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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

アインシュタインとお能

2006.10.25

一昨日から関東地区にも大量の雨と強い風をもたらした低気圧も少しずつ東へ去っていくようです。

この雨によって毎年恒例の新宿区観光協会主催の「新宿御苑・森の薪能」が中止となりました。
大都会の中にあって洗練された緑豊かな「新宿御苑」での「薪能」はとても神秘的です。
元来「お能」は屋根しか存在しない能舞台で行われていた事を考えると、公園の中で、月の光と闇の中のかがり火で催される「薪能」はその壮大な幽玄の世界に入り込める特別な空間であるといえるでしょう。
過去連続三回中止となり辛うじて昨年挙行され、そして今年も中止となりました。

因みに、演目は、
能「半蔀 (はじとみ)」で仕手は「友枝昭世」、脇仕手は「宝生閑」が演者です。
本狂言は「蚊相撲 (かずもう)」で「野村萬」が仕手です。
最後は「高砂 (たかさご)」ですが、これは半能です。
高砂は目出度いお能ですし、時間の制約もあっての事でしょう。
仕手は「観世喜之」で脇仕手は「宝生欣哉」との事です。


最近「お能」の歴史と「謡曲(ようきょく)」に興味が沸き、よく古本屋を見て回っています。
そのせいか、またまた見た雑誌に仕手方・宝生(ほうしょう)流「三川泉氏」のインタビュー記事を見つけその内容に自分の事業を重ね深く思い当たることがありました。

お能の起源はさて置き、
室町時代「観阿弥・世阿弥」親子という大天才が輩出したことは中学の歴史で学ぶ周知の事実です。彼らは足利義満公をパトロンとして能を大成し、その後江戸期の権力者の庇護(扶持米)の甲斐あって、より安定期に入ったようです。一方「雅楽」は皇室に取り込まれていったようです。
お能も武士の衰退や皇族の降籍により庇護を失う時期もありましたがなんとか「家名」を守り現代まで脈々と保ったというところが実情なのでしょうか。
能の制度も江戸期に充実したようです。
シテ方〔仕手方〕は江戸幕府の支援を受けて観世(かんぜ)、宝生(ほうしょう)、金春(こんぱる)、金剛(こんごう)の四流四家に追加公認の喜多(きた)を加えて五流五家となったようです。このうち観世・宝生の二流は芸系が近いので合わせて「上掛(かみがかり)」と呼ばれ、同様に金春・金剛・喜多を一括して「下掛(しもかがり)」と呼ばれたそうです。でも、この呼び方の意味は諸説があって一概には言えないようです。
また、お能は後に脇役専門の流派が派生し、これをワキ方〔脇方〕と呼ぶようになり、進藤(しんどう)、福王(ふくおう)、春藤(しゅんどう)、宝生(ほうしょう)、高安(たかやす)の五流があり「ワキ方五流」と呼び、前述を「シテ方五流」と呼ぶそうです。ワキ方の五流のうち、「進藤、春藤」の二家は滅び現在は三流のみとなったようです。

「観阿弥・世阿弥」親子のパトロンであった足利家は不思議と歴代の棟梁が「政(まつりごと)」には興味を示しませんでしたが、文化的教養の高さは常人離れしていたようです。
そして、足利家の棟梁の嫁さんはの殆ど、しつこく繰り返しますがその殆どが「日野家のお嬢さん達」です。言い換えると日野家のお嬢さん達は「将軍の妻」になり次々と「将軍の子」を生んでいった事になります。
まず、日野資名〔すけな・当主〕の長子が時光〔ときみつ・当主〕ですが、
妹「宣子」が松岡家に嫁ぎ松岡一品となったのが手始めで、
時光が日野家の当主となったとき、その子の「業子(なりこ)」は足利将軍家三代義満の室になりました。能を大成化したスポンサーです。業子が亡くなると資康(時光の子)」は妹「康子」を将軍義満の後妻にします。これで義満は叔母と姪の両方の夫になっています。まだ続きます。その妹「栄子」は四代義持の室になります。
重光(資康の子)の子の「宗子」は六代義教の室になります。そして、宗子が亡くなるとやはり、妹の「重子」を後妻にします。これで義教は姉妹の夫になった訳です。
政光(重光の子)の子が有名な「富子」で八代義政の室になります。
まだまだ続きますが、
主題は「お能」なので話を戻します。
この富子の連れ合いが「義政」で政(まつりごと)には興味を示しませんでしたが、飛びぬけた教養の持ち主でした。
彼もお能を愛します。

世界的に著名なアインシュタインは1922年に43日間も滞在し、多くの日本文化を体験したと伝えられていますが、特に伝統文化に興味を持った様です。以前「芸者ガール」と一緒の写真を見たこともあります。写真に納まったアインシュタインは独特の雰囲気を持っていました。
日本文化の中でアインシュタインは特にお能に強烈な印象を持ったようです。
よく聞く話ですが「オペラ」を最初に見るときに「感動する」かどうかで生涯のオペラ好きかの分かれ道だといわれますね。アインシュタインもそうだったのでしょう。

アインシュタインはよほどお能を気に入った様子が記事の中に表れいます。
演目は「羽衣(はごろも)」だったようです。仕手は宝生流「野口兼資」となっています。
彼は、
「表面上慄然と輝いて見える欧米の文化的なものより、自分の精神の方がもっと価値のあることを日本人は知るべきだ。むやみやたらにヨーロッパの生活様式を取り入れると、日本の大いに価値のあるものが危機に晒される。」と。
また、「この国に由来するものは、愛らしく晴れやかであり、常に自然に忠実である」とも言っています。
アインシュタインの日本文化や能に対するこれらの言葉を思うと、
取り返しが出来ない「失われた文化」を感じることが出来ます。

世阿弥が著したという「風姿華傳」、通称「華傳」の別紙口傳に有名な「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」と言う能の極意を理解することができなくとも、感じることはできると思います。

80年前のアインシュタインが語った言った文字を読んでも十分に意味するところは理解できます。
その言葉は決して褪せない名言と感じます。
やはり相対性理論を唱えた大天才も700年前に著した能の教義「風姿華傳」にもは捉えるべき「本質」は外さない。

 

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