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<title>Cutty Sark</title>
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<description>Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。</description>
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<item rdf:about="/cuttysark/2008/01/post_375.html">
<title>歴史の功罪</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2008/01/post_375.html</link>
<description><![CDATA[<p><strong>歴史は時々皮肉な現象を生むことがあります。</strong><br />
ただし、現代の我々がその功罪を論ずることは簡単でなく、その評価は難しいことも認識しています。</p>

<p>エンリケ航海王子は<strong>1434年</strong>に<strong>ボジャドール岬</strong>の迂回に成功したにも関わらず、1440年までに新たな航海は三回しか行われませんでした。<br />
しかし、1441年に国内事情が一段落すると、再びエンリケは積極的に西アフリカ探検とマデイラ諸島の開発に乗り出します。<br />
この状況は彼の兄の<strong>ペドロ</strong>が1439年に<strong>摂生</strong>に就任したことと同期しています。摂生であるペドロも南下政策を推進したといえます。多分、西アフリカ沿岸の探検航海と商業開発を最優先事項とした政策があったのでしょう。<br />
再開の西アフリカの拠点は「<strong>アルガルヴェの港町ラゴス</strong>」です。<br />
ポルトガルもヴェネツィア共和国も領事館をラゴスに置いたようです。それだけ初期の西アフリカ開発において重要な港だったといえます。エンリケ航海王子も1434年にしばらく滞在しています。この頃エンリケは国王よりラスゴの譲渡を受けていたようです。<br />
探検航海の当初の主目的は「<strong>皮革と油脂の原料となるアザラシ</strong>」の捕獲です。そして、彼らは初めて「<strong>アゼゲ族のモーロ人の男女二人</strong>」を捕らえます。<br />
続いてリオ・ロード付近で<strong>10名</strong>を捕獲します。</p>

<p>モーロ人を奴隷として捕獲するという野蛮な非道は、改宗(イスラム教徒から)を施すという聖なる行為に転換してしてしまいます。そのことの不自然さを、当時の人々は気が付かない思考形態を改めて感じることが出来ます。</p>

<p><strong>ポルトガル人</strong>は奴隷確保に熱中します。<br />
1444年にエンリケの家臣でラゴスの徴税官である「ランサローテ」はエンリケの許可を得て、民間人の船主と貴族数名と一航海毎に「<strong>共同ファンド</strong>(株式会社的な)」を作り、純粋に商業目的で探検航海を行っています。<br />
六隻のカラヴェラ船団を仕立てて「<strong>235人の奴隷</strong>」を捕獲してラゴスに帰港します。<br />
奴隷一人の価格は<strong>4,000レアル</strong>と資料に残っていますので235人の総売上は94万レアルとなります。<br />
ちなみに当時リスボンで<strong>小麦13.8リットル</strong>(単位はアルケイレ)が<strong>9レアル</strong>と記録がありますから、「<u>94万レアルは小麦1,441トン</u>」ということになりますね。膨大な量です。<br />
エンリケはこれより少し前にボジャドール岬以南の<strong>航海独占権</strong>(当然商業行為も含む)を譲渡されていますので、<strong>五分の一権利</strong>を行使しています。<br />
こののち、徐々に民間人の共同ファンドが実施されていきます。これは取りもなおさず、事業として成り立ってる証明となります。もちろん、<strong>奴隷ビジネス</strong>です。</p>

<p>日本人や韓国人が対象となってしまった北朝鮮による「<strong>拉致</strong>」とは若干の違いはあるものの、本質的には「<strong>さらって</strong>」くるので同じでしょう。<br />
この後は歴史が証明してくれています。<br />
これより、ヨーロッパ人はこぞってアフリカに出向き奴隷として現地人を捕獲し、本国へ持ち帰ります。</p>]]></description>
<dc:subject>主義と主張</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2008-01-13T19:13:43+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="/cuttysark/2008/01/post_373.html">
<title>裁量権</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2008/01/post_373.html</link>
<description><![CDATA[<p><strong>「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)　たった四はいで夜も眠れず」</strong></p>

<p>この川柳はとても有名ですね。巨大都市江戸からあっと言う間に日本国中に広がりました。当時の江戸は情報発信という点でも巨大な震源地だったようです。<br />
「上喜撰」(じょうきせん)は当時の高級茶の銘柄です。もちろん、この蒸気船(上喜撰)は米国海軍の<strong>黒船四隻</strong>の事ですが、ある日、不意に浦賀へ進入した蒸気船によって江戸という大都市が上を下への大騒ぎしたことを、カフェインの効いた高級茶によって夜も眠れないに引っ掛けています。情感が目に浮かぶようです。流石いとうほかありません。</p>

<p>この川柳はペリー提督の「<strong>黒船艦隊来る</strong>」がきっかけによって江戸市民によって詠まれたわけですが、艦隊発見の第一報が「<strong>浦賀奉行所</strong>」入ったのはこの艦隊がすでに浦賀沖にアンカー(錨)を打った後でした。<br />
この時の伝令の報告書は「およそ三千石積みの船四隻、帆柱三本ているも帆を使わず、前後左右、自在にあいなり（中略）あたかも飛ぶ鳥のごとく、たちまち見失い候」というものでした。<br />
時は、<strong>1853年6月3日</strong>（嘉永六年六月三日）の事でした。</p>

<p>日本側の見張りは「<strong>三千石積み</strong>」と目測します。<br />
当時国内にはいわゆる米千石を積載できる和船の「<strong>千石船</strong>」が大型船の部類にはいる他と比較できる具体的なサイズでした。</p>

<p>幕府の取り決めを無視して長崎でなく直接江戸に来たペリー提督の心理はよく理解できるものですが、いくら国是を取り決めても国際社会がそれは「是」としてくれない以上、いかんともしがたいです。<br />
さて、その四隻の黒船ですが、<br />
旗艦の「<strong>サスケハナ号</strong>」は2,450トン、乗組員300名、1850年に竣工した米国海軍最新鋭の汽走軍艦です。米国母港を出港したのは二年前で、すでに東インド艦隊に所属していました。もう一隻は「<strong>ミシシッピー号</strong>」で1,692トン、乗組員300名、1839年竣工で米国海軍最古の汽走軍艦でした。<br />
当時はまだ太平洋航路は当然ながら未開発でしたので、ペリーは米国東部のノーフォークを1852年（嘉永5）11月24日に出発して大西洋を渡り、アフリカ南端の希望峰を回り、インド洋を経て東インド艦隊に合流するまで、この艦でやって着ました。実に長い旅です。</p>

<p>話を戻しますと、日本の千石船は1,000石の米を積める大きさの船を指しますが、これをトン数に換算して「サスケハナ号」と比較してみたいと思います。米1,000石の重さは約150トン程度なので、積載能力換算で「150トン」積みの舟となります。これを一定の喫水(荷物を載せて実際に水の中にどのくらい沈むかというライン)にして排水量換算にすると<strong>約200トン前後</strong>と推定できます。ですから、千石船の三倍どころか、<strong>約20倍</strong>近い大きさということになります。見張役はよほど泡を食ったということになりますね。</p>]]></description>
<dc:subject>フロンティア</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2008-01-11T03:50:05+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="/cuttysark/2007/12/post_372.html">
<title>先行投資</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2007/12/post_372.html</link>
<description><![CDATA[<p><strong>先行投資には、仮説思考が必要です。</strong><br />
もちろん、そこには市場の魅力が前提ですね。</p>

<p>仮説思考とは、「<u>何か物事に取り組む際に、その時点で考えられる仮の結論を置いて考える思考法</u>」のことです。一定の事実を積み重ねて、全体像を捉えて思考する方法でなく、先に可能性を示す「仮説」を立てる事を常とします。<br />
その仮説を検証することからスタートする思考法のことですが、やり方は仮説を立証する為に何をすればいいかを外部環境から情報を集めてひとつひとつ検証し、立証する作業を最初に行います。仮に、出来ないようであればさらに「<strong>仮説を立て直す</strong>」というサイクルを繰り返し、真の、または真に近い「仮説」を実証し、設定を行うことになります。</p>

<p>セウタの攻略後、その収入よりも多くの維持費が王の財政を圧迫しています。<br />
また、北アフリカでの戦いの費用は当然のことながら国家予算で組まれています。<br />
しかし、<br />
エンリケ航海王子が王から独占権を得たボジャードール岬以南の発見の航海費用や交易所の建設等、その他総ての探検開発費用は彼の収入によるものです。</p>

<p>現在の「<strong>市場の魅力</strong>」は、<br />
目指す市場の絶対的な規模や可能性、その市場内での競争上の構造と市場の成長率です。特に気にするのは、規模、成長率、競合ですね。さらに当然のことながら経済、技術、社会、政治、環境など、広範囲の直接的にも間接的にも外部環境の影響を受けることになります。<br />
彼が生涯に亘って推進した探検航海の費用は王室からは一切支出されることはありません。<br />
エンリケは探検航海の他に、イスラム教徒との戦いや海外の教会建立などの費用は、彼自身の所領とキリスト教団から得たものです。</p>

<p>さて、<br />
エンリケの事業経営に関する仮説はどのようなものだったのでしょう。<br />
探検航海の投資は想像以上に莫大です。<br />
現在の宇宙開発事業の様なものです。国家レベルの事業です。<br />
彼は、<br />
そこに市場の魅力は十分にあったのと仮説を持っていたのでしょうか?<br />
セウタの攻略から探検航海に目を向けて以来、所領等の事業経営収入の利益のほとんどを「<strong>発見の航海に投入</strong>」しています。</p>]]></description>
<dc:subject>フロンティア</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2007-12-28T05:19:52+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="/cuttysark/2007/12/post_369.html">
<title>発見への投資</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2007/12/post_369.html</link>
<description><![CDATA[<p><strong>1445年</strong>に「<strong>アルヴァロ・アェルナンデス</strong>」は念願の<strong><a href="http://noblesse-oblige.jp/reco/index.php?%A5%F4%A5%A7%A5%EB%A5%C7%CC%A8">ヴェルデ岬</a></strong>を越え、緑の椰子の樹木が生い茂る<strong>ギニア</strong>に至りました。</p>

<p>「<strong>ヴェルデ岬(北緯14°)」</strong>と言うのは、<br />
アフリカ大陸最西端ある、現在はセネガル領内にあるの岬のことです。首都ダカールの市街地からすぐ西あり、目の前は大西洋です。沖にはベルデ岬諸島が点在する美しい岬です。アルヴァロ・フェルナンデスはエンリケ航海王子の命で、叔父の探検家ジョアン･ゴンサルヴェス･ザルコに与えられたカラヴェラ船で探検航海し、ヴェルデ岬をまわって、 ダカールとガンビア河にはさまれた<strong>マスト岬</strong>に到達しています。そこはヴェルデ岬の約８００ｋｍ南の「<strong>シエラ･レオネ</strong>」(現在のシエラレオネ共和国)と呼ばれている場所です。<br />
1447年、彼はヨーロッパ人として始めてシエラ･レオネに上陸しています。ちなみに、現在のシエラレオネ共和国は、長い内戦により、世界で有数の平均寿命が短い国のひとつとなっています。つい50年前に英国より独立しました。</p>

<p>エンリケ航海王子の生まれは1394年ですので、ヴェルデ岬越えは51歳の時ということになります。彼に残された時間はそう多くはありません。<br />
ここまで来るまでにとても長った。<br />
彼の父王と一緒に三年もかかった「セウタの攻略」が1415年の出来事です。<br />
この攻略後の秋から継続的に探検事業に投資します。<br />
実は、<br />
ヴェルデ岬の少し手前にもう一つ越えなければならないの岬があります。<br />
それが、「<strong>ボジャドール岬</strong>（北緯27°）」です。マディラ諸島やカナリア諸島の発見は探検航海の必然性で得た発見ですが、このボジャドール岬越えは「<u>命を掛けた強い意思</u>」がなければ、超えることは出ませんでした。<br />
また、<br />
カナリア諸島は古代ローマ時代よりアフリカに西海岸から100㌔沖合いに島の存在を当時の航海者たちは既知の世界としていたようです。<br />
しかしそれ以南の海域は未知の難所して恐れられボジャドール岬の手前のナン岬でさえ、「<strong>この岬を越えたものは二度と帰ることが出来ない</strong>」と言われていました。<br />
エンリケは1422年から12年間、毎年巨額の資金を投じて探検航海の船団を送り出しましたが、あえて「<strong>ボジャドール岬を越えようとする航海者</strong>」は一人もいませんでした。</p>

<p>多分、エンリケは痺れを切らしたのでしょう。<br />
直属の従士である「<strong>ジル・エアネス</strong>」に世の迷信に惑わされことなく岬を越えよと厳命します。主従関係にあるエアネスは成功せずに二度と主君の前に現れまいと決心し、そして彼は見事<strong>1434年</strong>に「<strong>ボジャドール岬</strong>」を越えることに成功します。</p>

<p>カンティン岬→ナン岬→ジュビー岬と制覇し、そして、ボジャドール岬まで来ました。<br />
セウタの攻略から数えると既に19年の歳月が過ぎています。<br />
当時の航海者にとって、<br />
アフリカ大陸の最も西端にあたる「ヴェルデ岬」は何処まで行っても終わりの無い気の遠くなるような、恐ろしい岬ということになります。<br />
冒頭の「アルヴァロ・フェルナンデス」の航海者としての意思の強さを理解できると思います。この発見航海はインド航路開発の中で特記すべき「<strong>偉業</strong>」といえます。</p>]]></description>
<dc:subject>主義と主張</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2007-12-20T05:04:20+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="/cuttysark/2007/12/post_371.html">
<title>投機性</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2007/12/post_371.html</link>
<description><![CDATA[<p>米農務省が今月7日に、「<strong>2007～08年度のコーヒー需給見通し</strong>」を発表しました。</p>

<p>注目のブラジル産生産高は、6月見通しの3,620万袋から3,760万袋まで140万袋上方修正されている様です。そう言えば、今年の秋に旱魃の影響で生産が大きく計画を下回るという発表を記憶しています。<br />
ですが、この発表聞く限りではその懸念はなさそうですね。旱魃があったものの生育期の気象環境が良好だったことで、全体としては6月報告の内容を大きく修正る必要はないと判断された模様です。<br />
<a href="http://www.asumiru.com/analyze/market_report/report_coffee.html">業界予想として今後も大きな変化は無いようです。</a></p>

<p>さて、<br />
<strong>CuttySark</strong>の活躍の時代を語るとき「緑茶」や「紅茶」や「ウーロン茶」と並んで必ず「<strong>コーヒー</strong>」から話さなければなりません。なぜかというとヨーロッパや特に英国ではアルコール以外で流行したのは、<strong>紅茶よりもコーヒー</strong>だったからです。<br />
コーヒーの起源を調べると、たどり着くところ総てイスラム圏の伝説です。イスラムの神秘主義の僧侶達(スーフィーと呼ばれた人たち)が好んで常用して飲み物ということになります。この「<strong>覚醒剤的作用</strong>」を持つ「<strong>健康的な</strong>」飲み物がイスラム世界に出現したのは、遠く15世紀後半で場所は南アラビアの<strong>アデン</strong>とのこと。<br />
イスラムの中でも神秘主義のスーフィー達は「<strong>飲むと眠れない</strong>」コーヒーの力によって、コーランを読み、祈り続けたと言われています。一日中眠らずにコーランを読むことを好んだ、あるいは強いたことから、コーヒーは彼らの欠かせない要素となった様です。<br />
南アラビアのアデンから、イエメンのスーフィー達によって16世紀初頭にはエジプトの<strong>カイロ</strong>でコーヒーが飲まれる様になりました。<br />
その後、ローマ帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ帝国の首都<strong>イスタンブール</strong>にコーヒーが現れるのは<strong>1554年</strong>です。これはかなり明確に知られた史実です。なぜかというとお店の開店の宣伝を打ったからです。店主は「<strong>ハクムとシャムス</strong>」という二人のシリア人によって二軒の「<strong>コーヒー・ハウス(コーヒーの家)</strong>」が生まれました。<br />
それがオスマン・トルコ帝国スレイマン二世の治世下(1566-74)では600店舗あまりに増えたそうです。<br />
イスラムの神秘主義のスーフィー達(非社交的)の間で飲まれたコーヒーはいつの間か飲む特別空間を作り上げ、「<strong>社交の場</strong>」を醸成することになります。<br />
コーヒーの特殊性といわざる得ません。<br />
この社交性を生むという特殊性は「英国」によって極端に花開きます。</p>

<p>古いコーヒーの呼び名に「<strong>アラビア・モカ</strong>」という呼び名があります。<br />
アラビアで採れるコーヒーが、その積み出し港の「<strong>モカ</strong>」をとって名乗ったことは当然の成り行きでしょう。現在のイエメン共和国の港町でアラビア半島南西端に位置します。目の前は、「紅海」です。現在見る影もなく寂れています。</p>

<p>モカは17世紀中頃にはすでに年間八万袋(一袋60㌔)を出荷していたとあります。ただ、積み出し港はモカだけでなく、モカよりも多くの出荷を行っていた港もありながら、イエメンのコーヒーを代表することになったのは、やはりヨーロッパを中心とする世界観によるものでしょう。<br />
特にモカは英国、オランダ、フランス、等のヨーロッパの主要国の船舶が直接寄港することを許され、買い付けを許可されていたからだという説があります。<br />
船はモカ(イエメン)を出港し「<strong>ルージュ色の海</strong>」すなわち紅海を抜けてカイロの倉庫に入ります。紅海は「ルージュ色の海」と呼ばれ神秘的でヨーロッパ的には異国情緒がフンダンなイメージですが、この紅海の航海は甘くはありません。シャレではありません。<br />
当時の造船技術と航海用具と技術を想像すれば、危険を伴う航海といえます。「ルージュ色の海」は、その艶やかな名称とは裏腹に、逆風、低流、浅瀬など多くの困難があります。紅海は難海域です。<br />
</p>]]></description>
<dc:subject>ビジネス</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2007-12-17T04:46:30+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="/cuttysark/2007/11/post_370.html">
<title>パラダイムシフトと先見性</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2007/11/post_370.html</link>
<description><![CDATA[<p>「プリンス・オブ・ウェールズ」は不沈戦艦と言われた英国の旗艦でした。<br />
太平洋戦争(第二次世界大戦)の頃の話です。1941年(昭16)頃のロイヤル・ネービー(英国海軍)が世界に誇る最新鋭の三万五千トンもある戦艦です。<br />
当時このプリンス・オブ・ウェールズに互角にわたり合える日本海軍では「長門」「陸奥」の二隻といわれていました。<br />
良く知られている「大和」「武蔵」の姉妹船はこれより少し後になります。</p>

<p>1941年12月10日の昼下がり、英国東洋艦隊の主力部隊が壊滅しました。<br />
場所はマレー半島のクヮンタンの東方55海里の海域です。彼らは日本軍の輸送船団がマレー半島のシンゴラに向かうところを攻撃する予定でした。<br />
しかし、日本海軍はこの英国東洋艦隊を発見すると第二二航空部隊を中心とする機動部隊の全力をあげて攻撃します。<br />
その主力編成チームは爆撃機三四機、電撃機二五機、陸攻二六機の合計八五機の航空機です。日本軍は直接的には航空機しか使っていません。</p>

<p>大量の航空機に攻撃された英国東洋艦隊の副艦「レパルス」は１時間八分、旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」二時間五分で優雅に静かに最後の安息の場所に消えたと言われています。<br />
史実では公式(英国公式資料)に不沈艦「プリンス・オブ・ウェールズ」は五〇〇キロ爆弾一発、魚雷六本を受けています。</p>

<p>同日、一万五千キロ離れた英国では両艦沈没の悲報をパウンド軍令部総長が電話でウィントン・チャーチルに報告します。<br />
チャーチルのこの時の心境を回想録に次の様に述べています。<br />
「私は一人なのがありがたかった。全ての戦争を通じて、私はこれ以上直接的な衝撃を受けたことはなかった。　(中略)　寝台で寝返りを繰り返していると、この知らせの十分な恐ろしさが私に浸透してきた。」と。<br />
不沈艦「プリンス・オブ・ウェールズ」の沈没がいかにチャーチルの心を塞ぎ込み、彼の多くの努力と希望と計画を打ち砕いたかを想像できる苦悩の嘆きです。</p>]]></description>
<dc:subject>ビジネス</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2007-11-26T21:45:20+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="/cuttysark/2007/11/europa.html">
<title>Eclipse 3.3 of Europa</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2007/11/europa.html</link>
<description><![CDATA[<p>2007年6月29日にEclipseの新バージョン「<strong>Eclipse 3.3</strong>」がリリースされました。<br />
このリリースを当社の若手技術者の一人でもあるGUIデザイナーのアーキテクトは待ち遠しく思っていたようです。<br />
Eclipseはこの新バージョンによって確実に安定してきていると言えます。</p>

<p>彼の発案で当社では「<strong>韓流チーム</strong>」という三人の研究開発専門の技術集団を組閣しました。この三人は若手の韓国人で、著名大学を卒業した優秀な技術集団です。<br />
彼の説明によると、Eclipse 3.2がリリースされたのが2006年6月29日で、ちょうど1年間を経ての今回の新リリースとなった様です。<br />
Eclipseの歴史を辿ると、Eclipse 3.0は2004年6月25日のリリースされましたし、Eclipse 3.1は2005年6月27日にリリースされています。<br />
Eclipseは定期的に毎年6月に1年置きに新版がリリースされていることになりますね。</p>

<p>この三名からなる韓流チームの研究開発技術集団は戦略的な企画から開始しているため、詳しくは説明できませんが、若手アーキテクトである彼は、このEclipseの新バージョンEclipse 3.3をベースに新しい研究開発に没頭中です。</p>

<p>前バージョンのEclipse 3.2のコードネームは「<strong>Callisto</strong>」でしたが、新バージョンEclipse 3.3のコードネームは「<strong>Europa</strong>」です。</p>

<p>いずれも木星の衛星の名前から取られているようです。<br />
今回の新バージョンEclipse 3.3では、既存のプラグインの強化に加え、JSF（JavaServer Faces）やJPA（Java Persistence API）などのJava EE 5対応や、STP（SOA Tools Platform）でのSOAのサポート、C/C++のサーバ上でのアプリケーションのコンパイル、デプロイ、実行のサポート等幅広く拡張と強化が目立った新しい試みがなされていると感じます。</p>

<p><a href="/cuttysark/MS EUROPAd6_o1.html" onclick="window.open('/cuttysark/MS EUROPAd6_o1.html','popup','width=520,height=347,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="/cuttysark/MS EUROPAd6_o-thumb.jpg" width="300" height="200" border="0" /></a><br />
　　　　　 〔MS Europa〕</p>]]></description>
<dc:subject>トレンド</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2007-11-16T23:43:45+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="/cuttysark/2007/11/post_368.html">
<title>本多厚美リサイタル2007</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2007/11/post_368.html</link>
<description><![CDATA[<p>一年ぶりに<strong>メゾソプラノの歌姫</strong>を見た。</p>

<p><a href="http://www.brainsellers.com/cuttysark/2006/12/post_351.html">あれから一年を経て</a>「<strong>本多厚美のリサイタル</strong>」で再び彼女と会いました。<br />
昨年の彼女はすっきりと痩せて白い肌が輝かしい歌姫でした。昨年、数年ぶりに見た厚美ちゃんは、驚きと感激のあっという間の二時間のリサイタルでした。<br />
そして、今回は最初の曲目から緊張もなく、いつも練習している彼女の自然な歌声でした。<br />
一年を経てより自信に満ちた「しっとりとした本多厚美」に逢ったわけです。<br />
自然体で楽器のように正確な「メゾソプラノ」で歌う彼女はに、オーラと共に輝き、とても感動的でした。<br />
サントリー小ホールはほぼ満員の観客に迎えられてた彼女は舞台の定位置につきました。<br />
アップヘアーな髪型に、大き目のイアリング、一際目立つV字型のパールのネックレス、そして、コスチュームは淡い黄色のロングトレスという出で立ちでした。</p>

<p>この夜の本多厚美はプログラム通り22曲の「<strong>LOVE SONGS</strong>」を途中休憩を挟んで歌い続けました。</p>

<p><br />
<a href="/cuttysark/本多厚美2.html" onclick="window.open('/cuttysark/本多厚美2.html','popup','width=299,height=383,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="/cuttysark/本多厚美-thumb.jpg" width="200" height="256" border="0" /></a><br />
『本多厚美メゾソプラノリサイタル LOVE SONGS』<br />
□2007年11月15日(木)　　□サントリーホール(小ホール)<br />
□ピアノ:ダルトン・ボールドウィン</p>

<p>最初の曲はステファノ・ドナウディの代表作に含まれいる曲でバロック風の曲目<br />
「O del mio amato ben (おお 私の愛する人よ)」が披露されました。<br />
最初の曲らしくリズミカルな洗練された曲調でした。<br />
その歌声は美しく最初から観客を魅了した、聴かせるラブソングでした。</p>

<p><br />
「<strong>松風</strong>(まつかぜ)」という演目の能の<strong>三番目物</strong>があります。<br />
能の正規の上演形式は、儀式的要素の強い「<strong>翁</strong>(おきな)」を最初に、<strong>脇能物</strong>(わきのうもの)、<strong>修羅物</strong>(しゅらもの)、<strong>鬘物</strong>(かつらもの)、<strong>雑能物</strong>、<strong>切能物</strong>(きりのうもの)のいわゆる五番立で上演されることになっています。能の大成者の世阿弥の伝書「<strong>三道</strong>」に意味深な言葉があります。<br />
それは、「<strong>序破急(じょはきゅう)に五段あり</strong>」という言葉です。<br />
もとは雅楽の用語であったとか。<br />
<strong>緩急の変化</strong>を律する基礎原理にのっとり、連歌や能でもこの原理原則が重んじられるようになり、世阿弥はこの「序破急(じょ・は・きゅう)に五段あり」をより具体的に能の中で理論化したようです。</p>]]></description>
<dc:subject>リズムと命</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2007-11-16T05:48:34+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="/cuttysark/2007/11/post_367.html">
<title>ジョルジオ・アルマーニ</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2007/11/post_367.html</link>
<description><![CDATA[<p>先頃「<strong>ジョルジオ・アルマーニ</strong>」が来日し、多くのTV報道がされていましたね。沢山の人が初めて生のジョルジオ・アルマーニを見たのではないでしょうか?<br />
ボクも初めて見ました。</p>

<p>報道では、銀座に旗艦店を出店し日本法人「ジョルジオ・アルマーニ・ジャパン」の本社とするようです。<br />
会見での彼は<strong>1934年</strong>生まれの73歳らしいですが、顔のしわは別にしてもとても若々しい印象を受けました。<br />
体型も会見で感じた通りの意思の強さで節制しているらしく、とてもスマートでした。<br />
70代でもあんなにすばらしく年をとれるという見本ですね。<br />
彼はもともと医療の世界に進みたくて医学を志していた様ですが、解剖が苦手で断念した様です。分かるような気がします。<br />
感性豊かでないと洋服のデザイン等は難しいと思います。<br />
まして、多くの著名人が彼の服を好んで着ていると言う事実を考えると、その進路は間違ってなかったようです。<br />
彼はその後、大手百貨店の洋服売り場の仕事で商品の陳列ノウハウや、展示の方法や生地や素材にふれ、生涯の目標を得たようです。<br />
結果的には、現在も進行中ですが、<br />
ワールドワイドで5,000億円以上の売れ上げを得るファッション界屈指の企業にまで成長しています。</p>]]></description>
<dc:subject>ビジネス</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2007-11-12T02:01:29+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="/cuttysark/2007/11/post_366.html">
<title>経営という使命</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2007/11/post_366.html</link>
<description><![CDATA[<p>150年前の11月5日は吉田松陰の「<strong>松下村塾</strong>」が発足した日と云われています。<br />
今週の月曜日ですね。</p>

<p>創業者、船井総合研究所の船井幸雄さんは、以前から非常に多くの経営者から相談を受けるそうですが、彼は経営者から事業の相談があると、決まって次の「<strong>六つの質問</strong>」をするそうです。<br />
(1)心の底から、それをやりたいのですね。<br />
(2)それは、世のため、人のために必要なことですね。<br />
(3)それを実施することによって、世の中を悪くしたり、バランスを崩したりはしないですね。<br />
(4)実際に、それをやる人は喜びますね。<br />
(5)成功して、採算が合う確信がありますね。<br />
(6)もし失敗したときには、全責任がとれますね。<br />
というものです。<br />
このうち一つでも「否」があれば、再度熟慮を促し、逆に、全て「可」であれば、すすんで支援をされるそうです。<br />
考えるに、この「六つの質問」を全て「可」にすることはとても難しい事と思われます。<br />
だからこそ、全て「可」であれば成功の確率は一段と高くなると想像できますね。<br />
仮に今、ボクが新規の事業やその事業の拡大などで悩むとき、船井さんのこの「六つの質問」をすべてクリアーできそうもありません。<br />
船井さん曰く、全て「可」だった場合、過去に失敗した例は無いそうです。<br />
さすがは経営学の大家です。</p>]]></description>
<dc:subject>フロンティア</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2007-11-07T05:24:47+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="/cuttysark/2007/11/post_365.html">
<title>一期一会</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2007/11/post_365.html</link>
<description><![CDATA[<p>「能の上演は<strong>一日限り</strong>が原則です。」<br />
晴天の日を選び三日間の祭礼に奉納する神事能や十五日間通して興行する形は、時の権力者の許可を得て能の各派が一世一代で行う勧進能という能で、とても異例なことです。</p>

<p>日本の古い時代に「<strong>文中</strong>（ぶんちゅう）」という元号がありました。<br />
当時、南北朝時代でしたので、正確には南朝方で使われいたと言うべきでしょうか。<br />
歴史は必然ですが、偶然に思えることが多々ありますね。<br />
この文中という元号ですが、1372年から1374年までのわずか<strong>三年</strong>しかありません。<br />
この文久の最後の年(三年)に芸能の世界に画期的な「<strong>一期一会</strong>」がありました。<br />
この年の初夏に当時の最高権力者であった<strong>室町幕府将軍足利義満</strong>と今日まで脈々と生き続ける能の理論を完成させた<strong>世阿弥</strong>が出会います。</p>

<p>このとき義満公は18歳、世阿弥10歳の洟垂れ小僧でした。</p>

<p>実際には、<br />
「大和結城座・結城三郎清次(後の観阿弥)」が世に出れるか否かの一世一代の能を足利将軍家に披露した日でした。場所は、洛中、今熊野権現社の神事能で祭礼は三日間行われました。初日は「翁(おきな)」の祝い能から始まり、脇能は「淡路」で、「松風・村雨」、「自然居士」と続き、切能は「融(とおる)」で終えたようです。<br />
このとき世阿弥は、橋がかりから露払い役として一役買いました。</p>]]></description>
<dc:subject>ビジネス</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2007-11-06T05:02:47+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="/cuttysark/2007/11/post_364.html">
<title>ラルチザン パフュームの香りの記憶</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2007/11/post_364.html</link>
<description><![CDATA[<p>先週末に「<strong>香りあるライフスタイル</strong>」とう「<strong>ラルチザン パフューム社</strong>」の香りのセミナーに参加したことをブログしました。</p>

<p>セミナー当日、予定時間より少々早かったのにも係わらず、<br />
入り口から顔を出して「いいでしょうか?」と声を掛けると、<br />
<strong>内匠屋光子</strong>さんと<strong>市ヶ坪さゆり</strong>さんのお二人はにっこりとどうぞと手を差しのべてくれました。。<br />
そして、入り口に入った途端に「<strong>柔らかな奥行きのある香りがいきなり鼻腔</strong>」を刺激しました。まだセミナー開始前です。<br />
ボクは彼女たちに案内された席に着くまでに、一つの記憶が頭の中をくるくると回り始めました。</p>

<p>それは「<strong>正倉院の宝物</strong>」です。<br />
このセミナーでさらに驚くことがありましたが、それは後ほど話したいと思います。<br />
「ラルチザン パフュームの香り」を嗅いで記憶が蘇ったものは正倉院の宝物の中にある「<strong>黄熟香</strong>(おうじゅくこう)」です。<br />
別名、あの「<strong>蘭奢待</strong>(らんじゃたい)」です。全長156㍉㍍の小さな木片に多くの権力者が執着し、そして多くの物語が生まれました。</p>

<p>ボクの脳の記憶は「香り」=「蘭奢待」が最も近いパスだったと思われます。<br />
もちろん、実物を見たことも聞香したこともありません。</p>

<p>正倉院は奈良にありますが、奈良の正倉院という言葉は固有名詞はありません。ですから「正倉院=奈良」ではないと言うことです。<br />
奈良時代には寺や役所の倉庫のうちで一番重要な蔵を「正倉」と呼び正倉院はその正倉を中心として堀をめぐらした一区画の意味だそうです。<br />
ですから、当時は法隆寺にも西大寺にも大蔵省にもあったようです。しかし、その全てが無くなり、ただ東大寺の正倉院のみ残ったことから、その名前を独占したようです。<br />
正倉院は天平勝宝八年(756)五月二日に<strong>聖武天皇</strong>が亡くなられ、その七七忌に光明皇后は先帝の冥福を祈って聖武天皇の御遺愛品を東大寺の大仏に献納されたことが始まりです。<br />
献納品は全てに詳しい目録と願文が添えられ、その数六三四点にも及びます。<br />
献納品の数の多さは皇后の愛の大きさでしようか?</p>]]></description>
<dc:subject>グローバリズム</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2007-11-05T04:20:10+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="/cuttysark/2007/11/post_363.html">
<title>ラルチザン パフューム</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2007/11/post_363.html</link>
<description><![CDATA[<p>眉を落とし、酸化鉄で歯を黒く染める<strong>鉄漿</strong>（おはぐろ）という風習は、遠く平安時代の上流のそれも公家の婦人たちに発し、長い時間をかけた後に、一般の庶民の一定レベルの婦人に広まりました。<br />
後年、この鉄漿を人妻のしるしとした江戸時代は、上手に年をとっていく技法として長く活用しました。<br />
それはきっと、若さという「<strong>外面の美</strong>」を、心による「<strong>内面の美</strong>」に昇華させる事を自ら「<strong>自覚</strong>」した時に、鉄漿を常用し、<br />
その行為により「<strong>精神的な進化</strong>」を熟成したようです。<br />
現代はどうでしょう。<br />
ヘアースタイルやエクササイズやお化粧から、さらには最終手段として整形外科まで踏み込んだ、肉体の美しさによって「若さ」を強調し、老いを食い止める方向が多いように見受けられます。</p>

<p>七百年も前に能の理論と方向を決定付けた世阿弥は、<br />
　　　　　「<strong>いづれの花か散らで残るべき</strong>」<br />
という絶対の認識を踏まえて、<br />
さらに一歩深みに到達し、<br />
　　　　　「<strong>散るゆえによりて、咲く頃あれば珍しきなり</strong>」と、<br />
前向きの逆説的な発想をしたと、言われています。</p>

<p>花を散らさず残すという工夫の方向でなく、<br />
散るからこそ美しいのだという視点に立ち、<br />
あるいは、さらに積極性を醸成し、「<strong>散らす</strong>」ことで、よりその花の新鮮さや美しさを、いっそう際立たせ、花の新たな生命を待とうと考える。<br />
世阿弥の立脚した「根本思想」はここにあると思います。<br />
世界のどこにも存在しない、思想と感じます。<br />
とても難しい概念ですが、日本人の心を持てば、なんとなく理解できるような気がします。<br />
</p>]]></description>
<dc:subject>リズムと命</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2007-11-02T23:49:26+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="/cuttysark/2007/10/post_362.html">
<title>一杯のコーヒー</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2007/10/post_362.html</link>
<description><![CDATA[<p>最近、<br />
スターバックスの成功の秘訣や創業者の思いを綴った書籍を手に取ることがありました。<br />
一つは同店で8年間マーケティングプログラムの作成と実施を担当していた［John Moore］の「<strong>スターバックスに学べ！</strong>」です。<br />
もう一冊は、同店の会長兼CEOの［Howard Schultz］の共著した「<strong>スターバックス成功物語</strong>」です。<br />
前著は同店の独自の経営理念やブランド戦略、サービス哲学などの学ぶための項目を挙げているのに対して、<br />
後著は起業家としての自らの人生を振り返って、その歩を語るといった成功の基盤になっている価値観やエピソードを披露している書籍です。1982年にHoward Schultzは一流会社を退職し、自らその将来性に引かれて、シアトルの小さなコーヒー小売会社に転職しました。20年以上の時間を彼の生身で語る訳ですので、とても魅力的なものに仕上がっています。</p>

<p>朝起きて自宅で飲む数杯のコーヒー。<br />
一時間後、事務所でのモーニング・コーヒー。<br />
出勤直前に毎日寄るスターバックスにこの様な秘密が隠されていた事にいまさら気づいたという訳です。年間何十億ドルを費やしてグローバルブランドになったコカ・コーラやマイクロソフトに比べ、広告に多額の費用を費やすことなく、世界的なエクセレント・カンパニーの一つに数えられるようになったスターバックス・コーヒー。これも言われてみれば驚きです。<br />
質の高い材料と音楽とゆったりしたイスとバリスタとの交流等々、<br />
ここに書かれているそのものを日々認識できます。</p>]]></description>
<dc:subject>ビジネス</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2007-10-30T21:32:29+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="/cuttysark/2007/10/post_361.html">
<title>接客と魅力</title>
<link>http://www.brainsellers.com/cuttysark/2007/10/post_361.html</link>
<description><![CDATA[<p>お能の「<strong>謡曲</strong>」や舞台衣装である「<strong>装束</strong>」等に興味を持ち、ここ数年古本屋で古書を買い漁る事が楽しい時間となりました。<br />
そんなとき時々洋画家の世界もちょっと覗いたりします。<br />
中には魅力的な芸術家にも出会いますが、ここに紹介するひとは芸術家ではありませんが型破りに魅力的な人物です。<br />
彼の名は「<strong>ジョゼフ・デュヴィーン</strong>」という英国の画商です。<br />
画商は大体二つに分けることができると思いますが、ひとつは、無名の画家の才能を見出し、これを世に出すというタイプと、<br />
もう一つは、評価の定まった著名な画家の作品だけを扱うタイプです。<br />
「<strong>ジョゼフ・デュヴィーン</strong>」はこの後者で著名になった画商です。</p>

<p>彼は1939年に69歳で世を去る前には、「<strong>ミルバンク男爵デュヴィーン卿</strong>」の称号得ているほど後年著名になりました。<br />
後で知りましたが、美術を目指す人でジョゼフ・デュヴィーンを知らない人はいないそうです。それにボクが読んだこの本は、米国の美術大学の授業の副読本としていることがよくあるそうです。</p>

<p>デュヴィーンの母国であるイギリスの美術専門家よる彼の評価は、「<u>デュヴィーンの美術にかける情熱がはるかに知識を上回っている</u>」ということであるらしい。画商である彼にとってうれしい評価ではありませんが、しかし彼にとってはそんなことはどうでも良いことかも知れません。<br />
ともかくデュヴィーンは人一倍の美術かける「<strong>情熱</strong>」を維持し、画商としての手腕を発揮したわけですが、その当時のやり方としては型破りだったようです。</p>

<p>大切な顧客のためとなれば、デュヴィーンはおよそ何でもやりました。<br />
莫大な富を築き上げた米国人たちは一応にひっこみ思案で、且つ、その富ゆえに予期せぬ出会いに疑いの眼を向けがちです。ヨーロッパ等へ訪問しても何処に行き、何をしたらいいのか分からないという人々に、デュヴィーンは例えば貴族の館に招待するようなアイデアを提案します。そのアテンドは目立たない所にもきめ細かな配慮がされており、訪問そのものを引立てます。その金持ちはそれだけで、十分満足し、当然彼に好意を持ち、少しずつ気を緩めていくとうものです。</p>

<p>例えば、彼のやり方をあげると、<br />
裏から手を回して満員の高級ホテルの部屋の予約、<br />
満席の客船に空部屋を用意する、<br />
顧客に代わって好みの家の購入交渉と手続き、<br />
新築の家を作るために優秀な設計者の手配、<br />
花嫁の引き合わせや花婿の紹介、<br />
等々、画商の範疇を超えた私利を押し込めた真摯な「<strong>接客術</strong>」を行います。<br />
もちろん、花嫁や花婿の結婚式等も肉親顔負けの愛情のこもった結婚式も演出しますし、内装を任せられたデュヴィーンは設計者には沢山の絵画を掛ける広い壁を組み入れる依頼も施主に代わって(?)したりしました。</p>

<p>反面、他人の都合なとお構いなしに癇癪玉を爆発させもします。<br />
この手の順当な性質かも知れませんが、自分の望みのものを手に入れるまでは、発作的に熱中し、激しく限りない情熱を燃やし続けます。<br />
似ている人は沢山いますね。<br />
しかし、デュヴィーンを知れば知るほどその「<strong>接客術に魅力</strong>」感じます。<br />
彼の接客術は、<br />
まさに「<strong>One To One</strong>」ビジネスの真髄です。</p>]]></description>
<dc:subject>ビジネス</dc:subject>
<dc:creator>DukeHarumi</dc:creator>
<dc:date>2007-10-26T23:59:02+09:00</dc:date>
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