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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

仁の政治

2006.10.02

先週の9月26日に安倍晋三さんが統べる安倍内閣が誕生しました。
翌27日の東京株式市場は、2週間ぶり1万5900円台に回復し、
市場は安倍さんの「成長重視」の姿勢に期待を感じつつ、勢いを汲み取ったのでしょうか?
そして、週末の29日には初の所信表明演説がありました。
この演説に特別な感覚を感じています。
「人生二毛作の実現」や「筋肉質の政府」等ブレークダウンしないと理解できない新語(?)もありましたが、総じて彼は「美しい国、日本」と言う言葉で締めくくりました。歴代の総理でこの様な概念的な表現をした人はいたのでしょうか?
印象的です。
でも、小泉さんの所信表明演説に比べられたり、与・野党・老若男女、この演説に対する受け止め方で論議を呼びそうです。いずれにしても戦後歴代3位の高支持率で船出した内閣です。この日本丸の舵取りに是非期待したいと思います。

演説の根幹に流れている「美しい国、日本」とは、どのようなことなのでしょうか?
彼は政治家ファミリーに生まれたサラブレットとしてとても有名です。
そして多分長い時間をかけて政治家としての「薫陶」を受けたことでしょう。

安倍さんのこの言葉を受けて「国家主席の補佐」を長年に亘り摂生した歴史上の人物を思い出します。子供の頃からたくさんの歴史小説を読んでいますが、それは興味深い人物が数多く登場するからです。

この「国家主席の補佐」した人物は「仁・義・礼・智」を併せ持った「保科正之」という人です。勿論学問として歴史を勉強した訳ではなく歴史小説として小説家の「筆」を通して知った事のみがすべてですが。
保科正之は徳川家二代将軍秀忠の庶子です。ですから今やっているNHK大河ドラマの「功名が辻」に少し関係があります。この「功名が辻」という司馬遼太郎の歴史小説はとても読み応えあるものでしたが、既に20年以上も前の事なので、大筋はともかく細かな所は殆ど覚えていません。

このドラマにも出てくる織田信長の妹の「お市さん」は浅井長政と婚姻し三人の娘をもうけます。その長女が「茶々」で後に「淀君」になりますね。今、ちょうどドラマでは彼女が最も権勢を振るう場面ですね。

そして末の子が「お江」〔正室・於江与(おえよ)の方〕で徳川家の二代将軍・秀忠に嫁ぎました。小説では「お江さん」は「淀君」と同じで勝気な人という事になっています。そのせいか「秀忠」は恐妻家で将軍としては異例の正室しか置かない将軍であったといわれてす。そういえばドラマの山内一豊も千代婦人を愛した人でもあります。
将軍御台所於江与(おえよ)の方に「竹千代〔後の三代将軍・家光〕」と「国松〔後の駿河大納言忠長で家光により自刃〕」という二人の男児がありました。今では恐妻家という解釈でなく、本当は戦国時代に稀な「ひとりの女房」を愛するタイプの生真面目さを持つ武士だったとのではと言われています。
保科正之はこの秀忠と大奥に使えていた北条家縁の「お静」との間に生まれたいわば第三男児という事になります。その時竹千代は八歳で異母兄弟と言う事になります。

この保科正之が兄の家光を輔(たす)け、数々の難局を切り抜けます。そして家光の絶大な信頼を一身に受け、その子「家綱」を託されます。二代に亘って輔弼(ほひつ)する事になります。その間江戸城府を23年間も続けます。幕政には当然老中が任命されていますが、彼は遂にその在籍中に幕政の要職に着かず、ひたすら「誠意・誠実」をもって将軍家に使え、黒子に徹した輔弼役を続けました。かれが再び国表に帰ったのは「60歳」になってからです。
家光はこの異母兄弟の正之に特別な信頼を寄せていた様です。実の弟を自刃に至らせた関係とは極端に異なります。
そして保科家という譜代家臣の家を「御三家につ次ぐ格式と石高」を与えます。家光は正之に「出羽山形20万石」から「会津23万石」に移封します。また会津藩の表高の20万石とは別に幕府直轄の天領5万石を封土同様に与えます。これは実質的には28万石になり、江戸城府の御三家水戸藩よりも多い石高になります。
そして、もっと凄いのがその子「家綱」です。家綱もこの誠実で能力の高い叔父の為に保科家を改名し「松平家」を与えようとします。「葵のご紋」と言う訳です。

家康がなくなった直後から豊臣系のリストラを始めます。二代秀忠と三代家光の二代で多くの大名家を改易しました。秀忠が39家、家光は大胆に彼の治世28年間で外様29家、譜代・親藩で20家、約50家で都合400万石です。れっきとしたプロの正社員を数万人レイオフしたのです。
不満は絶頂期に達していたことでしょう。
家光の治世に「島原の乱」があり、死後直後起こった「由比正雪事件」はあまりに有名です。また、家綱の治世に「明暦の大火」がありました。
この火事は過去最大です。大名屋敷160家、旗本屋敷770家、町屋約四百町で死者は10万あまり。途中江戸城にも飛び火し、本丸、二の丸、三の丸を焼き、わずか西の丸のみ残ったくらいです。この時の正之の取った施策は後世に残る施策を矢継ぎ早に次々とアクションを打ち出すプランナーとなります。正之が企画し、老中達が行政として実行に移すという連携プレーです。

数々の輔弼の才で難局を切り抜ける正之ですが、彼はどのような考えの持ち主だったのでしょうか?
一つ興味深い彼の生き方を表す指針が残っています。〔会津松平家譜〕に、
「凡(およ)そ事予(あらかじ)め其の結局を知るべき者は〔行き着くところを察知できる者は〕迅速に処置するを善とす。国家に報ぜんとして万一事を誤(あやま)る時は我が身を捨(すつ)るのみ。然るに後難を畏(おそ)れて処置機を失ひ、小事をして大事に至しむる者多し。」
國に報ぜんとするならば果敢に「決断実行」せよと。もし、その決断が誤りだったならば、身をもって責任を取ればよい。と。

彼の精神の根底に流れる「仁・義・礼・智」の四つの徳は孟子の影響と言われいます。
孟子に加え「朱子学」に傾倒していった正之は富国強兵策を覇道政治として排除し、「仁政徳治」による王道政治を目指します。
戦国の砂塵が舞い上がる時代は急速に安定への道を歩み始め、
官僚化の土台が築かれようとしている時に彼はこの時代では稀な「民政第一主義者」となります。
「民政第一主義者」の正之は、
二代に亘る輔弼の施策も会津の藩政も「民政」の基本精神が貫かれています。

後に彼の評価は「補佐役として最高経営陣に参画するにふさわしい『ノブレス・オブリジュ』(高い身分に伴う義務)を備えた珍しき人物」としています。

さて、日本丸を統べる安倍さんは、正之の様に四つの徳を兼ね備え、「美しい国、日本」を生み出すことができるでしょうか?
是非、期待したいものです。

注:参考「保科正之言行録」〔中村彰彦 著〕

 

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