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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

選択肢の拡張

2007.10.17

エンリケ航海王子が「発見の航海」を目前にいくつかの準備を開始します。

その一つはポルトガル南端のサクレス(現在のイベリア半島西南端のセント・ヴィンセント岬の先端)の宮廷に天文台を設けたことです。彼はこの天文台で太陽の赤緯の正確な表の作成をしました。
二つ目は、その宮殿を航海学、地図学の研究機関としたことでしょう。この研究機関に人種、学派を問わず学者と船員を集め、教皇と国王から特許を受けて、自己の事業として航海と発見の研究を開始しました。
それは、1419年のことでした。

エンリケ王子は、その生涯において、国家プロジェクト的な事業を個人の立場で「発見の航海」を主宰しています。
まさに、大航海の幕を開いたといえるでしょう。
ただ、近年の文献ではちょっと単純ではなさそうです。
エンリケ王子の人物像としては、そのたどった足跡が果たしてどこまで本当か?
もしかしたら、後世の創作によるものであるのか、という謎が指摘されています。さらに、現在エンリケ王子の肖像画でさえ、その真偽を疑われているほどです。

最近読んだ「エンリケ航海王子」(大航海時代の先駆者とその時代 (刀水歴史全書)金七紀男)でも、興味深いものでした。
以前からの王子のイメージは、宮廷での権力争いを避けてただひたすら新しい世界を切り拓くことに専念したというエンリケ像でしたが、そうではなくて、中世末という危機の時代に西アフリカへの進出を企てる一方で、モロッコ侵略を試みて人質の弟を見殺しにし、さらに、兄と国王の対立では兄を見捨てて甥の国王に恭順してしまうという感じです。そのなかで、抜け目無く、国王からさまざまな特権を得るという生身の人間としてエンリケを描いています。真偽は別として。
ですから、彼の探検事業の動機や目的についても、けっこういろいろな説が存在するということです。

ともかく、
航海者のパトロンとしてエンリケ王子は、その莫大なファンドによって、新技術と優秀な航海者たちを得ることが出来ました。もちろん未知の世界に船出するには相当な準備をしたことも事実です。
地図や書籍や学者を集めて研究したことはとても重要ですが、
それよりもより実践的な方法として船体や帆走装備のプロトタイプ作りだと思います。
どの時代でも研究開発は多くの資金が必要です。
その投資がすべて効果的とは限りません。
弊社でも常に若い技術者が新しい技術を使って、その機能を確かめる為にプロトタイプを作り出します。もちろん、そのすべてが製品に転用できないことも確かです。

試行錯誤は時代を問いません。

エンリケ王子のプロジェクト・チームが取り組んだのは、
船体の大型化と横帆と縦帆のバランスと組み合わせです。
比較的大型の四角い一枚の「横帆」をもつヴァイキング船は所謂「北方船」といわれています。
横帆は想像して頂くと理解できると思いますが、
追い風(順風ということですね)という、真後ろから来る風をすべて受け止めるので帆走は当然効果的です。また、海が荒れた場合でも帆を少しずつ畳んで、嵐を凌ぐことも出来ます。
それに比べ、
三角帆の縦帆をもつ南方型の特徴は、向かい風に対する「逆走」の能率が高いのです。操帆作業と言って帆を操るのですが、横帆に比べてその操作が容易と言う便利さがあります。しかし、大型化するとその操縦が結構、困難となり、転覆の危険を伴なうといわれています。

彼らは、そのプロトタイプの結果、
船体を徐々に大型化し、それによって「マストの数と帆の数」を増やしていく、今の帆船に比較的近い形式の「分離式帆制」へ変化していきます。

また、従来の「帆走技術」は順風の時は帆で帆走し、逆風の時は帆を畳んで、カイ(櫂)によって推進力を得ていましたが、彼らの研究の成果によって、どんな風に対しても帆走だけで航海できる「全帆走式」へ変化・発達していきました。
次回はエンリケ王子の選択肢の幅をみてみたいと思います。

 

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