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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

ロンドンの紅茶とお茶

2006.10.15

ロンドンの紅茶とお茶

紅茶の国と言われているロンドンにはどこに行ってもスターバックスを見つけることができます。
Coffee好きな僕には安心して手軽に飲める場所がいつでも出会えるのは心休まるものです。

しかし、ここは「紅茶の国」、大英国であるはず。

藤原正彦さんはその著書「国家の品格」の中で英国は「普遍的価値」を持つ国といっています。英国は日本のGDPの半分程度で経済的にも軍事的にもそれほど驚異的な存在ではありません。
そういえば18世紀当時はともかく「英国経済は20世紀を通して殆ど斜陽」でした。
なのに日本が世界に向けての発言するよりは、何故か英国の発言の方に「耳を傾ける」のはなぜでしょうか?
それは英国が長い間、育んできた「普遍的価値」に対する世界の人たちからの「敬意」と彼は結論付けています。

さて、話しを元に戻して「英国の紅茶」の続きをします。
紅茶はこのブログのタイトルでもある「Cutty Sark」とは深い関係にあります。

僕は恥ずかしながら言葉の語源として「お茶=Tea」であるとは数年前まで知りませんでした。
きっかけはやはり「Cutty Sark」です。彼女の「積荷」のお茶を調べていく内に知る事ができました。

お茶=Tea」は言葉の伝播のストレートな表現として印象に残っています。

〔ロンドン,グリニッジ公園にある夕陽に沈むCutty Sark,〕

現在の僕らが普通に使っている「チャ」を意味する世界の言葉は、
中国・広東語の「CH'A」と
同じく中国・福建語の「TAY」の二系譜に大別されるといわれています。
最初の広東語のCH'Aに属する系列は「日本語の茶(CHA)」「ポルトガル語」「ヒンズー語」「ペルシャ語のCHA」「アラビア語」「ロシア語のCHAI'」「トルコ語のCHAY」があるそうです。
次の福建語のTAY(TE)に属する系列は「オランダ語のTHEE」「ドイツ語のTEE」「フランス語のTHE'」などだそうです。

言葉の伝播は「陸路と海路」に大きくは分けられるそうで、広東系のCHAは陸路を目指し、北京、朝鮮、日本、モンゴルから東欧に伝播されたようで、一方福建系のTAY(TE)はアモイと直接貿易を始めたオランダの影響が色濃く、オランダを中心に西欧各国から北欧まで広がったという訳です。

その一つの実証として17世紀中ごろの英国に始めて「お茶」が導入された時には「cha」または「tcha」と綴っていたそうです。このことは当時の「英印口語辞典」に載っているそうですよ。
しかし、やがてフランス語の発音「the」に変わり18世紀の初めの頃には現在の「tea」という綴りに変化したそうです。

ヨーロッパ語では「英国のティ」「ポルトガル語のチャ」を除けばその殆どは「」または「テー」と発音し、福建語の「テー」の語源の伝播であることは間違いないそうです。
しかし、実際にはヨーロッパ人が「テー」という言葉を知ったのはマレー語の「テー」からではないかと推測されています。それは始めてお茶をヨーロッパに持ち込んだのはほかならぬオランダ人であった事と深く関係があるそうです。

苦難の末、東洋航路を最初に開発したのはポルトガル人でした。
彼らは東洋の特産物である絹や香料(胡椒など)をリスボンに運び込みました。リスボンからの積荷をはるかバルチック海方面まで運んだのは実はオランダ人だったのです。当時からポルトガル人よりはオランダ人の方がビジネス手腕が格段に勝っていたようですね。

でも歴史は皮肉なものです。1595年に商売上手なオランダ人をリスボンから排除する法律を制定します。
そこでオランダは翌年の96年にジャワに進出し、有名な「オランダ東インド会社」を設立します。
そして、1610年に長崎の平戸から公式に始めて「お茶」(当時はCHA)をバンタムを通じてヨーロッパへ輸入します。

「普遍的価値」の国、英国はいまや「Coffee」です。
これが時代です。トレンドです。

と、思っていましたが実はやはり英国は普遍的な国でした。
「紅茶」が定着する前の英国は「Coffee」が全盛だったんです。実はコーヒー・ハウスもたくさんあり、「紳士の社交場」として定着した時代があったのです。
その話しは長いので次回以降にいたします。

 

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