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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

ペリー提督と楽天

2005.12.12

楽天とTBSは、
楽天が経営統合提案を撤回」し、来年三月末までをめどに資本・業務提携に向けての和解交渉に入ることで基本合意した。交渉中には、楽天が取得したTBS株の半分程度の議決権を凍結し、株を買い増さないことも確認。両社はこの後覚書に調印し、正式発表する。」ということに落としどころを見ることになりました。

この出来事をニュースやゴシップやTV報道でしか得るこの出来ない一般人として接したとき知らず知らず「黒船に乗ってきたペリー総督」と「フロントで担当した浦賀奉行と時の老中阿部正弘福山藩主」との攻防戦に重ねてしまうのです。1853年7月8日(嘉永六年6月3日)に「四隻のペリー艦隊」は浦賀水道を深く進入しました。旗艦サスケハナ号は2450㌧、クルー300人、1850年に進水した米国海軍最新鋭の汽走軍艦です。母港を出たのは二年前で東イン艦隊の主力艦です。もう一隻のミシシッピー号1692㌧、クルー300人、1839年進水、海軍最古の汽走軍艦です。ペリーは米国東部から大西洋を越えて喜望峰を回り、インド洋を経て東インド艦隊に合流するまでこの船に乗って来ました。プリマス号とサラトガ号は蒸気船でなく帆船でした。夫々989㌧と882㌧です。

日本は当時鎖国政策で大型の外洋船は一隻も持ち合わせてはいませんでした。精々物流用の廻船で「千石船」です。トン数換算では百トンくらいでしょうか。千石船からすると旗艦は25倍も大きい船という事になります。鎖国の日本からして見るとこの船団は度肝を抜くほどの驚愕であったと思われます。

しかし、実際の艦隊が抱えている事情は日本人が思っているほど楽観的はありませんでした。そもそも汽走軍艦二隻の積める燃料炭は一週間分しか持っていません。それに彼らは石炭運搬船を伴っていません。速力も条件のいい場合で10ノットです。むしろ当時の帆船の方がずっと早い。それにペリーは江戸沖まで元々直進する心算はありませんでした。「水深測量」もしていない未知の水道に乗り入れる度胸は誰にもありません。虎の子の艦隊を一隻でも座礁させるなど論外です。

楽天は経営会議で和解を受け入れTBSに通告しました。その合意内容ですが、(1)楽天のTBS株保有比率が19・09%から10%未満となるよう、みずほ信託銀行への信託によって議決権を凍結(2)検討委員会を設置し楽天保有のTBS株の扱いやネットと放送の融合などの業務提携を協議する(3)交渉期限は来年三月末とし交渉中は楽天がTBS株を買い増さない-などです。

ペリーはともかく「大統領の親書」を日本政府の高官に渡す事が第一回渡航の目的でした。しかし、最初に接触したフロントの「浦賀奉行所」の与力二名に簡単に騙されてしまいます。浦賀奉行所には与力が20騎いますが、上司は組頭で二名が定員です。そして更にその上司が奉行です。定員は二名で定石通り1名は江戸城詰めで一名は浦賀奉行所内です。彼らの言う「総督」クラスに接触したいならこの「奉行」に会わなければなりません。ペリーはそれよりも二ランク低い与力との折衝を開始して仕舞うのです。この地位詐称を疑問思わないほどペリーサイドに情報が少ない事と日本語通訳を保有していない事が大きな原因と言われています。日本語→漢語→オランダ語→英語の伝達方法でした。

この様な状況でしたが幕府は「無言の圧力」に屈し「国書授受」をします。当初は授受も上陸も拒否していましたが次第に譲歩し、已む無く浦賀近くの久里浜に仮設の会見所を急造し、そこで授受が行われました。今の久里浜公園の近くです。公園にペリーの銅像が建っています。面白いことにペリー側は役300名参列し、幕府側の陣容をはるかに超えていました。ペリーは国書を手交すると「来年来る!」と云って、さっさと返答を待たずに引き上げ、抜錨し出港してしまいます。彼にもじっくり構えるほどの余裕はありませんでした。

そして、「国書」が江戸城に運ばれた後俊才老中首・座阿部正弘がその力量を遺憾なく発揮します。
彼は福山藩主で弱冠25歳で抜擢され1842年に老中となりました。そして45年には老中首座に就任、この当時10年以上の長期政権をベースに経験も分別もある37歳の国家元首になっていました。この時鎖国政策は既に200年を経過していました。

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