐファラデーの書き残した書籍によって得たことになります。
人の生涯は、物事を学び続ける果てしない旅であるといえます。
私たちは、母親の胎内にいるときから学び初め、死の床にあっても何かを学びつつ最期を迎えるまでの間、膨大な時間を「学ぶ事」に費やしているといえます。
人の生涯で最も学習能力が高く、かつ奇跡のような力を発揮するのが幼年期であることは、だれてもが知っている事ですね。
赤ちゃんは決して本能で言葉をしゃべるのではなく、「きっちりと学習して覚える」のであり、なので、言い換えれば、置かれた環境次第で何語でも操る事が出来ます。
この学習するということは、生涯を通じて人間の本能であるようです。
また、生涯学び続けなければならないと云う事は、いってみれば、「人には完成や完了」というものがなく、常に「未熟」であることの証なのだと思われなりません。
なので、人は生まれてから死ぬまで、常に未熟な状態にとどまり、しかし、休みなく学び続け、それが死を迎えるまで続くというわけです。それは本能であるけれど、結局は人間そのものは、学ぶ事の楽しさを知っているともいえませんか?
その観点から、
きっとエジソンはものを学ぶ楽しさをもっともよく知っているひとりであったと思われます。
エジソンの名言集から、
「私が業績を上げたのは、私に備わる才覚と人は言うけれど、人間が死に物狂いで頑張り通せば、誰でも私と同じ業績を残せます。」
要は、驚異的ともいえる強い持続力を保てるかということになりますね。
彼女は、重い病気と闘う子供たちの夢をかなえる世界的なボランティア団体の日本の事務局長です。彼女の話を聞いてとても自分の心が静かになり、体の奥から暖かな気持ちが湧き上がってきました。そして、この団体の活動に感動しました。
国内ではすでに、1500人近くの子供たちが、その夢をかなえています。
この団体によって、多くの子供たちが小さいときから思い続けた夢を「いっとき」実現しています。
そして、彼女はこう云いました。
「最後の夢ではありません。」
「夢をかなえることが、
明日を、今を生きる力となるのです。」
今年の夏までに、昨年の秋に比べると異常高騰があったといいます。
何かと言うと穀物価格です。それも身近な小麦や大豆です。
異常高騰の主犯は投機・投資ファンドマネーの穀物銘柄の商品市場からの引き上げが、原因と言われています。特に、小麦は瞬間的な異常高騰を除けば、10年間で過去最高値とのことです。状況は大豆に加えてお米も同様だそうです。
この穀物銘柄の異常高騰に対して、被害を蒙ったのは、なぜか途上国だそうです。
なぜでしょう。わけが分かりません。
その途上国の中でも、特に被害が甚大なハイチやバングラデッシュでは、
一日一食に追い込まれ、ハイチにいたっては市民の暴動化まで発展しましたとあります。
益々分かりません。
この途上国と穀物銘柄の異常高騰には構造的な関係があります。
影響の大きい途上国は押し並べて農業国です。
農業国である途上国がなぜ飢えるのか? 益々不可解な。。。
仕組みはこうです。
途上国である農業国は、国が貧しいために、資金を世界銀行から借ります。
すると決まって、世界銀行は弁済の為のいろいろな「助言」をします。この助言が裏目に出ます。この助言は、債務を返済する為に自給農業をやめて早期に換金可能な先進国向け農作物への生産のシフトというものです。
途上国である農業国に弁済方法について、いい代替案は持っていないこともその理由です。
換金可能な農作物は何かというと、「バナナや綿花やコーヒー」がそれです。
この換金可能な農作物を生産する代わりに、先進国から主食である小麦や米を輸入するのです。もちろん、この「助言」は作為的とも取れなくもありません。
結果は目に見えていますね。
主食をお金で買うしかない貧しい国々は、10年来最高値の高値の小麦を買わざる得なくなり、助言が本末転倒になってきます。もちろん、高くて買えません。
この先進国の思惑だけで押しつけられた構造的な仕組みは、簡単には脱却できなであろうと言われています。大きな理由のひとつに、債務の重圧があります。
多くの人が明日の糧を得ることにやっきになっている頃、対局の投機・投資ファンド・マネーの人たちは、天文学的な利益を得ることになります。
法隆寺の「あの柱」に触れた方は、同様に感じたと思いますが、回廊のたくさんの柱からは、柔らかな温もりを感じ、また、そのような木が長い間、構造材として重い建物を支えていることに不思議さも同時に感じます。
木材は、一般的に時代とともに、その表情を刻々と変化させます。主な原因は乾燥と捩れによる歪みです。仮に乾燥による割れやねじれが生じなくても、必ずといっていいほど表面は風蝕によって少しずつ痩せていくと云われています。
特に風蝕によって、柔らかな部分から減って、木目が徐々に浮き彫りになり、やがてそれも痩せて「とても硬い節」だけが高く残ることになります。
文献では、風蝕は"百年に一分"が失われると定説がある様です。特に、軒下等で風雨を受けやすいところでは、百年で三㍉程度ずつ痩せるそうです。風蝕とはすごいものですね。なので、古い鑑定方法には、その痩せ方で、建物の年代を判断する方法もあるそうですよ。
そして、日本は古代より木造建築の顕著な国でもあり、そして森林国家でした。
その森林国家である日本が、現在最も可能性のある森林経営の時期を迎えているそうです。
ですが、昨今、その森林資源が危機に瀕していると警鐘がなされています。
過去の経緯から想像すると、林業は第一次産業の中でも最も不活発な産業に衰退してしまったかも知れません。
その理由は、
この産業の主な活動は治山治水の施策と山間部の雇用対策という名目で補助金を確保し、公共事業として長い間放置されてきた事が大きな要因と云われています。特に、戦後の復興特需期に、大げさに言えば日本中の森林を伐採し、その貴重な資源をほとんど伐り尽くした時期がありました。その証拠に、現在の森林の八割が林齢五十年以下と、長期政策せずして伐採した事実を極端に物語っているといわれています。
別な言い方をすれば、その後の長い期間、お金と人的労力を負担し続けた時代があったということです。
そして、日本の森林は忍耐の期間を終えて、いよいよ収穫期という分岐点を迎えているそうですが、このタイミングを逃さず効果的な施策を実施しないと冒頭の危機がやってくると云う訳です。
人工林というのは、木が生えてから五十年くらいまでに手を入れないと再生が難しくなるそうです。日本の人工林は、総森林面積の40%もあるそうです。逆に言えば、適切な間伐を行うとその後の森林整備コストが大幅に減少し、徐々に採算性が向上して、「林業」としてのビジネスが成り立つということになりますね。
間伐という行為で私が以外に思ったのは、森林を健全に保つには成長量の70-80%前後を安定的に伐採しなければならないということです。
全国規模でいえば、間伐材は相当量になるということになります。
私どものコア・ビジネスで、オンデマンド印刷を主軸としたSaaSビジネスをしていますが、最終的には紙への印刷を行います。実は、この間伐材を使用した原紙を使用することで、環境保護と資源の有効活用の両面で、ここ最近推進が活発になっています。このことは、当社からの申し出でお客様に採用を頂きますが、逆にお客様自らの発案によって、間伐材用紙をお使いになることがあります。間伐材等も含めて森林保護と環境保全を目的として有効利用とする世界的な仕組である"FSC"(参考Ⅰ)があります。
私たちの取り組みも、この方針に則って、環境保護に賛同していきたいと思っています。
そういえば、
NHKの大河ドラマで直江兼続の波乱万丈の生涯をドラマ化して放送していますが、少し前の放送で、兼継と千利休の茶室での問答がありましたね。利休の時代では、特別な場合を除き「茶の湯」はまず男のものでした。
戦国時代は数十年戦(いくさ)に明け暮れていたせいで、平均寿命は18歳と言われています。ですから、戦で命を落とすことは日常茶飯事ということになりますね。なので、あの時代に、「人生50年」は、命を全うした寿命と言う訳です。
だからこそ、その覚悟を「日常とする生活」の中での"茶の湯"というひとつの儀式の中で「一期一会」という感覚が自然と身についたのではと思います。多くの武士(もののふ)が命を落とすことが日常的な中で、過酷な戦国の世を生き抜いてきた武士のみが茶会での一期一会の重さを知っていたともいえます。
現代の私たちはどうでしょう。
私たちは一期一会の意味や理由をよく理解していますが、その実感はありません。いまの世の中で、日常的に命を落とすことが稀だからです。もちろん不治の病気や交通事故や偶然の犯罪事件に遭遇する不慮の事故も無くはありませんが、それとて稀といわざる得ません。
兼継は兜に「愛」をという文字を象った敬愛の精神をシンボルマークにしていますね。この時代には稀有な概念というべきかもしれません。茶室で問答した「利休」も同様に無言の表現を行ずる稀有な存在といえます。
この二人が同時代に生きたこと自体が稀有な事かも知れません。
さて、冒頭の若い女性の「恋愛」の悩みに戻りますが、
私たちの先祖が「愛」を表現するのは、ずっと後年の事と言われています。
万葉の時代を生きた私たちの先祖は、思慕することを「し・の・ふ」という言葉で表現しています。「愛」とはまだまだ距離がある表現だと感じませんか?
この「しのふ」はどうも故郷を思慕または賛美するときに使われていたようです。後年の私たちが使う「愛」の原型であろうという見方が強いですが、まだしっくりこないです。
また、面白いことに「し・の・ぶ」という言葉を耐える事の意として使われています。「しのふ」と「しのぶ」は清濁の違いで意味も異なりますが、しかし同類の言葉として存在しています。日本語の語彙の情緒さと、外国人が戸惑う表現の複雑さです。
古代の人は、思慕することと、忍耐することを同類でありながら区別する感性を持ち合わせていたことに驚きを感じます。
そして、その語彙を深く読んでいくと、
「思慕」とは、じっと思慕することと、もうひとつ、思慕の重みに堪えることと表裏一体の関係であることを想像できます。そして、もう一歩深く突っ込んで「重い抑圧のない思慕」などは、所詮は存在しない思慕というこになります。
この思慕ですが、その重みの中からな自身の心の内を相手に放ってゆける思慕と、重みの中に打ちしがれて沈み行く思慕の二つの展開になると思います。
なので、思慕を寄せる事は、賛美することと言い換えても良いのかも知れません。その方が自然ですね。
「賛美する行為」とは、いかに抑制された「思慕が存在する」ものであるかを一層明確に示しているというわけです。
そこで、兼継の「愛」の兜ですが、ご存知のように「愛」は、漢字として中国から輸入され言葉ですから、元来私たちの先祖である古代人たちが、本来持っていたものでないことは想像できます。
ですから、現代の愛のルーツを探すとしたらやはり私たちの本来の言葉である"やまとことば"からということになるのでしょうか。