BrainSellers.com

Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

スティーブ・ジョブス

2005.12.11

Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」

これはアップルCEOのスティーブ・ジョブス(Steve Jobs)が今年の初夏に米国のスタンフォード大学卒業公演で若い卒業生に対して彼が最後に贈った言葉です。その公演は大学の公式サイトや国内のブログに沢山紹介されていますので、どなたでも全公演内容を読むことが出来でしょう。その中で沢山の心に心に響くフレーズがありますのが、この「Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」もとても深みのある言葉として印象深いものがあります。彼自身の言葉ではなく、70年代半ばに「スチュアート・ブランド」という人が製作した雑誌の一ページでのメッセージだそうです。彼はこの言葉に出逢い「常に自分自身そうありたい」と願って来たそうです。その言葉自体が真実である事を彼のスピーチを通してどなたでも感じることが出来るでしょう。そして彼が使う「Stay hungry, stayfoolish」が彼自身の言葉として実感できます。そして彼が今までに得てきた経験をこの言葉に託して、彼らに贈り、結びの挨拶としています。今年の夏に僕はこの公演内容を知人を通して知る事が出来ました。ことも感謝しています。

旅行者なら一度は購入するサンフランシスコの絵葉書セットの中に必ず霧の中に浮かび上がる「ゴールデンゲートブリッジ」が一枚はあるものです。このゴールデンゲートブリッジ(Golden Gate Bridge)の両端部分ですが、サンフランシスコ湾と太平洋を繋げています。古い吊り橋です。日本語では金門橋(きんもんきょう)が有名ですね。両端の太い柱の間の長さは1,280㍍で全長1970㍍あります。完成は1937年です。

勝海舟が日米修好通商条約の批准のために米艦ポータハン号を咸臨丸で護衛(公式にこうなっている)してこの海峡を抜けたのは1860年3月18日でした。橋はまだ存在していません。咸臨丸は明治政府が始めて発注した外洋機帆船でオランダ製です。木造3本マスト船で出港後3日間蒸気機関を使用しましたが後は帆走で一日平均約200海里を快走しました。
そして12年後、今度は「岩倉使節団」が4,554㌧のパシフィック・メイル社のアメリカ号でこの海峡を抜けたのは72年1月15日のことです。当時最新鋭の蒸気船でした。グ・ブック(航海日誌)には快晴とあります。やはり航海日数は23日間で平均220海里でした。帆走の咸臨丸と殆ど同じですね。ア号は石炭を1500㌧程度積載しいた様ですが、殆ど使い切ったとあります。パ社は名の通り郵便会社ですが、この当時太平洋を横断するような人の交流や物を販売するための物流もビジネスとして成り立っていません。ですから米国の国策として郵便を民間船会社に委託し、多くの資金の援助しました。今の小泉さんの郵政民営化の様な方式です。「高価で軽い郵便物」は船会社にとって魅力的なビジネスだったのでしょう。

さて、サンフランシスコの太平洋からの入り口して聳え立つゴールデンゲートブリッジの橋桁(はしげた)の高さは水面から230㍍です。この事はとても重要なキーワードです。客船を建造する船会社が世界一周する場合この橋桁の高さを前提に置いて客船のデザインをします。最も230㍍は異常とも思える高さで論外ですが、むしろ横浜の「ベイ・ブリッジ」や東雲の「レインボーブリッジ」の方が橋桁は低く少々心配です。因みに世界最大の客船「QE2」〔Queen Mary 2〕の高さは約70㍍です。まだしばらくは大丈夫の様です。
もう一つ重要なキーワードとして「パナマックスサイズ」があります。名の如く「パナマ運河」を通れる最大許容範囲です。この運河を通過できる船は「長さと幅と深さ」が限定されます。第二次世界大戦前夜の米国の軍艦もこのサイズを意識せずには居られませんでした。そのサイズとは「船幅32.3㍍」で「長さは294.1㍍」です。深さは「水深12㍍」しかありません。

僕のゴールデンゲートブリッジとの出逢いは30年近く昔の記憶です。咸臨丸や岩倉具視の様に太平洋からのアプローチでは無くパナマ運河を大西洋から抜けさらに米国西海岸を北上し、サンフランシスコ湾にはいる直前にこの橋と出会いました。この時、所属のエージェントの手違いでパイロットの派遣が間に合いませんでしたが、老キャプテンは全く意に介せず1万トンを超える貨物船を一隻のタグボートを自由自在に操り余裕綽綽で指定バース〔桟橋〕に彼のホーム・グラウンドにいるが如くスムーズに接岸させました。お見事の一言。

その時、僕はITとの無縁の門外漢でサンフランシスコのダウンタウンを楽しみました。そして、それから10年を経て再びサンフランシスコを訪れたときは一端のIT業界人として初期の「Java ONE」に参加したのです。当時日本の五月の連休シーズンは西海岸ではカンファレンスのラッシュで、その当時から著名であった「スコット・マクネリ」や若々しい「ビル・ジョイ」や「スティーブ・ジョブス」の基調講演をダウンタウンやサンノゼで聴きました。95年から98年頃の事でした。そして、当然の事ながら数々のシリコン・ヴァレー物語を生んだ冒頭の「スタンフォード大学」へも訪問しました。

そして、今、スティーブ・ジョブスのスタンフォード大学卒業公演の「肉声をiPod」で聴いている知人を知るに及んで彼の影響の強さをより感じました。初めてゴールデンゲートブリッジを海からくぐり抜けた時のように新鮮さともとに。


■引用参考■
アップルコンピュータCEO スティーブ・ジョブス氏のスタンフォード大学卒業祝賀スピーチ
the Stanford University Commencement address by Steve Jobs CEO, Apple Computer CEO, Pixar Animation Studios. 翻訳 市村佐登美〔satomi@mediaexpress.org〕

 

Copyright(c) BrainSellers.com Corp. All rights reserved.