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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

偉業の分れ目

2009.06.29

先月久々に、日の出埠頭の数キロ先の海上から東京港一帯を見る機会を得ました。船に乗るのは久しぶりです。お誘い頂いた方には感謝しています。
海上には霧が立ち込めて幻想的な雰囲気でしたが、船上から見たものは旧石器時代の恐竜のように連立する数十機のガントリー・クレーン群でした。その向こうにはコンテナ船に積まれようとしている何千という荷主のロゴの入ったコンテナケースです。
はたして、あのコンテナ達は何処に運ばれるのでしょう。

近年特に感じますが、港はその景観を一新させた感があります。

経済が地球規模で活発になると、当然ながらそれに関連する多くの施設や装備が地表を覆うようになります。日に日に都市近郊の空港や港は、その装いを変えていく様子は、改めて私たちの住む地球の変化に気づかせてくれるようです。あの日の出埠頭の突然現れる巨大で沢山のガントリー・クレーンの出現のように。

今のところ、地球規模の荷物の移動手段のうち、国を超え、海を越え、というロジステック手段は圧倒的に船舶が有利です。量もコストもです。唯一、時間が失われます。
世界規模の輸送コストの三割は航空機によって消費されますが、その荷物の重量換算では99%以上が海運によって移動がなされてます。航空機によってすばやく荷物を輸送できても、その量は船舶が運ぶ量に比べると毛ほどにも満たないということです。


東京港湾のトワイライト・クルーズの船に乗るために、私は比較的近いところに会議をしていた関係上、事務所を出る前にGoogle Mapで検索した地図を事前に印刷して手に持ちながら目的の埠頭までを徒歩でいくことにしました。しばらく見なかった景観はそれはそれで楽しみましが、しかし若者の多くはiPhone片手にGPS組み込みの画面上の地図で現在の位置を知りつつ、目的地までの道をなんなく辿りついています。
当然ながらiPhoneには衛星電波を利用した位置測定システム(GPS)が組み込まれています。彼らは、その原理や構造を知っている訳ではなく、いや、もう少し突っ込んで言うと知る必要は無く、携帯電話機への付属の機能を使いこなしているという訳です。
国内で発売されてる携帯電話のGPSの組み込は今や珍しくはありませんから。

学生の頃、「航海術」とは船を地球上の一地点から、目的とする一地点へ、安全で、効率的に航行する技術であることを徹底的に教え込まれました。
この概念は非常にシンプルです。
自分の現在いる場所〔〕を知り、行き先の場所とルート〔〕を決めることです。iPhoneを使用している人たちは、実は同じことをしています。

しかし、このシンプルな「点」と「線」を知るために、過去に人類が払った犠牲は膨大です。長い長い時間と大量のエネルギーとコスト、そして人の生命です。それも大量の貴重な命です。

地球が球体であることを実態として認識し、実際に確認できたのは1522年フェルディナンド・マゼランの船団世界一周を成し遂げた時です。でも、それはわずか500年前の出来事ですよ。

当時、このプロジェクトの認識は、その後の我々人類が得た存在意義や恩恵や評価とは趣きがだいぶ異なりますが、いずれにしてもマゼランの只一人の超人的な意思の強さで、プロジェクトの具現化がなされました。そして、彼は念願通り国王に"新航路発見"のプロジェクトを承認させたのです。

ポルトガルの首都リスボン市のテージョ川岸に「発見のモニュメント (Padrão dos Descobrimentos)」が記念碑としてあり、32人の先人の偉業を称えています。フェルディナンド・マゼランこと"フェルナン・デ・マガリャンエス"は先頭のエンリケ航海王子の東側の五番目に位置しています。

彼の世紀の偉業を最も決定させた二日間があります。それは、新世界の海峡入口までの二日間という大きな分れ目を乗り越えたことにより達成する訳ですが、この二日間の心理的及び肉体的に受けたプレッシャーとストレスは、現在の我々の想像を遥かに越えた世界です。偉業とはそのようなものであると頭では理解できますが、彼のその時の胸中にはどんなことが渦巻いていたのでしょう。残念なことに海峡発見というプロジェクトの中間の節目を終えた彼は、その半ばで不慮の事故により神に召されますが、一年半薫陶した彼の意志はメンバーによって、引き継がれます。なので、プロジェクトリーダー不在のまま、故に多くの困難を強いられますが、なんとか工程は進行され、完結します。

マゼランはポルトガルの小貴族の家に生まれ24歳の時にはすでにポルトガル海軍の下士官として乗艦していました。彼は貴族特権でリスボン宮廷内の機密文章を読む機会を得てましたので、「西回りのインド航路」という新しいルートを机上でプランニングし、その航路開発に確信的な強い意志を持っていたようです。しかし、自国の国王に認められず、仕方なくスペイン国王に持ちかけ、国王の野心的な意欲によって承認され、1519年8月10日五隻の船と270名の乗員提督として航路発見の船出をします。
と、ここまでは世界史や大航海時代に興味あるある人は大体知っている事だと思います。

しかし、その航海が想像を絶するほど過酷で、かつ多くの困難と長期にわたる忍耐が三年も続くことになるとはあまり知られていないと思います。その困難の一つは、反乱です。航海中、数回の各船の船長との意見衝突よる反乱機運の中で、マゼランはその豪胆さと指導力を発揮して切り抜けることになります。しかし、より困難なことがありました。それは、海峡が見つけられないのでは、またはそもそも海峡は存在しないという恐怖です。この、より絶望的で過酷な試練を彼らしい意思の強さで「新世界の海峡までの二日間」を乗り越えます。これこそが彼の最も素晴らしい功績です。

彼はリスボン宮廷内で南緯40度付近の岬(現在のブエノス・アイレスのラ・プラタ河)が西の海に通じる海峡の入り口だと確信していましたが、実は河口でした。この河口は南緯40度付近なのです。未知の海峡を抜けるにはなお15度程度南下しなければなりません。でも当時は今のような前提知識はありません。
マゼランにとってこの落胆は相当なものだったと思います。
なぜかというと、スペインを出航してここまで既に五ヶ月も過ぎています。コロンブスの最初の航海も非常に有名ですが、彼が反乱の芽を気にしながら新大陸のバハマ諸島にたどり着いたのは、わずか33日間の航海です。マゼランはすでに五ヶ月も不毛な航海をしており、それはコロンブスの実に五倍の日数となります。

この落胆のラ・プラタ河からサンフリアン(現在の"Puerto San Julián")までの緯度12度(約1,340㎞)を南下するのに実に二ヶ月も要しています。一日わずか10㎞しか進んでいないことになります。普通3ノット程度のスピートがあれば、130㎞は到達できそうです。マゼランは実に辛抱強い男です。
そして、ここまで南下しますと、当然「昼短く夜長く」、「連日吹雪」で、「波は荒れ狂い」、クルーは寒さのために凍傷に罹ります。先に進めぬ彼は、ここで二か月間の越冬を余儀なくされるのです。
クルーの心理的絶望感は最高潮に達し、反乱は時間の問題となります。彼は幸運にも、この地できわどい反乱がありましたが、二人を処刑し、他のリーダーを陸上に置き去りにして、奇跡的に終止符を打ちます。

しかし、サンフリアンから南下直後、最初の一隻を失います。
船団は厳寒と怒涛に阻まれて、わずか二日で立ち往生してしまい、やむなくサンタ・クルース河口(現在の"Puerto San Cruz")に錨を下ろします。
彼らは、残り四隻で天候、食料、栄養不良のためにこの地でも二ヶ月間も耐え忍びます。

私は今、アルゼンチンのマゼラン海峡の拡大地図を見ています。
緯度経度、距離、地形、海流、風もわかります。

彼はいま"Puerto San Cruz"の入り江に残り四隻ですべての悪状況下で耐えています。
そこから、
世紀の発見である彼自身の名を持つ「マゼラン海峡」は緯度でわずか二度南です。
距離にしてわずか220㌔メールです。彼らの船でも二日間の航程で到達します。現在の船で三時間と少しでしょう。

既にスペイン出帆後丸一年が経過し、クルーの肉体的にも精神的にも限界をとうに越えいます。
しかし、世紀の発見まで、あと「二日間の距離」です。

彼の心に去来したものはなんだったでしよう。

そして、
10月18日、彼は最後の戦いを挑むために出帆し、そして三日目の1520年10月21日についに一際切り立った岬を越えます。
これが世紀の海峡の入り口です。
彼はこの日にちなんでこの岬を処女峰(Cape Virgenes)と名付けます。

フェルディナンド・マゼランのこの二日間はこの航海で最も重要な航程です。

彼は出帆してから一年も経過し、最後にこの二日間を加えるか、または帰国するか、何度も何度も心で反芻したと思います。
しかし、彼は彼自身の心の壁を越えたのです。偉業の分れ目の二日間です。


私たちは新しい時代の到来というようなことを安易に口にしますが、私たちの知性の及ぶのは過ぎ去った過去に対してであり、未来についてはただ不安に満ちた臆病な憶測しか持ち合わせていません。
未来とは予測を裏切るから未来」なのであり、闇夜に閉ざされた未来に向かって生きる事に、小粒ほどの人間の自由という可能性が存在しているのではなかろうかと思わずにはいられません。
だとしたら、
いや、だからこそ、絶望的な中にも、その自由を勝ち得るためにマゼランは最後の二日間を前進したと言えないでしょうか。ただ、彼は偉業の途中で世を去ることまでは想像していなかったと思いますが。

 

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