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Cutty Sark

Cutty Sarkは常に夢を追い続ける希望の帆船です。I still have a dreamのこころざしを持って海図にない航路を切り開きます。

みなと横浜・横浜開港祭

2006.06.07

横浜港はほぼ150歳!!


横浜港は2009年には開港の年〔1859年(安政6年)〕より150周年の年を迎えるらしい。

1853年7月8日(嘉永六年6月3日)に「四隻のペリー艦隊」は浦賀水道を深く進入しました。旗艦サスケハナ号は2450㌧、クルー300人、1850年に進水した米国海軍最新鋭の汽走軍艦です。母港を出たのは二年前で東イン艦隊の主力艦です。もう一隻のミシシッピー号1692㌧、クルー300人、1839年進水、海軍最古の汽走軍艦です。ペリーは米国東部から大西洋を越えて喜望峰を回り、インド洋を経て東インド艦隊に合流するまでこの船に乗って来ました。プリマス号とサラトガ号は蒸気船でなく帆船でした。夫々989㌧と882㌧です。
そもそも外国との窓口となる「国際港」を幕府は「神奈川」と想定していました。
しかしこの後より辺鄙な「横浜」に候補地の変更をしました。理由は「トラブル回避」です。当時神奈川は東海道と接近していましたので、あの「生麦事件」様な外国人とのトラブルを恐れた事がその理由との事です。彼らは優秀な行政の能士であったので「万国公法」を理解できた国内唯一のエリート集団でもあったからです。この当時の幕府内では実務レベルの高い武士が存在したと思われます。その点「横浜」は相当な過疎地で今後開拓しながら「取り締ま」もしやすいと踏んだのでしょう。良い点もありました。水深です。横浜は大きな川が無かったせいか水深が十分でした。


横浜と云えばみなと未来の日本丸がその象徴です。〔横浜MM21・日本丸〕

開港記念日の「6月2日」は。。。

ペリーのイッシュした条約内容で最終的には締結しましたが、実は他の列強各国も同分の権利を主張します。日米修好通商条約を締結した時の横浜開港は、「1859年7月4日」で調整されていた様です。しかし列強各国によってに「陽暦7月1日(現在の6月2日)」に変更される事になりました。
結局列強の駆け込み調印を含めると「アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランス」の5カ国となりました。ペリー提督が来日してよりチョード6年後ということになります。

横浜の歴史を紐解くと、
調印式は厳かに行われたのでしょが、日本の鎖国の廃止を決定したこの記念すべき「できごと」について特に何も行わなかった様です。そもそもそんな余裕は幕府には無かったのでしょう。それが翌年の万延元年には、この日を記念して「民間主導」で山車や手踊りで街中あげて開港を祝ったと云うのが、そもそも「開港記念日」の始まりだそうです。


〔No1ドックヤードに浮かぶ日本丸〕

当時辺鄙な「横浜村」が「国際航路のハブ」として「世界システム」に取り込まれたのは条約調印からわずか8年後の事なのです。驚異的な時代の流れといえます。
「尊王」とか「攘夷」とか「公武合体」とか波乱の時代があったにも関わらず1867年には「太平洋航路」が実際に動き出します。
日本と米国間の航路の「太平洋航路」で東洋のへの処女航海を果たしたのは「コロラド号〔3642㌧〕」で1867年1月1日のことでした。22日間かかって1月24日に横浜に入港しました。横浜での下船者は42名だったそうです。勿論郵便船でしたので郵便袋を沢山乗せて。


〔日本丸にはフィギアヘッドが存在しない〕

今の様に「横浜開港祭」になったのは1995年からで、それまでは「横浜どんたく開港祭」と云う開催名でした。
第一回が1981年第13回の1994年まで続けられました。この会の運営は横浜地区の青年会議所が中心となって運営していました。寄付による資金も潤沢で150万人以上来場者を集客したこともあります。この中心メンバーには知人・友人の多くが活躍されていました。

その後「横浜開港祭」に開催名を変更して、会を重ね今年は「第24回横浜開港祭」となっています。6月1日と2日のみなと横浜はとても賑やかでした。

 

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