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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

京都へ行こう!!

2006.05.18

京都タワーと相国寺の七層大塔

京都タワーは、京都駅烏丸中央口前にそびえ立つ展望塔です。高さは131㍍あります。1964年12月28日にオープンになったそうです。灯台をイメージしたそうですが、言われてみると何となく灯台にも見えます。
京都タワーに続いて人目を引くのは京都駅ビルです。
駅ビルは平安遷都1200年記念事業として改築が決定し、国際コンペの結果、札幌ドームや梅田スカイビルなどの設計でも知られる建築家原広司が設計を担当した。京都府は90年代初頭に市内の高さ規制を「60㍍」に緩和したそうですが、このコンペを企画する段階で高さ制限を緩和すべしとのガイドラインを「120㍍」まで建設可能とした様ですが、その事で景観保護派の市民の猛反発を受け、新聞を賑わす大騒動に発展しました。結局元の「高さ規制60㍍」に落ち着きましたが。
未だにこの二つの建物について「存否両論」があるようです。


〔設計は建築家山田守で構造設計は京都大学工学部建築学教室による。タワーの独特な姿は、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたもの。〕

現存する「洛中洛外図」の名を持つ絵図は相当な数にのぼるらしい。その中で特に「上杉本」と但し書きある「上杉本洛中洛外図屏風」は、狩野永徳(かのうえいとく)の絵筆によるもので、天正2年(1574年)に織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝えらています。信長はこの屏風と一緒に「源氏物語図屏風」も送っていますが天下人直前で憤死した信長にどの様な意図があったのでしょうか?

上杉本洛中洛外図屏風」には当時の客観的事実にもとづいた京都景観の鳥瞰図と俯瞰図の両方の性格を持っています。
この屏風がもつ高度な芸術性や歴史的文化財としての価値や重要性は門外漢のため触れずに「京都事情」をこの絵から読んでみたいと思います。


〔高さのみならず巨大な船のように市街地に横たわったボリュームやガラス張りのデザインに関しても、当初から古都の景観を損ねるとして論争が続いている。〕

永徳さんがこの絵を「どこで描いたか」と言う事です。
専門家によると永徳がそもそもこの絵を「着想」し、「構想」し、その上どの「視点」からと言う影響を与えたのは「相国寺〔ショウコクジ〕」と言う事になっています。
正確にショウコクジと正称しますが、当時の京都人はソウコクジと呼んでいたとか。
この相国寺に「七層大塔〔ななそうだいとう〕」という塔があり、この七層の搭上から「京都を展望」したであろうことはほぼ確実だそうです。

この大塔からの京都の展望は「絶景の一言」でしょう。
当然相国寺の七層大塔は庶民には全くの無縁の世界だったでしょう。庶民が出来た事は、精々相国寺の境内に入れてもらうこと程度だったと推察します。
搭上には、当時の支配階級かそれに付随した特別な社会的な要素が必要だったことは頷ける話です。多くの文化人〔永徳もその1人〕が京都のパノラマをきっと楽しんだことでしょう。それがあの「上杉本洛中洛外図屏風」に生き生きと現れています。およそ2500人もの人物が、老若男女、身分、職業を問わず描かれており、さらに動物、植物、名所、祭など多くの要素を構成しています。

今の相国寺には七重大塔はありません。
大塔の高さは「約230尺で70㍍」ありました。
七重大塔の建設は1393年に始まり6年後に完成します。これよりずっと以前の1083年〔永保3年〕に建立した法勝寺〔ほっしょうじ〕の「八角九重塔」が173尺で53㍍も有りましたが、当時としてはそびえ建つほどの高さだっと思います。が、相国寺の七重大塔はその「」でありませんでした。
この当時の京都人や京都に上ってくる古代人に取って70㍍は異様な高さだったと思われます。現代の京都府条例が60㍍の高さ制限です。
その中での京都タワーの約130㍍の感覚と幕府の政所や神社仏閣程度しか大きな建物の無い時代の70㍍は異様な高さかとしか表現の方法がありません。
しかしこの大塔、三度建て替えて再度「落雷」によって消失しています。
よほど運の悪いとかし言いようの無いくらい不運です。もしかしたら1420年代に作られた三度目の正直の大塔が今日まで残っていたかも。

相国寺の七重大塔は法隆寺・薬師寺の再建で棟梁として腕を振るった故「西岡常一氏」の書籍を読んで興味を持つ様になりました。


〔石庭で有名な京都の竜安寺に「知足」のつくばいがある。 〕
つくばいとは、茶室の庭に据える手洗い鉢のことです。円形の石の中心に水をためる「口」の形、その上下左右に文字を彫り、「吾(われ)唯(ただ)足るを知る」と読むそうな。写真で少々読みにくいですが。
つくばい」=彫刻 にとても関心のある知人からいろいろ教わる事シバシバです。

□参考 : 屏風
屏風は、もともと室内で風や視線をさえぎるための仕切りとして使われた、可動式の調度品のひとつでした。室町時代初期には、左右一双で一組とする形式「六曲一双」が確立し、その後の屏風の主流となりました。左右は、それぞれ左隻(させき)と右隻(うせき)と言い、六曲の場合、右から一扇、二扇~六扇と数えていきます。江戸時代になると、軍記物語を絵画化した「合戦図屏風」も多く作られるようになりました(川中島合戦図屏風など)。

 

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